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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ
ローマの修道女 1527年 フィレンツェ
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〈ミケランジェロ・ブォナローティ、ニコラス・コレーリャ、ジョルジョ・ヴァザーリ、ニッコロ・マキアヴェッリ、イザベッラ・デステ、修道女〉
フィレンツェにはたくさんの広場がある。
ヴェッキオ宮殿のあるシニョリーア広場、フィレンツェのシンボル、サンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂のあるドゥオーモ広場、その裏側にあたるサン・ジョヴァンニ広場、サンタ・マリア・ノヴェッラ広場、サンタ・クローチェ広場、サンティッシマ・アンヌンツィアータ広場、レプブリカ広場……など50の広場がある。
広場は人々が行き過ぎるだけの場所ではない。お祭り、宗教行事、騎馬競技、市場、賭け事、芸能、遊戯あるいは処刑などありとあらゆる出来事の舞台だった。
もちろん、ソッラとミケーレのような恋人たちの出会いの場所であり、ニコラスのような絵描きの卵が狂喜乱舞する野外美術館でもあった。
本当ならばこの街は、例年6月に行われる聖ヨハネ祭で賑わっているはずだった。
しかしこの年、1527年はそれが吹き飛ぶほどの騒ぎになっている。
5月のローマ劫略を機にフィレンツェで反乱が勃発し、メディチ家が再び追放されたのだ。フィレンツェの政治は再び共和派が握ることとなった。
だいぶ前からその兆しはあった。貴族層の一部がクーデターを計画して事前に察知され、容疑者が捕縛・処刑されることもあった。かつて、ニッコロ・マキアヴェッリが疑いをかけられ捕囚されたのもそれである。
ローマ劫略という一大事の混乱に乗じて、それがついに爆発したのである。メディチ家の出世頭である教皇クレメンス7世がカスタル・サンタンジェロに籠っている状態だったので、政権を覆すのにさほど時間はかからなかった。
ここで明暗が分かれたのが、皮肉にもミケランジェロ・ブォナローティとニッコロ・マキアヴェッリだった。
さきに、マキアヴェッリがフィレンツェの市壁の強化をクレメンス7世に言上して認められた話をした。その市壁工事は済んでいたのだが、フィレンツェの共和国政府はさらに市街の防御策を講じる必要があると判断した。市壁の一層の強化に加え土手を築くなどの工事に着手することになった。
この設計・建造総監督にミケランジェロ・ブォナローティが任命されたのだ。それもあって、彼は新しい共和国政府で重きを置かれることになった。
芸術家というのはこの時代、政治的巧者でなければならなかった。ミケランジェロは風向きひとつでフィレンツェを追いたてられたかもしれないのだ。
メディチ家の仕事をしていたからである。
この場面でミケランジェロがうまく立ち回ったのかは定かでない。ただ、反乱の際には反メディチの側に立った。それでなければ、彼の立場は微妙になっただろう。
暗転したのはニッコロ・マキアヴェッリだった。彼は共和国の委員選挙に立候補して再びヴェッキオ宮殿(政府)への復帰を果たそうとした。しかし、選挙の結果は惨敗だった。敗因分析をすることもないと思うが、メディチ家の庇護を受けて著述業をしていたということが大きかったように思われる。
最後のチャンスを逃した時代の目撃者はこの直後病を得て、聖ヨハネ祭直前の6月21日にひっそりとこの世を去った。
享年58歳だった。
『ダヴィデ』はシニョリーア広場で市民を見つめている。
ニコラスはフィレンツェ防御土塁工事の指揮兼役を任されていた。この工事は広範囲に渡り、ミケランジェロが全てを指揮することが不可能なので、弟子たちもその役割を任されることになったのだ。
このとき、ミケランジェロのもとに来た新しい弟子、ジョルジョ・ヴァザーリはいない。絵画を学ぶためにサルトという画家のところに「留学」している。
ミケランジェロ自身が意識していたかは定かではないが、近年依頼される仕事は建築・装飾関係に集中するようになった。お蔵入りになったサン・ロレンツォ聖堂ファサードの仕事は脇に置いても、その礼拝堂装飾や付属の図書館の設計も進んでいた。また、今や因縁となってしまった3代前の教皇、ユリウス2世の廟所設計・装飾も依然として残っている。
この人はひとつの仕事にかける時間が長い。
