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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ
アレッサンドロは考える 1525年 パヴィアとフィレンツェ
しおりを挟む〈カテリーナ・ディ・メディチ、教皇クレメンス7世、フランス王フランソワ1世、アレッサンドロ、イッポーリト〉
幼いカテリーナがイッポーリトを未来の結婚相手にしたいと思うようになった頃の話を続けよう。
公爵令嬢の婿を決める立場である大叔父の教皇クレメンス7世は、ヨーロッパの情勢を考えることで頭がいっぱいになっていた。1510年代にはやや落ち着いていたイタリア戦争がまた新たな局面に入っていたからである。芸術品がどうとか、サン・ピエトロ聖堂を改修しようなどと言っている場合ではなくなったのである。
そして、メディチ家の嫡流である公爵令嬢の婿を誰にするかということも、しばらく棚上げになる。
戦争が「落ち着く」という表現は適切ではないかもしれないが、前世紀から続くこの戦争にはまだ完全な終戦が訪れないようだ。小休止(あるいは不可避な外的要因、水面下の外交努力)をところどころにはさみながら、大小の戦闘、侵略が延々と続いていくのだ。
※折々の経過についてはチェーザレ・ボルジアがローマにいる頃からこれまた延々と記しているので、よろしければご参照ください。
イタリア戦争を一言でいえば、「イタリア半島各地方の領有を巡る、フランスと神聖ローマ帝国の戦い」ということである。その終わりが書けるのはまだだいぶ先のことになるが、この話に出てくる大半の人が、多かれ少なかれ関わっているといってよい。
この頃、1520年代前後にはフランスがピレネー山脈のスペイン側であるナヴァーラ王国の領有を意図して侵攻したが成功しなかった。この、ナヴァーラを巡る一連の戦いでフランシスコ・ザビエルは城を壊され、イグナティウス・ロヨラは瀕死の重傷を負ったのである。
そのうちにイギリスがノルマンディー地方に侵攻を始め、フランスは応戦を余儀なくされた。
フランスとイギリスは前の世紀まで大きな戦争(百年戦争)を経ていたが、イタリア戦争に関してはイングランドはこの時まで関わってこなかった。それがポンと舞台の裾に登場したのだ。イギリス王ヘンリー8世はフランスと神聖ローマ帝国の争いに乗じてなにがしかの利益を得ようとしたのだ。なにがしか、というのはフランスの土地である。
ヘンリー8世はイタリア半島に進出する気はない。なぜなら、あまりにも遠いからである。いわゆる、漁夫の利を得ようとしたのである。
このヘンリー8世はのちに教皇クレメンス7世をたいへん困らせることになる。
1525年2月、イタリア半島のミラノを巡って神聖ローマ帝国とフランスの間で戦闘が起こった。『パヴィアの戦い』と呼ばれているものだ。
ミラノ南方のパヴィア城塞をいったん包囲したフランス軍は一気に要塞を攻め落とし、ミラノへの進軍をはかったが、主力はその頃までにかなり減っていた。そこに増兵した神聖ローマ帝国軍が襲いかかる。持久戦になるかと思われたが、神聖ローマ帝国軍は一気に総攻撃をかけ、フランス軍はひとたまりもなく降伏状態になった。
フランス軍を指揮していた有力な貴族も多数戦死し軍勢は壊滅した。フランス側の死者は1万人と伝えられている。それだけではない。あろうことか、国王フランソワ1世までもが捕虜になってしまったのである。彼はスペインの地で虜囚として短い間だが時を費やすことになる。
一国の王が捕虜となったのは、戦争の勝敗以上に周辺の人々を驚かせた。
神聖ローマ帝国は本来の領土(現在のドイツ)だけではなく、スペインからもナポリからも兵力を調達できるのである。また、主力軍の兵であるランツクネヒト(傭兵)は、それまでの貴族を中心とした軍隊とは似て非なるものだった。構成員は農民が大半だ。従軍すれば本業よりも割のよい稼ぎになる。稼ぎになるならばいくらでも暴れる。万が一稼ぎが得られなければ……暴徒になって収奪する。
圧倒的な軍事力を見せつけられたイタリア半島の人々は、そのなりゆきを眉をひそめて見ているしかない。
