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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ

アヴィニョンの橋を眺めて 1519年 フランス

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〈フランスプロヴァンス地方・アヴィニョンの学生ミシェルと友人、捕囚期の教皇、フランス王・フランソワ1世〉

 彼は友人と散歩に出ているとき、子どもたちが歌いながら通りすぎていくのを、振り返ってしばらく見守っていた。
 子どもたちはローヌ川にかかる幅の狭い華奢(きゃしゃ)な橋を見ながら声を揃えて元気に声を張り上げて道を進んでいく。

Sur le pont d’Avignon,
l’on y danse, l’on y danse, 
Sur le pont d’Avignon, 
l’on y danse tout en rond.

Les beaux messieurs font comme ça, 
et puis encore comme ça.
Les belles dames font comme ça, 
et puis encore comme ça.

「あの歌には、どんな意味があるのだろう」
 子どもたちを振り返った少年が脇にいる友人に尋ねる。
「さあ、僕が子どもの頃からある歌だよ。僕も歌える。
 アヴィニョンの橋で、踊る、踊る。
 アヴィニョンの橋で、輪になって踊る。
 こんな感じさ。きみはサン・レミの出だから知らないだろうな。まあ、知っているからといって、自慢するようなものでもないけど」
 そう言われた少年は肩をすくめてみせる。
「ああ、聞いたことはあるよ、もちろん。そういう古い歌なんだね。あれがまさに、アヴィニョンの橋なんだろう。なぜサン・ベネゼ橋と歌わないんだ。あの橋の名前だ。サン・ベネゼの橋で~でも歌えないことはない」
 アヴィニョンで生まれ育った学友はきょとんとした顔をして、すぐに笑いだした。
「ミシェル! 君って本当に面白いものの見方をするんだね! そんなことは考えたことがなかったよ……そうだね、サン・ベネゼ橋って歌うと、みんなが押し寄せて、壊れちゃうと思ったのかな。あの通り、華奢な橋だからさ」
 そう言われた少年は一張羅のビロードの帽子をかぶり直した。少し照れているようだ。
「それはなかなか慧眼だ」
 ミシェルの言葉に目を丸くして、学友はさらに大きな声で笑う。
「ケイガン、だって? さすが、われらが文学博士は言うことが違うね」
 ミシェルは友人にからかわれて、なおいっそう帽子のつばを下げて顔を隠す。言葉はいっぱしでも、まだ16歳なのだ。



 フランス南部プロヴァンス地方の一画に、アヴィニョンという場所がある。現代はフランスだが1519年のこの頃、ここは公には教皇領となっている。
 読者の方ならばこれまでさんざん、くどくどと書いているので、教皇庁がローマにあることはご存じだろう。アヴィニョンは飛び地ということになるが、そもそもなぜここに教皇領があるのかと不思議に思う方もいるかもしれない。
 それには深い理由がある。1309年から1377年まで、7代の教皇がアヴィニヨンの宮殿で時を送ったからなのだ。
 教皇クレメンス5世(1305~14年)、ヨハネス22世(1316~34年)、ベネディクトゥス12世(1334~1342年)、クレメンス6世(1342~52年)、インノケンティウス6世(1352~62年)、ウルバヌス5世(1362~70年)、グレゴリウス11世(1370~78年)の7人である。これらの教皇がフランス南部の片田舎に本拠を置いた時期のことを、『教皇のアヴィニョン捕囚』という。
 14世紀、フランスは後の世紀より果敢に教皇と真っ向から対立していた。そのような情勢の下、1303年、フランス軍がイタリア半島アナーニの別荘にいた教皇ボニファティウス8世を襲撃する事件が起こった。
 教皇はその直後に病死する。
 それに替わってフランス人枢機卿ベルトラン・ド・ゴが教皇クレメンス5世になる。それを好機として、当時のフランス国王フィリップ4世の要請で、1308年に教皇庁がアヴィニョンに移されたのである。とはいえ、フランスがよくても他の国が納得するものではない。
 アナーニ事件の事後処理のためヴィエンヌ公会議(教皇庁でもっとも重要な決定機関)の準備がすすめられたが、その隙を縫って神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世がイタリア半島に侵攻をはじめた。これで教皇はローマに帰りたくとも帰れなくなってしまったのだ。それが70年も続くことになる。その間の7人の教皇はフランス人が担った。アヴィニョンは「教皇領」とされたが、実質的にはフランスの「人質」にされたのである。ゆえに、イタリア半島を含めた他の地域から見れば、「捕囚」という表現になるのだ。
 ただ、教皇庁がプロヴァンスの片田舎に移転していたことの利点はあった。14世紀のこの頃に黒死病、後にいうペストが世界中で大流行したのである。この流行では世界で推計5000万人が亡くなったといわれる。当時の全人口の1/4を失うほどのバンデミー、疫病の災禍だった。このときローマなどの大都市にいたら、相当の犠牲を出したことは間違いない。

