16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第7章 海の巡礼路(日本編) フランシスコ・ザビエル

ワンダーウォール 1552年 サンチャン(三洲嶋)

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〈フランシスコ・ザビエル、クリストバル(インド人)、フェレイラ修士、アントニオ(中国人)、商人アラガオ、これまでフランシスコが出会ってきた人々〉


 1552年11月13日、マラッカに向かう最後のポルトガル船がサンチャン(三洲嶋、現在の広東省上川島)を出港していった。



 その船にはゴアに戻りたいと申し出たフェレイラ修士と、私が託した4通の手紙が乗っていた。手紙はそれぞれ、商人ディエゴ・ペレイラ、ペレス司祭、ソアレス司教代理、日本人のジョアンあてのものだった。現在の私たちの状況や今後のマラッカにおける教会のありかた、フェレイラをゴアに戻すにあたっての注意事項など、当面必要なことを記すに留めた。ペレイラにだけは、これまでの感謝と今後も一緒に活動することを切望していると、思いを込めて手紙を綴った。イニゴ(イグナティウス・ロヨラ)やシモン・ロドリゲスなどヨーロッパあてに書くべきかしばらく考えていたが、もう少し状況がはっきりしてからの方がよいと思い、今回は見送った。
 マラッカでアタイデから受けた妨害について書き綴るわけにもいかない。あれはひとりの人間がしたことで、ポルトガル人社会の中で解決してもらうべき問題だとも考えていた。

 ポルトガル人が夏の間に居住していたあばら家の群れも今は焼け跡が残るばかりだ。
 私とアントニオはじきに現れるであろう明国(中国)人の小舟を待っていたが、約束の刻限には6日ほどあった。舟が来れば港に居残ってくれているサンタ・クルス号とアラガオのジャンク船が気づくだろう。日がな湾内で待ち続けているわけにもいかないので、私とアントニオ、あなたは近辺を歩いて回ることにした。

 11月も半ばになり、海風はだいぶ冷たく感じられるようになった。

 サンチャンは南北に伸びた島で、この近辺の島としては大きい方になる。(※1)南シナ海に面した東側には1レグア(約5km)ほど長い砂浜がある。たいへん美しい海岸線である。夏の間、波が穏やかならば海で泳ぐのも気持ちのよいことだろう。ただし、ここは外海に面しているので地形は風雨に影響されて変化していくはずだ。
 ポルトガル船をはじめ、多くの船は西側の湾に入る。西側は東側と異なり、複雑な地形をしている。いくつもの湾、入江があり丘や山がいくつか見られる。それが風避けの役割も果たすのだ。ポルトガル船はその西北部の湾を港として使っている。深い湾ではないが、広さは十分だった。
 私たちが聖堂を建てたのも、その湾を見下ろせる丘の麓だった。本当ならばマラッカの聖堂のように丘の上に建てたかったが、それだけの作業ができるだけの人はいなかった。しかし、聖堂は海(船)からよく見えたので、短い期間に商人や船員が多く来てくれたのだと思う。

 賑やかだった湾も今や限りなく静かで、波の音ばかりが聴こえる。
 この島に住んでいる明国人はいるが、居住しているのは南の方でほとんどが漁業を生業としている。したがって、あまりポルトガル人に干渉してくることもない。そもそも、南シナ海を通過していく船は太古の昔からあったはずだ。渡来する船や異国人はもともとの住人にとって、関わることのない日常的な景色なのだろう。

 ここから広東までは陸の距離で3レグア(約15km)ほど、陸地ならば歩いてすぐ行けるほど近い。ポルトガルの港(島の西側)からは荒天や夜間でなければ大陸の姿をいつでも目にすることができるのだ。本当に、このわずかな距離がこれまでで最も進みずらいものになるとは、思いもしなかった。まるで巨大で透明な壁が目の前に立ちふさがっているようだ。
 目の前にある目的地、体力があれば泳いでいけるほどの3レグア、それだけの海がこれまでで最大の壁になっている。ああ、確かパンプローナから私の住んでいた城までの距離は11レグア(約55km)だった。それに比べたら、比べたら本当に目と鼻の先なのだ。

 このわずかな距離を大きな壁で隔てているのは海だけではない。連れていってくれる船がないことだけではなかった。
 思えばマラッカからここに来るまでに、私は当初思い描いていたよりずっと多くの人と離れなければならなかった。まず、ともに宣教にあたろうと考えていたガーゴ司祭を日本に送らねばならなくなった。そして、ポルトガルの国使として私と一緒に大陸に赴くはずだったディエゴ・ペレイラを諦めなければならなかった。その結果、一緒にサンチャンまで同行していたフェレイラ修士を失うことにもなったのだ。もし、ガーゴ司祭とペレイラ、あるいはどちらか一方でもいてくれたら、フェレイラ修士も戻りたいとは言い出さなかったはずだ。

