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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ
チェーザレを知っているか 1528~29年 ローマ、フィレンツェ、フェラーラ
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〈ニコラス・コレーリャ、スペイン人の枢機卿、ミケランジェロ・ブォナローティ、アルフォンソ・デステ、エルコレ・デステ〉
ニコラス・コレーリャは翌日、カスタル・サンタンジェロに迎え入れられていた。スペイン人の枢機卿(すうきけい、すうききょう)が面会に応じて、すぐにニコラスの待つ部屋にやってきた。前に教皇レオ10世に面会したときにも応対した人物である。
ニコラスはひざまずいてあいさつをする。緋色の衣を身に纏った枢機卿はそれを受けると、ニコラスの肩に手を置いて一言、つぶやくように言った。
「驚いたでしょう。ローマの変わりように」
ニコラスは何も言えずに、ただ、枢機卿をじっと見つめることしかできない。枢機卿はうなずいて、胸の前で十字を切る。彼はスペイン人で皇帝軍の一員である。それで自身の安全は守られたが、決してこの事態を納得して受け止めているわけではなかった。
スペインは前世紀の末に、レコンキスタを終わらせて以降、カトリック信仰を国の基礎としてきたのだ。その君主であるカルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)のさしむけた傭兵軍ランツクネヒトがカトリックの首府ローマを破壊した。ランツクネヒトの多くがルター派で、王とは相容れないはずなのに。教皇庁で身の安全を保てた者はみな、忸怩(じくじ)たる思いを持っていたのだ。
枢機卿は静かにニコラスが必要としている情報を与える。
「ミケランジェロ・ブォナローティ氏が書面でお尋ねになった部分については、ほぼ無事だとお答えできます。システィーナ礼拝堂、ピエタ像についても無事です。また教皇の私邸のラファエロ・サンティ氏の壁画なども無事です。それは、あなたに確認いただけるでしょう。ユリウス2世廟の予定地については、許可が下りませんでした」
ニコラスは静かにうなずく。枢機卿はさらに続ける。
「あと、これは教皇クレメンス7世からの依頼なのですが、システィーナ礼拝堂に新たに祭壇画を描いてほしいとのことです。正式には追ってお願いすると思いますが、お伝えいただけると幸いです」
ニコラスは驚く。
「天井画と連続した絵を描くということですか」
「どうでしょう。私は詳しくは聞いていません。じきにブォナローティ氏に直接来ていただいて教皇から話していただくことになるのでしょう。少なくとも、春になってからですね。ローマもまだまだ復興には遠いですし……」と枢機卿がため息をつく。
それからニコラスはサン・ピエトロ聖堂や教皇の私邸の一部、システィーナ礼拝堂に案内される。前に来たときは興奮するばかりだった。今回はじっくりと見ながら、見たものを文字にして書き留めていく。
枢機卿の言う通り、ピエタ像も天地創造も無事だった。ニコラスはアダムの手を見上げて、ひどく懐かしい気分になる。
じっくりと教皇庁の美術品を見る。それを心から待ち望んでいたのに、いざ実現したら絵を描く気になれなかったのだ。皮肉なものである。それに、教皇庁の中がーー多少汚れてしまっているにしてもーー前とは基本的に変わっていないのに対して、市街地は徹底的に破壊されてしまった。そのあまりにも大きな落差が、かえってニコラスを打ちのめしたのだ。
美術品の確認が終わって、退出しようとするニコラスに枢機卿が尋ねる。
「今、あなたのお母様はスペインにいらっしゃるのでしたね」
「はい、よくご存じですね。申し上げたことがありましたか?」とニコラスが目を丸くする。
「同胞のことですからね。今はアラゴンにいらっしゃるのでしたか」と枢機卿がうなずきながら言う。