 その後で教皇庁は再びローマに戻ることとなり、アヴィニョンは教皇領、実質的にはフランス統治の下に入っている。
 この土地には大学がある。それもさきに挙げた教皇ボニファティウス8世が建学したのである。フランス王がソルボンヌ(パリ)大学を建学するのに対抗して、教皇も大学を作ることにした。それがアヴィニョン大学の起源である。アナーニ事件に至る経過で起こったことでもあるので、その正の遺産といえるだろう。

 そのアヴィニョン大学にミシェルが入学したのは1518年のことだ。
 おりしも神聖ローマ帝国領のヴィッテンベルグで、神学教授のマルティン・ルターが『57カ条の論題』を印刷・出版し大騒ぎになり始めた頃である。それが贖宥状(免罪符)の大々的な販売に抗議する内容のものだったことは前にも書いた。

 200年前に起こった事件とは異なるが、ローマ・カトリック教会の屋台骨を揺るがすような一大事には変わりなかった。
 このとき、フランス王はフランソワ1世の治世下にあったが、1594年から断続的に続いている戦争もこのときは休戦期にあった。もちろん、イタリア半島に領土を広げたい2人の国王、フランソワ1世と神聖ローマ皇帝のにらみ合いが収まったわけではない。休戦になっていたのは、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が逝去して、後任の選挙が行われていたからである。その選挙にはフランス王も立候補した。対立候補はスペイン王のカルロス1世である。どちらが勝ったかについてはこれまでにも何度か書いたので、繰り返すのはやめておこう。
 休戦状態にあるのはそのような理由によるものだ。
 いずれにしても、フランスの諸侯と兵はこの年、戦争に出ずに済んでいた。つかの間の平和な時である。



 ミシェルは帽子のつばを曲げると、再び友人の顔を見た。そして、真面目な顔で告白する。
「ぼくは……どうしてだろう……本を読んでも、言葉を聞いても、景色を眺めても、事件に出くわしても、その理由とか意味を考えてしまうんだ。何か、すべてのものごとには理由や意味があって、それぞれが複雑に絡み合っているのではないかと思うんだ。それをどう表現したらいいのか、よく分からないのだけれど」
 友人は黙ってそれを聞いている。そして、ふと立ち止まると足下にある小石を拾う。そして、辺りに人がいないことを確かめると、ローヌ川に放り投げた。小石は滑るように飛んでいき、水面に4つ円形の轍を作って沈んでいった。
「ミシェル、君はこれを見て考えるのかい。この石が拾われたことに理由があって、ぼくに投げられるのにも意味があると。
 ぼくは自分の意思で石を投げたわけだけど、それ以上のことは考えていないなあ」
 ミシェルは真面目な顔のまま、さらに続ける。
「それだけじゃない。石が4回水面を打つことも、何かの意味を持っているのではないかと思ったりする」
 友人は苦笑して、ミシェルの横顔を眺める。
「そうだな。きみは古代ギリシアのアカデメイアにでも通えたらよかったね。さぞかしソクラテスと議論が弾んだことだろう。君がいつも熱心に読んでいる『神曲』にもそのようなことが書いてあるのかい」
「ああ、ダンテにはぼくが今見ているよりもたくさんのものが見えて……分かっていたように思うな」とミシェルはため息をつく。

 自分はどれだけ勉強したら、
 どれだけ研鑽を積んだら、
 いろいろなことが分かるようになるんだろう。
 歳をとれば、
 自然にいろいろなことが分かるようになると
 父さんは言っていたけど、
 本当にそうだろうか。
 見ようとしなければ見えないし、
 分かろうとしなければ分からないままではないだろうか。
 ぼくはもっと知りたい。
 ぼくが今、ぼんやりと頭の中で思い浮かべていることを、
 はっきりとした言葉に
 形にしたいんだ。

 ミシェルはローヌ川の流れを眺めて物思いに耽っていた。友人はミシェルの少し風変わりな性格をーーいったん考え始めると他のことは見えなくなってしまうこともそのひとつだがーーよく承知していたので、黙ってそれに付き合っていた。
 するとミシェルは突然、友人に話しかけた。
「そう、でもぼくに分かっていることがひとつだけあるんだ!」
 友人はミシェルの勢いに気圧されながら、それは何かと尋ねた。
「ぼくはきっと、運命の人に出会うんだ。自分の生涯を捧げるに値する、運命の人に出会うんだ!」

 興奮した様子で話すミシェルを、さすがの友人もぽかんとして眺めることしかできなかった。

 そう、もの思うばかりの少年はだいぶ後に出会うことになるのだ。
 彼の思うような、運命の人に。
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