16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第5章 フィガロは広場に行く3 ニコラス・コレーリャ

師匠の思い 1529年 フェラーラ

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〈ミケランジェロ・ブォナローティ、ニコラス・コレーリャ、アルフォンソ・デステ、エルコレ・デステ、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ〉

 ミケランジェロ・ブォナローティ率いる一行は1529年、フェラーラを訪れた。

「ほう、話には聞いていたが、ポー川というのは広大で美しいな。ニコラスはこれを見て育ったのか」とミケランジェロがニコラスに言う。
「ええ、師匠やみんなに見ていただけて光栄です」とニコラスは微笑んで言う。しかし、その顔はどことなく沈んでいて、生気を失ったようにも見える。
 ミケランジェロが今回のフェラーラ行きに応じた理由のひとつは、ニコラスを元気付けたいということだった。ローマの悲惨なありさまを見て、憧れてやまない女性が亡くなったーーという事実を認めなければならなかったのは、この若い青年にどれほどの衝撃を与えただろうか。それを想像するだけで、ミケランジェロはつらくなる。
 生まれ故郷であるフェラーラの景色を見れば、少しでも気が晴れるのではないか。ミケランジェロはそう思ったのだ。本当ならば視察と意見交換のためだけに勝手知らない他国(フェラーラは公国である)に行くなど考えることすらしない人である。
「俺は忙しいんだ!」と一喝して終わりだろう。実際、教皇に呼ばれたのに途中で帰ってしまったこともあった。それでニコラスの父であるミケーレとマキアヴェッリがとばっちりを食らったのだ。

 ミケランジェロには妻も子どももいなかったが、弟子には親並みの愛情を持って接していた。彼らが早く一人前になってくれるのが、何よりの望みである。

 それだけに先だって耳にした、ジョルジョ・ヴァザーリとニコラスの会話はミケランジェロにとって思案を要するものだった。ジョルジョと同様に、ニコラスも絵を描くことが一番の喜びであるとミケランジェロは知っている。ただ、ニコラスはそれに対して不平不満をこぼすことはなかった。師匠の仕事をきちんと理解して従順に勤めてきたのだ。

 ニコラスもジョルジョのように外に出してやるべきではないか。
 もう一人立ちしても問題がないとミケランジェロは考えている。ただ絵画ということでは、個人的には描き続けているものの、まだ実作が少ない。画家の工房で少しばかり習熟したほうがいい。
 ジョルジョのようにサルトのところに……いや、それは止めたほうがいい。ニコラスのほうが先輩にあたるのだから。

 ミケランジェロは言葉少なに、ずっと考え続けた。そうこうしているうちにフェラーラ市街に入り、エステンセ城を囲む水路が見えてきた。

「おお、街なかにあるにも関わらず、立派な城塞じゃないか。これなら、敵が攻めてきてもしばらくは持ちこたえられそうだな」とミケランジェロが感心しながらエステンセ城に見入っている。

 面倒だから視察は任せる、と言ったはずなのに。ニコラスは師匠の言葉を思い出してクスリと笑う。
 結局、師匠は仕事に関することならどんどん吸収しようとする人なのだ。自分の仕事に誇りを持っていて、完璧に仕上げようと努力する人なのだ。

 そういう師匠だから、創作の手段が何であれ付いていきたいと思うのだ。

 ニコラスは師匠の横顔を見ながら、そんなことを考えた。

 城門の跳ね橋は下りたままになっているので、番兵がすぐ、やって来る一行に気がついて城の主に来客を告げる。あいにく、ニコラスがいたときのルイジとグイドバルドではない。二人はまだ勤めているのかな、とニコラスは思う。
 しばらくすると、エルコレ・デステが息せききって現れた。次期当主が駆け寄ってくるとは誰も思っていないので、一同はポカンとしている。ニコラスは髭を生やしている青年の顔を見る。そこには、かつて少年だった懐かしい友とその母親の面影がはっきり見てとれた。

「エルコレ! エルコレ!」とニコラスが叫ぶ。そう呼ばれた青年はハッとして声の主のほうを向く。そして目を見開いて、信じられないと言った表情でニコラスと同様に叫ぶ。

「ニコラス? ニコラス! え、本当に?」

 二人は駆け寄って、お互いの手をがっしりと握りしめる。そして、お互い肩を抱き合う。ミケランジェロら、ニコラスの同行者たちはほほえましくその様子を見ている。

 アルフォンソ・デステはあまり変わっていなかった。いや、あの頃より恰幅(かっぷく)がよくなったかもしれない、とニコラスは思う。一行を出迎えたアルフォンソはすこぶる機嫌がよく、ミケランジェロが驚くほどの歓待ぶりだった。それは、ニコラスがいたことも大きいだろう。

「いや、本当にお越しいただいて光栄です。まず今日はゆっくりお休みいただいて、明日はまず城内と私の自慢の大砲をはじめとする武器の倉庫にご案内しましょう。大砲については、イタリア半島でも一番数を揃えていると自負しています。どれぐらいの期間逗留されますか。1週間ぐらいでしょうか」

 ミケランジェロは驚く。本当に1泊2日ほどで帰るつもりでいたのだ。宿屋もそのつもりで1泊だけ取っている。ニコラスはもっとのんびりしたらいいと思っているが、彼はここエステンセ城に泊まっても何の違和感もない。実家のようなものなのだから。しかし、俺たちは違う……とミケランジェロは思う。