「ええ、そのようです。最近はあまり手紙も来なくなって……」とニコラスがうなずきながら応じる。
「アラゴンから出ないほうがいいかもしれません。まあ、ノヴェルダ氏がおられるから問題はないと思うが……物騒な所もありますから」と枢機卿がにっこりとして言う。
物騒だ、という言葉をニコラスは治安のことだと考えたが、枢機卿は違う意味で言っていた。そこに思いを馳せる余裕が、そのときのニコラスにはなかった。
ティヴェレ川が見渡せるところまでたどり着いた。ニコラスが暇乞い(いとまごい)をすると、枢機卿は不意にニコラスに聞く。
「チェーザレ・ボルジアのことを知っていますか?」
ニコラスは面食らった。
その名前は母親ソッラからはるか昔に聞いた。
ニコラスの父ミケーレ・ダ・コレーリアが仕えていた人物だ。何代か前の教皇アレクサンデル6世の息子である。そして、ニコラスが幼年を過ごしたフェラーラの公妃ルクレツィア・ボルジアの兄だ。その名を聞いたことがあるかと質問しているのだろうか。
「小さい頃に母から聞きました。スペインで囚われの身となって、ナヴァーラで亡くなったそうですね」とニコラスは母に聞いた通りに答える。
枢機卿は、「ああ、そうですね……そうです。あ、雪もあがったようですよ。どうか帰路も神のご加護がありますように」と告げてニコラスを送った。
チェーザレ・ボルジア。
どんな人だったのだろう、とニコラスは考える。イタリア半島を統一しようとした男。滅多に自分の考えを人に明かさず、残酷な行為も厭わない。一端決めたらそれを翻すことがない。
マキアヴェッリさんも、ずいぶん高く買っていたようだった。
何より、父ミケーレ・ダ・コレーリアが生涯尽くした主だったのだ。
枢機卿はいろいろな思いをニコラスにプレゼントしてくれたようだった。父のこと、その主のこと……そして、日頃は思い出さないようにしている母ソッラのこと。
そう、思い出すと淋しくてたまらなくなるので、そうしないようにいつも心がけていた。そのうちにだんだん、母の面影は薄れてきたのだ。
「マルガリータさんのこと、知らせなきゃな」とニコラスはぽつりとつぶやく。
マルガリータのことも、思い出さないようにしていれば、どんどん薄れていくのだろうか。
アルノ川が見えてきた。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラが冬空に鮮やかな姿を見せている。
橋のたもとには人々がたくさん行き交い、いきいきと活気にあふれている。
いつものフィレンツェだ。
ニコラスは心から安堵を覚える。
「おう、戻ったか」とミケランジェロが駆け寄ってきた。
ニコラスはその姿を見て、思わず涙がこみあげてくるのを感じた。
師匠は白髪が増えた。
それは自然なことだ。もう53歳になったのだ。ダヴィデの前で初めて会ってから、もう12年も経つのだ。その間ずっと、師匠は親のように僕の側にいてくれたのだ。
親のように。
「おい、何だ、泣いているのか……腹は減っていないか。スープとパンならばあるぞ。とにかく食え。話はそれからだ」
ミケランジェロはニコラスの肩に腕を回して食堂に導いた。
ミケランジェロは話をせっついたりはしない。ただ、ニコラスが食事をしているのを、テーブルの斜め横に腰かけてじっと見ているだけだ。ニコラスが食事を終えるとミケランジェロはポツリとつぶやいた。
「つらかったな」
ニコラスはうつむいた。顔を上げられなかった。
涙がぽた、ぽたとテーブルに落ちていく。ミケランジェロはもう何も言わなかった。ニコラスはただ涙をこぼしてうつむき続けた。
ローマの教皇庁にあるミケランジェロやラファエロの作品群は無事だという報告とニコラスが書き留めたメモを見て、ミケランジェロはホッとした表情を見せた。
「あれだけ身体を酷使して描いたものを1日で壊されてはたまらない。また描けと言われたってムリだ。まあ、そうしないで済んだな」とミケランジェロは言う。
