16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第5章 フィガロは広場に行く3 ニコラス・コレーリャ

自分がチェーザレだったら 1534年 ヴァリャドリード

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〈アルフォンソ・デステ、フランシスコ・ボルハ、チェーザレ・ボルジアとボルジア家の人々、マリア・エンリュクス、スペイン王カルロス(神聖ローマ皇帝カール5世)〉

 アルフォンソ・デステは手紙をスペインに出すことにした。
 スペインのボルハ(ボルジア)家次期当主となるフランシスコ・ボルハにあててである。フランシスコがスペイン・ヴァリャドリードの王宮に仕えていることは、アルフォンソも知っている。

 この2者の関係はここでも説明しておいた方がいいだろう。
 アルフォンソの妻はルクレツィア・ボルジアである。
 ローマのボルジア家はかつての教皇アレクサンデル6世を父にペドロ・ルイス、チェーザレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレの子がいる。聖職者の子なので、扱いは庶子である。すでに皆歴史からは退いているが、ルクレツィアのすぐ上の兄、ホアンから続くのがスペイン・ガンディアのボルハ家である。

 したがって、ホアンはアルフォンソの義理の兄ということになる。実際はホアンの死はルクレツィアとアルフォンソの結婚より前のことなので、アルフォンソは会ったことがない。

 しかし、ルクレツィアは生前長くホアンの寡婦、マリア・エンリュクスと手紙のやりとりをしていた。ホアンとマリアの孫になるフランシスコ・ボルハのことも知っている。それをアルフォンソは聞いていたし、長じて、フランシスコがスペイン王カルロス1世に重用されてヴァリャドリードにいることはイタリア半島まで伝わっていた。

 何度も繰り返して恐縮だが、スペイン王は神聖ローマ皇帝カール5世を兼ねている。

 アルフォンソはフェラーラを安泰に治めるためにも、フランシスコと関わりを持った方がいいと考えていた。戦争はまたいつ始まるか分からない。できるだけ有力なところと関係を築いておいたほうがいい、と考えるのは自然なことだろう。フェラーラの次期公爵になるエルコレはボルジアの血を受け継いでいるのだから、なおさらである。

 エルコレの妻はフランスから来たが、どうも夫婦は仲睦まじいとはいえないーーと父親アルフォンソは嘆いている。それに加えて、息子の妻は新教(プロテスタント)の訴えるところに影響を受けていて、それをエルコレにも説いているようだ。アルフォンソは厳格なカトリック信者というわけではないが、イタリア半島においてはローマが中心にあって、カトリックが外せない重要なものである。

 これまでにフランスとの同盟に失望を覚えることがたびたびあったのも事実である。エルコレが当主になったときのために、環境は整えておきたいとアルフォンソは考えていた。

 実際にまた、戦争が起こる気配はかすかに海の方向に現れていた。

 そのようなこともあって、アルフォンソはフランシスコ・ボルハと線をつなぎたいと思ったのだ。
 さらに手紙には、「たいへんよく働いた使用人の行方がスペインに渡って以降分からないのだが、もし何か分かることがあれば教えてほしい」と書き添えた。
 ソッラのことである。




 一方のフランシスコ・ボルハはどうだっただろうか。

 彼はスペイン・バリャドリードで皇太子の教育係を任されていた。高位の貴族であるという自尊心はあったが、友人も多く、愛妻との間には次々と子供が生まれた。ちなみに、長子の名は国王と同じく、カルロスである。
 同時に幼年から変わることのない求道者の姿もまだ残していた。宮廷にあっても質素な服装を好み、贅を凝らした服を纏った同輩から嘲笑されたりもしている。それぐらいしか、宮廷の中でできることがなかったのだ。

