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第5章 フィガロは広場に行く3 ニコラス・コレーリャ
女は愛されたい 1535年 フェラーラ
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〈ニコラス・コレーリャ、ラウラ・ピアッジョ、エルコレ・デステ、レナータ・デ・フランチア、ミケーレ・ダ・コレーリア、ソッラ〉
ポー川の流れが海に注ぐ一角に二人は立っている。ここの海にはヴェネツィアほどの船はない。淋しいと感じるのは冬の風が吹いているせいだろうか。
ヴェネツィアから船に乗ってキオッジャに着く。そこからフェラーラは20レグア(100km)もない。通常ならばパドヴァを抜けて山よりに進むのだが、旅人は船から、海から陸を見てみたかったのだ。
「いつも、フィレンツェとフェラーラを行き来していたから……この風景は初めてだな。何だか色がないような気がする」とニコラスがつぶやく。
隣にいるラウラは遠くの空にミサゴが飛んでいくのを見やってつぶやく。
「それは……アルフォンソ様のことがあるからではないかしら」
「そう、そうだね」
ニコラス・コレーリャとラウラ・ピアッジョ夫妻は、ヴェネツィアからフェラーラに向かうところだ。フェラーラ公国では当主のアルフォンソ・デステが亡くなり、息子がエルコレ2世(1世は祖父である)として公爵を継ぐことになったのだ。そのエルコレが二人を招待した。二人はティッツィアーノの工房と刺繍の工房の親方に休暇をもらって、短い旅に出ることになった。
アルフォンソ・デステの死はニコラスに大きな衝撃を与えた。アルフォンソは自身の元の師匠、ミケランジェロともさほど年が変わらないのだから。ミケランジェロのほうはいよいよシスティーナ礼拝堂の大作に取りかかっていて、ホッとしていたところなのだ。
二人で旅をするのは初めてのことだった。
ニコラスにとって旅は日常になっていたのだが、ヴェネツィアに来てからは移動というものをほとんどしていない。必要もなかったのだが、ヴェネツィアの水が自分に合っていたのかもしれない、とニコラスは思う。そして、ラウラがいるからだと思い直す。
お互いに好意を持って、少し危なっかしく愛を交わして、一緒にいることが自然になっていた。ものを見ること、創ることは二人にとって通じる部分だったので、二人は双子のきょうだいだったのではないかと思えることさえある。
ニコラスはそのような愛の対象が自分の懐に飛び込んで来てくれたことを幸せに感じている。
からだを何度も交えるとき、お互いに興奮がきわまって意識が遠のくほどの状態になることがある。何もかもが混じり合って、このまま二人とも溶けてしまうのではないかとニコラスは思う。ラウラもそのように感じると話していたことがある。
何て幸せなのだろう。
ただ一人を愛し、愛されるというのは。
まるで、なくした自分の半身に出会うようなものだ。
誰もがそういう伴侶を見つけられるわけではないとニコラスは感じる。実際、エルコレは自身の結婚が失敗だと思っているようだ……。
「ニコラスはまた考え事をしてるのね。道を間違えるわ」とラウラが笑う。
ニコラスはラウラの顔をまじまじと見て言う。
「きみを抱きたくて、仕方ないんだ」
ラウラは潤んだ瞳でニコラスを見つめて微笑む。
「私も……」
とはいえ、旅人は急がなければならない。いくら近いと言っても、フェラーラはまだ先なのだ。
エルコレはエステンセ城で待っている。ニコラスは彼の乳兄弟で幼い頃からともに暮らしてきたのだ。公爵としての新しい仕事が次々と押し寄せてくる現在、気心の知れたニコラスが来てくれることは何よりも心強かった。
エステンセ城は4つの鐘楼を持ち、ポー川の水を引き込んだ堀に囲まれている。遠くにこの城を望んで、初めて見るラウラは感心しながら言う。
「ニコラスは素敵なところで育ったのね。フェラーラがこんなに素敵なところだとは思っていなかったわ」
「そうだね。僕にはとても懐かしい風景だよ」
エルコレは両手を広げて二人を出迎えた。すでにヴェネツィアで何度も会っているラウラともエルコレは友愛の意味で抱擁した。