「あと、教皇クレメンス7世がシスティーナ礼拝堂に壁画を頼みたいということです」とニコラスが付け加える。
「まだローマの街も荒れ果てているのだろう。もうその先の話か……ジュリオも言ってくれるな……」
ジュリオ、とはクレメンス7世の俗世におけるファースト・ネームだ。彼はメディチ家の出で、ミケランジェロとは面識がある。
「ローマの街があのようになってしまったからではないでしょうか」とニコラスがふっとつぶやく。
「ん?」
「ローマを元通りにする、その象徴として何か、こう……」
ミケランジェロは納得がいったようだ。黙ってうなずいた。
その晩、ニコラスは久しぶりに母に手紙を書いた。
1529年になった。
ローマで避難民を保護し、籠城生活を送っていたイザベッラ・デステ。同じくカスタル・サンタンジェロで軟禁状態になっていた弟のアルフォンソ・デステは、それぞれ自国、マントヴァとフェラーラに帰り着いていた。
神聖ローマ帝国から再度の派兵はないようだ。すでに皇帝カール5世(兼スペイン国王カルロス1世)とクレメンス7世は和睦に向けて相談をしている。
ただ、教皇と組んでコニャック同盟の一員になったフランスは落ち着かなかっただろう。同盟を反古(ほご)にしてローマに総攻撃を仕掛ければあるいは……と考えもしたはずだ。結局、同盟はなし崩しの状態になっている。この時代のこの種の同盟が完遂したのはあまり聞いたことがない。
結局、フランスはイギリスと同盟を組み直していたが、ナポリへの遠征も失敗した。皮肉めいているが、カール5世の徹底的な一人勝ちでひとまずイタリア半島はひとまず安定したことになる。
しかし、半島の北部、フランスや皇帝領とごく近い土地では、おちおち安心していられない。朝令暮改(ちょうれいぼかい)で情勢が変わり、いつどこが攻め込んでくるかも分からない。イザベッラのマントヴァ、アルフォンソのフェラーラもその不安は同様だった。両国とも、自国の市壁・城壁、防御のための備えの強化に努めていた。
そんなとき、アルフォンソはイザベッラから話を聞いてあることを思いついた。そして、その思いつきを息子のエルコレに打ち明けた。
「え、ミケランジェロ・ブォナローティをフェラーラに招くんですか? ということは……」とエルコレが目を輝かせる。
「そうだ、ニコラスも一緒に来てもらう。ミケランジェロにはフェラーラの市壁の設計を頼むつもりだ。もう、フィレンツェの政庁にも依頼して承諾を得た。フィレンツェの市壁強化工事にメドが立てばという条件付きだが、あちらは大分前から取りかかっているし、夏ごろまでには来てくれるだろう」
アルフォンソの言葉にエルコレは喜びをかみしめる。赤子の頃から一緒に暮らしてきた友に久しぶりに会えるのだ。
もう10年以上会っていない友は希代の芸術家の弟子になって、堂々とやってくるのだ。これ以上嬉しいことがあるだろうか。
アルフォンソは喜ぶエルコレにひとつだけ釘を刺す。
「ただ、これは姉に聞いたのだが、どうもニコラスはあのローマ劫略で最愛の女性を亡くしたようなのだ」
「えっ、恋人ですか?」とエルコレが驚いて聞く。
「いや、ミケランジェロが言っていたそうだが、その女性は亡きラファエロ・サンティの愛人だということだ。ずっと年上だったのだろうな。そして、憧れをずっと秘めていたのだろう……ニコラスらしい」
「そうですね……ソッラが遠くに行ってしまったから、きっと母を慕うような気持ちもあったかもしれませんね」とエルコレも同意する。
「だから、お前はいくら懐かしいと言っても、いきなり女性のことをぶしつけに聞いたりしてはいけない。どのような恋だったにせよ、その対象はランツクネヒトに凌辱されて殺されたんだ。それは察してやれ」
アルフォンソの言葉にエルコレは黙ってうなずいた。
エルコレは前の年に結婚している。政治的配慮以外の何者でもないような婚姻だった。妻になったのはフランスの王女、レナータ・ディ・フランチアである。フランチアはフランスのイタリア語読みである。
