16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第5章 フィガロは広場に行く3 ニコラス・コレーリャ

ソッラはどこにいる? 1536年 フランス、ヴェネツィア

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〈フランシスコ・ボルハ、ニコラス・コレーリャ、ソッラ、エルコレ・デステ、レナータ、ジャン・カルヴァン、イタリア戦争に関わった人びと〉

 1494年に始まったイタリア戦争は1535年の時点でまだ終わっていない。
 ごく簡単にいうならば、フランスがイタリア半島に干渉し続けることが、この戦争が終わらない一番の理由である。それは、チェーザレ・ボルジアが枢機卿(すうきけい、すうききょう)になった後、スペインのナポリ支配にフランスが異議を唱えて進軍して以来、変わらないパターンである。



 それが断続的に、ずっと続いていたのだ。
 そして、まだ続く。

 1535年の紛争のきっかけは、ミラノだった。この頃、スフォルツァ家がミラノに復帰していたのだが、当主のフランチェスコ・マリーア・スフォルツァがこの世を去った。フランチェスコはベアトリーチェ・デステの二男である(ベアトリーチェはイザベッラ・デステの妹)。

 フランチェスコが逝去したのち、公国を継ぐ子はおらず協議がなされた。その結果、公妃の伯父である神聖ローマ皇帝カール5世の子フィリペが公国を継ぐこととなった。簡単に言えば公妃のいとこである。

 そして、フィリペの宮廷近侍役がフランシスコ・ボルハである。

 この継承についてミラノ市民からの不満はなかった。神聖ローマ帝国の傘の下にいるほうが安全だという判断があっただろう。
 そしてこれがフランスの再度の進攻を招くのである。フランスもこれまでの失敗を忘れたわけではない。1535年から36年の間に強力な同盟国を得ていた。

 オスマン・トルコである。
 2国の関係はこのとき始まったわけではない。以前フランスが敗北し、国王フランソワ1世が捕えられスペインに連行されたことがあった。1525年のパヴィアの戦いの時である。その頃からフランスとオスマン・トルコは密なやり取りをするようになった。旧教(キリスト教)の信仰篤いフランスがなぜ異教徒のオスマン・トルコと手を結んだのか。それはひとえに、神聖ローマ帝国を牽制するためである。共通の敵を倒すためなら、信仰は2の次ということだ。

 軍事行動はフィリペの公位就任を受けて始まった。ミラノに侵攻する入口はジェノヴァに定められ、オスマン軍も両軍の拠点となるマルセイユに集結するため海路を進んだ。この両軍をもってジェノヴァも一気に手中にしようと考えたのである。

 1536年3月のことだった。
 そしてこの戦いは、「海と船というものをどう戦争に使うのか」ということを西欧に示す先鞭(せんべん)となった。

 フィリップ・ド・シャボー率いるフランス軍はピエモンテへ進軍、翌月トリノを陥落させたが、ミラノの包囲は失敗した。カール率いるスペイン軍は反撃に出る。陸路でピレネー山脈を越えて南フランスのプロヴァンスに侵攻、エクス=アン=プロヴァンスを占領した。フランス軍もただじっと見逃しているわけではない。マルセイユへの道を封鎖して抗戦する。
 フランスとオスマン軍は海と陸で、カール5世率いるスペイン軍は陸から攻めるという構図である。

 これまで、イタリア戦争における戦闘がいくつもあった。その情勢を簡潔に述べて勝敗を知らせるのが本作の目的ではない。

 チェーザレ・ボルジアは、ローマに侵攻してきたフランスの前で尻をまくるように、姿をくらまして悠々としていた。
 教皇アレクサンデル6世は丁々発止の交渉でフランス王を恭順させた。
 ナポリの総督ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドーバはスペイン軍の戦いかたについて考え、王が自身を冷淡に扱うことに煩悶していた。
 アルフォンソ・デステは豪快かつ緻密に大砲隊を動かし、フランスに見切りをつけたら即座に兵を退かせた。
 イザベッラ・デステは夫がヴェネツィアに人質に取られても起死回生の策をじっくりと練っていた。
 フランシスコ・ザビエルの生まれ育った城はフランスと手を組んだ報復として、見るも無惨に破壊された。
 イグナティウス・デ・ロヨラはバスク人同士の戦闘の守備に立ち、重傷を負って死線をさまよった。
 教皇ユリウス2世はみずから軍の先頭に立った。ユリウス・カエサルの凱旋を現出させたいと思っただろうか。
 その甥だったフランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレは続く教皇に疎まれて攻め入られ、長く公国に帰れなかった。
 同様にベアトリーチェ・デステの息子も、戦争における重要な拠点となったミラノに戻るまでに紆余曲折を経なければならなかった。
 イタリア半島が統一されることが重要だと著書で訴えたニッコロ・マキアヴェッリは失意のうちにこの世を去った。
 ランツクネヒト(神聖ローマ皇帝の傭兵)に囲まれた上、粛清の嵐が吹き荒れる中、ミケランジェロ・ブォナローティは暗い地下室で息をひそめていた。
 そう、傭兵たちはすでにローマを破壊していた。修道女たちは強姦されて殺された。