その様子を窓辺で訝しげに見ている人間がいた。公爵妃レナータの侍女である。
ニコラスとラウラ夫妻の来訪はただの物見遊山ではない。エルコレには大事な話があるのだ。
しかしレナータの侍女の一瞥がそれどころではない騒ぎを巻き起こすこととなる。
エルコレ自身が場内の案内を買って出た。ニコラスはもう勝手知った実家も同然の場所なので、新しい礼拝堂(とは言ってももう10年以上経っている)の天井画のスケッチに出た。エルコレはラウラを案内し、ティッツィアーノの手によるアルフォンソ・デステの肖像画を見せる。ラウラは威厳のあるその姿にほう、と納得したようにうなずく。
「ニコラスはアルフォンソ様を、おしゃべりではないけれどとても包容力のある方だと言っていました。この絵はその話で私が抱いた印象と共通しています。ティッツィアーノ様はなかなか絵が上手いですね」
「ティッツィアーノはヴェネツィアの大家(たいか)で、ニコラスの師匠だろう。なかなか絵が上手いって……あっけらかんと言ったね。ラウラらしいよ」
談笑する二人を物陰から見ている人間がいる。
妻レナータとは夕食で対面させようとエルコレは考えていたが、彼女は体調がすぐれないとその席に現れなかった。エルコレは多少不機嫌になったが、仕方がないと諦めニコラスとラウラに気を使わせないよう明るく振る舞っていた。
騒ぎが起こったのは夕食の後だった。
広間でエルコレ、ニコラス、ラウラが談笑しているところにレナータがつかつかと入ってきた。そして、いきなり、「この女性はあなたの愛人なの?」とラウラをにらみつけた。ラウラは一瞬驚いたが、彼女の目が真っ赤になっていることに気がついて、慌てて深くお辞儀をした。
「奥方様でいらっしゃいますね。お目にかかれて光栄です。ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。私はこのニコラス・コレーリャの妻でございます」
まだラウラを訝しげににらんでいる妻に、エルコレは真っ赤になって怒鳴り付けた。
「僕の客人に何て失礼なことを!いくら妻といえども……」
その言葉がレナータには決定的だった。彼女はポロポロと涙をこぼし、フランス語でまくしたてる。
「あなたの妻ですって? どこが?
あなたはいつも、私をないがしろにしてきたわ。私は、結婚したら夫が妻を何よりも誰よりも大切にして、尊重してくれるものだと思っていたわ。私はフランス語でしか話せないから、はじめのうちは意思が通じないのも仕方ないと思っていた。あなたがそんな私の不安を気遣ってくれたことがあるかしら? 私がフランスの話をするとあなたは不愉快そうな顔をするけれど、さっきそちらの女性を案内していたように、フェラーラに親しみを感じさせてくれたことがあって? 今だってそうよ。大事なお客様ならまず私に紹介するべきでしょう。変な詮索をしたことは謝ります。そちらの女性には。でも公爵閣下、あなたに謝る気はないわ。あなたは公爵になってから、私の扱いがひどくなった。公の席で私が他の人と話したいと思っても、まるで私がいないかのように扱う。場の空気を悪くしたくないと、必死に目配せしても、気づいているくせにわざと目を逸らしたりよそ見をしたりして、私を避けている。
おかげさまで私は孤立して、守ってくれるのは侍女たちだけ。愛情がないというなら仕方ないわ。でもこんなひどい扱いを受けるために私はフランスからわざわざやってきたわけじゃない。
私を大事にするつもりがないのなら、愛する気がかけらもないのなら、こんなところにはいたくないわ。
私をフランスに帰して!」
エルコレの側でフランス語を解する側近がレナータの言葉を伝える。それがなくとも、ニコラスとラウラにはレナータの悲嘆が十分に伝わった。特に、フランスに帰して!という言葉はそのまま聞こえたし、それは悲鳴のようでもあった。
ラウラがレナータに近寄っていき、躊躇(ちゅうちょ)なくその手を握る。レナータはハッとしてラウラの目を見る。そして、堰が切れたように大声で泣き出した。ラウラは侍女に、「私もお話を伺いますから、お部屋で少し落ち着いていただいた方が……」とすすめる。侍女もうなずいて、女性たちは広間から去っていった。
