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第6章 海の巡礼路(東洋編) フランシスコ・ザビエル

彼方からの手紙 1545年 マラッカ

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〈フランシスコ・ザビエル、セサル・アスピルクエタ、シモン・ボテリョ・デ・アンドラーデ長官、イグナティウス・ロヨラ、ピエール・ファーブル、シモン・ロドリゲス、パスカシオ・プロエット、アントニオ・アラオス〉

 1545年5月、私はインドを離れ、マラッカ(現在のマレーシア)を経由してマカッサル(現在のインドネシア)に向かうことに決めた。
 イエスの十二使徒、いにしえの宣教者聖トマスの墓所があるサン・トメ(のちマドラス、現在はチェンナイ)、ここが私にとって新たな出発の場となったのだ。方々に手紙を出すと、私はさっそく渡航の手だてを探しはじめた。ゴアに戻ることはしない。マラッカへはここサン・トメのほうがはるかに近いのだ。
 聞けば、この地方を治めているコロマンデルの王が8月に丁子(ちょうじ、クローブ)仕入れのための船を出すという。私はそこに乗船させてもらうこととした。

 丁子とナツメグはマカッサルからさらに進んだ、モルッカ諸島(香料諸島)でしか採取できない。この2つの香辛料はヨーロッパでたいへん珍重されるもので薬としても利用された。たいへん希少で主要な交易品だった。そもそも、私が回っていたマラバル海岸(インド南部の西岸)も胡椒の産地だ。
 香辛料はポルトガル、あるいはスペイン人にとって、宝石以上の価値を持っていたのだ。

 8月に船が出るまでの間に、私はサン・トメの町で奉仕活動に加わりながら、在住ポルトガル人と話をしていた。そこに住むポルトガル人は100人ほどで、インド人の妻がいる人が半数を占めていた。そのこどもたちは洗礼を受けていない場合が多かったので、私は親たちに話をして洗礼を受けるようにすすめた。
 そうやって話をしていくうちに、幾人かのポルトガル人が信仰を持っていないことに気がついた。それは主に商人たちで、彼らは一様にイエス・キリストを身近に感じないというのである。私はこれまで、異教徒の中に入っていく日々を送っていたので聖職者や総督、長官、一部の商人以外のポルトガル人社会について、あまりよく分かっていなかったのだ。

「そうだ。富裕な商人にはコンベルソ(改宗したユダヤ教徒、ユダヤ人のことをさす)の者が少なくないだろう。それについている使用人たちもそうかもしれない。改宗していたにしても、その区分けが消えるわけではない。本国であれだけ異端審問が厳しくなってくると、嫌気がさして、あるいは差し迫る危険を感じて海外に新天地を求めようと飛び出すのは自然なことだと思う。おまえもリスボンでそのような一家に出くわしただろう。改宗しても迫害を受ける可能性があれば信仰も薄れていく。それに異教徒の中にいればさしたる問題も生じない。そういったことも影響しているのではないか」

 そうセサルは言う。
 彼の言葉は明確だし、適切だ。
 ただ、そのままにしておくのではなく、何かよい手立てがないものだろうか。私はポルトガルの海岸でシモン・ロドリゲスと話したことを思い出した。
 それが以後、私にとって考えるべきひとつのテーマとなる。

 1545年8月末に丁子取引のための貿易船がサン・トメから出発した。船は大型(400トンと伝えられる)で、私とセサルは安心して乗船したのだが、順風満帆とはいかなかった。

 ベンガル湾に出てしばらく経ったときのこと、曇りがちだった空がみるみるうちに黒く染まってきた。
 風はたいへん強く吹いている。ポツ、ポツと降り始めた空の雫は、すぐに横殴りの激しい雨に変わった。そのときには船はもう、うねる波と流れに翻弄されるしかなかった。後で船員に聞いた話では、船は1レグア(およそ5km)以上も流されていたという。
 なすすべもなく流されたその方角は、浅瀬だった。舵機(だき、ラダー、船体に付けられている板状の部品)が海底に接触している状態となり、船は身動きが取れなくなってしまった。
 このままうねる波と岩の衝撃を受け続けたら、座礁してしまう。さらに船体が打ち砕かれ浸水してしまったら……陸地はまだはるか彼方だ。
 そうしたら船も人も一巻の終わりだ。

 舵が利かない状態で危機に陥った船内では、絶望した人々が泣き叫ぶ声が聞こえる。
 誰にも、どうすることもできない。
 もちろん、私にも、セサルにも。
 私は祈り続けた。すべてを神にゆだねたのだ。
 そして、セサルはただ無言で目を瞑っていた。
 セサルもそうだったのだと思う。