 彼はかつての教皇アレクサンデル6世の血を受け継いでいることを誇りに思っている。そして、じかに接していた祖母のマリア・エンリュクスについては崇敬している。マリアはフランシスコにとって、信仰というのがどのようなものなのか教えてくれた存在だった。
 寡婦となっても婚家と子を必死に守りながら、日々ひたすらに祈りを捧げ、ガンディアのクララ会修道院を整え、自身もそこに入った祖母。そこによこしまなものは何もないと幼年のフランシスコは感じていた。

 叶うものならば祖母のように、日々を祈りと思索のうちに過ごしたい。華やかな宮廷と賑やかな家庭を抱えたフランシスコにとって、それは24歳の現在、とても難しいことに違いなかった。

 そんな折にフランシスコはアルフォンソの手紙を受け取った。フェラーラ公国アルフォンソ・デステ。イタリア半島のコンドッティアーレ(傭兵隊長)として名高いデステ家の当主。
 そして大叔母、ルクレツィア・ボルジアの夫。

 その一通になぜか遠い郷愁を覚えた。アラゴンに祖を持つイタリアのボルハ家、教皇だった曾祖父アレクサンデル6世、そして会ったことのない祖父ホアン、ホアンの妹ルクレツィア。
 今や遠い縁戚としかいえないボルジア家にフランシスコは思いを馳せた。

 アレクサンデル6世はあまり評判はよくなかったようだが、それは身びいきと女性関係といったことだった。蓄財はしていたようだが個人的な事柄である。その後の教皇のようにみずから戦争をしたり、金遣いが荒くて教皇庁の財政を逼迫させたりはしなかった。大叔父のチェーザレにしても、長い目で見ればイタリア半島が他国の食い物にならないようにするのが一番の目的ではなかったか。

 もともとの理想や野望というのはそれぞれ立派なものだっただろう。ただ、それがよくよく考え抜かれ行動したものならば、後世から見てもそれなりの説明ができるようにフランシスコには思えた。いくら目指すものが高くても、その場しのぎで都合のよい方を選択していれば、当初の理想からは離れていくのではないか。ユリウス2世しかり、レオ10世もしかりである。特にレオ10世の蒔いた種、いやばらまかせた贖宥状がどのような事態を招いているかを見れば、それは明らかである。
 それならば、最初から理想や野望など持たずに個人の純粋な幸せを求めて生きる方がよほど幸せなのではないか。

 権力というものは、恐ろしいものだ。

 彼は神聖ローマ皇帝でもあるスペイン王のことを思う。
 自分の仕えている主人である。彼はこれまでに類を見ないほどの大きな権力を持っている。それは800年以上前にカール大帝が征服した規模に迫るほどのものだ。カルロスが望めば、容易にそれを超えることができるだろう。
 古代のアレクサンドロス大王のように。

 そういえば、とフランシスコは思い出す。祖母のマリアがフランシスコに言っていた言葉である。
「義兄(あに)があなたの立場で生まれていたら、どうなっていたでしょうね」
 祖母が言っていた意味をようやくフランシスコも理解できるようになった。その義兄、フランシスコにとっての大叔父であるその人が為したイタリア進軍のことも折々耳にしてきたからである。

 チェーザレ・ボルジアが自分の立場であったら……それを想像して、フランシスコは恐ろしさを感じた。

 今の自分がその大権力者の側近にいるということの重さを。

 大叔父チェーザレが自分なら……イタリアを掌握するように、フランスを叩き潰すように、新教徒を宥めて丸め込むように、そして、オスマン・トルコの領土もものにするよう、働きかけ実行するだろう。
 それはまさに、チェーザレ・ボルジアが望んだ、古代ローマ帝国、いやさらに遡ってアレクサンドロス大王の勢力範囲に匹敵するものではないか。彼ならそこまで想定し、行動しただろう。王の一方の出自である、ハプスブルグ家の勢力拡大を伴うものだとしても、そうするだろう。