「すまない……」とエルコレがニコラスにつぶやく。ニコラスは首を横に振る。
「僕はね、エルコレ、お妃様が羨ましいよ」
ニコラスの言葉は意外に思えたらしい。エルコレは目を丸くした。ニコラスは微笑んで続ける。
「僕はここ、フェラーラで生まれて、フィレンツェやヴェネツィアで暮らしてきただろう。でも、ここがふるさとだって胸を張れる場所がないんだ。きみならここがふるさとだって、胸を張れると思うんだけど……だから、公妃様がフランスを帰る場所だと言い切れることが羨ましいんだ。でも、それは僕個人として思うことだ。いずれにしてもきみたちはもっとお互いが思っていることを話し合ったほうがいい。あれではあまりにもかわいそうだよ。わかっているだろう」
エルコレは静かにうなずく。ニコラスが遠回しに忠告してくれていることがわかるのだ。
一方レナータについたラウラは侍女たちを介して少しずつ話をしていた。レナータは泣きじゃくったままで、話し続ける。
「公爵になって大変なのはわかるの。でも、あんまりよ。あなたとエルコレが話しているのを見たら、笑顔でとても楽しそうで。私はあの人のあんな笑顔を見たことがないわ」
話を聞きながらラウラももらい泣きをする。いくら公爵の妻になっても、愛がなくて幸せだと感じられるはずもない。愛さえあれば、暮らし向きに関わらず得られる幸せがあるのに。
「レナータ様、もしニコラスが私に同じ振る舞いをしたらどうするだろうって考えました。きっとレナータ様と同じ、いえ、もっと絶望してしまいますわ。女性がこの男性と決めるのはとても重い決断です。ましてやレナータ様は外国からいらっしゃったんですもの。いちばん大事にしてほしいというのは自然な気持ちですわ。きっと、ニコラスもエルコレ様に言ってくれると思うのです。だから、あまり力を落とさないでくださいませ」
励ましの言葉を侍女づてに聞いたレナータは涙のたまった目でラウラを見る。
「私、あなたにひどいことを言ったわ。それなのに、励ましてくれるのね……」
レナータの言葉にラウラは微笑みで応えた。
翌日の早朝から、エルコレは書斎にニコラスを呼び出して二人きりで話をする。亡きアルフォンソからの言付けがいくつもあるのだ。
まず話さなければならないのはソッラのことだった。アルヴァロ・ノヴェルダとソッラ夫妻が今はスペインにいないことが確実になったので、ポルトガルなどに範囲を広げて探してもらっていること。探す役目を引き受けてくれたのがスペイン宮廷にいるフランシスコ・ボルハという若者であること。フランシスコはボルジア家の直系で自分たちより2つ年下であることーーなどである。
自分は手紙を出すばかりで、母が行方不明だと思ってもいなかったし、探すことなど考えていなかった。フィレンツェの祖父の家にソッラからの手紙が届かなくなったのはどれぐらい前だっただろう。いや……祖父が亡くなってもう5年も経つのだ。
ニコラスは自分のふがいなさに打ちのめされるような気分になった。
アルフォンソはずっと気にかけてくれていたのに。
「ニコラスはずっと修行の身だったし、外交官に知り合いでもいなければ探しようもないよ。まさか、富裕な商人と結婚して、行方が分からなくなるとも思わないだろう。仕方がないことだ。気にするな」とエルコレは言う。
これぐらいの優しさを妻に分けてやればいいのにーーとニコラスは思うが、当然口にはしない。
エルコレは話を続ける。デステ家としても、フランシスコ・ボルハ、ひいてはガンディア公爵であるその父ホアン・ボルハと関係を保ち続けるつもりであること、スペイン王(兼神聖ローマ皇帝)ともボルハ家を通じて懇意にしたい……。
ニコラスはそう語るエルコレが別の世界の住人のように見えた。スペイン王、神聖ローマ皇帝などという言葉がすらすらと出てくる。国際政治を語ることなどニコラスには経験がなかったのである。
マキアヴェッリさんなら、きっと言うべきことがたくさんあるんだろう。
そんなことを考えていると、エルコレが可笑しそうにニコラスの目を覗きこむ。
