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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ
旅立つ少年 1521年 サラゴサ(スペイン)
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〈フランシスコ・ボルハ、マリア・エンリュクス〉
前回でスペインの状況について少し説明したので、ここではイベリア半島の東側にあるサラゴサの街に移動してみる。
かつてサラゴサはアラゴン王国の首都だった。
西の広大なカスティーリャ王国とアラゴン王国が結婚によってひとつになり、レコンキスタ(国土回復運動)を完遂したことは第1章、2章で説明した。フェルナンド王とイザベラ女王の結婚、その娘ファナとフィリップ美王(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の子)の結婚と悲劇的な結末についても紹介した。
その子どもがカルロス1世(カール5世)でこの時点の王である(正式には母親のファナがカスティーリャ女王だが幽閉されたままである)。
サラゴサ。
マドリッドからもバルセロナからも60レグア(300km)の距離にあるこの地はイベリア半島東部の重要な中継地である。また、すぐ北にはナヴァーラ王国があり、首都パンプローナも近い。
この辺りは海から離れている。雨はほとんど降らないので、乾いた大地の中、岩山がところどころに見えるだけである。それが延々と続く。岩山を掘った住居も多い。家を建てて吹きさらしにするよりもはるかに過ごしやすいからである。
これがイベリア半島内陸部特有の景色なのだ。
少年は海に近い土地からサラゴサに向かっている。2人の従者が付いてくれてはいたが、生まれて初めての旅である。
行けども行けども乾いた荒野が続く。
空だけは絵の具でこってりと塗りつぶしたように、どこまでも青い。太陽はじりじりと乾いた荒野を灼き、人と灌木だけが濃い影を作る。
夜は驚くほど急激に気温が下がる。
風が強くなる。
早めに街の宿屋を取り、旅人たちは一息つく。荷物から厚い上着を取り出して着込み、夜の寒さに備える。
旅慣れている大人でも、この荒涼とした風景には果てのない寂寥(せきりょう)を覚えることがある。
この辺りは、はるか西の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう巡礼路でもある。巡礼者は寂寥の地を旅して、殉教者の苦難を追体験することになる。賑かな都市が続き、風光明媚(ふうこうめいび)な自然を愛でつつ進む楽しみはあまりない。
巡礼という趣旨にかなった道筋である。
寂寥だけではない。
太陽の強い光が限りなく濃い漆黒の影を生む。人は暑さに疲弊していく自分が、漆黒の影に飲み込まれてしまうような錯覚を覚える。
地中海の風に吹かれて育った少年は、この荒涼と漆黒の風景に生涯忘れられないほど強い印象を抱いた。
そして、その風景が後年、彼の人生をまるごと変えてしまうのだ。
彼は公爵家の嫡子で、10歳になったばかりである。その少年がわずかの従者を付けただけで旅立たなければならないのには、理由があった。少年の母親が病気で亡くなったことに加え、領地ガンディアで農民の反乱が起こったからだ。
カルロス1世がスペイン王になった後、大小の反乱が起こったことは前にも書いた。それは都市の貴族だけでなく、他の層にも波及していた。
中世までこの大陸はイスラム教徒との戦いに明け暮れていた。そのレコンキスタに区切りがついた後、フェルナンド王とイザベラ女王は国を安定させるために国政改革を行なった。その大きな柱となったのが、キリスト教(カトリック)を基盤とした国作りである。レコンキスタの続いた800年の間、ゆるやかに融和していた部分にはっきりと線が引かれるようになった。
何に線が引かれたのか。
宗教である。
はじめにユダヤ教徒、続いて融和・同化していたイスラム教徒が追放されることとなった。同様の手段が取られたことは、レコンキスタの時代にもあった。しかし、両王が取った手段は容赦のないものだった。