 何時間たっただろう。
 大きな波のうねりが船を少しだけ深場に動かした。舵機が海底にゴリゴリと接触する音が聞こえなくなった。
「舵機がダメになっているかもしれないが、一かばちかだ!」
 船長の指示で操舵手が思い切り舵を切る。
 
 スッと船が動いた。

 船は何とか座礁を免れた。船体に多少傷が見られたが、航行に問題はないようだった。幸い、マスト(帆柱)が一本も折れることがなかった。私はそのことを心から神に感謝したよ。もしマストが折れてしまったら、私たちはその海域に横行する海賊に見つかって、積み荷を根こそぎ奪われてしまったかもしれない。その場合、当然生命の保証はなかった。

 以降再び大きな暴風雨に遭うこともなく、海賊船に出くわすこともなく、私たちは無事にマラッカ(現在マレーシアの都市)に到着した。



 マラッカは海に接していることもあり、水の豊富な土地だ。暑さはインドとそう変わらないが、湿気が強いように感じた。
 町の規模は想像より大きかった。海から眺めると、4つの門がある大きく堅牢な要塞が、その奥にある丘を取り囲んでいる。城塞都市だ。まさに壮観というのにふさわしい。
 そのように堅牢な備えをしたのは、この地がマラッカ海峡という「海の回廊」の中心地であることによる。
 この回廊はずっと昔から、インドと中国を行き来する人々の通り道だったのだ。その中継地マラッカにはかつて王国の首都があり、各国との交易で繁栄していた。ヒンドゥー教、イスラム教、仏教の寺院もあったという。

 マラッカは1511年にアルブケルケ司令官率いるポルトガル艦隊が占拠して、要塞を築いた。ポルトガルがこの町を支配するようになって以降、丘の上にはキリスト教の大きな聖堂が建てられた。

 インドのゴアとマラッカはポルトガルの海外進出の2大拠点だ。ここを拠点に香料の産地、モルッカ諸島に赴く。ただ、私がマラッカに行った時期には、西回りでメキシコに拠点を築いたスペインとの小競り合いが起こりつつあった。モルッカ諸島の産出品はどちらのものか、ということである。スペインもミンダナオ(現在のフィリピン)に至って以降、着々とこの海域に拠点を築いていた。
 私の故国ナヴァーラは今、スペインになっているのでポルトガルの庇護を得て赴くことにはいくらか複雑な気持ちがあった。ただ、ローマ教皇庁の、教皇の命で赴く使徒であるから、活動に国家間の利害が影響してはならない。国境はない、という信念を持ってあたらなければいけないと思っていた。そもそも、イエズス会はさまざまな国籍を持つ者の集まりなのだ。


 マラッカのシモン・ボテリョ・デ・アンドラーデ長官は私たちの到着を大いに喜んで迎えてくれた。もうすぐ離任して本国に帰還するインドのソーザ総督から伝令が届いていたこともあって、すぐに私たちと会談する時間を取ってくれた。話を聞いてみると、やはり風の問題があって、マカッサルに向かうには少し時期を待たなければならないということだった。
 セイロン島(現在のスリランカ)でセサルが言っていたように、待ち時間は有効に使わなければならない。私とセサルはマラッカの病院で看護活動につとめながら、空き時間には情報集めのほか、現地の人の助けを得て、使徒信条をマレー語に翻訳する作業に取りかかった。

 今度はマレー語だ。言葉というものはいったい、世界にいくつあるのだろうか。



 10月も終わりに近づいた頃、マラッカにたどりついたポルトガルの貿易船が私に嬉しい便りを運んでくれた。ソーザ総督の取り計らいで、いちばん早い便で届けてくれたようだ。それはイエズス会の懐かしい同志からの手紙だった。

 リスボンから、ローマからゴアを経由して、はるばるマラッカまでやってきたのだ。

 手紙はそれぞれ、イニゴ(イグナティウス・ロヨラ)、ピエール・ファーブル、シモン・ロドリゲス、パスカシオ・プロエット、そしてイエズス会のスペイン管区を任されているアントニオ・アラオスが書いたものだった。イニゴやポルトガルにいるシモン・ロドリゲスからの手紙はゴアでも受け取っていたが、他の知己の同志からの手紙を受け取ったのは初めてのことだった。

 アントニオ、これがどれほど嬉しかったか、あなたに分かるだろうか。言葉ではとても言い表すことができない。私は特に、懐かしいピエールの筆跡を見ただけでぽろぽろと涙を流したのだ。
 ピエールの手紙にはこのようなことが書いてあった。

〈Francisco,
à mon cher frère jumeau,

Il a fallu si longtemps pour vous écrire. S'il vous plaît, pardonnez-moi.

