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第6章 海の巡礼路(東洋編) フランシスコ・ザビエル
古くからのしきたり 1543年 ツチコリンと周辺の村々(インド)
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〈フランシスコ・ザビエル、フランシスコ・マンシラス、フランシスコ・コエリョ〉
インド南部を再び私たちが回った道行きについて、これから話そう。
この南部行きは結果として、大きな喜びと、それを塗りつぶすような悲嘆に彩られたものだった。それは告白しておかなければならない。いや、もちろん主には毎日告白し祈っていたのだ。
しかし、私の人生が尽きようとしている今振り返ると、あれは大きな試練であり、また大きな学びでもあった。あの時ほど自身が神に与えられた使命を繰り返し考えたことはなかったように思う。そして、私はその後の宣教活動について方向を決めていくことになる。
インドが当時どのような状況だったのかも、おいおい話していくことになるだろう。
当時、インドの北から勢力を広げていたヴィジャヤナガル国と、南部の小国がにらみあっていることは先にも話しただろう。そこに入ったポルトガルはそのにらみ合いに乗じて勢力を拡大しようとしたし、インドの各国も同様にポルトガルの力を上手く利用しようと考えていた。
その一つの材料が「真珠」だった。
私が美しいと思った、真珠の話をしてもよいだろうか。
インドの南端の東岸にある一帯は漁夫海岸と言われるほど、古くから漁業が盛んな場所だった。そこで海が穏やかになる時期は真珠(貝)の採取がはじまる。海岸で見つかる場合もあるが、たいていは海中に潜る。
漁民は総出で真珠を産する貝を集め、中を傷つけないように丁寧に貝を開いていく。貝の口は固く閉じているので、木や金属でできた鋭い道具を閉じた境目に差し込んでこじ開けるのだが、深く差し込み過ぎると真珠を損なってしまう可能性がある。また、浅すぎると薄い貝殻を砕いてしまい、そのかけらで真珠が傷ついてしまう恐れがある。慣れた者にとっては造作ないが、なかなかコツの要る作業だ。貝を開くとそこには貝の身がある。真珠はその身に守られるように、ひっそりと隠れている。しかし、そのように取り出されたもののうち、真円で美しさを持つ珠はごくわずかである。売り物にならなければ、捨てられていくのがさだめだった。
私はこの旅で真珠採取の様子を見ることができたのだが、人々が集まって作業するさまはたいへん美しいと思ったのだ。その多くが私の話に耳を傾け、主に心を預けることを選んだ人々だったのだ。
しかし、それをめぐる権力争いは決して美しいものではなかった。
ツチコリンに着いてすぐローマのイエズス会員に手紙を書き起こした時点では、まだその兆しはわずかなものだった。
前回の訪問から間が空いていなかったこともあって、信徒になった人々が私たち一行を熱烈に歓迎してくれた。そして、うわさを聞いた人々がやってきて、私たちの話を聞きに来る。そして、洗礼を受けて信徒になっていく。私たちはマナバル語で改めて用意した使徒信条や祈りの言葉を彼らと一緒に唱えて、彼らの家でもそれが唱えられるように繰り返し、覚えてもらうことにした。そこで大きな役割を果たしたのは子どもたちだった。子どもたちは大人よりも覚えることに熱心で、祈りの言葉を次から次へと覚えた。そして、それを自身の親や家族に伝えたのだ。
日曜日には特に村の人々に広く呼びかけて集まってもらい、祈りを捧げる時間を設けた。礼拝の習慣を理解してもらうことにもなる。言葉はすべてマラバル語である。
〈全能であり、天地万物の創造主である父なる神を信じます。神のひとりの御子であり、私たちの主なるイエズス・キリストを信じます。聖霊によりてみごもり、おとめマリアよりお生まれになられたことを信じます。ポンシオ・ピラトの権力の下で苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られたことを信じます。古聖所にくだって、三日目に復活されたことを信じます。天に昇って全能の父である神の右に座し給うことを信じます。生ける人と死せる人を裁くために天より来られることを信じます。聖霊を信じます。聖なるカトリック教会を信じます。諸聖人の通功、罪の許しを信じます。肉身のよみがえりを信じます。永遠の生命を信じます。アーメン〉
(ラテン語からポルトガル語に訳された使徒信条。同じ内容をマラバル語でも訳したと考えられる※1)