それによる社会の変化は庶民の日常にも及んだ。日頃友人付き合いなり、商売で付き合っていた人が移住を余儀なくされる。あるいは異端審問にかけられるということが普通になったのだ。そのような急激な変化に対する不満は16世紀になってからずっと存在していた。
カルロス1世が王になり、国王の権限が拡大することへの不満はもちろんあった。しかしその根底にあったのはこの二十数年の流れである。農民の反乱も社会の変化に対する積年の不安が背景にあったと考えられる。
いっとき領主ボルハ家当主の摂政としてガンディアを治めていたのは、マリア・エンリュクスである。ボルハ家はイタリア半島で言うならば、「ボルジア」である。
スペインで血脈を継いでいるボルハ家についてはさきの章でも述べているが、改めて簡単に記しておく。
教皇アレクサンデル6世となったロドリーゴ・ボルジアには5人の子どもがいた。ペドロ・ルイス、チェーザレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレである。他に庶子や養子がいるがここには挙げない。
ペドロ・ルイスがはじめにガンディア公、ボルハ家の当主となった。チェーザレは聖職者への道を進む。その後ペドロ・ルイスが早世したため、三男のホアンが二代目のガンディア公となる。ルクレツィアはペーザロ伯と結婚し、その後二度再嫁する。そしてホフレはナポリのダラゴーナ家の娘と結婚ーーというのがきょうだいの進んだ道になる。
なお、チェーザレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレの母であるヴァノッツア・カタネイは1517年に亡くなっている。
二代目ガンディア公となったホアンはマリア・エンリュクスと結婚し二児をもうけたが、彼はローマで亡くなった。チェーザレが命じて殺害させたと言われている。マリアはその後、イタリア半島の「ボルジア家」とは関係を断って、ひたすらガンディアの所領と子どもたちを守ることに徹した。
マリアが称賛されるのはここからである。悪評の中で失墜したイタリア半島の「ボルジア家」の禊(みそぎ)をするかのように、敬虔なキリスト教徒の手本となったのである。日々を祈りのうちに過ごし、領内に修道院を建てる。その暮らしぶりはフェルナンド国王も褒め称えるほどであった。
マリアとホアンの子ども(一男の名は父親と同じホアンである)が三世ガンディア公になり、フェルナンド王の庶出の娘ファナを妻として迎える頃には、ボルハ家の立場は磐石なものとなっていた(フェルナンド王とイザベラ女王嫡出の娘もファナなので、たいへんややこしい)。
それを見届けたマリアは娘(ホアンとの間の子)を連れて俗世を捨て、自身が建てた修道院に入った。以降、ボルハ家の女性は(全員ではないが)修道院に入る伝統ができたといわれている。
マリア・エンリュクスの篤い信仰心と行いは半ば伝説となってフェルナンド王から孫のカルロス1世に受け継がれた。スペインの風土に馴染んでいなかったカルロスもマリアに関する逸話を素直に聞き、感銘を受けた。両親の愛情を十分に受けることがなかったカルロスは、マリア・エンリュクスに「理想の母親」を見たのかもしれない。
マリアの孫にはぜひ王宮の直臣に付いてほしいーーと要請した。
そのようにボルハ家はこの世の春を謳歌していたのだ。しかし、領民の反乱勃発の報を受けて一家は一時逃亡する羽目になったのである。そしてそれを機に、嫡子は一人サラゴサに向かうことになったのである。
サラゴサには司教座聖堂がある。アラゴン王国(その頃には一地方の扱いになっていたのだが)のキリスト教会の中心地といってもよい。ボルハ家の嫡子はしばらく司教館の世話になることとなった。
ちなみに、大司教ホアン・デ・アラゴンは少年の叔父である(母方の係累と思われる)。
この大司教に預けたのにはマリアの考えもあった。なぜならボルハ家の嫡子、マリアの孫はごくごく幼い頃から人並み外れて信仰心が強かったからである。マリアはそれをよく分かっていたので、サラゴサの大司教に孫を託すのが適切だと考えたのかもしれない。
彼は嫡子、すなわちボルハ家の当主になるべき人間なので、いくら信心深くても聖職をめざすことはかなわない。ただ、公爵として、王の側近として生きるのだとしても、アラゴンの首都で高位聖職者とともに過ごす経験は無駄にはならない。