 私は何度も繰り返し、そのことを考えた。

 人の問題だったのだ。その証拠にペレイラの船、サンタ・クルス号はサンチャンの港に確かにいる。船だけでできるのならば、私たちはすぐにでも目の前の大陸に渡ることができるのだ。アントニオやクリストバルも同じように考えていることだろう。今、フェレイラ修士を失って、宣教にあたる資格を持つ者は私ただ一人になった。

 私一人きりなのだ。
 それでも、私は前に進むべきなのだろうか。
 王の国使の資格もない、大陸で密入国者として捕えられるかもしれないのに。
 それでも、私は前に進むべきなのだろうか。

 明国人の小舟を待ちながら、私はずっと考えていた。
 ふと、山口に残してきた人々のことを思った。ファン・フェルナンデス、コスメ・デ・トーレス司祭のことを。今頃山口にはガーゴ司祭と二人の修士が合流していることだろう。スペイン人とポルトガル人という違いはあるが、ガーゴ司祭とトーレス司祭であれば間違いない。力を合わせて日本にキリスト教を根付かせてくれるだろう。
 そういえば、ランカパウ島でガーゴ司祭はミサを行なったのだろうか。商人ドゥアルテ・ダ・ガマとルイス・デ・アルメイダに頼まれたミサだ。きっと無事にミサは行われて、二人とも喜んでくれたことだろう。

 私の頭の中には、「ここではないどこか」の映像が絶えず現れはじめていた。

 ゴア(インド)はどうだろうか。ガスパル・バルゼオ司祭は聖信(パウロ)学院を上手く運営してくれているだろうか。バセインから戻ってきたばかりだった、若いルイス・フロイスは司祭になるために懸命に学んでいることだろう。あのような、10代の若い人がひとりでも多く、熱心に宣教活動に携わってくれたらいいのだが……。ベルナルドはもうリスボン行きの船に乗れたのだろうか。一緒だった山口のマテオの体調はよくなったのだろうか(筆者注 マテオはフランシスコがマラッカに向けて発った直後の1552年4月、体調が悪化し息を引き取った。ベルナルドは1553年3月にリスボン行きの船に乗った)。

 ローマはどうなっているのだろうか。



 まだサン・ピエトロ聖堂の偉容を私はよく覚えていた。最初にローマを訪れたあのとき、イニゴがいなくて本当に残念だった。たどり着いたときの晴れがましい気分と言ったら! あの大人しいピエール・ファーブルですら興奮していたのだ。そして、五芒星の形に造られた堅牢なカスタル・サンタンジェロ城で教皇パウロ3世に謁見を許されたときの厳粛な心も甦ってきた(著者注 パウロ3世は1549年に逝去し、この時にはユリウス3世が教皇位にあった)。

 私はその時にパウロ3世に言われたことも思い出していた。

ーーーー
「フランシスコ・ザビエル、あなたの父君はかつてナヴァーラ王国の宰相(さいしょう)だったという。父君はパンプローナの王宮に詰めておられたのだね」
「はい、父は普段はパンプローナにおり、休みになるとシャビエルの居城に戻ってきておりました」と私が答える。
「1506年もそうだったのだろうか」とパウロ3世がさらに小さな声で聞く。
「教皇さま、それは私が生まれた年ですので覚えてはいませんが、確かにその頃父はパンプローナにおりました」
ーーーー

 あの言葉の意味を、あのとき、ピエール・ファーブルだけが分かっていた。パウロ3世はチェーザレ・ボルジアを知らないかと尋ねられていたのだ。
 私は何のことかさっぱり分からなかったのに、ピエールは分かっていた。
 パリ大学バルバラ学院の寄宿舎で同室になった1525年のこと、私が幼い頃キュクロープスにラテン語を習ったと告げたことがあった。それだけの話で、秘密のキュクロープスが誰だったか、当時の情勢を調べて見当をつけたのだ。しかも、それを決して口外しなかった。イニゴにさえも。それどころか、私と過ごした最後の夜になってもはっきり言わなかったのだから。
 何と口が堅い人だったのだろう。

 ピエール……天に召されたあなたは……今の私を見たら、何と言うだろう。



「ザビエル司祭、風が冷たくなりました。アラガオの小屋に戻りましょう」

 アントニオ、あなたの声で私ははっと我に返る。私はサンチャンの湾から広東を眺めるように立っていた。確かに風が強くて、とても冷たい。サンチャンは夏の間、マラッカやゴアのように気温が高くなるが冬はまったく違う。私は厳しかった日本の冬を思い出していた。
 仲間がいたから、ともに旅をする人たちがいたから、どんな道も進めたのかもしれない。

 私は無言でうなずくと、あなたとともにアラガオの小屋に戻った。


※1 サンチャン(三洲島、現在の上川島)の面積は139・9平方km(現在)で、八重山諸島の宮古島より少し小さく、瀬戸内海の周防大島とほぼ同じ規模の島です。
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