三位にまします唯一の神に信仰を告白し、私が使徒信条を先唱し、皆がそれに続く。それをまた私がゆっくりと繰り返し、この信条が信徒の基本になる大切な言葉だと説いていく。そして、「信じますか」と問いかける。皆が「信じます」という。信じることがすなわち信徒だということなのだ。使徒信条の次には神の十戒を唱える。続いて主祷文と天使祝詞(祈り)を加え、皆で何度も繰り返す。
もう少し細かく言うならば、信条の一条に続き主祷文を復唱し、次の一条に進みまた繰り返す。信条の12条でそれを繰り返したのち、十戒で同じことを繰り返す。
学校でこどもに言葉を教える時と同じような方法になるだろう。老若男女を問わず、文字を書くことを知っている人もいたが、そうでない人もいた。繰り返し唱えることは、覚えるために必要なことだ。
何よりも大切なことは、祈りを繰り返すことで、信仰する、信じる気持ちを持ってもらうことだった。もしうわべだけの信徒を増やすだけならば、初めて私がマナバルの地に足を踏み入れたとき人々が口々に言っていたように、「私はキリスト教徒です」とだけ教えればいいのだろう。しかし、そのようなやり方では信仰を得るにはほど遠い状態だ。私は最も単純な、その地の人々の言葉で主イエス・キリストのことを知ってもらいたかったのだ。その上で信じることを自身で会得する。そして続けていく上でさらに教えについての理解を深めていければよいと考えていた。
そのためには、聖書が必要になるとも強く感じていた。まだ、聖書をマラバル語に翻訳することは困難だった。
その日課を繰り返し、信徒のとりまとめをしてくれる人を指名して、私たちは村から村に移っていくことになる。この旅に、フランシスコ・コエリョが同行してくれたのもたいへん助かっていた。言葉はいくらか覚えたが、現地の土地で生まれ育った人でなければ分からないことが必ずある。そして、現地の人がともに行動してくれるから、信頼を得られるということももちろんある。
マンシラスが慣れてきたところで、私たちは別々に行動することにした。私たちを待っている近隣の村は20~30ほどもあって、一緒に行動しているのでは回りきれないからだ。マンシラスにはプニカレの方面に向かってもらうことにした。彼には現地の状況を細かく報告してもらうように伝えた。
背の高いヤシの木がほうぼうに見られる。
海に吹く強い風にからだを預けながらも、しっかりと立っている。その姿を見て私は思う。ヤシの木をしっかりと立たせているもの、風に折られることのない力は何だろう。それは肥沃な大地と、堅固に張られた根があるからだろう。大地に拠っているからこそ、木は生き続けることができるのだ。
翻って、人間を動かし、苦境に遭っても折らせることのない力は何だろうか。私にとってそれは主がつねに私の側にいてくださるという、確固とした信念だった。ひとりで旅立つマンシラスには、つねにその根を失わないでいてほしいと告げた。
マンシラスは彼の困難な役割を厭うことなく、私の言葉に微笑んでうなずいた。
私たちのすることは、来る人々に洗礼を授け、祈りの言葉を教えるだけではない。病気の人がいればその家に赴いてともに祈り、臨終の際には告白を受ける。簡素な形にならざるを得ないが、ヨーロッパのキリスト教国で行われているものと同じだ。
私は聖トマスもこのようにしていたのだろうかと、よく思っていた。
◆◆◆
そのようなことをできるだけ詳細に、ローマの会員宛ての手紙に記したのだ。
これは大分後に分かったことだが、この時に書いた手紙はリスボンからローマへとたどり着く途中で多くの人に読まれたという。写しも多く作られたそうだ。それで東方への宣教を希望する若者が多く現れたという。実際に後年ゴアやマラッカで出会った西欧の人々の中には私にそう話す人もいた。
リスボンにいるシモン・ロドリゲスも見ただろう。ローマのイニゴ(イグナティウス・ロヨラ)も見ただろう。ピエール・ファーブルは見てくれたのだろうか……。
この手紙はまだ、ほんのさわりだったのだが。
アントニオ、あなたはインド最南端の村に暮らしたことはないだろうから、少し理解しづらいかもしれない。なぜ、多くの人々が激しい抵抗感を示すこともなくキリスト教を受け入れたのか。
それにはインドの宗教も関係しているように私には思える。
この地は古くからバラモン教(今では一般的にヒンドゥー教と言われる)が信仰されてきた。この宗教はギリシアのそれのように、『リグ・ヴェーダ』という神話(原典)を大きな元とする多神教だ。そこから哲学的な思索も重ねられ、独自の発展を遂げてきた。