出自に違わず、この王女はたいへん贅沢を好んだ。のちにフェラーラの宮廷が財政難に陥るほどに。
しかし、それはもう少し後の話になる。
二人は、甘い新婚生活を楽しんでいた。
もうすぐニコラスがやってくる。
エルコレは童心に返ってしまう。何をして遊ぼうかなどと考えている自分に気がついて一人苦笑するのだった。
ニコラス・コレーリャは翌日、カスタル・サンタンジェロに迎え入れられていた。スペイン人の枢機卿(すうきけい、すうききょう)が面会に応じて、すぐにニコラスの待つ部屋にやってきた。前に教皇レオ10世に面会したときにも応対した人物である。
ニコラスはひざまずいてあいさつをする。緋色の衣を身に纏った枢機卿はそれを受けると、ニコラスの肩に手を置いて一言、つぶやくように言った。
「驚いたでしょう。ローマの変わりように」
ニコラスは何も言えずに、ただ、枢機卿をじっと見つめることしかできない。枢機卿はうなずいて、胸の前で十字を切る。彼はスペイン人で皇帝軍の一員である。それで自身の安全は守られたが、決してこの事態を納得して受け止めているわけではなかった。
スペインは前世紀の末に、レコンキスタを終わらせて以降、カトリック信仰を国の基礎としてきたのだ。その君主であるカルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)のさしむけた傭兵軍ランツクネヒトがカトリックの首府ローマを破壊した。ランツクネヒトの多くがルター派で、王とは相容れないはずなのに。教皇庁で身の安全を保てた者はみな、忸怩(じくじ)たる思いを持っていたのだ。
枢機卿は静かにニコラスが必要としている情報を与える。
「ミケランジェロ・ブォナローティ氏が書面でお尋ねになった部分については、ほぼ無事だとお答えできます。システィーナ礼拝堂、ピエタ像についても無事です。また教皇の私邸のラファエロ・サンティ氏の壁画なども無事です。それは、あなたに確認いただけるでしょう。ユリウス2世廟の予定地については、許可が下りませんでした」
ニコラスは静かにうなずく。枢機卿はさらに続ける。
「あと、これは教皇クレメンス7世からの依頼なのですが、システィーナ礼拝堂に新たに祭壇画を描いてほしいとのことです。正式には追ってお願いすると思いますが、お伝えいただけると幸いです」
ニコラスは驚く。
「天井画と連続した絵を描くということですか」
「どうでしょう。私は詳しくは聞いていません。じきにブォナローティ氏に直接来ていただいて教皇から話していただくことになるのでしょう。少なくとも、春になってからですね。ローマもまだまだ復興には遠いですし……」と枢機卿がため息をつく。
それからニコラスはサン・ピエトロ聖堂や教皇の私邸の一部、システィーナ礼拝堂に案内される。前に来たときは興奮するばかりだった。今回はじっくりと見ながら、見たものを文字にして書き留めていく。
枢機卿の言う通り、ピエタ像も天地創造も無事だった。ニコラスはアダムの手を見上げて、ひどく懐かしい気分になる。
じっくりと教皇庁の美術品を見る。それを心から待ち望んでいたのに、いざ実現したら絵を描く気になれなかったのだ。皮肉なものである。それに、教皇庁の中がーー多少汚れてしまっているにしてもーー前とは基本的に変わっていないのに対して、市街地は徹底的に破壊されてしまった。そのあまりにも大きな落差が、かえってニコラスを打ちのめしたのだ。
美術品の確認が終わって、退出しようとするニコラスに枢機卿が尋ねる。
「今、あなたのお母様はスペインにいらっしゃるのでしたね」
「はい、よくご存じですね。申し上げたことがありましたか?」とニコラスが目を丸くする。
「同胞のことですからね。今はアラゴンにいらっしゃるのでしたか」と枢機卿がうなずきながら言う。
「ええ、そのようです。最近はあまり手紙も来なくなって……」とニコラスがうなずきながら応じる。
「アラゴンから出ないほうがいいかもしれません。まあ、ノヴェルダ氏がおられるから問題はないと思うが……物騒な所もありますから」と枢機卿がにっこりとして言う。