大規模で時間がかかる場合もたくさんある。その間に政治的な変動が起こったりして足止めをくらい、さらに長くなる。今は工房として人も増えているので、いくらか分担はできる。それでも、ラファエロの工房のような早さは望めなかった。
さて、この年、ニコラスはローマに行きたいと何度か師匠に告げている。それはランツクネヒトがフィレンツェの脇を通過するはるか前からだ。師匠のミケランジェロが理由を聞くと、ニコラスは必ずこう言った。
「ローマの美術品が奪われてしまいます」
なるほど、それは誰もがうなずく理由である。しかし、黒隊のジョヴァンニやスイス傭兵の長がこのセリフを言うのならまだしも、ひょろっとした19歳の青年の口から出るのは奇異である。ミケランジェロも初めは軽く受け止めていた。
「ニコラス、おまえは剣も持ったことがないくせに、どうやってランツクネヒトたちに立ち向かうつもりだ? ここにある大理石を砕いて投石機で当てるぐらいしか出来ないぞ。ダヴィデならばゴリアテに命中させられるだろうが、おまえでは無理だ。何ならこの工房で小隊を作るか」
「からかわないで下さい、師匠」とニコラスは切羽詰まった顔をしてうつむく。そのあともニコラスは折に触れてその話をする。ローマが破壊されたという知らせが来て以降、さらに頻繁にローマ行きを求めるようになった。
ミケランジェロも確かにローマの状況は気になる。自分が手掛けた作品ーー『ピエタ』像も『天地創造』の天井画もあるのだ。それにこれから手がけるであろう、ユリウス2世の廟所も。しかし、ランツクネヒトをはじめ皇帝軍はことが済んだ後もまだローマに居座っているのだ。
とは言え、ミケランジェロはじきに気がついた。ニコラスが気にしているのは美術品だけではない。いや、美術品より気にしていることがある。
それは人間のことだ。
女性のことだ。
しかし、それが分かったからと言って、「じゃ、行ってこい」とはならない。それは無理だ。
ネクロポリス(死者の都)となったローマは死体の片付けをするものもなく、腐敗するままに放置された。空からはカラスの群れ、地面からはネズミの群れがわがもの顔で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する。川は悪臭を放ち、鼻を押さえなければ耐えられないほどになった。
そして、ネズミの群れはペストを連れてきた。
あっという間にそれはローマを覆い尽くす。
その状況はフィレンツェにも伝わっている。なので、ローマに行こうとする人間はいない。どうしても行かなければならない者は防護用の頭巾を持参して出かける。そして、決して長居はしない。比較的安全なのは教皇庁とコロンナ宮殿だったが、それは「中に入れば」という条件付きである。行き帰りの道筋に安全の保証はまったくない。
ミケランジェロは様子を見ろと言うしかない。ニコラスもそれはわかっている。
結局、フィレンツェの防御壁や土塁工事が始まってもローマはまだ安全にはならず、ようやく沈静化したのは、吹く風冷たい11月になってからだった。
ミケランジェロが政庁でローマの様子を聞いてニコラスに知らせた。
ニコラスはすぐに旅のしたくをはじめようとする。ミケランジェロがきびすを返した弟子に呼び掛ける。
「おい、ニコラス、最後まで話を聞け。ローマにずっと滞在していたお方が、フィレンツェに数日寄っていくらしい。その方に状況を聞いてから行った方がいい。もう、1日2日出発が遅れたからといって、同じことじゃないか」
ニコラスは師匠に向き直り、まじまじとその目を見る。
「どなたですか、その方は?」
ミケランジェロは上着を脱ぎながら言う。
「マントヴァの、イザベッラ侯妃だよ。お前も知っているだろう」
イザベッラ・デステはローマからの帰途、フィレンツェに立ち寄った。
長い籠城と旅の疲れを癒すためである。マントヴァは中立の立場を終始保っていたし、彼女がコロンナ宮で庇護した中にはフィレンツェ人もいた。彼女のフィレンツェ入りを拒む人はいなかった。
ニコラスはイザベッラ・デステのことをもちろん知っている。自身が長年世話になったフェラーラ公国の当主、アルフォンソ・デステの姉である。ただ、ニコラスは使用人の子という立場だったし、イザベッラも頻繁にフェラーラを訪れていたわけではないので、直接面会する機会はなかった。
彼女との面会はヴェッキオ宮殿の一室で実現する。
勇敢な貴婦人は少しやつれた風で長椅子に腰かけてニコラスを迎える。そして、ミケランジェロに連れられた青年を見て、目を丸くした。