 書いてきたことひとつひとつ、書かれていない膨大なひとりひとりの体験が、それぞれこの長い戦争の姿なのである。

 1536年のこの戦いでも、人生を変えるような経験をする人間がいる。

 フランシスコ・ボルハだ。
 ミラノ公国を継ぐことになったフィリペはフランシスコがずっと王室で付いてきた皇子である。スペイン国境(ピレネー山脈)を越えるこの戦いにフランシスコは進んで従軍を希望した。
 しかしこの年26歳になるこの青年は、軍隊を統率したことはない。文官としてずっと宮廷に詰めていたのだ。貴族の常で武芸はたしなんでいるが実戦で人に刃を向けたことはない。周辺もそれは分かっているので最前線に彼を置くようなことはない。
 ただし、そのような配慮が有効なのは戦闘に入るまでである。

 スペインの軍勢はエクス=アン=プロヴァンス占領ののち、マルセイユへの道を封鎖するフランス軍とにらみ合いになった。守りは大変強固で、船団が大量に待機しているマルセイユの海へ進むのは困難だった。フランシスコのいる隊は東にそれて、イタリア半島(ミラノ)に至ることにした。しかしマルセイユだけではない、フランス沿岸一帯が防御壁のように兵と船で覆われていた。
 フランシスコのいる軍が進んだのはマルセイユから27レグア(約135km)離れたフレジュスだった。

 現在でいえば、フランス南部を地中海に沿ってマルセイユ、エクス=アン=プロヴァンス、サント・ロペ、カンヌ、ニース、モナコと至る、世界でも有数のリゾートルートである。フレジュスはカンヌの少し手前になるが、スペイン軍の行軍にそのような楽しみはなかっただろう。

 フレジュスもに砦が築かれ敵兵が待機している。砦がそれほど大きくなかったので、攻めるスペイン軍は少し油断したのだろう。一気に砦を突破しようと手頃な石壁をよじ上り始めた。
 ここは様子をみるべき場所だった。どんなに小さな砦であろうと、待ち伏せする方が何倍も有利なのだ。向こうに何人ぐらいの兵がいるか、弓矢、投石機、アルケブスを持つ銃兵、大砲が何門あるのかーーそれがわからないうちに攻撃に移ったらどういうことになるか。

 フランシスコは見た。
 彼の親友、ガルシラーソ・デ・ラ・ベーガがその砦の石塀に上っていくのを。
 フランシスコは上方を見た。
 投石機がいくつも置かれ、人も石を持ち、壁から向かって来る人間を捉えている。
 フランシスコは恐怖を感じた。
 そして、叫んだ。
「危ないっ!」
 フランシスコは見た。
 いくつもの大きい石つぶてが、友を直撃するさまを。友はそれでもこらえようとしたが、石は降り注ぎ致命的な一撃を与えた。
 友は激しく地面に叩きつけられる。

 それはほんの一瞬の出来事に過ぎなかったが、フランシスコの目にはすべてがゆっくりと焼き付けられた。何人ものスペイン兵が同じ目に合って倒れている。皆いったん砦から退いて体勢を整えることにした。

 運ばれてきたガルシラーソの遺体を見て、フランシスコは拳を握りしめて泣いた。友も自分と同じで、実戦経験はない。彼は宮廷付の詩人だった。時には喜劇仕立ての寸劇をして皆を笑わせ、時には貴婦人がうっとりするようなソネットを詠む。