「ニコラス、おまえだって無関係じゃないんだぞ。おまえはミケーレ・ダ・コレーリアの子なんだ。ボルハ家でもおまえにはいたく興味を持っているんだぞ、ほら」
そう言ってエルコレがニコラスの前に差し出したのは、一振りの剣だった。
ポー川の流れが海に注ぐ一角に二人は立っている。ここの海にはヴェネツィアほどの船はない。淋しいと感じるのは冬の風が吹いているせいだろうか。
ヴェネツィアから船に乗ってキオッジャに着く。そこからフェラーラは20レグア(100km)もない。通常ならばパドヴァを抜けて山よりに進むのだが、旅人は船から、海から陸を見てみたかったのだ。
「いつも、フィレンツェとフェラーラを行き来していたから……この風景は初めてだな。何だか色がないような気がする」とニコラスがつぶやく。
隣にいるラウラは遠くの空にミサゴが飛んでいくのを見やってつぶやく。
「それは……アルフォンソ様のことがあるからではないかしら」
「そう、そうだね」
ニコラス・コレーリャとラウラ・ピアッジョ夫妻は、ヴェネツィアからフェラーラに向かうところだ。フェラーラ公国では当主のアルフォンソ・デステが亡くなり、息子がエルコレ2世(1世は祖父である)として公爵を継ぐことになったのだ。そのエルコレが二人を招待した。二人はティッツィアーノの工房と刺繍の工房の親方に休暇をもらって、短い旅に出ることになった。
アルフォンソ・デステの死はニコラスに大きな衝撃を与えた。アルフォンソは自身の元の師匠、ミケランジェロともさほど年が変わらないのだから。ミケランジェロのほうはいよいよシスティーナ礼拝堂の大作に取りかかっていて、ホッとしていたところなのだ。
二人で旅をするのは初めてのことだった。
ニコラスにとって旅は日常になっていたのだが、ヴェネツィアに来てからは移動というものをほとんどしていない。必要もなかったのだが、ヴェネツィアの水が自分に合っていたのかもしれない、とニコラスは思う。そして、ラウラがいるからだと思い直す。
お互いに好意を持って、少し危なっかしく愛を交わして、一緒にいることが自然になっていた。ものを見ること、創ることは二人にとって通じる部分だったので、二人は双子のきょうだいだったのではないかと思えることさえある。
ニコラスはそのような愛の対象が自分の懐に飛び込んで来てくれたことを幸せに感じている。
からだを何度も交えるとき、お互いに興奮がきわまって意識が遠のくほどの状態になることがある。何もかもが混じり合って、このまま二人とも溶けてしまうのではないかとニコラスは思う。ラウラもそのように感じると話していたことがある。
何て幸せなのだろう。
ただ一人を愛し、愛されるというのは。
まるで、なくした自分の半身に出会うようなものだ。
誰もがそういう伴侶を見つけられるわけではないとニコラスは感じる。実際、エルコレは自身の結婚が失敗だと思っているようだ……。
「ニコラスはまた考え事をしてるのね。道を間違えるわ」とラウラが笑う。
ニコラスはラウラの顔をまじまじと見て言う。
「きみを抱きたくて、仕方ないんだ」
ラウラは潤んだ瞳でニコラスを見つめて微笑む。
「私も……」
とはいえ、旅人は急がなければならない。いくら近いと言っても、フェラーラはまだ先なのだ。
エルコレはエステンセ城で待っている。ニコラスは彼の乳兄弟で幼い頃からともに暮らしてきたのだ。公爵としての新しい仕事が次々と押し寄せてくる現在、気心の知れたニコラスが来てくれることは何よりも心強かった。
エステンセ城は4つの鐘楼を持ち、ポー川の水を引き込んだ堀に囲まれている。遠くにこの城を望んで、初めて見るラウラは感心しながら言う。
「ニコラスは素敵なところで育ったのね。フェラーラがこんなに素敵なところだとは思っていなかったわ」
「そうだね。僕にはとても懐かしい風景だよ」
エルコレは両手を広げて二人を出迎えた。すでにヴェネツィアで何度も会っているラウラともエルコレは友愛の意味で抱擁した。
その様子を窓辺で訝しげに見ている人間がいた。公爵妃レナータの侍女である。
ニコラスとラウラ夫妻の来訪はただの物見遊山ではない。エルコレには大事な話があるのだ。
