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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ
ローマは壊された 1527年 ローマ
しおりを挟む〈教皇クレメンス7世、神聖ローマ皇帝カール5世、ランツクネヒト(傭兵)たち、スペイン軍、スイス傭兵たち、カテリーナ・ディ・メディチ、アレッサンドロ〉
1526年11月、神聖ローマ帝国の傭兵軍、ランツクネヒト総勢1万2千人はフルンズベルグの指揮の下、イタリア半島へ南下をはじめた。ここの軍勢は神聖ローマ帝国、現在のドイツから派兵された一団である。
神聖ローマ帝国にはもうひとつの軍隊がある。皇帝カール5世はスペイン王カルロス1世を兼ねているとこれまでに何度も書いた。そのため2つの国の軍隊を持っているのだ。「ランツクネヒトではない」スペイン軍はこのときイタリア半島のミラノに駐留している。そして、ナポリにも常駐している。
もともと、前の世紀の終わりからスペインは半島南部のナポリを領有している。チェーザレ・ボルジアが昔、ナポリに幽閉されていたときに応対したのはカスティーリャ出身のコルドーバ総督だった。彼は傭兵で構成した軍隊の形を改め、国軍を編成し塹壕戦を実施するなど近代的な戦い方を追求した人だった。その教訓はコルドーバ総督が去ったこの頃も残っており、指揮官のもと統率された一軍を構えている。
要するに、スペイン軍はランツクネヒトとは異なる型の軍隊だということである。
しかし、敵方にしてみればどちらも皇帝カール5世の軍隊である。この2つの軍隊が合流することだけは何としてでも避けなければならない。
「黒隊のジョヴァンニの軍勢は今どこにいる? もう着陣しているのか」
教皇クレメンス7世が側近に何度も問いかける。メディチ家の庶流であるジョヴァンニはクレメンス7世にとって、最も信頼の置ける、実力を持った軍隊である。
「すでにポー川に集結しているとの報告が来ています」と側近が紙の束を手に握りながら言う。
ポー川はイタリア半島の北部ロンバルディア平原を横切る大河である。ここを突破されたら、半島の各地に侵攻するのは格段に容易になる。
前回も書いた通り、このイタリア半島防衛戦の総司令官は教皇ではない。ただ、皇帝軍が攻めてくる本丸はローマの教皇庁・バチカンであり、その王にあたるのはクレメンス7世なのだ。細かい戦況を知り、最終的な決断を下すのはこの人なのだ。
しかし、戦況というものがすぐさま飛んでくるわけではない。最前線に立つ黒隊のジョヴァンニが苦戦していることも、クレメンス7世の耳には届いてこない。
ポー川でランツクネヒトを迎え撃つ黒隊のジョヴァンニはイライラしていた。
コニャック同盟軍とともに、ポー川でランツクネヒトたちを打ちのめし雌雄を決するのがイタリア半島にとって最も望ましい方法だという確信が彼にはあった。彼の父方はメディチ家であるが、母方は名高いコンドッティアーレ(傭兵隊長)、スフォルツァ家なのだ。生粋の軍人であるという誇りが常に彼の心の裡にあったのだ。
しかし、同盟軍の面々はそうではなかった。どこも及び腰で静観する構えである。
「ちくしょう、あいつらが被っているのは何だ? 身につけているのは何だ? 手に握っているのは何だ? 木偶の坊が雁首揃えていったい何ができるというのだ!」
そして業を煮やしたジョヴァンニは目前に現れたランツクネヒトに対して総攻撃をかけた。
自軍数百だけで敵に突撃するのは、無謀としかいえない。ジョヴァンニからすれば、自分たちが先陣を切れば同盟軍も後から加勢するだろうという目論見もあった。
しかし、同盟のうち、大軍を有するヴェネツィアも動かない。致命的だった。
黒一色で染められた軍勢がポー川を渡る。この捨て身の攻撃で、ランツクネヒトは進軍を阻まれる。しかし、それは一時のことだった。数の上で圧倒的に不利な黒隊は壊滅的な打撃を受け、司令官も脚に重傷を負う。
ジョヴァンニはその月の終わりに怪我の予後不良によって死亡した。
なぜ、コニャック同盟軍はジョヴァンニに加勢しなかったのだろう。
この時点で一同は教皇クレメンス7世が神聖ローマ皇帝と早々に何らかの和議を結ぶとたかをくくっていたのだ。イタリア半島の諸候は教皇が本格的な戦争状態を望んでいないとよく分かっていた。なので、ぎりぎりまで戦闘に入る必要はないと思っていたのだ。まさにジョヴァンニのいう通り、「木偶の坊」でいることが最善だと判断していたのだ。
しかし後から見れば、正しいのはジョヴァンニだったことが分かる。この時点で教皇と皇帝の和議は具体的にはなっていなかった。彼らがたかをくくっていたことには何の根拠も、保証もなかったのである。
