16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ

最後の吐息にやわらかなキスを 1520年 ローマ

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〈ニコラス・コレーリャ、メディチ家の通信係ガブリエロ、ラファエロ・サンティ、マルガリータ・ルティ、教皇レオ10世、ミケランジェロ・ブォナローティ〉

 1520年4月のはじめ、ミケランジェロの依頼でフィレンツェのメディチ家から従者を出してもらい、ローマのラファエロ・サンティのもとへ馬を走らせるニコラスである。
 この年12歳になるニコラス・コレーリャだが、フェラーラにいた頃から馬に慣れ親しんでいるので、大人と変わらずに扱うことができる。付いているガブリエロという名の男もニコラスの手綱さばきに感心している。
「これなら、メディチ家の通信係でもやっていけるな」とつぶやく。
「仕事にあぶれたら、ぜひお願いします」とニコラスは微笑む。
 ミケランジェロのところで働くようになってから、ニコラスはいっそう人に心を開く人間になった。母と離れて、一人前の大人にならなければという内なる思いもあったと思われる。

 ニコラスはフェラーラで武器や甲冑をいくつも絵に描いたが、軍人になるための鍛練はまったくしていない。しかし馬を操るその姿は彼の父であるミケーレ・ダ・コレーリアを彷彿とさせる。すらりとした体躯、年齢に不相応な大きい手と長い指、自然な身のこなしかた……遠くイベリア半島のナヴァーラ王国で亡くなったとされるチェーザレ・ボルジアがニコラスの姿を目にしたら、かつての忠臣を思い、心に熱いものを抱いたことだろう。

 まだその可能性があることを、この話の読者諸兄はご存じだろうが。

 ローマには2日で到着した。ガブリエロとはカスタル・サンタンジェロの前で一端別れて、ニコラスは以前ローマ訪問時に聞いたラファエロの自宅に脇目も振らずに向かう。彼の借りた見事な濃褐色の馬も、ニコラスの期待によく応えている。

 ラファエロ邸にはほどなく到着することができた。

 開かれた重いドアの向こう側には、緋色の服を着た人が数人立っている。それに応対しているのは工房の若い徒弟たちだ。ニコラスが以前工房を訪れた時に見知った顔があったので、そちらの方に進んでいく。徒弟のほうでもそれに気がついた。

「フィレンツェのミケランジェロ・ブォナローティ様の使者がお越しですので、お連れします。あるじから真っ先にお通しするよう言いつけられております」

 緋色の服を着ているのは枢機卿(すうききょう、すうきけい)でまだ本人に会えていないらしい。聖職者の不満げな顔の間をくぐり抜け、ニコラスはラファエロの部屋に通される。枢機卿以外にも人でごった返している感じだ。この状態では……ガブリエロは家にも入れなかっただろう。自分だけが来てよかった、とニコラスは少しほっとする。しかし、これだけの人間が家に集まっているとなると、病人の容態はかなり悪いのか。

 部屋のドアを開けると、マルガリータと医師とラファエロがいた。
 ラファエロはベッドに寝ており、ニコラスが入っていくと頭だけ横に向けて、嗄れた声を絞る。
「ああ、ニコラス……ミケ……ジェロさんの……で来てくれた……ね」

 痩せこけて骸骨が透き通りそうな顔。肺に穴が空いたように呼吸は喘鳴を繰り返している。熱はもう一週間も続いているのだと誰かが階下で言っていた。

 ニコラスはラファエロ・サンティの変わりように驚いて、人差し指をあわてて口に当てる。喋らなくていい、というジェスチャーだ。マルガリータが目を潤ませて駆け寄り、ニコラスを抱きしめる。ニコラスもマルガリータを抱きしめ返す。女性を抱きしめた経験などなかったが、そうするべきだと自然に思えたのだ。身体を離した後、ニコラスが懐から手紙を出して、マルガリータに渡す。
 彼女はラファエロを見る。ラファエロはうなずく。
「私が読むわ……ラファエロ・サンティ様……」

 その手紙にはこう書いてあった。

〈ラファエロ・サンティ様、
ニコラスに手紙を託す。

逝くな!
持ち直してくれ!

おまえは俺より若いんだ。
ここで終わるような年齢じゃないだろう。

おまえがいなくなったら、
俺は誰を好敵手だと思えばいいんだ……。

俺は神に祈る。
お前を奪い去っていかないでくれと、
ただ、ずっと祈っている。

ミケランジェロ・ブォナローティ〉

 マルガリータがその手紙を読み終えると、ラファエロは淋しそうに微笑む。

「本当に……やだなあ。もっといつもの……うに、悪態をついてくれな……と」とだけつぶやくと、ごほごほと咳をはじめる。

 マルガリータが寄っていき、水を口に含ませる。それが静まると、マルガリータはニコラスに告げる。ラファエロはもう、声を出すことも難しくなっている。発熱が続き衰弱も激しい。すでに遺言書も整え、天国に行くための告悔も終え、そのときを待つばかりであることをである。そこで、マルガリータはハッと気づく。