「アルフォンソ様、まったく畏れ多いことでございます。私ども宿を取っておりますので、宿泊はご遠慮させていただければ幸いです。ですか、ニコラスにはここが実家のようなもの、久々の再会を水入らずでお過ごしおただければよろしいかと思っております。それと、私フィレンツェに所用がありまして、後はニコラスに任せようと思っております」

 アルフォンソはああ、と合点がいったようだ。彼はニコラスを連れてきたかったのだと。ただ、それでこの希代の芸術家をすぐに帰してしまうのもフェラーラ公爵の沽券(こけん)に関わる。

「事情は承知しました。ただ、せっかく交誼(こうぎ)を持てたのに、すぐお帰りいただくのも味気ないこと。せめて、あと一泊だけこのエステンセ城にお泊まりいただくわけにはいきませんか」とアルフォンソは申し出た。ミケランジェロも、それもそうだとばかりにうなずいて、フェラーラ公爵の好意を受けることにした。

 ニコラスは二人のやり取りを聞いて、ありがたいことだと思う。
 自分はいろいろな人の、特に目の前にいるこの二人の好意を受けて、ここまで来られたのだと思う。

 話も決まり、1日目の一行はエステンセ城内を案内されることになった。まず城を取り囲む水路、城門、そして見張りに使われる塔、地下室。地下はその説明だけされて案内はされなかった。闇が広がる空間である。
「身内で不祥事があると、当事者に入ってもらうこともあります。塔もそのように使われることがあります」とアルフォンソは淡々と述べる。

 そして、音楽堂、礼拝堂も城内にある。どちらもニコラスには勝手知ったる場所だが、全体的に華やかになっている。飾られている絵も増えた。ルクレツィアの絵が飾ってあることに、ニコラスは悲しみを覚える。何より驚いたのは、礼拝堂に天井画が描かれていたことだった。落ち着いた佇まいのこの城で、ここだけが別の空間のように華やかだ。
「どうだい、ニコラス?」とエルコレがニコラスの顔をのぞき込む。ニコラスは驚いたように天井を見上げている。
「ラファエロさんのような……優美な絵だね」

 ミケランジェロはいたずらっぽく天井を見て、「これを描く苦労は、描いた人間にしか分からないものです」とアルフォンソに言う。
「ええ、描いた画工たちも、あなたが4年もこんな作業をできたなんて、首が鋼(はがね)でできているに違いないと感嘆していましたよ」とアルフォンソは天井画の大御所に告げる。

 システィーナ礼拝堂の天井画以降、貴族や富裕な商人から天井画の需要が高まったらしい。ラファエロ工房が描いたアゴスティーノ・キージ邸の天井画もそうだった。
しかし、この仕事は肉体的苦痛なしにはできない仕事だった。
 現代、システィーナ礼拝堂の修復作業が行われたとき、大人数で取りかかったのだが、一人が一度に作業できる時間はほんの数十分だったという。それを一人で、4年もかけて完成させた凄さを思い浮かべずにはいられない。

 礼拝堂を見た後で広間に戻ると、一行は少し腰かけて休むことにした。そこで、ミケランジェロは当主アルフォンソ・デステを描いた肖像画に目を留めた。赤いガウンを身につけた公爵が穏やかな表情で立っている。背景はアンバー系の濃い褐色でまとめ、外光を右端にわずかに見せる。人を際立たせて暗い印象にしないための工夫だ。写実性も構図も実に申し分ない。

「この肖像画はいいですね。公爵の威厳がそのまま描かれています」とミケランジェロが躊躇(ちゅうちょ)なく褒める。それは滅多に聞かれない台詞だったので、同行者たちも一斉にそちらを見る。
 アルフォンソは喜んだ。
「そうですか! あれはティッツィアーノに描いてもらったんですよ。彼とは懇意で、今でもたまに来てもらっています。ニコラスは覚えているか……昔アカデメイアの真似事をしていた時に来てもらったことがある。彼はニコラスに才能があると褒めていましたね」

 ニコラスは断片的にしか覚えていない。何しろ5歳ぐらいの時のことなのだ。ただ、画家の顔だけは覚えていた。
「あ、あの先生が描かれたのですね」とニコラスが言うと、アルフォンソとエルコレがうなずく。

 当時はまだ若かったティツィアーノ・ヴェチェッリオはこの頃、ヴェネツィアで最も有名な画家である。聖画も神話も肖像画もものとして、陰影をうまく使った重厚な画風である。その作品は外来のものに慣れているヴェネツィア人をも唸らせ、たいそう人気が高かった。
 後世ではレンブラントがその影響を受けたと言われている。

 ティッツィアーノか……とミケランジェロは肖像画を見ながら考えていた。

 その晩の夕食は一行も加わってたいそう賑やかだった。一行が宿に帰り、ニコラスがどうしたらいいのかと迷っていると、エルコレがつかつかとこちらに向かってくる。

「さぁ、積もる話をしよう! 絵描きになった司令官の息子の冒険を聞きたいよ! 酒もたくさんある。夜はこれからだ!」

 ニコラスは肩をすくめながら、笑った。
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