「あなたね! エルコレの親友は! まあ、まあ、あなた、黒い服を着ていたらチェーザレ・ボルジアの側近、ドン・ミケロットそのものよ! 懐かしい、懐かしいわ……」
そう言ってイザベッラは微笑む。
ニコラスはどう答えていいか分からず立っていたが、「侯妃さまもご健勝のご様子で、本当に何よりでした」ときちんとあいさつする。
それから、イザベッラはひとりで話し始める。
アルフォンソ・デステも無事でじきにフェラーラに戻れるということ。皇帝カール5世が今回のローマ劫略について行き過ぎだと反省しており、教皇と和睦の途(みち)を模索しだしたこと。イザベッラの息子たちも無事であること。
そして、ローマが壊されていった次第である。ニコラスはそこでいくつか質問をした。
「ナヴォーナ広場の辺りは無事ですか?」
「……あそこは真っ先にランツクネヒトが襲撃したわ……」とイザベッラが首を横に振る。
「トレスティヴェレの修道院は? 」
イザベッラは一瞬言葉を失う。そして、ニコラスを見る。彼の顔は血の気が引いている。そして、ミケランジェロを見やる。ミケランジェロがこれでもかというほど顔をしかめているのが見える。イザベッラはため息をひとつついてから、ニコラスに、優しく諭すような声で言う。
「ニコラス、はじめに言っておくわ。ローマから逃げ出した人もたくさんいる。一般の市民、商人、芸術家、職工、あるいは貴族、聖職者もね。もしあなたの知り合いがその辺りに住んでいたとしても、逃げ出して無事だったかもしれない」
「逃げ出さなかった場合は? 」とニコラスがかすれた声で聞く。
イザベッラは天を仰ぐしぐさをする。
「ランツクネヒトたちはルター派で、カトリック教会を憎悪していたわ……周辺の修道院に対しても……容赦しなかったと聞きました」
「殺されたと言うのですか? 弱い修道女たちも? 」とニコラスが真っ青な顔をして聞く。
イザベッラは目を固くつむった。そしてそのまま、うつむいて言った。
「辱しめを受けて、皆殺されたと聞きました……」
ニコラスはとどめをさされたかのように固まった。
イザベッラの声がどこか遠くから聞こえてくるように感じている。
いちばん聞きたくない言葉だった。
ミケランジェロが痛々しい表情でニコラスに告げる。
「ニコラス、マルガリータもルティのパン屋も、きっと逃げたよ。シエナに戻ったのかもしれない。人を頼んで調べてもらうようにする。だから……」
ニコラスはミケランジェロの顔を見た。
涙であふれている目で。
イザベッラがニコラスにつぶやく。
「何もかけてあげる言葉がないわ……かわいそうに」
イザベッラの瞳も涙で濡れていた。
フィレンツェにはたくさんの広場がある。
ヴェッキオ宮殿のあるシニョリーア広場、フィレンツェのシンボル、サンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂のあるドゥオーモ広場、その裏側にあたるサン・ジョヴァンニ広場、サンタ・マリア・ノヴェッラ広場、サンタ・クローチェ広場、サンティッシマ・アンヌンツィアータ広場、レプブリカ広場……など50の広場がある。
広場は人々が行き過ぎるだけの場所ではない。お祭り、宗教行事、騎馬競技、市場、賭け事、芸能、遊戯あるいは処刑などありとあらゆる出来事の舞台だった。
もちろん、ソッラとミケーレのような恋人たちの出会いの場所であり、ニコラスのような絵描きの卵が狂喜乱舞する野外美術館でもあった。
本当ならばこの街は、例年6月に行われる聖ヨハネ祭で賑わっているはずだった。
しかしこの年、1527年はそれが吹き飛ぶほどの騒ぎになっている。
5月のローマ劫略を機にフィレンツェで反乱が勃発し、メディチ家が再び追放されたのだ。フィレンツェの政治は再び共和派が握ることとなった。
だいぶ前からその兆しはあった。貴族層の一部がクーデターを計画して事前に察知され、容疑者が捕縛・処刑されることもあった。かつて、ニッコロ・マキアヴェッリが疑いをかけられ捕囚されたのもそれである。
ローマ劫略という一大事の混乱に乗じて、それがついに爆発したのである。メディチ家の出世頭である教皇クレメンス7世がカスタル・サンタンジェロに籠っている状態だったので、政権を覆すのにさほど時間はかからなかった。
ここで明暗が分かれたのが、皮肉にもミケランジェロ・ブォナローティとニッコロ・マキアヴェッリだった。
さきに、マキアヴェッリがフィレンツェの市壁の強化をクレメンス7世に言上して認められた話をした。その市壁工事は済んでいたのだが、フィレンツェの共和国政府はさらに市街の防御策を講じる必要があると判断した。市壁の一層の強化に加え土手を築くなどの工事に着手することになった。