後の世紀に、上流階級の子弟が寄宿舎のある学校に入る慣習ができるのと似ているかもしれない。
また、サラゴサはこの時期、アラゴンの学芸の中心地でもあった。
覚えているだろうか。この頃ナヴァーラにいるフランシスコ・ザビエルのおじ、マルティン・アスピルクエタがサラマンカ大学(カスティーリャ)の教授をしていたことを。
アラゴンにはそのような総合大学はなかった。しかし、大学の設立を求めるための運動が前世紀から起こっており、大学に準ずる形の学校ができていた。文芸を主に教えていたこの学校はパリ大学における「学院」(フランシスコ・ザビエルがいたバルバラ学院のような)ほどの規模だったが、のちに王に認可され総合大学となる。
のちのサラゴサ大学だ。
この学校は司教座聖堂に隣接して建てられている。地方最高の教育機関があるところにボルハ家の嫡子を滞在させることは、両親も望ましいと判断した。何しろ時期当主になる少年には、王からも声がかかっているのだから。
それらの事情を考えると、少年は留学するーーというのが適切な表現だろう。
前置きが長くなった。
荒涼とした地を旅してようやく彼はサラゴサに到着した。実質は4日ほどの日程だったが、少年は身体の芯まで埃っぽくなったように感じていた。
旅を経てたどり着いたサラゴサの街は大都市だった。
市街地を悠々とエブロ川が流れ、その両側に石造りの建物が立ち並ぶ。広大な宮殿や、尖塔のある大きな聖堂が見える。市場や広場には人が行き交っている。少年が慣れ親しんだガンディアとはまったく違う。ここに比べればガンディアはバレンシア地方の小さな町の一つに過ぎない。
所々に石が積んであるのを見て、少年は従者にあれは何かと尋ねる。
「あれは、ローマ時代の城壁の跡でしょう。街道も街もその頃に築かれたのですよ」
「それがまだ残っているんだ! もう千年以上も前のものでしょう」と少年は驚く。
従者は少年に諭すように言う。
「そうですよ、坊っちゃま。この城壁は1300年前のものです。この石がここに長くある間、この国はさまざまな苦難を経験してきました。ローマ、西ゴート王国、そして長いレコンキスタ……アラゴンが経てきた数々の歴史があるのです。坊ちゃまは公爵におなりになるのですから、ぜひそのこともよく学んでくださいませ」
「うん、わかった」と少年は言う。
フランシスコ・ボルハ、チェーザレ・ボルジアを大伯父(おおおじ、祖父の兄)に持つこの少年は、ここサラゴサから人生の一歩を踏み出すことになる。
少年にローマ帝国を興そうというような野望はまったくない。まだ10歳にしかならない彼はごくごく小さな頃から聖職者になりたいと望んでいた。聖職者の衣を脱ぎ捨てて剣を取ったチェーザレ・ボルジアとは正反対である。
しかし、運命は彼にその道を許さない。
ローマ帝国に次ぐ規模の領土を手に入れた神聖ローマ帝国皇帝、そしてスペイン王に仕えることが約束されているのである。
フランシスコの祖母、マリア・エンリュクスが、「まったく、皮肉なことだ」とつぶやいた通りである。このとき、ボルハ家の人間は誰も知らない。
イタリア半島のボルジア家に嵐を巻き起こした一人の男が、このイベリア半島にいることを。
フランシスコはサラゴサの司教館に温かく迎え入れられた。大司教は噂に聞いていたものの、ボルハ家の御曹司(おんぞうし)の信仰の篤さに飛び上がるほど驚いた。聖書をラテン語で記憶し諳じるだけでなく、カトリックの典礼(きまり、儀式)についてもほぼ完全に習得していたからである。その点についてだけ言えば大司教を凌いでいたのかもしれない。
ダイヤモンドの原石が、磨くまでもなくきらきらと輝いているようなものである。
大司教はため息をつく。
もし彼がこの道を進めるのならば、あっという間に司祭になり、司教になり、王を後ろ楯につけて枢機卿(すうきけい、すうききょう)になることも難しくないだろう。そうすれば、教皇になることも十分に可能だ。
実際、そのような経緯で教皇に就任する人間も出てくるのである。
「変えようのないことであれこれ考えても仕方ない。王の側近にふさわしい教養を与えることに専念しよう」