Vous voyagez sous le soleil brûlant, dans une chaleur frémissante, vous déplacez et vous lancez dans des gens qui parlent des langues et des religions différentes. Vous éclairez les gens sur les enseignements de Jésus-Christ. Vous pensez à la nouvelle façon et leur enseignez.
En lisant une copie de votre lettre, je n'ai pu retenir mes larmes. Je me sens soulagé que vous alliez bien et que vous ne tombiez pas malade. C'est plus que tout. Ça c'est bon. Je remercie beaucoup le Seigneur, au fond de mon coeur.

Chaque fois que j'imagine à quel point vos journées sont difficiles, je ressens une douleur dans mon cœur. Je n'interagis qu'avec les personnes qui croient au christianisme. Certes, il n’est pas si facile d’avoir une compréhension mutuelle avec les protestants. Parce que beaucoup de gens pensent que les catholiques sont des ennemis.
Mais vos difficultés sont encore plus difficiles et imprévisibles. De nos jours, vous vivez dans des endroits complètement inconnus. Vous êtes debout avec la chaleur intolérable, les vagues déchaînées, les rois locaux, les représentants du gouvernement et les guerres imprévisibles. Ce n'est pas seulement à cause des païens. Les disciples de Jésus étaient également allés un peu partout, alors je comprends la mission. Cependant, je pense que le chemin que vous empruntez est plus difficile.

Je me souviens très bien de la dernière fois où je vous ai parlé. Vous avez dit que vous n'aviez jamais regretté de choisir cette voie. Bien sûr, si vous regrettez également, vous n’iriez pas en Inde. Vous n’iriez pas au Portugal. Encore ....
Je peux ne plus écrire à ce sujet.

Maintenant, je pense que vous êtes un apôtre choisi par Dieu. C’est une mission que vous seul pouvez faire. Je crois que votre chemin sera brillant et ouvert.

Je voyage encore en Europe. Je suis dans le Saint Empire romain germanique maintenant, mais je pense que je retournerai bientôt à Rome. Le pape Paulus III a convoqué le Conseil du Trient. Je dois demander à de nombreux membres du clergé protestant de participer et de débattre à la même table du Conseil. C'est peut-être le plus grand défi pour moi.

Je te le dis. Je veux que tu gardes un secret à ce sujet.
Il y a quelques années, j'ai parlé avec le duc Francisco Borja à Valence, en Espagne. Le duc était très intéressé par les Jésuites et a créé une école pour le clergyman à Gandia. Bien qu'il ait un travail de duc, il dit qu'il continuera à soutenir les jésuites à l'avenir. Le duc a été un vassal espagnol de l'empereur du Saint-Empire. Il peut donc être un grand gardien de nous.
Le duc est également très intéressé par l'histoire de votre Cyclops. Il a dit l'avoir entendu de Nicolás Corella à Venise. Il semble tout savoir. Je vous en parle.

Je suis un peu malade maintenant. Je dois guérir avant d'aller à Rome.

Je veux te revoir. Ce sera peut-être de l'autre côté de la porte des perles la prochaine fois.
Puissions-nous travailler beaucoup plus longtemps en tant qu'instrument de paix du Seigneur.

Je pense toujours à vous.

Pierre Fabre〉

(フランシスコ
 親愛なる私の双子の兄弟へ。

 きみに手紙を書くのがこんなに遅くなってしまった。どうか許してほしい。

 きみは灼けつく太陽も、おびただしい熱気も厭わず動き回って、言葉も宗教も違う人々の中に飛び込んで、イエス・キリストの教えを広めている。きみ自身が考えて、手段を作って、広げているんだね。
 きみの手紙の写しを見て、ぼくは涙を止めることができなかった。病気にもかからずに、無事で何よりだ。それが何よりだ。よかったよ。ぼくは主に心から感謝した。