この宗教の特徴のひとつに人の階級付けがある。大きく分けるとバラモンと呼ばれる僧侶階級が最も上位になり、王族・武人階級のクシャトリヤ、主に商業に携わるヴァイシャ、農業や牧畜・漁労に携わるシュードラと続く。この階級付けを『ヴァルナ』という。※2
はじめ、私は不思議に感じた。宗教で人の社会的立場をはっきりと位置付けることにである。もちろん、西欧にも社会的な階級はある。それは同じだ。聖職者もいれば王も貴族も商人も農業・牧畜・牧畜に従事する人もいる。ただ、それらは宗教とは区別されていた。インドでは古くから宗教としてその制度があるということだ。そして、それは代を継いで受け継がれるという。
そのしきたりが永くこの時期にも続いている。それがこの地の風土を作り文化ともなったであろう。
私たちとは異なるということだ。
私たちが訪れた村々の人々の多くはシュードラに属していた。すなわち、下の階級に属する人たちである。
彼らにとって、私たちの告げたーー神が唯一のものであること、「神の前に人は平等である」ことーーというキリスト教の考え方がたいへん新鮮に映ったのだろう。そしてまた、彼らの心に安寧を与えたのだろう。私たちの働きかけを多くの人々が受け入れてくれたことには、そのような背景もあった。
ただ、皆がそれをすんなりと受け入れるわけではない。特に旧来のバラモン教の僧侶たちにとっては許しがたいものだった。このような、受け入れることができない相手ともこの後私たちはすぐに直接対峙(たいじ)することになる。
セサルはメリンデ(ケニア)で言っていた。
「いずれにしても対話することは大切だ。こういった対話がローマやコンスタンティノープル、あるいはイェルサレムでできれば言うことはないな。当然、お互いが違う考えであることを十分承知した上でなければならないが」
そう、違う考えを持つ人と対話していくことは大事なことなのだ。
はなから私たちに敵意や悪意を持ってやってきた人だとしても、それに悪意を持って返すことはしてはならない。対話を根気よくし続けることだ。
それが私の使命であり、また前に進むために必要なことなのだと私は意を固めていた。
※1『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』(河野純徳訳 東洋文庫)より引用
※2 このヴァルナとジャーティなどを含む階級制度は、現在一般的に『カースト』と呼ばれています。『カースト』はポルトガル語の『casta(血統)』に由来しています。フランシスコがいた頃にはすでに使われていたかもしれません。
インド南部を再び私たちが回った道行きについて、これから話そう。
この南部行きは結果として、大きな喜びと、それを塗りつぶすような悲嘆に彩られたものだった。それは告白しておかなければならない。いや、もちろん主には毎日告白し祈っていたのだ。
しかし、私の人生が尽きようとしている今振り返ると、あれは大きな試練であり、また大きな学びでもあった。あの時ほど自身が神に与えられた使命を繰り返し考えたことはなかったように思う。そして、私はその後の宣教活動について方向を決めていくことになる。
インドが当時どのような状況だったのかも、おいおい話していくことになるだろう。
当時、インドの北から勢力を広げていたヴィジャヤナガル国と、南部の小国がにらみあっていることは先にも話しただろう。そこに入ったポルトガルはそのにらみ合いに乗じて勢力を拡大しようとしたし、インドの各国も同様にポルトガルの力を上手く利用しようと考えていた。
その一つの材料が「真珠」だった。
私が美しいと思った、真珠の話をしてもよいだろうか。
インドの南端の東岸にある一帯は漁夫海岸と言われるほど、古くから漁業が盛んな場所だった。そこで海が穏やかになる時期は真珠(貝)の採取がはじまる。海岸で見つかる場合もあるが、たいていは海中に潜る。
漁民は総出で真珠を産する貝を集め、中を傷つけないように丁寧に貝を開いていく。貝の口は固く閉じているので、木や金属でできた鋭い道具を閉じた境目に差し込んでこじ開けるのだが、深く差し込み過ぎると真珠を損なってしまう可能性がある。また、浅すぎると薄い貝殻を砕いてしまい、そのかけらで真珠が傷ついてしまう恐れがある。慣れた者にとっては造作ないが、なかなかコツの要る作業だ。貝を開くとそこには貝の身がある。真珠はその身に守られるように、ひっそりと隠れている。しかし、そのように取り出されたもののうち、真円で美しさを持つ珠はごくわずかである。売り物にならなければ、捨てられていくのがさだめだった。
