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第7章 海の巡礼路(日本編) フランシスコ・ザビエル
30バレルの胡椒 1549年 マラッカ
しおりを挟む〈フランシスコ・ザビエル、コスメ・デ・トーレス、ファン・フェルナンデス、アンジロウ(弥次郎)、セサル・アスピルクエタ、ペドロ・ダ・シルヴァ・ダ・ガマ長官、ヴァスコ・ダ・ガマ〉
私はゴアの港を出た頃から、かすかな波に揺られて眠りにつくとよく夢を見るようになった。
航海がこれまでにないほど、穏やかな天候に恵まれたからかもしれない。すでに船酔いという言葉も忘れていた。波が揺りかごのように感じられる。リスボンからモザンビークまでの体調不良ももう遠い記憶になった。
不思議なことだが、まず繰り返し現れるのは15年前のモンマルトルの丘の光景だった。イニゴ(イグナティウス・ロヨラ)、ピエール・ファーブル、ディエゴ・ライネス、ニコラ・ボバディリャ、シモン・ロドリゲス、アルフォンソ・サルメロン、そして私がモンマルトルの丘を一歩一歩、ゆっくりと登っているのだ。そして丘の上にある聖堂でピエールに従って誓願を行うのだ。
〈清貧、貞潔、聖地巡礼〉
そこで私はふとわれに返る。
聖地巡礼の誓願だけ変えざるをえなくなったことを。
私はイェルサレムへの距離を思う。
いったい、何レグアあるのだろうか。
ローマからイェルサレムに行くよりも、ここからイェルサレムの方が遠い。そして、もっと離れていくのだ。私は目を覚ますと、地図を広げる。日本とイェルサレムの間には……広大な明国(中国)の大地が広がり、私が通りすぎたインドがあり、そしてオスマン・トルコの領土になった広大な土地……。
私は正しい道を歩いているのだろうか。
私たちに続くイエズス会の会員はきっと聖地に赴けるだろう。どれぐらいかかるかはわからないが。神聖ローマ帝国とオスマン・トルコの戦争が終結すれば、イエズス会員でなくとも多くの人がイェルサレムに巡礼するようになるだろう。ただ、私はそこから離れていく。
私はそのようなとき必ず祈っていた。
どの道も私が出会うべき道であり、出会うべき困難であり、与えられる祝福なのだ。私は主イエス・キリストがたどった困難な道を思い、ひたすら祈っていた。
祈りは次第に私の眠りの中にも現れるようになった。夢の中でも、私はひたすらに祈っていた。
どうしてなのか、私にはいまでも分からないのだが、あの頃から私は自分の内面をよく省みるようになったと思う。アントニオ、自分の内面が静かに変わっていくのを感じていたのだ。船内では同行者たちと話をしたり、希望する人の告解を聞いたりしていたので、周囲から見てそれほど私が変わったようには見えなかっただろう。いや、これまでにない穏やかな雰囲気が私をそのような状態にしてくれたのかもしれない。
この内省のときはこの頃から始まり、ずっと続くことになる。そう、今までずっとだ。
船内のみんなの様子を見ているのは楽しかった。特にファン・フェルナンデスは日本語を覚えるのにたいへん熱心で、アンジロウ(弥次郎)らと簡単な話ができるようになっていた。
「拙者、というのは武士が自分を言うことばだから、ファンは私と呼ぶ方がよか」
「ワタクシ、ワタクシ は ファン・フェルナンデスと言います。¿Es esta palabra correcta? Esta é a palavra correta?(合っているか)」
「Palavra correta exatamente.(合っています)」とアンジロウが答える。
ゴアからコーチンへは何の問題もなく過ぎ、その後の航海も書くことがないほど順調だった。
マラッカには5月の末に到着した。
私やセサル、アンジロウにとっては1年ぶりのマラッカだ。
ここに新しい長官が着任していた。ペドロ・ダ・シルヴァ・ダ・ガマである。この人はかつてインド航路を開く初の大航海をおこなったヴァスコ・ダ・ガマの息子だ。その話はゴアやコーチンでも聞いていたが、私も初めて対面したときには気分が高揚したよ、アントニオ。あなたの国の大航海者である鄭和(ていわ)の子孫に会えたと想像してみてほしい。それほど、稀有なことであると感じたということだ。
それは私の生まれる8年前、1498年のことだった。前にも話したかもしれないが、ヴァスコ・ダ・ガマの航海のことを、私の知る範囲で話しておこう。(※1)
◆
1495年、ポルトガル王マヌエル1世はそれまでに到達していた喜望峰(現在の南アフリカ)より先に航路を進めることを望み、ヴァスコ・ダ・ガマ率いる船団にインドへの到達を命じた。それまでの航路をはるかに超える大航海だ。
1497年7月にリスボンを出たガマの船団は11月に喜望峰を越える。そして、アフリカの東岸に沿うように北上し、右手に大陸のごとくそびえる巨大なマダガスカル島をインドと取り違えることなく抜けていった。
というと簡単なことだったようにも思えるが、そんなわけがない。ガマの船団はリスボンを出た後、ヴェルデ岬辺りから北向きの潮流にぶつかってそれを迂回するように船をすすめた。その迂回は遠大なものだった。クリストバル・コロン(クリストファー・コロンブス)が発見した大陸の一端であるサン・ロケ岬(現在のブラジル、リオ・グランデ・ド・ノルテ州)が見えるほどの地点まで迂回したのだ。大西洋を横断してしまったのだ。しかし、それに気付いた船団は舵を取り直し順路に戻ることができた。風にも大きく助けられて喜望峰(現在の南アフリカ)に11月22日にようやく到達したのだ。