物騒だ、という言葉をニコラスは治安のことだと考えたが、枢機卿は違う意味で言っていた。そこに思いを馳せる余裕が、そのときのニコラスにはなかった。
ティヴェレ川が見渡せるところまでたどり着いた。ニコラスが暇乞い(いとまごい)をすると、枢機卿は不意にニコラスに聞く。
「チェーザレ・ボルジアのことを知っていますか?」
ニコラスは面食らった。
その名前は母親ソッラからはるか昔に聞いた。
ニコラスの父ミケーレ・ダ・コレーリアが仕えていた人物だ。何代か前の教皇アレクサンデル6世の息子である。そして、ニコラスが幼年を過ごしたフェラーラの公妃ルクレツィア・ボルジアの兄だ。その名を聞いたことがあるかと質問しているのだろうか。
「小さい頃に母から聞きました。スペインで囚われの身となって、ナヴァーラで亡くなったそうですね」とニコラスは母に聞いた通りに答える。
枢機卿は、「ああ、そうですね……そうです。あ、雪もあがったようですよ。どうか帰路も神のご加護がありますように」と告げてニコラスを送った。
チェーザレ・ボルジア。
どんな人だったのだろう、とニコラスは考える。イタリア半島を統一しようとした男。滅多に自分の考えを人に明かさず、残酷な行為も厭わない。一端決めたらそれを翻すことがない。
マキアヴェッリさんも、ずいぶん高く買っていたようだった。
何より、父ミケーレ・ダ・コレーリアが生涯尽くした主だったのだ。
枢機卿はいろいろな思いをニコラスにプレゼントしてくれたようだった。父のこと、その主のこと……そして、日頃は思い出さないようにしている母ソッラのこと。
そう、思い出すと淋しくてたまらなくなるので、そうしないようにいつも心がけていた。そのうちにだんだん、母の面影は薄れてきたのだ。
「マルガリータさんのこと、知らせなきゃな」とニコラスはぽつりとつぶやく。
マルガリータのことも、思い出さないようにしていれば、どんどん薄れていくのだろうか。
アルノ川が見えてきた。
サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のクーポラが冬空に鮮やかな姿を見せている。
橋のたもとには人々がたくさん行き交い、いきいきと活気にあふれている。
いつものフィレンツェだ。
ニコラスは心から安堵を覚える。
「おう、戻ったか」とミケランジェロが駆け寄ってきた。
ニコラスはその姿を見て、思わず涙がこみあげてくるのを感じた。
師匠は白髪が増えた。
それは自然なことだ。もう53歳になったのだ。ダヴィデの前で初めて会ってから、もう12年も経つのだ。その間ずっと、師匠は親のように僕の側にいてくれたのだ。
親のように。
「おい、何だ、泣いているのか……腹は減っていないか。スープとパンならばあるぞ。とにかく食え。話はそれからだ」
ミケランジェロはニコラスの肩に腕を回して食堂に導いた。
ミケランジェロは話をせっついたりはしない。ただ、ニコラスが食事をしているのを、テーブルの斜め横に腰かけてじっと見ているだけだ。ニコラスが食事を終えるとミケランジェロはポツリとつぶやいた。
「つらかったな」
ニコラスはうつむいた。顔を上げられなかった。
涙がぽた、ぽたとテーブルに落ちていく。ミケランジェロはもう何も言わなかった。ニコラスはただ涙をこぼしてうつむき続けた。
ローマの教皇庁にあるミケランジェロやラファエロの作品群は無事だという報告とニコラスが書き留めたメモを見て、ミケランジェロはホッとした表情を見せた。
「あれだけ身体を酷使して描いたものを1日で壊されてはたまらない。また描けと言われたってムリだ。まあ、そうしないで済んだな」とミケランジェロは言う。
「あと、教皇クレメンス7世がシスティーナ礼拝堂に壁画を頼みたいということです」とニコラスが付け加える。
「まだローマの街も荒れ果てているのだろう。もうその先の話か……ジュリオも言ってくれるな……」
ジュリオ、とはクレメンス7世の俗世におけるファースト・ネームだ。彼はメディチ家の出で、ミケランジェロとは面識がある。