この設計・建造総監督にミケランジェロ・ブォナローティが任命されたのだ。それもあって、彼は新しい共和国政府で重きを置かれることになった。
芸術家というのはこの時代、政治的巧者でなければならなかった。ミケランジェロは風向きひとつでフィレンツェを追いたてられたかもしれないのだ。
メディチ家の仕事をしていたからである。
この場面でミケランジェロがうまく立ち回ったのかは定かでない。ただ、反乱の際には反メディチの側に立った。それでなければ、彼の立場は微妙になっただろう。
暗転したのはニッコロ・マキアヴェッリだった。彼は共和国の委員選挙に立候補して再びヴェッキオ宮殿(政府)への復帰を果たそうとした。しかし、選挙の結果は惨敗だった。敗因分析をすることもないと思うが、メディチ家の庇護を受けて著述業をしていたということが大きかったように思われる。
最後のチャンスを逃した時代の目撃者はこの直後病を得て、聖ヨハネ祭直前の6月21日にひっそりとこの世を去った。
享年58歳だった。
『ダヴィデ』はシニョリーア広場で市民を見つめている。
ニコラスはフィレンツェ防御土塁工事の指揮兼役を任されていた。この工事は広範囲に渡り、ミケランジェロが全てを指揮することが不可能なので、弟子たちもその役割を任されることになったのだ。
このとき、ミケランジェロのもとに来た新しい弟子、ジョルジョ・ヴァザーリはいない。絵画を学ぶためにサルトという画家のところに「留学」している。
ミケランジェロ自身が意識していたかは定かではないが、近年依頼される仕事は建築・装飾関係に集中するようになった。お蔵入りになったサン・ロレンツォ聖堂ファサードの仕事は脇に置いても、その礼拝堂装飾や付属の図書館の設計も進んでいた。また、今や因縁となってしまった3代前の教皇、ユリウス2世の廟所設計・装飾も依然として残っている。
この人はひとつの仕事にかける時間が長い。
大規模で時間がかかる場合もたくさんある。その間に政治的な変動が起こったりして足止めをくらい、さらに長くなる。今は工房として人も増えているので、いくらか分担はできる。それでも、ラファエロの工房のような早さは望めなかった。
さて、この年、ニコラスはローマに行きたいと何度か師匠に告げている。それはランツクネヒトがフィレンツェの脇を通過するはるか前からだ。師匠のミケランジェロが理由を聞くと、ニコラスは必ずこう言った。
「ローマの美術品が奪われてしまいます」
なるほど、それは誰もがうなずく理由である。しかし、黒隊のジョヴァンニやスイス傭兵の長がこのセリフを言うのならまだしも、ひょろっとした19歳の青年の口から出るのは奇異である。ミケランジェロも初めは軽く受け止めていた。
「ニコラス、おまえは剣も持ったことがないくせに、どうやってランツクネヒトたちに立ち向かうつもりだ? ここにある大理石を砕いて投石機で当てるぐらいしか出来ないぞ。ダヴィデならばゴリアテに命中させられるだろうが、おまえでは無理だ。何ならこの工房で小隊を作るか」
「からかわないで下さい、師匠」とニコラスは切羽詰まった顔をしてうつむく。そのあともニコラスは折に触れてその話をする。ローマが破壊されたという知らせが来て以降、さらに頻繁にローマ行きを求めるようになった。
ミケランジェロも確かにローマの状況は気になる。自分が手掛けた作品ーー『ピエタ』像も『天地創造』の天井画もあるのだ。それにこれから手がけるであろう、ユリウス2世の廟所も。しかし、ランツクネヒトをはじめ皇帝軍はことが済んだ後もまだローマに居座っているのだ。
とは言え、ミケランジェロはじきに気がついた。ニコラスが気にしているのは美術品だけではない。いや、美術品より気にしていることがある。
それは人間のことだ。
女性のことだ。
しかし、それが分かったからと言って、「じゃ、行ってこい」とはならない。それは無理だ。
ネクロポリス(死者の都)となったローマは死体の片付けをするものもなく、腐敗するままに放置された。空からはカラスの群れ、地面からはネズミの群れがわがもの顔で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する。川は悪臭を放ち、鼻を押さえなければ耐えられないほどになった。
そして、ネズミの群れはペストを連れてきた。
あっという間にそれはローマを覆い尽くす。