しかし、喜望峰に至る手前では北向きの潮流に変わり、船は遅々として進まない。喜望峰を越えると今度は南向きの潮流に変わる。船乗りにとっては天を仰ぎたくなるような事態であっただろう。
いや、乗っている人すべてがそうだったはずだ。私たちもギニア沖の長い凪でどれほど苦しんだか。リスボンでヴァスコ・ダ・ガマの航海の記録を目にしたときは、ポルトガル語を通読できないこともあって、中途半端に捉えていただけだった。実際に自分がやってみなければわからないことがある。インド航路の旅はそのようなものだと思う。
いずれにしても、ガマの船団は1498年4月にはメリンデに至り、モガディシュ(現在のソマリア)辺りでアフリカ大陸を離れ、ソコトラ島を遠目に眺めてインド洋に出る。そして、同年の5月、無事にカリカット(インド)に到着したのだ。メリンデからカリカットまでは1ヶ月しかかからなかった。
アフリカの西岸を南下することがいかに難しいか、これも私が航海して強く実感したことだ。
◆
そのようにヴァスコ・ダ・ガマの拓いた海の道をたどった者ならば誰もがその偉大さを痛感するし、その息子がマラッカの長官を担っていることを不思議に納得できるものだ。
シルヴァ・ダ・ガマ長官は前任者からもよく私たちの話を聞いていたようで、到着を掛け値なしに喜んでくれた。マラッカで私たちも有名人になっていたらしい。日本に渡航する準備は長官が先頭になって進めてくれた。
まず、船についてはポルトガル船がマラッカから出航する季節を過ぎていたのでほとんど残っていなかったものの、アダンというマラッカ在住の明国人(中国人)商人に頼み、大型(300トン)のジャンク船を一隻調達してくれた。これは古くから中国で発達してきた船で帆の形が西洋の船とはまったく異なる。そうだな、私はトビウオの羽を想像した。
アントニオ、あなたには懐かしさを感じる船だろう。今や私にとっても懐かしいものとなった。アラガオのジャンク船はまだサンチャン(三洲嶋)の港に停泊しているのか……この身体ではもうほんのわずかな距離も動くことはかなわない。
シルヴァ長官は船だけではなく、さまざまなものを用意してくれた。日本の国王と謁見するための、200クルサードにものぼる贈答品、そして異国で過ごすための十分な仕度金、そして30バレルの胡椒である。重さは私が量ったわけではないので正確には分からないが、樽が30あり、1樽が大人2~3人分ほどの重さになるということだ。これだけの胡椒を見たことがなかったので、船に積み込むさまに目を丸くしていたよ。現物があるというのは大層心強いものだ。これで日本に行くのに何の心配もなくなったように思えた。
「ポルトガルからの親善使節ということだな。初めての国に行くのであれば、それも妥当なことだ」とセサルはつぶやく。
「ええ」と私は小さくうなずく。
日本行きの船に乗るまで、マラッカには1ヶ月弱滞在した。この機会を逃したら、手紙をほうぼうに送ることができなくなると思い、私は必死に書き続けた。とは言っても私が一気に書き上げるのにも時間がかかる。そこで一部、ポルトガル人の筆耕者を頼んで私が口述する形をとった。できる限り、インドにいる宣教者たち、ポルトガルのシモン・ロドリゲスと国王、ローマのイニゴ(イグナティウス・ロヨラ)、ヨーロッパのイエズス会員……出来る限りの宛先に励ましを与え、これから向かう日本のことを知らせておきたいと思ったのだ。
手紙を書く他にもするべきことをまっとうするように努めていたよ、アントニオ。アフォンソ・デ・カストロ司祭の初のミサで説教する役目を果たしたことがもっとも大きなことだっただろうか。
また日本に渡航したことのあるポルトガル商人に情報を聞くことにも時間を費やした。すでにアンジロウ(弥次郎)から言葉や習慣についての話を聞いていたが、違う立場の人からも話を聞くことが大切だった。ポルトガル商人の語ってくれた話もたいへん興味深いものだったが、日本に行く前に抱いた印象については後で話そう。
出発の日はあっという間にやってきた。前回のように現地の人々と親しく交わることができなかったのは残念だったが、これは出発のための準備だったのだ。
6月24日、洗礼者ヨハネの日に、私たちは船上の人となった。マラッカを出発したら、あとは日本の大地を見るだけだと、私は考えていた。ローマの会員あてには確か、このような決意を書き記していた。
〈日本についての情報を得てから、私は日本に行くべきか否かを決定するために長い間熟考しました。……日本に着きましたら、国王のおられる本土に行き、イエズス・キリストから遣わされた使節であると国王に申し上げることにしました。……私たちは日本において、学識のある人たちと出会い討論することを恐れません。……イエズス・キリストと人びとの魂の救いとを告げ知らせる者が、何を恐れましょう〉
(引用『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』第3巻 河野純徳訳 東洋文庫)
これは私にとって、大きな挑戦だったのだ。
ああ、アントニオ、眠くなってきた。もう、目も見えていないのに眠くなるとは不思議なものだ。
少しだけ休ませてほしい。
※1 この話については第2章『港を見下ろす坂道のファド』でもう少し詳しく書いています。
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