背景や家族の考えはともかく、この「留学」を楽しもうとフランシスコは決めていた。荒涼とした原野を越えてたどり着いた都市には、楽しいものがたくさんあるように思えたのだ。
それは少年にとって、「学ぶ」という壮大な冒険だった。
前回でスペインの状況について少し説明したので、ここではイベリア半島の東側にあるサラゴサの街に移動してみる。
かつてサラゴサはアラゴン王国の首都だった。
西の広大なカスティーリャ王国とアラゴン王国が結婚によってひとつになり、レコンキスタ(国土回復運動)を完遂したことは第1章、2章で説明した。フェルナンド王とイザベラ女王の結婚、その娘ファナとフィリップ美王(神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の子)の結婚と悲劇的な結末についても紹介した。
その子どもがカルロス1世(カール5世)でこの時点の王である(正式には母親のファナがカスティーリャ女王だが幽閉されたままである)。
サラゴサ。
マドリッドからもバルセロナからも60レグア(300km)の距離にあるこの地はイベリア半島東部の重要な中継地である。また、すぐ北にはナヴァーラ王国があり、首都パンプローナも近い。
この辺りは海から離れている。雨はほとんど降らないので、乾いた大地の中、岩山がところどころに見えるだけである。それが延々と続く。岩山を掘った住居も多い。家を建てて吹きさらしにするよりもはるかに過ごしやすいからである。
これがイベリア半島内陸部特有の景色なのだ。
少年は海に近い土地からサラゴサに向かっている。2人の従者が付いてくれてはいたが、生まれて初めての旅である。
行けども行けども乾いた荒野が続く。
空だけは絵の具でこってりと塗りつぶしたように、どこまでも青い。太陽はじりじりと乾いた荒野を灼き、人と灌木だけが濃い影を作る。
夜は驚くほど急激に気温が下がる。
風が強くなる。
早めに街の宿屋を取り、旅人たちは一息つく。荷物から厚い上着を取り出して着込み、夜の寒さに備える。
旅慣れている大人でも、この荒涼とした風景には果てのない寂寥(せきりょう)を覚えることがある。
この辺りは、はるか西の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラに向かう巡礼路でもある。巡礼者は寂寥の地を旅して、殉教者の苦難を追体験することになる。賑かな都市が続き、風光明媚(ふうこうめいび)な自然を愛でつつ進む楽しみはあまりない。
巡礼という趣旨にかなった道筋である。
寂寥だけではない。
太陽の強い光が限りなく濃い漆黒の影を生む。人は暑さに疲弊していく自分が、漆黒の影に飲み込まれてしまうような錯覚を覚える。
地中海の風に吹かれて育った少年は、この荒涼と漆黒の風景に生涯忘れられないほど強い印象を抱いた。
そして、その風景が後年、彼の人生をまるごと変えてしまうのだ。
彼は公爵家の嫡子で、10歳になったばかりである。その少年がわずかの従者を付けただけで旅立たなければならないのには、理由があった。少年の母親が病気で亡くなったことに加え、領地ガンディアで農民の反乱が起こったからだ。
カルロス1世がスペイン王になった後、大小の反乱が起こったことは前にも書いた。それは都市の貴族だけでなく、他の層にも波及していた。
中世までこの大陸はイスラム教徒との戦いに明け暮れていた。そのレコンキスタに区切りがついた後、フェルナンド王とイザベラ女王は国を安定させるために国政改革を行なった。その大きな柱となったのが、キリスト教(カトリック)を基盤とした国作りである。レコンキスタの続いた800年の間、ゆるやかに融和していた部分にはっきりと線が引かれるようになった。
何に線が引かれたのか。
宗教である。
はじめにユダヤ教徒、続いて融和・同化していたイスラム教徒が追放されることとなった。同様の手段が取られたことは、レコンキスタの時代にもあった。しかし、両王が取った手段は容赦のないものだった。
それによる社会の変化は庶民の日常にも及んだ。日頃友人付き合いなり、商売で付き合っていた人が移住を余儀なくされる。あるいは異端審問にかけられるということが普通になったのだ。そのような急激な変化に対する不満は16世紀になってからずっと存在していた。