「ローマの街があのようになってしまったからではないでしょうか」とニコラスがふっとつぶやく。
「ん?」
「ローマを元通りにする、その象徴として何か、こう……」
ミケランジェロは納得がいったようだ。黙ってうなずいた。
その晩、ニコラスは久しぶりに母に手紙を書いた。
1529年になった。
ローマで避難民を保護し、籠城生活を送っていたイザベッラ・デステ。同じくカスタル・サンタンジェロで軟禁状態になっていた弟のアルフォンソ・デステは、それぞれ自国、マントヴァとフェラーラに帰り着いていた。
神聖ローマ帝国から再度の派兵はないようだ。すでに皇帝カール5世(兼スペイン国王カルロス1世)とクレメンス7世は和睦に向けて相談をしている。
ただ、教皇と組んでコニャック同盟の一員になったフランスは落ち着かなかっただろう。同盟を反古(ほご)にしてローマに総攻撃を仕掛ければあるいは……と考えもしたはずだ。結局、同盟はなし崩しの状態になっている。この時代のこの種の同盟が完遂したのはあまり聞いたことがない。
結局、フランスはイギリスと同盟を組み直していたが、ナポリへの遠征も失敗した。皮肉めいているが、カール5世の徹底的な一人勝ちでひとまずイタリア半島はひとまず安定したことになる。
しかし、半島の北部、フランスや皇帝領とごく近い土地では、おちおち安心していられない。朝令暮改(ちょうれいぼかい)で情勢が変わり、いつどこが攻め込んでくるかも分からない。イザベッラのマントヴァ、アルフォンソのフェラーラもその不安は同様だった。両国とも、自国の市壁・城壁、防御のための備えの強化に努めていた。
そんなとき、アルフォンソはイザベッラから話を聞いてあることを思いついた。そして、その思いつきを息子のエルコレに打ち明けた。
「え、ミケランジェロ・ブォナローティをフェラーラに招くんですか? ということは……」とエルコレが目を輝かせる。
「そうだ、ニコラスも一緒に来てもらう。ミケランジェロにはフェラーラの市壁の設計を頼むつもりだ。もう、フィレンツェの政庁にも依頼して承諾を得た。フィレンツェの市壁強化工事にメドが立てばという条件付きだが、あちらは大分前から取りかかっているし、夏ごろまでには来てくれるだろう」
アルフォンソの言葉にエルコレは喜びをかみしめる。赤子の頃から一緒に暮らしてきた友に久しぶりに会えるのだ。
もう10年以上会っていない友は希代の芸術家の弟子になって、堂々とやってくるのだ。これ以上嬉しいことがあるだろうか。
アルフォンソは喜ぶエルコレにひとつだけ釘を刺す。
「ただ、これは姉に聞いたのだが、どうもニコラスはあのローマ劫略で最愛の女性を亡くしたようなのだ」
「えっ、恋人ですか?」とエルコレが驚いて聞く。
「いや、ミケランジェロが言っていたそうだが、その女性は亡きラファエロ・サンティの愛人だということだ。ずっと年上だったのだろうな。そして、憧れをずっと秘めていたのだろう……ニコラスらしい」
「そうですね……ソッラが遠くに行ってしまったから、きっと母を慕うような気持ちもあったかもしれませんね」とエルコレも同意する。
「だから、お前はいくら懐かしいと言っても、いきなり女性のことをぶしつけに聞いたりしてはいけない。どのような恋だったにせよ、その対象はランツクネヒトに凌辱されて殺されたんだ。それは察してやれ」
アルフォンソの言葉にエルコレは黙ってうなずいた。
エルコレは前の年に結婚している。政治的配慮以外の何者でもないような婚姻だった。妻になったのはフランスの王女、レナータ・ディ・フランチアである。フランチアはフランスのイタリア語読みである。
出自に違わず、この王女はたいへん贅沢を好んだ。のちにフェラーラの宮廷が財政難に陥るほどに。
しかし、それはもう少し後の話になる。
二人は、甘い新婚生活を楽しんでいた。
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