「あなた、あれは見せていいかしら」

 ラファエロはうなずく。
「ミケランジェロさんにぜひお見せしたいって、ずっと言っていたの。ニコラスはミケランジェロさんの目になってくれるでしょうから、見てほしいわ」とマルガリータはニコラスに言い、ベッドの斜め後ろの広い壁面にかけた布を外す。壁面だと思っていたのは、縦が天井まで届くほど高く、横が人間の背丈よりも長い大きな板だった。

 一枚の絵だった。

 暗い地面にイエスの弟子、ぺテロ、ヤコブ、ヨハネをはじめ多くの人がいる。右下には悪魔に取り憑かれた少年がもがいている。イエスに癒しを受けるために連れてこられたのである。
 暗い地面を薄明かるく照らすのは、上空の光である。宵闇の濃紺、群青に染まる空も中央の白くまばゆい雲に照らされていく。白い光の中、天空に浮かぶのはイエス・キリストである。エリヤとモーゼ、いにしえの予言者がその両脇に浮かんでいる。
 イエスの目はそれでもやや虚ろに、さらなる天を仰いでいる。自身のさらなる受難を見据えているように受け取れる。

 これが、ラファエロ一人で完成させた、『キリストの変容』である。
 
 ニコラスはただただ圧倒された。見るものにあと一歩踏み込むことをためらわせるような、圧倒的な絵だ。

 マルガリータはまたベッドに戻って、ラファエロの側にひざまずく。そして、愛する男の手を握りしめる。ニコラスが圧倒されたまま、つぶやくように言う。

「三角形(トリニティ)にしたのですね。弟子のトリニティ、取り憑かれたこどものトリニティ、そしてイエスとエリヤとモーゼ、かたちも」

 ラファエロはうなずく。

「地上の人物の、肌を出したのですね」

 ラファエロはうなずく。

「師匠が飛び上がって喜びますよ」

 ラファエロは微笑む。

 もう熱は彼を焼かなかった。
 熱を出すだけの力も、もうない。
 彼はふっと、目を閉じる。
 マルガリータは恐怖に襲われる。

「ラファエロっ、あなた!」

 次の瞬間、ラファエロは目を開き、自分の手を握りしめるマルガリータを見た。そして、渇れていないいつもの声で、はっきりとこう言った。

「僕の目に映るのは、あなただけでいい。
僕の耳に響くのは、あなたの声だけでいい。
僕の唇をふさぐのは、
あなたの唇だけでいい」

 マルガリータは大粒の涙をとめどなく流す。そして、それを拭くこともせず、ラファエロに、「愛してるわ……」と告げると、その唇を柔らかくラファエロの唇に押しあてた。

 マルガリータはしばらく、愛しい男にぴったりと身体を寄せ、唇を与えたままでいる。すると、彼の口から小さな吐息がひとつもれて、彼女の唇に触れた。マルガリータが唇を離して自身の人差し指と中指でそっと唇に触れる。吐息の感触だけなぞって、愛しい男の顔を見る。
 彼の目は虚ろに開き、その口は微笑んでいる。しかし、もう呼吸をしていなかった。

 1520年4月6日、ラファエロは永遠の眠りについた。ちょうど彼の37歳の誕生日だった。

 ニコラスはその後のことをよく覚えていない。それまでの神々しさすら覚えるような時間が、階下の人間たちがドカドカと上がってくる音でかき消されたことは記憶している。あとは断片が途切れ途切れに残るだけである。
「教皇さまにすぐ急使を!」
「遺体はきちんとととのえておけ!」
「なぜ、我々を部屋に入れなかった?」

 そして、マルガリータは「妻ではない」ことを理由に階下の人間たちによって部屋から追いたてられた。ニコラスはびっくりして、おそらく、生まれてこのかた出したことのないような大声を上げた。
「なぜマルガリータさんが出ていかなければならないんですか! 」

 マルガリータはニコラスを押し止めて言う。
「いいの、いいのよ、ニコラス。私の家に帰りましょう」
 ニコラスはそれ以上何も言うことができず、マルガリータとともにラファエロ邸を出た。
 ニコラスは馬を引き取ると、憔悴しているマルガリータを馬に乗せて、自身はそれを引いて歩き始めた。マルガリータは一人言のようにつぶやく。

「ラファエロにはね、婚約者がいるの。ビッビエーナのディヴィーツィオ枢機卿の姪御さんよ。ラファエロは彼女と結婚しなかったのだけれど、立場上、婚約を取り消すことはできなかったの。だから、臨終を看取るのは婚約者でなければいけないの。でも、その方も今は病に伏していると聞いたわ……」