カルロス1世が王になり、国王の権限が拡大することへの不満はもちろんあった。しかしその根底にあったのはこの二十数年の流れである。農民の反乱も社会の変化に対する積年の不安が背景にあったと考えられる。
いっとき領主ボルハ家当主の摂政としてガンディアを治めていたのは、マリア・エンリュクスである。ボルハ家はイタリア半島で言うならば、「ボルジア」である。
スペインで血脈を継いでいるボルハ家についてはさきの章でも述べているが、改めて簡単に記しておく。
教皇アレクサンデル6世となったロドリーゴ・ボルジアには5人の子どもがいた。ペドロ・ルイス、チェーザレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレである。他に庶子や養子がいるがここには挙げない。
ペドロ・ルイスがはじめにガンディア公、ボルハ家の当主となった。チェーザレは聖職者への道を進む。その後ペドロ・ルイスが早世したため、三男のホアンが二代目のガンディア公となる。ルクレツィアはペーザロ伯と結婚し、その後二度再嫁する。そしてホフレはナポリのダラゴーナ家の娘と結婚ーーというのがきょうだいの進んだ道になる。
なお、チェーザレ、ホアン、ルクレツィア、ホフレの母であるヴァノッツア・カタネイは1517年に亡くなっている。
二代目ガンディア公となったホアンはマリア・エンリュクスと結婚し二児をもうけたが、彼はローマで亡くなった。チェーザレが命じて殺害させたと言われている。マリアはその後、イタリア半島の「ボルジア家」とは関係を断って、ひたすらガンディアの所領と子どもたちを守ることに徹した。
マリアが称賛されるのはここからである。悪評の中で失墜したイタリア半島の「ボルジア家」の禊(みそぎ)をするかのように、敬虔なキリスト教徒の手本となったのである。日々を祈りのうちに過ごし、領内に修道院を建てる。その暮らしぶりはフェルナンド国王も褒め称えるほどであった。
マリアとホアンの子ども(一男の名は父親と同じホアンである)が三世ガンディア公になり、フェルナンド王の庶出の娘ファナを妻として迎える頃には、ボルハ家の立場は磐石なものとなっていた(フェルナンド王とイザベラ女王嫡出の娘もファナなので、たいへんややこしい)。
それを見届けたマリアは娘(ホアンとの間の子)を連れて俗世を捨て、自身が建てた修道院に入った。以降、ボルハ家の女性は(全員ではないが)修道院に入る伝統ができたといわれている。
マリア・エンリュクスの篤い信仰心と行いは半ば伝説となってフェルナンド王から孫のカルロス1世に受け継がれた。スペインの風土に馴染んでいなかったカルロスもマリアに関する逸話を素直に聞き、感銘を受けた。両親の愛情を十分に受けることがなかったカルロスは、マリア・エンリュクスに「理想の母親」を見たのかもしれない。
マリアの孫にはぜひ王宮の直臣に付いてほしいーーと要請した。
そのようにボルハ家はこの世の春を謳歌していたのだ。しかし、領民の反乱勃発の報を受けて一家は一時逃亡する羽目になったのである。そしてそれを機に、嫡子は一人サラゴサに向かうことになったのである。
サラゴサには司教座聖堂がある。アラゴン王国(その頃には一地方の扱いになっていたのだが)のキリスト教会の中心地といってもよい。ボルハ家の嫡子はしばらく司教館の世話になることとなった。
ちなみに、大司教ホアン・デ・アラゴンは少年の叔父である(母方の係累と思われる)。
この大司教に預けたのにはマリアの考えもあった。なぜならボルハ家の嫡子、マリアの孫はごくごく幼い頃から人並み外れて信仰心が強かったからである。マリアはそれをよく分かっていたので、サラゴサの大司教に孫を託すのが適切だと考えたのかもしれない。
彼は嫡子、すなわちボルハ家の当主になるべき人間なので、いくら信心深くても聖職をめざすことはかなわない。ただ、公爵として、王の側近として生きるのだとしても、アラゴンの首都で高位聖職者とともに過ごす経験は無駄にはならない。
後の世紀に、上流階級の子弟が寄宿舎のある学校に入る慣習ができるのと似ているかもしれない。
また、サラゴサはこの時期、アラゴンの学芸の中心地でもあった。