 きみの困難がどれほどだろうかと想像するたび、ぼくは胸をかきむしられる。だって、僕はキリスト教を信じている人たちと対話している。確かに、プロテスタントの人々と対話のテーブルに付くことはたやすくはない。カトリックを敵だと思っている人が多いから。
 でも、きみの困難はさらに厳しく、予測のつかないものだ。きみの前には、生地とまったく異なる場所で生きることに始まり、耐え難い暑さや荒れ狂う波、現地の王、為政者、推し量ることのできない戦乱などが立ちはだかる。そう、異教徒ばかりではない。イエスの弟子たちも方々に出ていたので、その割り当てに不平を言いたいわけではないんだ。でも、きみの進む道はより厳しいものだと思っている。

 きみと最後に話した時のことをぼくはよく覚えている。きみはこの道を選んだことを後悔していないと言った。もちろん、後悔していたらきみはインドには行かなかっただろう。ポルトガルに行くこともなかっただろう。それでも……。
 もう、この話を繰り返すのはやめよう。

 今は、きみが神に選ばれた使徒だとぼくは考えている。これはきみでなければできない使命なのだ。ぼくはきみの行く道が明るく開かれることを心から信じている。

 ぼくはまだ、ヨーロッパじゅうを回っている。今は神聖ローマ帝国領内にいるけれど、じきにローマに戻ると思う。教皇パウルス3世がトリエント公会議を召集したので、そこに来るように言われている。一人でも多くのプロテスタントの聖職者に対話のテーブルについてもらわなければならないから、ぼくも正念場だ。

 そう、これはきみに知らせておかなければならない。ここだけの話にしてほしい。
 ぼくは数年前にスペインのヴァレンシアで、フランシスコ・ボルハ公爵と話をした。ボルハ公爵はイエズス会にたいそう関心を寄せていて、領地のガンディアに聖職者のための学校を建ててくれた。公爵の職務があるものの、今後もイエズス会に援助を惜しまないと言ってくれている。公爵は神聖ローマ帝国皇帝のスペイン側の家臣なので、私たちにとって篤い庇護者となっている。
 ボルハ公爵はヴェネツィアのニコラス・コレーリャから聞いた、きみのキュクロープスの話にもたいへん関心を持っている。彼には分かっているらしい。そのことを、きみにも知らせておこうと思う。

 ぼくは今少し体調がすぐれない。ローマに行くまでには治さなければいけない。

 きみとまた会いたい。次に会えるのは真珠の門の向こう側かもしれないね。僕たちが主の平和の道具として、長く働けますように。

 きみのことをいつでも思っているよ。

 ピエール・ファーブル)※1

 私は5通の手紙を見て、ただ涙にくれるしかなかった。手紙を全部、常に持って歩くわけにもいかないので、小さい小さい布の袋に手紙の署名部分を切り取ったものを丁寧に収めた。そして、袋に紐を通して首からぶら下げる。これならば常に肌身離さず持っていることができる。彼らは主を通じて固い絆で結ばれた同志なのだ。彼らの筆跡は、そのまま彼らの命であり、私の生命でもあった。私たちがつながっていること、それが私を前に進める大きな力なのだ。

 特にピエールからの手紙を受け取ったのは初めてだったので、本当に、本当に感無量だったのだよ。公会議が現実のものとなったことは嬉しかった。ピエールは懸命にヨーロッパ中を回ってプロテスタントを支持する人々と話し合ってきたのだから。彼のたゆまぬ努力と熱意が実を結ぶようにと心から祈った。

 そして、私はピエールの手紙に書かれていた一節だけ、セサルにそのまま伝えた。
 セサルはじっと黙って聞いていたが、ふっと窓の外を見やって、ぽつりとつぶやいた。
「ホアンとマリアの孫は……ボルハ公爵は、私を捕縛しにやってくるかもしれないな。きっと私を恨んでいることだろう」
「あなたが追放の憂き目にあったから、公爵家の名誉が削がれたということですか」と私は尋ねた。
 セサルはゆっくりと、ゆっくりと首を横に振る。
「いや、そうではない。そうではないのだ、フランシスコ。ただ、ボルハ家のフランシスコがそう思っても不思議ではないということだ」

 セサルの表情には苦悩の影がありありと浮かんでいる。熱帯の濃い光の加減かと私は思っていたのだが、そうではなかった。私はそれ以上聞くのをやめた。もし聞いたら、彼は話してくれただろうか。

 彼の憂愁はスペインに囚われた日々の外にもあるようだった。いつか、彼がそれを話したいと思ったときに、聞くことができるのだろう。

 私はそんな風に考えていた。


※1 イエズス会士5人の手紙の内容は手持ちの資料にはありません。著者の創作です。ピエール・ファーブルの母語はフランス語なので、フランス語で書きましたが、正確ではないと想定されます。ご了承下さい。
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