 ティヴェレ川に沿って馬を引きながら、ニコラスはやり場のない怒りを覚えていた。
「師匠がよくこぼしています。大人の事情というものでしょう」

「そう、そうね……」とマルガリータは微笑む。

 マルガリータの家に着くと、彼女の父母が娘を優しく迎える。父母は何も言わず、娘を食卓に座らせた。母親がニコラスに言う。
「ああ、ソッラの息子さん、わざわざ娘を送ってきてくれてありがとう。パンもスープもたんとあるから。今日はお連れは? 大丈夫なようならぜひ泊まって行って。近所の子にお願いして、お連れの方に言付けるから」

 ニコラスは自身もそう頼むつもりだったので、母親の言葉にうなずくとマルガリータの横に腰を下ろした。彼女のことが心配でならなかったのだ。しかし、適切な言葉はなかなか見つからない。

 ふと、ニコラスはラファエロの最期のほんのひとときのことを思い出した。

 枯れ枝のように痩せこけてしまったラファエロにぴったりと身を寄せているマルガリータ。その姿はまるで、ミケランジェロ・ブォナローティが創った『ピエタ』のようだった。
 教皇庁にある、イエス・キリストを抱くマリアの像だ。

「マルガリータさんは、本当に聖母だったんだ」とニコラスはつぶやく。

 マルガリータの父親はニコラスに悲しく微笑む。
「ああ、フィレンツェの頃、最初に店に来たときから、そんなことを言っていたっけ……もうずっと昔のことに思えるな」

 春の夜が静かに更けていく。
 月は霞んでいた。

 マルガリータはニコラスに、自室に来てほしいと頼んだ。ニコラスは彼女に付いていく。こじんまりとして、地味な調度の家具がほんの少し。彼女の部屋にはいくつかラファエロのデッサンが置いてある。すべてマルガリータをデッサンしたものだ。

「ああ、ラファエロさん、本物のマルガリータさんをたくさん描いたんですね」とニコラスはうなずく。マルガリータは力なく、「そうよ」とつぶやくと、ベッドの奥に立て掛けてある、布にくるまれた板を引き出した。

「これがね、わたしと彼の愛のあかし」

 そう言って、マルガリータは布を外してニコラスに見せる。小脇に抱えられるほどで、大きいものではない。そこには、緑の背景に浮かぶマルガリータが描かれていた。
 頭には布をターバンのように巻き、柔らかなシフォンで腹部を覆い、左上腕には「ウルビーノのラファエロ」という文字が刻まれた腕輪をはめている。あとの上半身は裸である。柔らかい胸のふくらみも、そこに奥ゆかしく添えられた右腕も、すべて生身の女性のものだった。

「裸だから……父母にも見せていないのよ。でも、今は無性に誰かに見せたくて。私は彼と愛し合っていたんですって誰かに分かってもらいたくて。ごめんね、ニコラス。あなたはまだ子どもなのに……」

 ニコラスはゆっくりとかぶりを振る。
「僕も画家のはしくれですよ。絵を見ればすべてわかります」

 ラファエロがこの世を去った後は、すべてが教皇庁の公式行事のように進んだ。もう私人としての扱いを受けることはない。教皇レオ10世はーー自身の兄弟が亡くなってもこうはならないだろうというほどーー涙をぽろぽろと流してラファエロの死を悲しんだ。
 葬儀が盛大に行われた後、本人の希望によりサンタ・マリア・ロトンド聖堂に埋葬されることになる。相前後して亡くなった婚約者もそこに葬られることになった。当時高名だった詩人ベンポが、彼の墓碑銘をラテン語で書いた。

〈ウルビーノの人ジョヴァンニ・サンティの息子ラファエロの記念に。偉大なる画家、古代の芸術家にも匹敵する人。その息も通うかと見まごう肖像画を見るならば、人はただちに自然と芸術が同盟していることを認めるであろう。彼は絵画と建築の事業によって、教皇ユリウス2世とレオ10世の栄光をいやますます輝かせた。37年の善き生涯を善のうちに生き、誕生日である1520年の4月6日に亡くなった。〉

 彼の多額の遺産は、あらかじめマルガリータに一部を手渡し、後は2人の弟子と故郷ウルビーノの親戚に分けられた。


「そうか、『キリストの変容』は完成させたのか……」とミケランジェロがつぶやく。

 ニコラスはうなずく。

「結局、三角形を反復するように並べたのか……考えたもんだ」とミケランジェロがあごひげを撫でる。

 ニコラスはうなずく。

「しかも、筋肉のついた裸の背中を描いたか……」とミケランジェロがつぶやく。

「師匠が飛び上がって喜びますと伝えたら、笑ってくれました」とニコラスはつぶやく。
 ラファエロはミケランジェロのように、人体の力強い美しさを表現することに重きをおかなかった。それはミケランジェロに一任することにしたのだろう。その代わり、遠近感や光の当てかた、着衣の人物の美しさや質感を表現することに力を注いだ。

 『キリストの変容』で下方右寄りに描かれた女性は、ミケランジェロへのメッセージだった。少なくともニコラスはそう考えたし、話を聞いたミケランジェロもそう信じたい気持ちになった。

 ラファエロはこの世に美しいものを多く生み出し、永遠への変容を遂げたのである。
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