真の精鋭である黒隊が潰されてしまったことは、取り返しのつかない大きな痛手だった。
11月28日に神聖ローマ帝国のランツクネヒトはポー川を越えて、ミラノにいる同胞軍との合流を果たした。軍勢は総勢3万に膨れ上がった。
黒隊壊滅の報を受けたクレメンス7世は、生まれて初めて背筋の凍るような恐怖に襲われた。彼は戦争がどのようなものか、それを回避するためにどのように動いたらよいかということをよく学んでいなかったのだ。この大きな危機を目の前にして、彼は慌てるばかりだった。外交官を次々に走らせ、神聖ローマ帝国との交渉に入るのだが、すでに交渉というより、服従するしかない段階に移っていた。
1527年3月になった。
戦争の攻撃側である皇帝カール5世はスペインにいる。不思議なことに彼はこの期間、一度もイタリア半島に足を踏み入れていない。ローマの教皇庁が全面的に皇帝の出す条件を飲めば、ランツクネヒトもスペイン軍も即時撤退させるつもりだったようだ。自身が出ていかないのは、時機を見てのことだった。
この憂鬱屋の皇帝はもともと大きな戦争を起こそうとは思っていなかったのだろう。
ミラノに自軍の配備が済んだ後、皇帝はクレメンス7世に講和条件を提示する。その条件にも、戦争を拡大する意思がさほど強くないのは見てとれる。
・ランツクネヒトへの給金として、賠償金20万デュカートを支払う
・オスティア、ピサ、リヴォルノ、チヴィタベッキアの港を渡すこと
・スフォルツァ家のミラノ帰還は承認する
・講和交渉のために8ヶ月休戦する
・枢機卿(すうきけい、すうききょう)を2名人質に出す
・講和がなった際は対オスマン・トルコの十字軍結成につとめること
初めに書かれているのが、「ランツクネヒトへの給金」である。領土の割譲より、給金の支払いが先なのである。この傭兵たちが給金、いや自分の分け前を手にすることを至上命題としていることは有名だった。給金の支払いが滞れば、雇い主に反旗を翻すことも辞さないのである。皇帝はそれをよく分かっているので、給金をランツクネヒトに与えて休戦とし、その間に教皇庁と和解しようと考えたのである。
実際に3月13日には暴動が起こってランツクネヒトの指揮を取るフルンベルグが負傷、本国に帰った後死亡する。彼は軍の半分を束ねていたのだ。それだけの兵が無秩序に陥ったらどういうことになるか。
そのような内情を知ってか知らずか、クレメンス7世はこの和議の提案を同盟参加国にはからずに丸ごと受け入れてしまう。給金の支払いだけ先行すればよかったのに、すべてを受け入れてしまった。これで同盟の中で不協和音が生じる。ヴェネツィアとフランスは同盟から距離を置くことになる。
どちらも大軍を擁しているのに、それを手放してしまった。それだけではない。スペイン側からの提言を受けて、教皇庁を守備していた在地の傭兵ら4千人を解雇したのだ。そうすればローマへの不可侵を約束すると言われたからだが、ありえない選択だった。
これで教皇が頼みにできるのは、イタリア在地のいくらかの諸侯からなる教皇軍と、教皇庁の守備に付くスイス傭兵数百人だけになった。
ローマは、3万のランツクネヒトをはじめとする軍勢に対して裸同然になったということである。
神聖ローマ帝国は講和のための期間を提示している。教皇はその目的を見逃すべきではなかったのだ。
給金、いや正式には賠償金は払われることになった。フィレンツェからボローニャに駐留する神聖ローマ帝国・スペイン連合軍陣営に当座の8万デュカートが運ばれた。しかし、金を目の前にして、いさかいが起こった。賠償金額の吊り上げがきっかけだったが、激昂した司令官は一方的に交渉の決裂を告げる。
「もはや、ローマへの進軍以外に道なし!」
この一言が運命を決めた。
神聖ローマ帝国・スペイン連合軍の傭兵軍総勢3万はローマへの進軍を開始した。
きっかけは、やはり給金だった。
「ボローニャを出た皇帝連合軍は一路ローマに向かっております!」
「何だと? 賠償金の一部は払ったぞ! 和議も受けたのだ。皇帝は何と言っているんだ」とクレメンス7世は声を荒げる。
「軍に進軍を止めるよう命令は出しているとのことですが、皇帝の立てた司令官が死亡しているので完全な統率者がおらず、命令が届かないようです」
クレメンス7世は頭を抱える。
「約束が違うではないか! バチカンの傭兵軍もすでに解雇した後なのだぞ。どうやって少しのスイス人傭兵だけでバチカンを、ローマを守れというのだ!」
皇帝連合軍はボローニャからフィレンツェを通過したが、フィレンツェの街は通りすぎたという。フィレンツェの市民たちはすでに完成した防御壁の内側で武器を手に備えていたが、皇帝軍が通り過ぎていったので心底から安堵の吐息をもらした。カテリーナはじめメディチ家の人々も、この時は無事だった。フィレンツェにはミケランジェロ・ブォナローティがいたし、近郊にはニッコロ・マキアヴェッリがいた。みな同じように、ランツクネヒトの襲来に備えていたのである。
皇帝連合軍は一路ローマを目指していた。
ランツクネヒトはほとんどが農民であると以前に書いた。彼らはほとんどが、ルター派に拠るプロテスタントだった。贖宥状が高値で売られていたのを目にしていた人々である。
ローマは彼らにとって金の匂いに満ちた、腐敗と堕落した者の都だった。それが他の街を壊滅的に襲撃しなかった大きな理由である。ローマは彼らの憎悪の対象となっていたのだ。
1527年5月2日、神聖ローマ帝国・スペイン連合軍(以下、皇帝軍)はローマまで20レグア(約100km)を切るヴィテルポまで迫る。逃げられる者はすでにローマを去り始めている。
5月3日、クレメンス7世は戒厳令を敷いて、ローマに通じるすべての城壁を閉鎖するように命じた。
「教皇軍はまだ来ないのか!」とクレメンス7世が叫ぶ。
グイッチャルディーニ率いる教皇軍、フィレンツェ軍などがすでにローマに向かって発ったというが、一向にローマ到着の一報が入らない。万事休すである。
「これではもう、最後の手段を取るしかない……」
教皇と枢機卿はローマを捨て、教皇庁を開放する覚悟を決めて、バチカンから地下通路を使ってカスタル・サンタンジェロに逃れていった。カスタル・サンタンジェロはもともと防御のために作られた要塞である。ここが本当の、最後の砦だった。
5月6日の未明、ローマに入った皇帝軍は壁を破るべく攻撃を開始する。ここで真っ向から敵に向かっていったのは数百のスイス人傭兵だった。彼らは寡勢ながら、その名にふさわしく鬼気迫る戦いぶりを見せた。接近戦である。鑓は激しい音を立ててぶつかる。最後の一兵まで本丸のカスタル・サンタンジェロを守ろうと戦い、次々と倒れていった。
21世紀まで、教皇庁の警備にあたるのは紅白の制服に身を包んだスイス人だ。このときの栄誉が現代まで受け継がれているのである。
しかし、ローマは見捨てられた。
あっという間に教皇庁一帯も制圧された。皇帝のランツクネヒトらはティヴェレ川一帯にも雪崩のように襲いかかる。兵が集結しているカンポ・デ・フィオーリやナヴォーナ広場はあっという間に敵の手に落ちた。兵は暴徒と化していた。扉という扉はこじ開けられ、隠れていた人々は打ち倒され、金品や食糧は根こそぎ奪われた。男は殺され、女は強姦され、連れ去られ、結局殺された。何の見境もない。逃げようとして捕えられた枢機卿は兵たちに引きずり回される。
戦闘が終わった後の1週間、ローマの市街地は人も物も何もかも、こっぱみじんに壊された。
スペイン側の将や文官はこのありさまを、金縛りにあったかのように動くこともできず、見ているしかなかった。カルロス1世(皇帝カール5世)の弁務官ガッティナーレは皇帝にこう報告している。
「全ローマは破壊されました。サン・ピエトロ聖堂も、教皇の宮殿も、今や馬小屋と化してしまいました。われわれの隊長オランジェ公は、兵士たちに秩序を取り戻させようと努力されましたが、もはや野盗の群れと化した傭兵どもはどうすることもできません。ドイツ傭兵どもはそれこそ、教会に何の尊敬も持たないルター派とはこのようなもの、と思われるように野蛮に振る舞っています。すべての貴重品、芸術品は痛めつけられ盗まれました」
(引用「ルネッサンスの女たち」塩野七生 新潮文庫、一部表記を改めています)
この5月のことはのちに「Sacco di ROMA」(ローマ劫略)と呼ばれるようになる。
カスタル・サンタンジェロのクレメンス7世には皇帝軍スペイン側の司令官が折衝役として付いた。
「事態が終息し、皇帝カール5世からの正式な連絡が届くまではカスタル・サンタンジェロの捕虜でいていただかなくてはなりません。私が教皇さまとの連絡役を任されております」
クレメンス7世はぶるぶると震えながら彼に尋ねた。
「ローマは、酷いことになっているのか?」
司令官は沈痛な表情で答える。
「酷いなどという言葉では……とても言い表せません」
不意に、司令官は部屋の一画にある、ろうそくに照らされた十字架の方を向いて折れるように膝まづいた。
「神よ、われらを救いたまえ」
そう言いながら、司令官は泣いていた。
クレメンス7世も側にいる枢機卿も、重い沈黙を持って、司令官とともに祈りを捧げた。
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