覚えているだろうか。この頃ナヴァーラにいるフランシスコ・ザビエルのおじ、マルティン・アスピルクエタがサラマンカ大学(カスティーリャ)の教授をしていたことを。
アラゴンにはそのような総合大学はなかった。しかし、大学の設立を求めるための運動が前世紀から起こっており、大学に準ずる形の学校ができていた。文芸を主に教えていたこの学校はパリ大学における「学院」(フランシスコ・ザビエルがいたバルバラ学院のような)ほどの規模だったが、のちに王に認可され総合大学となる。
のちのサラゴサ大学だ。
この学校は司教座聖堂に隣接して建てられている。地方最高の教育機関があるところにボルハ家の嫡子を滞在させることは、両親も望ましいと判断した。何しろ時期当主になる少年には、王からも声がかかっているのだから。
それらの事情を考えると、少年は留学するーーというのが適切な表現だろう。
前置きが長くなった。
荒涼とした地を旅してようやく彼はサラゴサに到着した。実質は4日ほどの日程だったが、少年は身体の芯まで埃っぽくなったように感じていた。
旅を経てたどり着いたサラゴサの街は大都市だった。
市街地を悠々とエブロ川が流れ、その両側に石造りの建物が立ち並ぶ。広大な宮殿や、尖塔のある大きな聖堂が見える。市場や広場には人が行き交っている。少年が慣れ親しんだガンディアとはまったく違う。ここに比べればガンディアはバレンシア地方の小さな町の一つに過ぎない。
所々に石が積んであるのを見て、少年は従者にあれは何かと尋ねる。
「あれは、ローマ時代の城壁の跡でしょう。街道も街もその頃に築かれたのですよ」
「それがまだ残っているんだ! もう千年以上も前のものでしょう」と少年は驚く。
従者は少年に諭すように言う。
「そうですよ、坊っちゃま。この城壁は1300年前のものです。この石がここに長くある間、この国はさまざまな苦難を経験してきました。ローマ、西ゴート王国、そして長いレコンキスタ……アラゴンが経てきた数々の歴史があるのです。坊ちゃまは公爵におなりになるのですから、ぜひそのこともよく学んでくださいませ」
「うん、わかった」と少年は言う。
フランシスコ・ボルハ、チェーザレ・ボルジアを大伯父(おおおじ、祖父の兄)に持つこの少年は、ここサラゴサから人生の一歩を踏み出すことになる。
少年にローマ帝国を興そうというような野望はまったくない。まだ10歳にしかならない彼はごくごく小さな頃から聖職者になりたいと望んでいた。聖職者の衣を脱ぎ捨てて剣を取ったチェーザレ・ボルジアとは正反対である。
しかし、運命は彼にその道を許さない。
ローマ帝国に次ぐ規模の領土を手に入れた神聖ローマ帝国皇帝、そしてスペイン王に仕えることが約束されているのである。
フランシスコの祖母、マリア・エンリュクスが、「まったく、皮肉なことだ」とつぶやいた通りである。このとき、ボルハ家の人間は誰も知らない。
イタリア半島のボルジア家に嵐を巻き起こした一人の男が、このイベリア半島にいることを。
フランシスコはサラゴサの司教館に温かく迎え入れられた。大司教は噂に聞いていたものの、ボルハ家の御曹司(おんぞうし)の信仰の篤さに飛び上がるほど驚いた。聖書をラテン語で記憶し諳じるだけでなく、カトリックの典礼(きまり、儀式)についてもほぼ完全に習得していたからである。その点についてだけ言えば大司教を凌いでいたのかもしれない。
ダイヤモンドの原石が、磨くまでもなくきらきらと輝いているようなものである。
大司教はため息をつく。
もし彼がこの道を進めるのならば、あっという間に司祭になり、司教になり、王を後ろ楯につけて枢機卿(すうきけい、すうききょう)になることも難しくないだろう。そうすれば、教皇になることも十分に可能だ。
実際、そのような経緯で教皇に就任する人間も出てくるのである。
「変えようのないことであれこれ考えても仕方ない。王の側近にふさわしい教養を与えることに専念しよう」
背景や家族の考えはともかく、この「留学」を楽しもうとフランシスコは決めていた。荒涼とした原野を越えてたどり着いた都市には、楽しいものがたくさんあるように思えたのだ。
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