しかしレナータの侍女の一瞥がそれどころではない騒ぎを巻き起こすこととなる。
エルコレ自身が場内の案内を買って出た。ニコラスはもう勝手知った実家も同然の場所なので、新しい礼拝堂(とは言ってももう10年以上経っている)の天井画のスケッチに出た。エルコレはラウラを案内し、ティッツィアーノの手によるアルフォンソ・デステの肖像画を見せる。ラウラは威厳のあるその姿にほう、と納得したようにうなずく。
「ニコラスはアルフォンソ様を、おしゃべりではないけれどとても包容力のある方だと言っていました。この絵はその話で私が抱いた印象と共通しています。ティッツィアーノ様はなかなか絵が上手いですね」
「ティッツィアーノはヴェネツィアの大家(たいか)で、ニコラスの師匠だろう。なかなか絵が上手いって……あっけらかんと言ったね。ラウラらしいよ」
談笑する二人を物陰から見ている人間がいる。
妻レナータとは夕食で対面させようとエルコレは考えていたが、彼女は体調がすぐれないとその席に現れなかった。エルコレは多少不機嫌になったが、仕方がないと諦めニコラスとラウラに気を使わせないよう明るく振る舞っていた。
騒ぎが起こったのは夕食の後だった。
広間でエルコレ、ニコラス、ラウラが談笑しているところにレナータがつかつかと入ってきた。そして、いきなり、「この女性はあなたの愛人なの?」とラウラをにらみつけた。ラウラは一瞬驚いたが、彼女の目が真っ赤になっていることに気がついて、慌てて深くお辞儀をした。
「奥方様でいらっしゃいますね。お目にかかれて光栄です。ご挨拶が遅くなり申し訳ございません。私はこのニコラス・コレーリャの妻でございます」
まだラウラを訝しげににらんでいる妻に、エルコレは真っ赤になって怒鳴り付けた。
「僕の客人に何て失礼なことを!いくら妻といえども……」
その言葉がレナータには決定的だった。彼女はポロポロと涙をこぼし、フランス語でまくしたてる。
「あなたの妻ですって? どこが?
あなたはいつも、私をないがしろにしてきたわ。私は、結婚したら夫が妻を何よりも誰よりも大切にして、尊重してくれるものだと思っていたわ。私はフランス語でしか話せないから、はじめのうちは意思が通じないのも仕方ないと思っていた。あなたがそんな私の不安を気遣ってくれたことがあるかしら? 私がフランスの話をするとあなたは不愉快そうな顔をするけれど、さっきそちらの女性を案内していたように、フェラーラに親しみを感じさせてくれたことがあって? 今だってそうよ。大事なお客様ならまず私に紹介するべきでしょう。変な詮索をしたことは謝ります。そちらの女性には。でも公爵閣下、あなたに謝る気はないわ。あなたは公爵になってから、私の扱いがひどくなった。公の席で私が他の人と話したいと思っても、まるで私がいないかのように扱う。場の空気を悪くしたくないと、必死に目配せしても、気づいているくせにわざと目を逸らしたりよそ見をしたりして、私を避けている。
おかげさまで私は孤立して、守ってくれるのは侍女たちだけ。愛情がないというなら仕方ないわ。でもこんなひどい扱いを受けるために私はフランスからわざわざやってきたわけじゃない。
私を大事にするつもりがないのなら、愛する気がかけらもないのなら、こんなところにはいたくないわ。
私をフランスに帰して!」
エルコレの側でフランス語を解する側近がレナータの言葉を伝える。それがなくとも、ニコラスとラウラにはレナータの悲嘆が十分に伝わった。特に、フランスに帰して!という言葉はそのまま聞こえたし、それは悲鳴のようでもあった。
ラウラがレナータに近寄っていき、躊躇(ちゅうちょ)なくその手を握る。レナータはハッとしてラウラの目を見る。そして、堰が切れたように大声で泣き出した。ラウラは侍女に、「私もお話を伺いますから、お部屋で少し落ち着いていただいた方が……」とすすめる。侍女もうなずいて、女性たちは広間から去っていった。
「すまない……」とエルコレがニコラスにつぶやく。ニコラスは首を横に振る。
「僕はね、エルコレ、お妃様が羨ましいよ」
ニコラスの言葉は意外に思えたらしい。エルコレは目を丸くした。ニコラスは微笑んで続ける。
