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第7章 海の巡礼路(日本編) フランシスコ・ザビエル
島津貴久に会う 1549年 薩摩半島
しおりを挟む〈フランシスコ・ザビエル、アンジロウ(パウロ、弥次郎)、ジョアン、アントニオ、マヌエル、アマドル、島津貴久、伊集院忠倉、武士の男性〉
日本に着いてしばらく、私はあまり働きようがなかった。自慢できることでもないが、大車輪で働いてくれた仲間がいたのだ。
その人、パウロ(アンジロウ、弥次郎)はせっせと動き回っていて、その成果について話を聞いてから、私たちの今後の予定を決めていく。皆がパウロの話を熱心に聞いている。鹿児島にいる間はパウロの家に滞在させてもらったので、彼がいなければどうなっていたのだろうか。
薩摩の国主、島津貴久公の城代である伊集院忠倉公に面会するのもすんなり決まった(※1)。ただ、日本人同士でまず話した方がいいということになり、パウロがその任を果たすことになった。もちろん、マラッカのシルヴァ長官から託された贈りものを持参してもらった。長官はかの有名な航海者ヴァスコ・ダ・ガマの息子だが、日本人に言ってもピンと来ないだろう。
それ以前に、ポルトガルの使節でもあるのに、この一団にはポルトガル人がいない。日本人、スペイン人、旧ナヴァーラ人、インド人、中国人だ。私は最初から分かっていたが、少し不思議ではあった。皆、ほぼポルトガル人と言う方がいいだろうか。それとも、「ポルトガルの拠点から来た人」だろうか。後者の方が正確だろうが、理解してもらうには長い説明が必要だ。
これ以後も、「De onde você é」(あなたはどこのご出身ですか)と聞かれるとしばし考えなければならなかった。
その間に私たちも日本について学ぶ時間を得られたのだ。さっそく、ファン・フェルナンデスは使徒信条の翻訳に取りかかっていて、トーレス司祭と文言について話し合っている。領主から布教の許可が出しだい活動を始めるので、悠長に構えているわけにもいかなかった。私もその確認はしたが、なかなか困難な仕事だ。それはその後も続いたことなので、また話そう。
パウロは市来城で伊集院忠倉公に面会することが叶った。数年前にポルトガル商人が来日して以降、九州の海に面した領地を持つ国では貿易を奨励しており、話は問題なく進んだということだった。その国は平戸(現在の長崎)、豊後(現在の大分)、そして私たちのいる薩摩(現在の鹿児島)である。そして海を挟んだ都寄りの地域、周防(現在の山口)でも同様だった。
薩摩の国主島津公は数年前に銃(マスケット銃)を購入した近隣の種子島公からそれを入手した。それを受けて、貿易にことのほか熱心だという。今後の貿易につながるのであれば、対面ーーこの地の言葉では御目通りというらしいーーが叶うということだった。
銃が大量に欲しい。
それは、平和な状態ではないということだ。
日本のこのとき(天文18年)の状況を簡単に述べておこう。
それは前の世紀の後半にまで遡らなければならない。日本には天皇と呼ばれる王に将軍という最高司令官が臣従することで150年ほどを過ごしてきた。実際に統治の中心だったのは足利家で、各地の有力な豪族の合議制によって国を保っていた。その下に守護、地頭という地域の豪族を従える統治制度である。しかし、将軍擁立にともない豪族たちが勢力争いを始める。それが戦争になった。
応仁の乱という。
この戦争は京都を中心に展開したが、全国を2分、3分するほどの大きな戦乱になった。この戦争は10年にわたって続く。以降、地域では実権を握るために豪族同士が戦うのが日常になった。旧来続いてきた形、「領地をもらうかわりに軍事などで協力する」という契約関係が破綻したのだ。小さな地域を昔から契約として領していても、攻め込まれて敗れてしまえば取られてしまう。いや、小さな地域だけではない。大きな行政単位でも起こるようになっていた。美濃国というところでそのようになった結果、旧来の守護という役割を持つ家が押し退けられた。守護は軍事をもって国(地域)を守るという意味だが、それが簡単に覆されるようになった。そして勝利者は、都の朝廷(天皇)に後から認めさせればいいと考える。朝廷の承認だけが変わらず有効なのだ。