その様子は当然、フィレンツェにも伝わってくる。
「パヴィアの辺りはフランス兵の死体が積み重なって、とてもひどいことになっているらしいよ」とアレッサンドロは馬を引きながら、カテリーナに言う。カテリーナは馬の背にまたがって、少し怯えた様子だ。
「こわい、おにいさま。そんな話はやめて」と泣きべそをかきはじめる。
「ああ、カテリーナ、ランツクネヒトはここまでこないから、安心して」
「おにいさまのいじわる!」とカテリーナは涙目になる。
アレッサンドロはカテリーナの馬を引いて、庭を回りながら考える。
彼は15歳になる。浅黒い肌に長身なので、見た目は大人といってもよい。そしてもう、いろいろなことが理解できる年齢でもある。
アレッサンドロは考える。
このフィレンツェにランツクネヒトが絶対に襲いかからないという保証はあるのだろうか。前の教皇さまは神聖ローマ皇帝の側近だった。それならば、早く亡くなってしまった元側近のことで皇帝は恨みを抱いているかもしれない。場合によっては、毒殺したなどと疑っているかもしれない。そうすると、皇帝がいちばん怪しいと見るのはメディチ家だろう。結局また、メディチ家が教皇になったのだから。
そうしたら、フィレンツェだって危険なはずだ。フィレンツェに、数万のランツクネヒトを迎え撃つだけの軍隊があるだろうか。10数年前に共和国の軍隊が組織されて、それ以来自前である程度の兵力を確保できている。ただ、フランス軍が寡勢だったとはいえ、あんなにあっけなく敗れてしまったのだ……。
「おにいさま、馬が壁にぶつかってしまうわ!」
カテリーナの声でアレッサンドロははっと我に返る。本当は植栽にもところどころぶつかりそうになっていたのだが、馬の方で上手く避けていたのである。それはカテリーナも気づいていたが、アレッサンドロが真剣に考え事をしていたので声がかけづらかったのだ。
「あ、ごめんよ、カテリーナ。考え事をしていた」とアレッサンドロは謝った。
カテリーナは、「ううん」と首を横に振ってから、馬を下りる。アレッサンドロが手を貸す。
「もういいのかい?」
「うん、着替えて髪を整えてもらう。またおばさまに怒られてしまうから」とカテリーナはにっこり笑う。アレッサンドロはうん、とうなずいて馬を厩舎に引いていく。
今度はぶつけないで行けそうだ。
カテリーナは急いで部屋に戻り、侍女の助けを借りて着替えをする。
「えーと、あの緑の、胸に刺繍が付いたドレスがいいわ。おばさまもお気に入りだし。何より厚手で温かいから」
「そうですね、ただいま……でもお嬢さま、最近とてもおしゃれに興味をお持ちなのですね」
「え、そうかしら。おばさまがたくさんドレスを用意してくださるから……」とカテリーナは赤くなる。
侍女は膝まずいて令嬢にドレスを着せ、裾や袖を整えながら微笑んでうなずく。
「素敵なことですよ、お嬢さま。さて、次はお髪を整えましょう。おでこは出して下ろしましょうか」
「……可愛くなるようにして」とカテリーナは小さい声で知らせて、また侍女を微笑ませる。
メディチ邸の外ではヒバリのさえずりが聞こえる。
陽光も明るい。
カテリーナはイッポーリトの部屋に本を見せてもらいに行く。そして簡単な本を選んでもらい、少しずつ読む練習をするのだ。
最近はそれが楽しい習慣になっている。
カテリーナはもうすぐ6歳になる。
一方で、アレッサンドロはまた考え始める。
イッポーリトと僕が大人になったら、二人でフィレンツェを治めることになるのだろうか。
これまでに、そんな例があっただろうか。いや、ない。当主は常に一人だった。
カテリーナがイッポーリトと結婚すれば、メディチの当主は実質的にイッポーリトになるだろう。そうしたら、僕はどうなる? 小さな屋敷を相続して銀行を任されるか、聖職者になるのか、そんなところだろう。
でもジュリオ叔父さん(教皇クレメンス7世)はカテリーナを外の人と結婚させるとも言っていた。
僕は嫡子ではないけれど、カテリーナの兄なのだ。僕にもまだ、可能性は残されているはずだ。
アレッサンドロは真実を知らされていない。
フィレンツェにはパヴィアの阿鼻叫喚は聞こえない。
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