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第7章 海の巡礼路(日本編) フランシスコ・ザビエル

堺の商人 1551年 岩国から堺(大阪)

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〈フランシスコ・ザビエル、ファン・フェルナンデス、ベルナルド(河邊成道)、日比屋了珪(ひびやりょうけい)、セサル・アスピルクエタ〉

 岩国から堺(大阪)に向かう船の中で、私は1551年を迎えた。
 船は中型の弁才船(べざいせん)だった。これは帆船で、大きな帆1反を張ったものである。明(中国)のジャンク船に帆の掛け方が似ているようにも思えるが、ジャンクほど大型ではない。瀬戸内海を通行するのには、中型の船のほうが便利がいいのだろう。荷物を運ぶための船なので、人にとって居心地がいいとは言えない。

 風の冷たさが本当に身にしみた。この海域は晴れることが多いと言うが、私たちが海上にあるときはそうでなかった。曇天から雨、時々は雪が私たちに降ってきた。

「この季節は寒さを避ける手立てもないけ、船を出したがる者も少ないんじゃ、ほれ」と船員は側にあった藁のマット(むしろ)を私たちに与えてくれた。これにくるまっていると、確かにいくらか温かくなる。日本人で、まだ若いベルナルドが私たちのことをたいそう心配していた。「大丈夫だ」と答えるものの、見た感じはまったくそうではなかっただろう。それでも船は多くの小島をすり抜けながら、順調に東に進んでいた。

 途中、船は何度か停泊した。海上に赤い柱(鳥居)が立っているところの入江が最初だったと思う。安芸国(あきのくに)宮島というところらしい。厳島神社(いつくしまじんじゃ)のものだということだった。あの造りの巨大な柱がどうして安定して立っていられるか、とても不思議だったよ。
 船は尾道(広島)にも停泊し、私たちは三原(広島)の宿でようやく思う存分に暖を取ることができた。

 船の船長はよくベルナルドと話をしていた。ベルナルドにはこの頃、一行をきちんと目的地に導いていかねばならないという責任感が芽生えていたようだった。最年少だったので謙虚な態度は変わらなかったが、最善の道を進めるよう日本人である自分が力を尽くさねばと考えていたのだろう。その様子を見るにつけ、「献身」とはこのようなものだということを強く感じた。
 そして、彼はこれまでどこの国で出会ってきた信徒よりも、熱心に私の話を聞いた。日本語の聖書を私たちは持っていなかったが、彼はラテン語の聖書を私やセサルに聞いて引きながら、少しずつ覚えていった。パウロ(弥次郎)がポルトガル語をあっという間に習得したのにも驚いていたが、ベルナルドの熱意は、ただまっすぐ主イエス・キリストに向かっているようだった。

 私はベルナルドをイニゴ(イグナティウス・ロヨラ)に会わせたいと思うようになっていた。そして、彼にはコインブラかローマで学んでもらい司祭に叙階する。そして宣教活動の責任者になってもらう。私は真剣に考えていた。これは京都行きが終わったらすぐに実行することになる。
 これまで、ヨーロッパから聖職者を派遣することばかりを考えていたが、宣教した国の信徒の中には、「この人は選ばれて私の前に来たのではないか」と思えてしまうほど、熱心で敬虔な人がいる。そのような人々にはもちろん本人の意思によるが、コインブラやローマで学んで聖職者になる資格が十分にあると思えた。

「そうだな。主は国境のことはお考えにならない」とセサルは言う。

 私たちは微笑むと、またぶるぶると震えながら祈り始めた。

 ベルナルドはこの弁才船の船長と、堺に入った後のことについて相談していた。山口で内藤興盛(ないとうおきもり)公という重臣にはじめに会ったことで、後の目通りがすんなり通ったこともあった。堺でそのような有力者に紹介してもらえないかと尋ねていたのだ。ベルナルドにはよくわかっていたのだろう。天皇や公卿、そして将軍に会うということがどれほど大変なことか。
 そしてベルナルドの熱心さに打たれたのだろう。船長は気さくに一人の商人を紹介すると請け負ってくれた。