「Questo paese è proprio come l'Italia.」
(イタリア半島に似ているな)とセサルはつぶやく。
「そうなのですか」とイタリア半島の事情にあまり通じていない私は聞き返す。
「ああ、そっくりだ。ナポリはスペインが、ミラノはフランスが取っている。もっとも、フランスはしょっちゅう手放しているな。中部は教皇領となっているが、小競り合いは起こる。フィレンツェも他国の介入を受けただろう。フェラーラやマントヴァはよく国を保っているが、それは軍事力と折衝能力の高さによるものだ。ローマの力が磐石であれば、イタリア半島を統一することは不可能ではない。しかし、そうではない。他国の介入を追認するばかりになっている」
ああ、この人はイタリア半島の統一を目指していたのだった。
それを目指したただひとりの人だったのだ。
「L'unificazione è difficile se un uomo con talento estremo e grande fortuna non vince immediatamente.」
(極端な才覚と偉大な運を持つ人間が一気に成さなければ、統一は困難だ)
セサルはそうイタリア語でつぶやいた。
それは彼が生涯をかけて考えていたことだっただろう。
私たちのいる薩摩国はその中にあっても、磐石なようだった。近年、島津貴久公が対抗する豪族を押さえ、ほぼ国内を統一し、朝廷からも国主として承認されたという。島津家はずっとその任にあったから、動揺は少ない方だったと思われる。それでもまだ、九州という大きな島にある他国に介入される恐れがないわけではない。
だからマスケット銃のような、彼らにとって新しい武器を必要としているのだ。
伊集院忠倉公から紹介を得て、私たちは島津貴久公にも目通りすることができることになった。先行してパウロが島津公のもとに赴いた。そして今度は私も目通りすることとなった。1549年9月29日のことだ。
9月29日と書いたが、西欧の暦と日本の暦は異なっている。日本は中国から伝わった太陰暦と呼ばれるものを使っている。月の満ち欠けをもとにしている暦なので、西洋の暦とは1カ月ほどずれている。なので、島津公と会見した日も薩摩国で記録しているのならば違う日付になるだろう。
また日本では1549年という言い方をしない。当世の天皇によって年の呼び方が変わる。これも中国から来た習わしのようだ。この年は日本で言えば天文18年ということになる。
暦の前書きが長くなったが、島津貴久公に目通りしたときの話をしよう。そこは一宇治城(いちうじじょう、現在の鹿児島県日置市)という丘の上の城だった。
石段を上って大きな門をくぐると広い館がいくつも並んでいた。そこから眼下に素晴らしい農村と里山の風景が広がっている。建物の数は大小2~30あるだろうか。そこからまた石段を上ると母屋と思われる建物に行き当たる。ここに至るまで、荷物(贈り物)を持って上るのはなかなかの重労働だったことは告白しなければならない。そこに私と、通訳のパウロがーーパウロは何でもこなせるのだーー招き入れられた。国主の貴久公とその妻が私たちを迎えてくれた。貴久公は私より少し若いのではないかと思われた。頭の前面を剃りあげて、夫妻ともきらびやかな衣を身につけていて、黒衣僧形の私たちとは好対称をなしていた。
「はるばる異国からようきんしゃった。あらかたのことは弥次郎から聞きもっそ」と気さくな調子で貴久公は私たちに語りかけた。私は隣に座るパウロの真似をして頭を床につくほど低くした。
「貴殿らの教えとやらの文も見もした。じゃっで、それを説教するのはよか」
フェルナンデスが訳して、パウロやジョアンが筆耕した日本語の使徒信条をパウロは前回の目通りのときに渡していた。貴久公はそれを見てくれたのだ。