 チェーザレ・ボルジアになかったのは、境遇や運というものだけだったのだ。

 しかしそれを持っているフランシスコの理想はそれとは対極のところにあった。
 だからこそ、スペイン王兼神聖ローマ皇帝は自分を重用しているのだとも思う。

 カルロスは賢く、考える力も持っている。しかし、アレクサンドロス大王を模範とするような性向を持っていない。領地の反乱や攻めてくるフランス、迫り来るオスマン・トルコの脅威に対応することでへとへとになっているのである。フランシスコに対しても最近は、「早く次に譲って引退したい」とこっそりこぼすことすらあった。

 フランドルやネーデルラントのハプスブルグ家の宮廷で成長したカルロスだが、最近はスペインにたいへん愛着を持っているようだ。地理的な条件を考えれば、神聖ローマ帝国に自身も家族も置いていたほうがよいに決まっている。何しろ、スペインは乾燥して寒暖の差も激しい。森や河川・湖沼の多い神聖ローマ帝国領のほうが過ごしやすいはずなのだ。

 それでも、カルロスはスペインにしだいに心を寄せるようになった。それは、8年前のローマ劫略が大きかったのではないかとフランシスコは考えている。

 カルロスは自軍の司令官に、ローマを破壊しろとは命じなかった。教皇との交渉条件を有利にするための示威行動と考えていたのである。
 ただ、行軍の途中で揉め事が起きて司令官が殺された。代理の司令官ではもう統制の取りようがなかった。暴徒と同義になったランツクネヒト(傭兵)たちは、ローマを完膚なきまでに叩き潰したのだ。

 3年ほどかけて、軍事行動の解決はついた。しかし、スペインまでやってきた教皇との話し合いをして帰ってきた皇帝(このときは皇帝である)は出迎えたフランシスコに告げた。

「やっと片がついた……しかし、私は古の都を容赦なく破壊した皇帝として名を残すことになるのだろう」

 痛々しい、同情を込めたまなざしをフランシスコは主に捧げる。カルロスは黙って首を横に振ると、休みたいと自室に引きこもった。

 それ以降、カルロスはスペインにいない時もよく家族やフランシスコに手紙を出してくるようになった。フランシスコは丁寧に王妃やその子供たちの様子を知らせた。それが、カルロスの心に慰謝を与えているようだった。引退したらスペインで静かに暮らしたいという私信も繰り返し入るようになっていた。


 ふっと、フランシスコはアルフォンソ・デステからの手紙に目を戻した。
 彼の妻、亡きルクレツィア・ボルジアは祖母のマリアと懇意にしていたので、フェラーラとよしみを通じるように王に依願してみることは可能だろう。そして、デステ家の使用人だった女性を探すのも、手だてがありそうだと考えていた。

 そして、その女性についての記述を見た時にフランシスコは大いに興味が引かれる一文を見いだした。

〈その女性はチェーザレ・ボルジアの一番の側近だった故ミケーレ・ダ・コレーリアの妻でした。ミケーレとの忘れ形見は今ヴェネツィアで画家をしています〉

 フランシスコはまた、不思議な感覚に襲われた。既視感(デジャ・ヴュ)である。

 それが何だろうとフランシスコは思い出そうとする。先頃在ローマの枢機卿(すうききょう、すうきけい)から届いた手紙だと思い付くまでにそう時間はかからなかった。


〈チェーザレ・ボルジアがイベリア半島のどこかで生きているという噂がどこからともなく流れています。フランスに匿われているという話はいっときありました。今度もそのような偽の情報かと思いますが、バスクに埋葬されたチェーザレ・ボルジアの遺体が確かに本人だとよく改められていないのも事実です。新教皇のパウルス3世はかつてボルジア家と縁が深かったこともあり、その噂にたいへん興味を持たれています。もし可能であれば内密にお調べいただければ幸いです。〉

「今日はチェーザレ・ボルジアについて考える日のようだ。チェーザレが僕だったら、チェーザレが生きていたら……」

 そうつぶやきながら、自邸に馬を走らせるフランシスコだった。
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