 その彼が、石つぶてに皮膚を破られ頭を割られて絶命した。



 フランシスコは大変な精神的打撃を受けた。彼が所属する隊は撤退することになるが、フランシスコは体調を崩し民間人として敵地で休養することを余儀なくされる。隊を追ってじきにヴァリャドリードに戻ったが、体調は戻らずしばらく自邸で寝たり起きたりの生活を送ることになった。

 性格まで変わった。ひたすら聖書や関連の本を読みふける日々を送るようになる。世間で起こっている出来事がどんどん遠くなっていく。

 全体の戦況もフランス優勢で続いた。皇帝カール5世もフランス本土を攻めあぐねている。その間もフランスはイタリア半島への侵攻の手を緩めない。ピエモンテを手中に収め、アドリア海の要衝ジェノヴァに歩を進める機を淡々とうかがっている。オスマン・トルコ軍の船団もすぐ後ろに控えていた。


◆ ◆ ◆

 その頃、アドリア海に迫る船団の脅威はイタリア半島全土にも危機感を与えていた。特にフランスがオスマン・トルコと手を結んだことにヴェネツィアは衝撃を受けている。フランスに協力する目的でオスマンはわがもの顔で地中海を横切っていく。いつかはこの脅威が必ずここまでやってくる。ヴェネツィアはその備えを始めている。

「フランシスコさんも戦争に出ているのだろうか」
 ニコラスのつぶやきにラウラがうなずく。
「あの方は王様の側近だから……ご無事だといいわね。それに、戦闘が始まってしまうと手紙も滞ってしまうし……」
「ああ、でもポルトガルからなら迂回してチベタヴェッキア経由で来るかもしれないね」

 ニコラスはフランシスコ・ボルハからの知らせにあった、母ソッラの居場所にすぐに手紙を書いていた。ポルトガルに赴くという商人を探して託したのだ。そこには母の身を案じていること、自分が今ヴェネツィアにいることなどを記している。
 ただ、1年近く経っても返信は来なかった。母がもし手紙を書いているとしても、戦争が始まってスペインとフランス、イタリアの国境が騒然としている。返信の来ない理由としてそれも考えられた。
 いずれにしても、返信が届かないのはニコラスにとってたいそう不安なことには違いなかった。

 フェラーラのエルコレ・デステも一時ほどではないがヴェネツィアに顔を出す。妻レナータとの関係は少し持ち直しているようだった。第三子となるルクレツィアを前年に出産している。子どもというのは授かりもので、夫婦の関係をよくするのにも一役買ったらしい。
 しかし、エルコレの愚痴はまだ続く。

 最近、新教(プロテスタント)の学者、ジャン・カルヴァンがしばらくフェラーラに滞在したことがあったーーとエルコレは話し出す。もともとルターから始まる新教の運動に興味を持っていた妻レナータはカルヴァンと話し込むのに時間を費やす。この頃カルヴァンは26歳で意気盛んな、理想に燃える若者だった。

 この年には後世まで読み継がれている『キリスト教綱要』を出版している。この本はルターが当初出していたような、カトリックに対して論題を投げかける内容ではない。聖書の『ロマ書』をひもときながら、新教のありかたや方法について解説した著作である。この後何度も改版することになるが、ラテン語とフランス語で平易に記されていることから、特にフランス語圏の読者に圧倒的な支持を得た。

 レナータもその一人である。
 そして、純粋に自身に崇敬の念を持って受け入れてくれるフェラーラの公妃にカルヴァンも熱心に語りかけた。レナータにとっては母国語のフランス語で思う存分語り合えるのがこの上なく幸せなことだったのだ。

 エルコレはそれも面白くない。
 それは、若い男性と妻が親しげにフランス語で話し込んでいることに起因しているようだとニコラスには思えた。それならば、深刻なことではないだろうと考えたのである。

 しかしこの場合は、色恋沙汰で済むほうがよかったのかもしれない。レナータが新教に寄った決定的なきっかけはここにあるからである。

 ニコラスはエルコレに、ソッラから返信がこない話もした。エルコレはあごひげを撫でながら、一瞬考え込んだ。

「きみはスペインとフランスが戦争中なのはもちろん知っているだろうけれど……この前、ポルトガル王もスペインと同じようにユダヤ教徒追放令を発布したんだよ」

 ニコラスは、「ユダヤ教徒追放令」という言葉の響きに眉をひそめた。エルコレは小さくうなずく。

「だから、ソッラはまたどこかに移ったのかもしれない……」

 ニコラスは暗澹(あんたん)たる気分になっていた。
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