「たいへん光栄なことでございます。お礼の申し上げようがございませぬ」とパウロがまた一段と身を低くする。私は作法を知らないので、パウロに教わった言葉を告げ、同じように頭を下げた。
「アリガトウゴザイマス」
貴久公も妻も微笑んでそれを受け止めた。
「言葉も学ばれておるち、まっこて感心なこと」と妻が言う。
そこで私たちは贈り物の品を献上した。胡椒一樽といくらかの飾りの品、そして聖母マリアの板絵だ。絵の方は私たちの使うものであるので貴重品だったが、初めてこの国の領主に手渡すものなので思いきった。
「まあ、何と美しか絵!」と貴久公の妻が感嘆の声を上げる。貴久公も感心して見ている。
二人はこの絵のような絵はまだあるのかと尋ねられた。私は残念な顔になって、首を横に振った。
「城下の絵師に描かせたらよか」と貴久公が言う。
「油絵具があれば描けます」と私が答えると、今度はパウロが残念そうな顔になる。
「西洋の絵の具でないと、このような色にはならぬようです」
油絵具はこのとき、日本にはなかったのだ。私はそれを知らなかった。
このように会談は和やかに進んだ。
最後に貴久公はひとつだけ釘を刺した。
「こん国には仏教という昔ながらの宗教があり、僧侶もおっが。じゃっで、そこといさかいを起こさぬようにしたもんせ」
私はそれを聞いて、逆に貴久公に尋ねた。
「それでしたら、私たちと有力な僧侶に対話をさせていただけませんでしょうか。仏教のしきたりというのを私たちもぜひ知りたいと思います」
貴久公もそれがいいと言ったので、有力な寺を紹介してもらうことになった。
さて、このように私たちの宣教活動は認められた。そして、これから他の国も回るつもりであると告げると、城下に滞在用の家屋も用意してくれた。もちろん、今後ポルトガル商人との関係を深めるために有効だからという政治的な考えもあっただろう。そのような話題も会談の中で出された。それでも、これだけ好意ずくの待遇をされたことはなかったので、たいへん感銘を受けたことは確かだった。
一宇治城からの帰途、私はパウロに礼を言った。国主との目通りまでつつがなく済んだのは彼のおかげだったからだ。私はマラッカで彼と出会った幸運を神に感謝したよ。パウロは少し照れながらこう言った。
「Padre Xavier, nossas atividades começam agora. Posso continuar a ser um servo dos ensinamentos do Senhor. Amém」
(ザビエル司祭、活動はこれから始まります。私が主の教えのしもべでい続けられますように。アーメン)
翌日さっそく、私たちはパウロの家を退出し、城下の家に移った。その翌日、初めて人通りの多い道に出て使徒信条を読みながらキリスト教の説明を始めた。
あまり首尾よくは進まなかった。異国の黒衣の人間が町行く人々にはよほど奇異に映ったらしい。老若男女人だかりはできるのだが、皆奇異なものを見るように遠巻きにして立っているだけだ。フェルナンデスが何度も練習した日本語の使徒信条を読み上げ、パウロも助け舟を出す。
「西洋の新しか教えを聞きたもせ。こん方らははるばる異国から皆に教えを伝えにやってこられたんじゃ」
私はフェルナンデスの後ろに立って、人々の様子を見ていた。その中には私たちと同じ、黒衣に身を包んで頭を剃りあげている僧侶の姿もちらほら見えた。島津公から話を聞いたのだろうか。表情だけを見ると、好意的ではないようだった。私は視線を移す。
すると、腰に刀を下げた武士と思われる若い男性がひとり立っているのが目に入った。彼は、まばたきもせずにフェルナンデスのまだ拙い日本語に聞き入っている。
私はまばたきをした。
彼の様子があまりにも真剣だったからである。
※1 このときフランシスコが言っているのが伊集院忠倉だと断定している資料はありません。島津貴久については確定しています。当時の薩摩国の情勢、このときの一行の行動範囲が薩摩半島だったことなどを考えて忠倉にしています。
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