私はこの旅で真珠採取の様子を見ることができたのだが、人々が集まって作業するさまはたいへん美しいと思ったのだ。その多くが私の話に耳を傾け、主に心を預けることを選んだ人々だったのだ。
しかし、それをめぐる権力争いは決して美しいものではなかった。
ツチコリンに着いてすぐローマのイエズス会員に手紙を書き起こした時点では、まだその兆しはわずかなものだった。
前回の訪問から間が空いていなかったこともあって、信徒になった人々が私たち一行を熱烈に歓迎してくれた。そして、うわさを聞いた人々がやってきて、私たちの話を聞きに来る。そして、洗礼を受けて信徒になっていく。私たちはマナバル語で改めて用意した使徒信条や祈りの言葉を彼らと一緒に唱えて、彼らの家でもそれが唱えられるように繰り返し、覚えてもらうことにした。そこで大きな役割を果たしたのは子どもたちだった。子どもたちは大人よりも覚えることに熱心で、祈りの言葉を次から次へと覚えた。そして、それを自身の親や家族に伝えたのだ。
日曜日には特に村の人々に広く呼びかけて集まってもらい、祈りを捧げる時間を設けた。礼拝の習慣を理解してもらうことにもなる。言葉はすべてマラバル語である。
〈全能であり、天地万物の創造主である父なる神を信じます。神のひとりの御子であり、私たちの主なるイエズス・キリストを信じます。聖霊によりてみごもり、おとめマリアよりお生まれになられたことを信じます。ポンシオ・ピラトの権力の下で苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られたことを信じます。古聖所にくだって、三日目に復活されたことを信じます。天に昇って全能の父である神の右に座し給うことを信じます。生ける人と死せる人を裁くために天より来られることを信じます。聖霊を信じます。聖なるカトリック教会を信じます。諸聖人の通功、罪の許しを信じます。肉身のよみがえりを信じます。永遠の生命を信じます。アーメン〉
(ラテン語からポルトガル語に訳された使徒信条。同じ内容をマラバル語でも訳したと考えられる※1)
三位にまします唯一の神に信仰を告白し、私が使徒信条を先唱し、皆がそれに続く。それをまた私がゆっくりと繰り返し、この信条が信徒の基本になる大切な言葉だと説いていく。そして、「信じますか」と問いかける。皆が「信じます」という。信じることがすなわち信徒だということなのだ。使徒信条の次には神の十戒を唱える。続いて主祷文と天使祝詞(祈り)を加え、皆で何度も繰り返す。
もう少し細かく言うならば、信条の一条に続き主祷文を復唱し、次の一条に進みまた繰り返す。信条の12条でそれを繰り返したのち、十戒で同じことを繰り返す。
学校でこどもに言葉を教える時と同じような方法になるだろう。老若男女を問わず、文字を書くことを知っている人もいたが、そうでない人もいた。繰り返し唱えることは、覚えるために必要なことだ。
何よりも大切なことは、祈りを繰り返すことで、信仰する、信じる気持ちを持ってもらうことだった。もしうわべだけの信徒を増やすだけならば、初めて私がマナバルの地に足を踏み入れたとき人々が口々に言っていたように、「私はキリスト教徒です」とだけ教えればいいのだろう。しかし、そのようなやり方では信仰を得るにはほど遠い状態だ。私は最も単純な、その地の人々の言葉で主イエス・キリストのことを知ってもらいたかったのだ。その上で信じることを自身で会得する。そして続けていく上でさらに教えについての理解を深めていければよいと考えていた。
そのためには、聖書が必要になるとも強く感じていた。まだ、聖書をマラバル語に翻訳することは困難だった。
その日課を繰り返し、信徒のとりまとめをしてくれる人を指名して、私たちは村から村に移っていくことになる。この旅に、フランシスコ・コエリョが同行してくれたのもたいへん助かっていた。言葉はいくらか覚えたが、現地の土地で生まれ育った人でなければ分からないことが必ずある。そして、現地の人がともに行動してくれるから、信頼を得られるということももちろんある。
マンシラスが慣れてきたところで、私たちは別々に行動することにした。私たちを待っている近隣の村は20~30ほどもあって、一緒に行動しているのでは回りきれないからだ。マンシラスにはプニカレの方面に向かってもらうことにした。彼には現地の状況を細かく報告してもらうように伝えた。
背の高いヤシの木がほうぼうに見られる。
海に吹く強い風にからだを預けながらも、しっかりと立っている。その姿を見て私は思う。ヤシの木をしっかりと立たせているもの、風に折られることのない力は何だろう。それは肥沃な大地と、堅固に張られた根があるからだろう。大地に拠っているからこそ、木は生き続けることができるのだ。