 船はようやく瀬戸内海を抜けて、果心居士が「畿内」と言っていた地域に入る。彼はもう着いていることだろう。
 堺までは約2週間の航海だった。
 そして、私たちの目の前に、堺の町が現れた。

 私たちはこれまで日本で見たことのない光景に目を見張った。堺はたとえるなら、ヴェネツィアのような商人の町であった。水路には多くの小さな船、陸には馬が闊歩する。人間もひっきりなしに行きかい、大層賑やかだ。

「ここは、まるで、東洋のヴェネツィアですね」と私は思った通りのことをセサルに伝える。
「そうだな、これほど賑やかな町を見るのは本当に久しぶりだ」とセサルも感嘆するほどだった。

 ベルナルドが頼んでいた通り、船の船長は一軒の商人の家に私たちを率いていった。
 私たちが連れられたのは日比屋了珪(ひびやりょうけい)という商人の家だった。かなり大きな家で、ひっきりなしに人が出入りしている。船長が言うには、堺で5本の指に入る豪商だそうだ。
 そのように賑やかな家の奥から出てきた日比屋はみずから船長の話を聞くと、初対面の私たちを快く迎え入れてくれた。穏やかな人柄のように見受けられたが、それは間違いではなかった。
 私たちが日本に来た目的を話すと、彼は私たちがいる間、滞在する場所、彼の家の別棟を提供すると申し出てくれたのである。

 彼に話を聞いて分かったことだが、堺の商人は日本の中でも、すでに世界に目を向けている先駆けのような存在だった。すでに彼らのあつらえた商船は明国沿岸からルソン島(フィリピン)や近隣の国々まで出向いて貿易をしていると言う。ポルトガル船と港を同じにしたこともあるし、片言ながら話したこともある、と胸を張った。その商人たちが胸に下げている十字架を見たことがあって、「あれは何だろう」と不思議に思っていたという。
「せやから、西洋の神さんについて一度じっくりお話を伺いたいと思っとりましてな。さきさまのことをよう知っておくのは商いの基本ですよって」と日比屋はにっこりと笑う。

 商人特有のものかもしれないが、日比屋はたいへん柔軟な考え方をする人だった。同じ日本人のベルナルドが感動したほどである。
「あん方ん器はまっこて大きか!」とあとでフェルナンデスに告げていた。そして、私たちが逗留している間、彼は実に篤くもてなしてくれたのである。

 ただ、私たちの京都行きについては、日比屋は難しい顔をした。京都に向かい天皇と将軍に拝謁が叶うかどうかという計画についてである。あと、このときではなかったが、天龍寺の策彦周良(さくげんしゅうりょう)という高僧にも面会したいということも後で伝えた。

「天子様は、正直無理やと思います。武士の世になってから異国の方に拝謁されたことはないんと違いますか。禁裏(きんり、宮中・御所)に行かれても門前払いになるでしょうな。それと、将軍様は今京都にはおりません。戦に巻き込まれた後、近江の坂本に退かれております」

 私は暗澹(あんたん)たる気持ちになった。それでも布教の許可を得ることが大切なのだと、日比屋に伝えた。彼は苦笑して、「まぁ、行ってみましょう」と案内を請け負ってくれた。

 京都へはゆっくり向かっても2日あれば着くという。日比屋はまず数日自邸に逗留したらどうかとすすめてくれた。
「何しろ、京はえらい冷え込みますさかいな。十分に旅の疲れを取り、養生されてから向かうのがよろしいでしょう」
 私たちはその言葉に甘えて、少し休息を取ることにした。その間、日比屋は私たちの旅のことやキリスト教について話を聞いてくれたのである。
 ありがたい庇護者だった。

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