16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ

パンケーキと宣告 1529年 フィレンツェとローマ

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〈ローマ教皇クレメンス7世、神聖ローマ皇帝カール5世、フランス王フランソワ1世、カテリーナ・ディ・メディチ、アレッサンドロ、イッポーリト〉

 教皇クレメンス7世の思惑と神聖ローマ帝国皇帝カール5世の罪悪感はうまく噛み合ったようだった。交渉は秘密裡にではあったが、順調に進んでいく。
 これがよいことだったかは判断が難しい。
 他の多くのできごと以上に、人によってその評価は対極に置かれるだろう。

 カール5世の心情はさきに書いた。
 とにかく、教皇と和解をはかるのが皇帝の第一の目的だった。カトリック教会から見れば破門どころでは済まないような大罪である。教皇がどう出てくるのか、カール5世は気が気ではない。
 そして、ローマの惨劇を横目に見つつ、オスマン・トルコは黒海沿岸からバルカン半島一帯を黒海沿岸を我がもの顔でのし歩く。あの帝国は拡大の一途をたどっているのだ。スレイマン1世はヨーロッパが自分のものになって当然だと考えているようだった。

 ここで戦争状態を継続しているわけにはいかない。
 この時点で、圧倒的勝利を収めたはずの皇帝が、カノッサの屈辱を再現するような心理状態になっている。

 一方の教皇クレメンス7世はといえば、もう本来の怜悧な性分を取り戻していた。外交官とのやり取りで、カール5世の意向がよくわかったからである。
 それを踏まえて、クレメンス7世とカール5世は事態の収拾に手を付けることになる。まず、オスマン・トルコはキリスト教徒に忖度することがないのだから、侵攻の手を緩めることはない。そちらをどうにかする方が先だという前提に立つことにした。

 それならば、向かうべき敵は神聖ローマ帝国ではなく、オスマン・トルコになる。

 皇帝も自身も上手く立てて、フランスの面目も立つような方策を考えればよいとクレメンス7世は考えるに至る。そして、おおむね以下のような内容で決着をはかることとした。

・ヨーロッパのキリスト教国はオスマン・トルコの侵攻に対して一致協力する。
・フランスは北イタリアのジェノヴァに対する権利を放棄する。
・フランスはイタリア半島全体に対しても賠償金を支払い、その権利を放棄する。
・フランスはフランドル、アルトワ、トゥルネー(元はハプスブルグ朝ー神聖ローマ帝国領)の宗主権を放棄する。
・皇帝はローマ侵攻ののち、騒乱のあったフィレンツェの安定に協力する。
・教皇は神聖ローマ皇帝の地位を保証し、戴冠式を行う。

 カール5世は破門以上の咎(とが)があると考えていたようだが、それは、言い方は悪いが、あっさり帳消しになっている。好条件の和解という表現がぴったりだろう。逆に、もともとの争いの相手国フランスにとっては、天に向かって叫び声をあげたくなるような内容である。フランスの一方損だ。とてもフランス王フランソワ1世がまともに交渉のテーブルに付くとは思えない。さてどうするか。

 ここからの進捗は時間を多少費やしたが、実に手際がよかった。

 まず、ボローニャにイタリア半島の諸侯が集まって協議を始める。神聖ローマ帝国の保護下に置かれるという但し書きが加わったが、おおむね上記の内容で方向の統一をはかることができた。その最中にもオスマン・トルコは神聖ローマ帝国のウィーンを目指して進軍している。1529年9月以降、ついにウィーンはオスマン・トルコ軍に包囲され、一触即発の事態になる。ここでついにフランスもまったく乗り気ではないものの、交渉に付くことを了承する。ただし、フランソワ1世は赴いてくる気がない。

 そこで、「女性たち」が全権委任大使として交渉に出てくることとなった。神聖ローマ皇帝カール5世の叔母にあたり、ネーデルラントの総督を兼ねるマルグリット大公女と、フランス王フランソワ1世の母ルイーズ・ド・サヴォワの二人である。特にルイーズは先頃まで王がスペインで捕虜になっている間も、大黒柱不在の所帯(国家)を担う形で苦労していたのに、さらに交渉に出向くことになったのだ。

 つくづく、女性というのは土壇場に強い生き物である。思えば、メディチ家の女性たちもフィレンツェの蜂起をうまくやり過ごしていた。
 これが男性だけだったらどうなっていたことか。

 1529年10月に行われたこの『貴婦人の和約』でようやく話は正式にまとまった。フランスは望んだ領地の獲得という意味では大打撃を被ったが、王と交替でスペインに囚われた2人の王子は身代金を支払い無事に解放されることになった。また、前世紀以来フランスの領地だったブルゴーニュ公国はフランスの領有が定められた。

 これはもちろん、フランソワ1世にとっては屈辱的な決定であったが、ローマ劫略に先立つパヴィアの戦い後、カール5世と取り決めた内容(マドリード条約)を反故にしていたこともある。今回は承服せざるを得なかった。王も子どもではないので表だって喧嘩を仕掛けるようなことはせず、大人しくしていたが、その恨みの根はかなり深かった。

 このあと、フランスはオスマン・トルコに協力する素振りを見せたり、カトリックのしもべであるがルター派プロテスタントを容認する方向に進むのである。すべて、「皇帝カール5世憎し」の一念によるものである。
 その憎悪はのちのち、カテリーナ・ディ・メディチにも大きく影響することになるのだ。


 さて、1529年、10歳になったカテリーナはフィレンツェ、ベネディクト会のムラーテ修道院にいる。刑務所にできるほどいかめしい造りの建物ではあった。しかし、小公女は前の修道院とは比べ物にならないほど大事に扱われて、満たされた毎日を過ごしている。この修道院では務めの一環として日持ちのする焼き菓子を作っていた。要するにクッキーということだが、それにはメディチ家の紋章が入っている。

 それはこの時期、共和国政府のおとがめを受けるのではないかと心配になる。メディチ家は追放されたのだから。ただ、必要に応じて別の焼き型を使えば済むことだろうし、それぐらいの知恵はみな持ち合わせていただろう。

 心優しき修道女たちはその小麦粉を節約して、カテリーナのためにパンケーキを焼いてくれる。毎日というわけにはいかないが、10歳の少女にとって、それは極上のごちそうだった。

 この日もシスター(修道女)が皿を片手にカテリーナの部屋をノックした。
 すでに、ふんわり焼けたパンケーキの甘い匂いがカテリーナの鼻まで届いている。それでも、この少女は机に置かれたラテン語の聖書を音読している。
 この頃の彼女は刺繍の付いたビロードのドレスなどは着ていない。着の身着のまま修道院にやって来たのだ。替わりに与えられたのは装飾もない簡素な服だった。それは他のシスターも同じだったし、清潔なものだったので、カテリーナも特に不満を感じていなかった。
「カテリーナ、本当にあなたはラテン語を楽に読んでしまうのね。素晴らしいことです。きっと、神のお恵みがあるでしょう」とシスターが声をかける。
 カテリーナは振り返ってニッコリと笑う。
「本当に。さっきから素敵なお恵みの、素敵な匂いが私を誘惑し続けているのです。私はもう、負けそうです。神よ、どうかお許しください」

 パンケーキの皿を机の端に置いて、シスターは感慨深げに言う。
「カテリーナ、ここに来たときひどく怯えて泣き止むことができなかったあなたの姿を思い出します。本当に、これほど明るく生き生きとして……よかった。これが本当の神のお恵みでしょう。さあ、召し上がれ」
 カテリーナはシスターの優しさに少し涙が出そうになったが、それは抑えて満面の笑みになる。
「シスター、みなさんのおかげです。このパンケーキも、ありがとう。いただきます」

 そう言うとカテリーナはパンケーキを口に運び始める。
 ふんわり甘いパンケーキだったが、ちょっとだけしょっぱい。涙の味がした。


 しかし、ムラーテ修道院での幸せな日々にも終わりが近づいていた。カテリーナはまた災難に見舞われることになるのだ。しかも、その原因を作ったのは彼女の大叔父、教皇クレメンス7世だった。
 フランソワ1世が皇帝を憎悪しているのと同様に、教皇はメディチ家をフィレンツェから追い出した勢力を決して許してはいなかった。そして、メディチ家をフィレンツェで復権させるために、さっそく動き始めた。神聖ローマ帝国軍、すなわち傭兵軍ランツクネヒトとスペイン軍にフィレンツェ解放のために働いてもらうことに決めたのだ。「フィレンツェ解放」というのはクレメンス7世の見方であり、実質的には現在の共和国政府、とりわけ蜂起に関わった人間を打ち倒すことと同義だった。

 フィレンツェから逃げたアレッサンドロとイッポーリトはこの時無事に保護されて、ローマのメディチ別邸にいた。逃亡中は助け合わなければ危険なので仕方なく喧嘩などは控えていたが、それもローマに着くまでのことだった。すでに教皇は隠れていたオルヴィエートを出て、バチカンに戻っていた。そして、2人の青年にもたびたび面会した。イッポーリトはいつからか、アレッサンドロがクレメンス7世の子だと知っていた。それなので、アレッサンドロと教皇が二人きりで話したいと言うときにはすぐ席を外した。その回数は次第に多くなり、イッポーリトはだんだん失望を覚えるようになった。そして、よくティベレ川のほとりを散歩するようになった。

 メディチ家の当主はアレッサンドロなのだろう。
 そんなことは、最初から分かっていたことだ。
 誰だって自分の子が可愛いに決まっている。
 アレッサンドロはまだ、自分がカテリーナの兄であると信じているようだ。
 メディチ家先代当主の血筋であると。
 違う!
 アレッサンドロは教皇の子だ!
 いや、今さら誰が親かを知ったとしても何の意味がある。
 教皇の子ならば、なおさら好都合なのかもしれないじゃないか。

 イッポーリトはティベレ川越しにカスタル・サンタンジェロを眺める。そして、背後の町並みを眺める。人が行き来し、少し奥に目をやれば商店も開いている。以前よりまだ人は少ない。しかし、ローマ劫略と続くペスト禍で荒れ果てたローマからは一歩前に進んでいた。
 あれから2年が経つ。
 イッポーリトは賑わいが戻りつつある町の様子を微笑んで眺める。そして、ハッと気がつく。

 アレッサンドロは……もしかすると、最初から分かっていたのかもしれない。
 自分がロレンツォではなく、教皇の子だと。
 ぼくがずっと前から知っていたのだから、不思議はない。
 知っていて、知らないふりをしているのか。
 そうだとしたら……大した策士だ。

 イッポーリトはそれから、メディチの別邸に戻る。そこには伝言が残されていて、今すぐバチカンに来るようにということだった。
「何だろう、こんな時間に」
 もう夕方である。彼はまた慌てて外に出た。

「さて、私はあなたがたに話しておきたいことがある。フィレンツェを解放する役目を皇帝軍に正式に依頼した。時期を見て数万の軍勢がフィレンツェを包囲するだろう。そして、解放なった暁に、あなたがたは晴れて堂々とフィレンツェに戻れることになる」
 クレメンス7世が淡々とした口調でアレッサンドロとイッポーリトに告げる。アレッサンドロは静かに聞いていたが、イッポーリトは教皇に問いかけた。
「あの、そうしますと、クラリーチェおばさまやカテリーナはじきにローマに連れてくるのですか」
 教皇はじっとイッポーリトを見つめる。
「可能な限りそうするつもりだ。しかし、フィレンツェにいるメディチ家の人間を逃がしていることが知られたら、蜂起した者たちは黙っていないだろう。手だては講じるつもりだ」
「そんな……カテリーナはまだ10歳なのです!彼女だけでも急いでローマに……」
「そのつもりだ」とだけ教皇は口にした。

 イッポーリトは口の端をきゅっと締めてうつむく。すると、教皇は急に明るい声で彼に言う。

「そうだ、イッポーリト。きみにアヴィニョンの大司教を任せようと思うのだが、どうだろうか?」

 その瞬間、イッポーリトには教皇の考えていることが、1から10まですべてわかった。
 ただ、教皇に自分がどう返答したらよいか、適切な言葉を思い浮かべることができなかった。
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