翻って、人間を動かし、苦境に遭っても折らせることのない力は何だろうか。私にとってそれは主がつねに私の側にいてくださるという、確固とした信念だった。ひとりで旅立つマンシラスには、つねにその根を失わないでいてほしいと告げた。
マンシラスは彼の困難な役割を厭うことなく、私の言葉に微笑んでうなずいた。
私たちのすることは、来る人々に洗礼を授け、祈りの言葉を教えるだけではない。病気の人がいればその家に赴いてともに祈り、臨終の際には告白を受ける。簡素な形にならざるを得ないが、ヨーロッパのキリスト教国で行われているものと同じだ。
私は聖トマスもこのようにしていたのだろうかと、よく思っていた。
◆◆◆
そのようなことをできるだけ詳細に、ローマの会員宛ての手紙に記したのだ。
これは大分後に分かったことだが、この時に書いた手紙はリスボンからローマへとたどり着く途中で多くの人に読まれたという。写しも多く作られたそうだ。それで東方への宣教を希望する若者が多く現れたという。実際に後年ゴアやマラッカで出会った西欧の人々の中には私にそう話す人もいた。
リスボンにいるシモン・ロドリゲスも見ただろう。ローマのイニゴ(イグナティウス・ロヨラ)も見ただろう。ピエール・ファーブルは見てくれたのだろうか……。
この手紙はまだ、ほんのさわりだったのだが。
アントニオ、あなたはインド最南端の村に暮らしたことはないだろうから、少し理解しづらいかもしれない。なぜ、多くの人々が激しい抵抗感を示すこともなくキリスト教を受け入れたのか。
それにはインドの宗教も関係しているように私には思える。
この地は古くからバラモン教(今では一般的にヒンドゥー教と言われる)が信仰されてきた。この宗教はギリシアのそれのように、『リグ・ヴェーダ』という神話(原典)を大きな元とする多神教だ。そこから哲学的な思索も重ねられ、独自の発展を遂げてきた。
この宗教の特徴のひとつに人の階級付けがある。大きく分けるとバラモンと呼ばれる僧侶階級が最も上位になり、王族・武人階級のクシャトリヤ、主に商業に携わるヴァイシャ、農業や牧畜・漁労に携わるシュードラと続く。この階級付けを『ヴァルナ』という。※2
はじめ、私は不思議に感じた。宗教で人の社会的立場をはっきりと位置付けることにである。もちろん、西欧にも社会的な階級はある。それは同じだ。聖職者もいれば王も貴族も商人も農業・牧畜・牧畜に従事する人もいる。ただ、それらは宗教とは区別されていた。インドでは古くから宗教としてその制度があるということだ。そして、それは代を継いで受け継がれるという。
そのしきたりが永くこの時期にも続いている。それがこの地の風土を作り文化ともなったであろう。
私たちとは異なるということだ。
私たちが訪れた村々の人々の多くはシュードラに属していた。すなわち、下の階級に属する人たちである。
彼らにとって、私たちの告げたーー神が唯一のものであること、「神の前に人は平等である」ことーーというキリスト教の考え方がたいへん新鮮に映ったのだろう。そしてまた、彼らの心に安寧を与えたのだろう。私たちの働きかけを多くの人々が受け入れてくれたことには、そのような背景もあった。
ただ、皆がそれをすんなりと受け入れるわけではない。特に旧来のバラモン教の僧侶たちにとっては許しがたいものだった。このような、受け入れることができない相手ともこの後私たちはすぐに直接対峙(たいじ)することになる。
セサルはメリンデ(ケニア)で言っていた。
「いずれにしても対話することは大切だ。こういった対話がローマやコンスタンティノープル、あるいはイェルサレムでできれば言うことはないな。当然、お互いが違う考えであることを十分承知した上でなければならないが」
そう、違う考えを持つ人と対話していくことは大事なことなのだ。
はなから私たちに敵意や悪意を持ってやってきた人だとしても、それに悪意を持って返すことはしてはならない。対話を根気よくし続けることだ。
それが私の使命であり、また前に進むために必要なことなのだと私は意を固めていた。
※1『聖フランシスコ・ザビエル全書簡1』(河野純徳訳 東洋文庫)より引用
※2 このヴァルナとジャーティなどを含む階級制度は、現在一般的に『カースト』と呼ばれています。『カースト』はポルトガル語の『casta(血統)』に由来しています。フランシスコがいた頃にはすでに使われていたかもしれません。
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