16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ

覇権の道をいく一族 13~15世紀 フィレンツェ

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〈ジョヴァンニ・ディ・ビッチなど〉

 フィレンツェの町についてさきにほんの少し触れたが、読まれた方は何か足りないのではないかと思われることだろう。
 そう、足りていないのだ。それを今回書いていこう。

 この町が花の都と呼ばれるのは、人の手によって築かれたいくつもの建造物による。サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラ(ドーム状の屋根)は21世紀の現代までフィレンツェの町の象徴である。そのほかにも私たちは聖堂の脇に建つジョットの鐘楼、ヴェッキオ宮殿、ピッティ宮殿などの豪壮な建築物に出会うことができる。
 本編2章から5章で旅をするソッラは、ヴェッキオ宮殿(当時は市庁舎だった)の塔をよけるように歩いていたが、目の前の広場の規模からすれば多少の圧迫感を感じる人がいたかもしれない。「倒れたらどうしよう」とソッラは心配していたが、そのような記録はない。

 この塔はアルノルフォの塔という。設計者の名前を取っているのだが、完成したのは取り囲むヴェッキオ宮よりも古い。1300年のことである。
 ただ、塔が怖いという感覚をこの時代のヨーロッパ人が持っているのは普通だったかもしれない。
 塔がどのような目的で建てられるかご存じだろうか。時計を見るためか、見張りのためか、町の偉容を誇示するためか、その用途もあっただろうが主ではない。
 人を閉じ込めるためである。
 それもときには、民心に大きな影響を与える人物を見せしめのように閉じ込めるためのものである。
 覚えておられるだろうか。チェーザレ・ボルジアがイタリア半島から追放されてスペインに囚われていたときのことを。彼は城塞の高塔に幽閉されていたのだ。他との接触を一切断たれて、逃げるには飛び下りるしかない。飛び下りたら十中八九、死ぬのである。チェーザレは奇跡的に死ななかったが、稀な例である。もうひとつ紹介するならば、こののちにイギリス女王になるエリザベス(1世)の母親も、子どもがまだ物心がつかないうちに濡れ衣を着せられてロンドン塔に幽閉された。
 そして、斬首された。
 塔に人を幽閉するというのはそのようなことなのである。
 今はアルノルフォの塔も観光客が出入りできるようになっているので、閉じ込められた人の目で素晴らしい景観を眺めてみるのもよいかもしれない。
 さて、ヴェッキオ宮殿のあるシニョリーア広場はフィレンツェで最も有名な広場になるが、塔の上からでなくとも俯瞰してみれば同心円のように一帯に広がる建物、家々の群れにも圧倒される。
 あらかじめ計画したのでなければ決してこのようにはならないだろう。

 建築物だけか、まだ足りないのではないか、と問われるかもしれない。そう、その通り。現代もフィレンツェを訪れる人が引きを切らないのは、もうひとつ大きな要素がある。もっとも語らなければならない部分だろう。
 芸術である。
 フィレンツェに行く人の大半はウフィッツィ美術館やヴァザーリの回廊に足を向ける。それだけではない、宮殿にも街角にも芸術がある。ここはボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロに縁が深い土地なのである。ボッティチェリはこの町で生まれたし、ダ・ヴィンチは市庁舎(ヴェッキオ宮殿)で絵を描いていた。ミケランジェロは壮年までこの町で活動し、ラファエロはそれを仰ぎ見てローマに向かった(ミケランジェロがこの町にいたとき、どのように暮らしていたかについては、第4~5章に一部書いている)。

 この芸術家たちも含めた時代を総称した言葉もあるし、そう言えば多くの人が「ああ」と納得してくれるかもしれないが、この話ではあえて使っていない。それは筆者がひねくれているわけではなく、これらの人々が活躍していたときに、その言葉はなかったと推察するからである。また一方、そのアイコンのような言葉がどのようなものかを説明するために、くどくどと書いているともいえる。

 素晴らしい芸術家がこの町でたくさんの果実を実らせたのは偶然ではない。それだけのものを創らせる財力があったのだ。

 メディチ家という一族がいる。
 もともとはメディチという苗字ではなかった。薬を扱う商人だったことから、「薬屋の」ほどの意味合いでつけたのかもしれない。薬のことを英語でMedecineというが、語源は同じである。この薬物商は毛織物製造の際に必要となるミョウバンを扱うことで富を蓄えることとなった。その収益をもとにして14世紀には両替商、銀行業を展開するようになった。
 こう書くと、いかにも簡単に成功を収めたように思われるかもしれないが、大まかにまとめればそうだということである。これはフィレンツェの共和制についても同様で、貴族と市民の間で対立が生まれて争いになることも数多くあった。また、貴族どうしの間でも権力争いが絶えなかった。特に、ローマ教皇と東ローマ皇帝の関係が険悪だった14世紀にはフィレンツェの中で教皇派と皇帝派に分かれて、流血をともなうような激しい対立を生む事態にもなったのだ。これは16世紀までずっと続いていく。

 メディチ家もその中で浮沈を繰り返してきた。
 この一族で最も早く名前が出てくるのは、14世紀のサルヴェストロとジョヴァンニ・ディ・ビッチであろう。
 サルヴェストロは1370年、市民が反乱を起こしたときのフィレンツェの行政長官(ゴンファロニエーレ)として、その少し後のジョヴァンニ・ディ・ビッチは押しも押されぬ銀行家としてである。サルヴェストロについてはマキアヴェッリも記しているが、彼は市民の側に付いて敗北し失脚した。メディチ家にとっては手痛いできごとであったが、「メディチは市民の味方だ」という印象を与えた点だけは、その後の善き手本、指針となっていく。
 極力、敵はつくらないということである。

 じきにメディチと呼ばれる家はその財力をもって繁栄の道を進んでいく。
 ビッチの代にはイタリア半島の大都市に銀行の支店を持ち、追ってロンドンやブリュージュにもその網を広げた。それに加えてローマ教皇庁のご用達にもなるのである。フィレンツェの町に大きな建築物が次々と現れるのもその頃だ。ビッチはブルネルスキという若者に才能を見いだし、次々に建物の設計を任せる。のちに、この時代で最も有名な建築家と呼ばれることになる。
 ひとつだけ、ブルネルスキの「作品」をあげよう。
 この話の第4章でミケランジェロ・ブォナローティがフィレンツェのサン・ロレンツォ聖堂がらみで、さんざん難渋する様子を書いたが、その聖堂を建てたのがブルネルスキである。
 これがメディチ家が「文化」を手掛ける端緒になったといえるだろう。

 ジョヴァンニの息子であるコジモは語学に秀でた俊英だったといわれるが、親や血縁者からも多くを学んでいたようである。
 彼の代でメディチ家は最盛期を迎えるからである。

 コジモは本章の主人公の曾祖父の父にあたる。
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