235 / 480
第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ
どうしてここにいるんだ 1529年 モンペリエ(フランス)
しおりを挟む〈サン・レミの青年ミシェル、フォントネー・ル・コントの修道士兼学徒フランソワ、ミシェルの父ジョーム〉
通っていたアヴィニョン大学がペストで無期限休校になったため、南仏サン・レミ出身の学生ミシェルは旅に出ていた。
たくさんの持ち合わせがあるわけではなかったので、彼は立ち寄る先々で宿を頼む代わりに農作業や牛馬の世話をして働いた。その結果、出発した頃よりよく日灼けして体躯もずいぶん立派になった。
そして、土地の碩学であるとか名士、博士と呼ばれる人々に貴重な書物や時祷書(キリスト教の絵入り暦)を見せてもらうこともできた。もともと、さまざまな時祷書を見るのが彼にとってこの上ない楽しみだったが、未知の書物にも多く出逢うことができたのだ。
心身ともに大きく成長したといって差し支えないだろう。
また、そこから発展して、パッと見は怪しいけれど、たいへん個性的な人物とも知己を得ることになる。その端緒となったのは、1520年頃にフォントネー・ル・コント村で会ったフランソワ・ラブレーだった。
修道士だというその人は、たいそう変わっていた。ギリシア語を修道院で学べなくなることに激怒して、通りすがりのミシェルを引っ張って議論をふっかけたのである。
フォントネー・ル・コント村はとても長閑でよいところだったが、ミシェルはフランソワと、彼にいきなり連れていかれたチラコー博士の家と、そこで見たデジデリウス・エラスムスの『愚神礼賛』という書物のことしか思い浮かべることができない。それほど印象が強かったのだ。
「あの人は、チラコー先生という理解者がいるからまだいいのだけど、じきに喧嘩して修道院を飛び出すのだろうな」
ミシェルのつぶやきは正鵠を射ていた。
そのあと、ミシェルは思うところがあって、大学で再び学び直すことに決めた。ただ、今度は文系科目ではなく、医学を学ぶことに決めたのだ。そこで旅を終わらせて、故郷のサン・レミにいったん戻る。
父親のジョームはたくましくなった息子に目を細めて出迎えたが、その決心を聞いて、ほんの少しだけ残念そうな顔をした。
「そうか、もうアヴィニョン大学もとっくに再開しているが、そちらには戻らないのか」
ミシェルは申し訳なさそうに父の顔を見る。
この家はもともと、アヴィニョンで商売をはじめて長くそこに住んできた。サン・レミに移ってきたのはミシェルの祖父の代からだ。なので、アヴィニョン大学に入るということは父にとっても望ましいことだったのだ。
「お父さん、しかも僕はお父さんと同じように公証人になろうと思っていましたが……」
「ああ、それは仕方ない。おまえの人生は自分で決めることができる」と父は落ち着いた様子で返す。息子が新たに目指すことに決めた職業は父にとって公証人と遜色がないと思ったのだろう。
医者になる。
そのために学べる大学はこの頃数多くあった。ミシェルの国であるフランスにも、イタリアにも、スペインにも、神聖ローマ帝国にも、あわせて50ほどの大学が専門科を設けている。ただ、その方面で抜きん出た学府というのは限られていた。具体的にあげるならば、イタリア半島のボローニャ大学、パドヴァ大学、フランスのパリ大学、モンペリエ大学である。ミシェルはその4つの大学のどこかに入学しようと考えていた。
「ミシェル、久しぶりだから散歩しようか」とジョームは言った。
サン・レミにはいくつか丘陵や山がある。丘陵の方には古代ローマ時代に栄えた町があったということだが、今はただの岩山のようになっている。散歩ならばゴシエ山の方に人は向かう。この、さほど高くない山からはサン・レミの町が見渡せるのだ。
山道に向かいながら、先を行くジョームは独り言のように話し始める。
「本当なら、やっぱりアヴィニョン大学で法学を修めて帰ってきてほしかった。アヴィニョンならここからすぐだし、私たちの先祖が代々定着してきた土地でもある。それに、学問好きのおまえなら、すぐに公証人になれるほどの素養を得られるだろうとも期待していた。ペストがいけないのは分かっている。ただ、医学を修めるとなるとそうはいかない。もっと時間がかかるだろうし……」
ジョームは独り言のかたちを取って、本心をこぼすことにしたらしい。
「ごめんなさい、お父さん」とミシェルは父の背中に告げる。
ジョームは後ろを一瞬振り向き、シュンとした息子の表情を認める。そしてまた前に向き直って歩きだす。
「時間がかかるのはまだいいのだよ。パリ、あるいはボローニャにパドヴァ……どこも遠い。パッと帰ってこられないだろう。おまえが旅に出ている間も本当に心配していたんだ。まだペストが起こっている場所もある。それに、国王が捕えられてスペインに連れ去られてしまった。あの恐ろしいランツクネヒトが勢いで攻め込んできて、おまえが旅先で巻き込まれでもしたらと気が気ではなかった」
ミシェルは申し訳なく思うばかりで何も返すことができない。しばらく親子は黙って山を登る。そのうちに視界が開けて、サン・レミの町がよく見下ろせるところまでたどり着いた。怒っているのだろうかーーミシェルは父を横目で気にかけながら、町を眺める。すると、まだ背中を向けた父の声が聞こえてくる。
「あぁ、忘れていた。まぁ、アヴィニョンほど近くはないが、モンペリエなら遠くない。それに、あの最も歴史ある医学部を興したのは……」
「ユダヤ人の優秀な医学者が開学のきっかけになったのですよね」とミシェルは続ける。
父親は振り向きうなずいた。その顔には笑顔が浮かんでいる。