「僕はここ、フェラーラで生まれて、フィレンツェやヴェネツィアで暮らしてきただろう。でも、ここがふるさとだって胸を張れる場所がないんだ。きみならここがふるさとだって、胸を張れると思うんだけど……だから、公妃様がフランスを帰る場所だと言い切れることが羨ましいんだ。でも、それは僕個人として思うことだ。いずれにしてもきみたちはもっとお互いが思っていることを話し合ったほうがいい。あれではあまりにもかわいそうだよ。わかっているだろう」
エルコレは静かにうなずく。ニコラスが遠回しに忠告してくれていることがわかるのだ。
一方レナータについたラウラは侍女たちを介して少しずつ話をしていた。レナータは泣きじゃくったままで、話し続ける。
「公爵になって大変なのはわかるの。でも、あんまりよ。あなたとエルコレが話しているのを見たら、笑顔でとても楽しそうで。私はあの人のあんな笑顔を見たことがないわ」
話を聞きながらラウラももらい泣きをする。いくら公爵の妻になっても、愛がなくて幸せだと感じられるはずもない。愛さえあれば、暮らし向きに関わらず得られる幸せがあるのに。
「レナータ様、もしニコラスが私に同じ振る舞いをしたらどうするだろうって考えました。きっとレナータ様と同じ、いえ、もっと絶望してしまいますわ。女性がこの男性と決めるのはとても重い決断です。ましてやレナータ様は外国からいらっしゃったんですもの。いちばん大事にしてほしいというのは自然な気持ちですわ。きっと、ニコラスもエルコレ様に言ってくれると思うのです。だから、あまり力を落とさないでくださいませ」
励ましの言葉を侍女づてに聞いたレナータは涙のたまった目でラウラを見る。
「私、あなたにひどいことを言ったわ。それなのに、励ましてくれるのね……」
レナータの言葉にラウラは微笑みで応えた。
翌日の早朝から、エルコレは書斎にニコラスを呼び出して二人きりで話をする。亡きアルフォンソからの言付けがいくつもあるのだ。
まず話さなければならないのはソッラのことだった。アルヴァロ・ノヴェルダとソッラ夫妻が今はスペインにいないことが確実になったので、ポルトガルなどに範囲を広げて探してもらっていること。探す役目を引き受けてくれたのがスペイン宮廷にいるフランシスコ・ボルハという若者であること。フランシスコはボルジア家の直系で自分たちより2つ年下であることーーなどである。
自分は手紙を出すばかりで、母が行方不明だと思ってもいなかったし、探すことなど考えていなかった。フィレンツェの祖父の家にソッラからの手紙が届かなくなったのはどれぐらい前だっただろう。いや……祖父が亡くなってもう5年も経つのだ。
ニコラスは自分のふがいなさに打ちのめされるような気分になった。
アルフォンソはずっと気にかけてくれていたのに。
「ニコラスはずっと修行の身だったし、外交官に知り合いでもいなければ探しようもないよ。まさか、富裕な商人と結婚して、行方が分からなくなるとも思わないだろう。仕方がないことだ。気にするな」とエルコレは言う。
これぐらいの優しさを妻に分けてやればいいのにーーとニコラスは思うが、当然口にはしない。
エルコレは話を続ける。デステ家としても、フランシスコ・ボルハ、ひいてはガンディア公爵であるその父ホアン・ボルハと関係を保ち続けるつもりであること、スペイン王(兼神聖ローマ皇帝)ともボルハ家を通じて懇意にしたい……。
ニコラスはそう語るエルコレが別の世界の住人のように見えた。スペイン王、神聖ローマ皇帝などという言葉がすらすらと出てくる。国際政治を語ることなどニコラスには経験がなかったのである。
マキアヴェッリさんなら、きっと言うべきことがたくさんあるんだろう。
そんなことを考えていると、エルコレが可笑しそうにニコラスの目を覗きこむ。
「ニコラス、おまえだって無関係じゃないんだぞ。おまえはミケーレ・ダ・コレーリアの子なんだ。ボルハ家でもおまえにはいたく興味を持っているんだぞ、ほら」
そう言ってエルコレがニコラスの前に差し出したのは、一振りの剣だった。
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