その状況はフィレンツェにも伝わっている。なので、ローマに行こうとする人間はいない。どうしても行かなければならない者は防護用の頭巾を持参して出かける。そして、決して長居はしない。比較的安全なのは教皇庁とコロンナ宮殿だったが、それは「中に入れば」という条件付きである。行き帰りの道筋に安全の保証はまったくない。
ミケランジェロは様子を見ろと言うしかない。ニコラスもそれはわかっている。
結局、フィレンツェの防御壁や土塁工事が始まってもローマはまだ安全にはならず、ようやく沈静化したのは、吹く風冷たい11月になってからだった。
ミケランジェロが政庁でローマの様子を聞いてニコラスに知らせた。
ニコラスはすぐに旅のしたくをはじめようとする。ミケランジェロがきびすを返した弟子に呼び掛ける。
「おい、ニコラス、最後まで話を聞け。ローマにずっと滞在していたお方が、フィレンツェに数日寄っていくらしい。その方に状況を聞いてから行った方がいい。もう、1日2日出発が遅れたからといって、同じことじゃないか」
ニコラスは師匠に向き直り、まじまじとその目を見る。
「どなたですか、その方は?」
ミケランジェロは上着を脱ぎながら言う。
「マントヴァの、イザベッラ侯妃だよ。お前も知っているだろう」
イザベッラ・デステはローマからの帰途、フィレンツェに立ち寄った。
長い籠城と旅の疲れを癒すためである。マントヴァは中立の立場を終始保っていたし、彼女がコロンナ宮で庇護した中にはフィレンツェ人もいた。彼女のフィレンツェ入りを拒む人はいなかった。
ニコラスはイザベッラ・デステのことをもちろん知っている。自身が長年世話になったフェラーラ公国の当主、アルフォンソ・デステの姉である。ただ、ニコラスは使用人の子という立場だったし、イザベッラも頻繁にフェラーラを訪れていたわけではないので、直接面会する機会はなかった。
彼女との面会はヴェッキオ宮殿の一室で実現する。
勇敢な貴婦人は少しやつれた風で長椅子に腰かけてニコラスを迎える。そして、ミケランジェロに連れられた青年を見て、目を丸くした。
「あなたね! エルコレの親友は! まあ、まあ、あなた、黒い服を着ていたらチェーザレ・ボルジアの側近、ドン・ミケロットそのものよ! 懐かしい、懐かしいわ……」
そう言ってイザベッラは微笑む。
ニコラスはどう答えていいか分からず立っていたが、「侯妃さまもご健勝のご様子で、本当に何よりでした」ときちんとあいさつする。
それから、イザベッラはひとりで話し始める。
アルフォンソ・デステも無事でじきにフェラーラに戻れるということ。皇帝カール5世が今回のローマ劫略について行き過ぎだと反省しており、教皇と和睦の途(みち)を模索しだしたこと。イザベッラの息子たちも無事であること。
そして、ローマが壊されていった次第である。ニコラスはそこでいくつか質問をした。
「ナヴォーナ広場の辺りは無事ですか?」
「……あそこは真っ先にランツクネヒトが襲撃したわ……」とイザベッラが首を横に振る。
「トレスティヴェレの修道院は? 」
イザベッラは一瞬言葉を失う。そして、ニコラスを見る。彼の顔は血の気が引いている。そして、ミケランジェロを見やる。ミケランジェロがこれでもかというほど顔をしかめているのが見える。イザベッラはため息をひとつついてから、ニコラスに、優しく諭すような声で言う。
「ニコラス、はじめに言っておくわ。ローマから逃げ出した人もたくさんいる。一般の市民、商人、芸術家、職工、あるいは貴族、聖職者もね。もしあなたの知り合いがその辺りに住んでいたとしても、逃げ出して無事だったかもしれない」
「逃げ出さなかった場合は? 」とニコラスがかすれた声で聞く。
イザベッラは天を仰ぐしぐさをする。
「ランツクネヒトたちはルター派で、カトリック教会を憎悪していたわ……周辺の修道院に対しても……容赦しなかったと聞きました」
「殺されたと言うのですか? 弱い修道女たちも? 」とニコラスが真っ青な顔をして聞く。
イザベッラは目を固くつむった。そしてそのまま、うつむいて言った。
「辱しめを受けて、皆殺されたと聞きました……」
ニコラスはとどめをさされたかのように固まった。
イザベッラの声がどこか遠くから聞こえてくるように感じている。
いちばん聞きたくない言葉だった。
ミケランジェロが痛々しい表情でニコラスに告げる。
「ニコラス、マルガリータもルティのパン屋も、きっと逃げたよ。シエナに戻ったのかもしれない。人を頼んで調べてもらうようにする。だから……」
ニコラスはミケランジェロの顔を見た。
涙であふれている目で。
イザベッラがニコラスにつぶやく。
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