「山を登るまでつぶやいていたのは、過去に対する愚痴だ。しかし、今のは未来への希望だ。モンペリエで学ぶというならば、私はおまえを応援しよう。ただ、おまえも承知しているだろうが、あの大学はヨーロッパ各地からたくさんの入学希望者がやってくる。特に医学部は難関だ。おまえもそのつもりでしっかりここで準備に励むんだな。どうだ」
「お父さん!」とミシェルは叫ぶ。
飛び上がりそうな勢いで。
◆
この時期、1520年代というのはこれまでにも書いている通り、フランス王のフランソワ1世にとっては惨憺たる10年だった。神聖ローマ皇帝選挙(1519年)で敗れ、イギリスはブルゴーニュに攻め込んできたし、ナヴァーラ王国の反乱に支援を出すも敗れ、イタリア半島のミラノをいっとき手中にするも結局手放すーー「止めておけばいいのに」という戦いもあった。止めておけば、少なくとも自身や子どもたちが捕虜になることもなかったのである。
フランス国王は代々、イタリア半島に領地を増やすことに躍起になってきた。フランソワ1世の治世に関しては、そこに神聖ローマ帝国という敵国が加わった。王と皇帝は、その治世の多くをお互いを牽制し対立しながら過ごすことになってしまうのだ。ローマ劫略についていえば直接フランスは関与していないが、その呼び水となったのが両国の対立だったことは間違いのないところだろう。
簡潔にいえばこの2人は、不倶戴天の敵として生涯を送ることになる関係だった。それはまだ続くことになる。
そのような情勢が王のお膝元であるフランスに影響しないはずがない。その間にイタリア半島のような散発的なペストの発生があった。ランツクネヒトがフランスを通り過ぎていくのを人づてに聞きながら、人々は漠然とした不安におそわれていた。王の不在がそれに拍車をかけることにもなる。
この頃、ルター派プロテスタントの影響はフランスにも入っていた。
ナヴァーラの学徒フランシスコ・ザビエルとサヴォイアのピエール・ファーブルがパリ大学に入学したのは1526年のことだったが、この頃すでにルターの著作は学者たち、あるいは一部聖職者にひもとかれ、同調する者も生み出していた。ランツクネヒトに対する恐怖もあったが、ルターの説く、「聖書をすべての拠りどころとすべきである」という主張はたいへん明快であったからである。
したがって、カトリックかルター派かというのは学生にとって格好の議論のテーマになっただろう。イグナティウス・ロヨラとフランシスコ・ザビエルも大いに語り合ったことと思われる。
王の不在、その後も皇帝への反発から、しばらくルターの主張がフランスで咎められることはなかった。
◆
さて、モンペリエ大学に入学することを決めたミシェルだったが、入学までには少し時間がかかった。その間、サン・レミの町で子どもにラテン語を教えるなどして時を過ごしていた。
彼がようやく入学を許可されたのは、1529年のことだった。アヴィニョン大学に入学したのは15歳だったが、モンペリエ大学に入学する頃には26歳になっていた。しかし、この頃の大学には年を経てから入学する人も多かったので、今日でいう「浪人」という概念がない。それほど珍しいことではないのである。
それでもミシェルは少し緊張していた。10代で入学した若者たちの一団を見るとやはり臆してしまうのだ。ミシェルが所在なくきょろきょろしていると、どこかで、いや、フォントネー・ル・コント村で見た中年男が堂々と歩いていく姿を見つけた。
ミシェルは目をこすって、もう一度その姿をじっくり確かめる。間違いない。
次の瞬間、ミシェルはその男を追いかけてとっさに声をかけた。
「ラブレーさん、ラブレーさんじゃないですか」
呼ばれた男は振り向いて、じろじろとミシェルの姿を見る。頭のてっぺんからつま先までじっくりと見たあと、ようやく言葉を発する。
「おう、フォントネー・ル・コントの修道院を訪ねてきた少年か。どうしてここにいるんだ?」
それはぼくが聞きたい、とミシェルは心の中でつぶやいた。
※ミシェルが1529年にモンペリエ大学で医学の博士号を取ったという説もありますが、このお話ではこの年に入学した説を採用しています。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
マルチバース豊臣家の人々
かまぼこのもと
歴史・時代
1600年9月
後に天下人となる予定だった徳川家康は焦っていた。
ーーこんなはずちゃうやろ?
それもそのはず、ある人物が生きていたことで時代は大きく変わるのであった。
果たして、この世界でも家康の天下となるのか!?
そして、豊臣家は生き残ることができるのか!?
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
天竜川で逢いましょう 〜日本史教師が石田三成とか無理なので平和な世界を目指します〜
岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。
けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。
髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。
戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!!???
そもそも現代人が生首とか無理なので、平和な世の中を目指そうと思います。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる