16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ

ソッラの結婚 1519年 フィレンツェ

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〈ニコラス、ソッラ、アルヴァロ・ノヴェルダ、ディエゴ、ミケランジェロ・ブォナローティ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケーレ・ダ・コレーリア〉

 ミケランジェロ・ブォナローティはアトリエで一人デッサンを描いていた。この日、ニコラスには休みを与えている。

 サン・ロレンツォ聖堂ファサードの仕事を自身が任されることになったので、本格的にデザインを仕上げなければいけない。ミケランジェロは細部の詰めをしておかなければと、さっそく作業を始めたのである。
 この男は常に、「仕事の虫」である。
 フィレンツェ市庁舎会議場に飾られるはずだった『カッシーナの戦い』の壁画のように、中途で断念せざるを得ないことがあっても、それは本人の意思ではない。どんな大作でも、何年かかっても、一人で取りかかることになっても、環境さえ整っていれば仕上げる忍耐力を持っている。

 環境を整えることは、ときにたいへんな困難を伴うものなのだが。

 さて、サン・ロレンツォ聖堂ファサードの仕事は、建築の分野に属する仕事だ。
 この聖堂の建屋は建築家として後世に名を残すフィリッポ・ブルネルスキが手がけたものである。しかし、ブルネルスキも最初から建築家だったわけではない。彼は金細工師であり、彫刻家だった。それが、聖堂設計案を高く評価されたことから建築家として活躍することになる。幾度かの紆余曲折があるが、フィレンツェの顔ともいえるサンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂を手がけたのも彼である。
 このように、芸術家が複数の分野をまたいで活躍することは珍しくなかった。レオナルド・ダ・ヴィンチもそうだ。彼は『モナ・リザ』を描いた画家というだけではない。飛行機のデザインを詳細に起こしていたことは有名だが、チェーザレ・ボルジアと都市設計の案を作ったこともある。晩年には解剖学にまで、その守備範囲を広げていた。

 この頃の「芸術家」は万能型が珍しくなかった。
 ミケランジェロの場合、彫刻が専門だが壁画も描く。建築分野についてはこの頃までさほど関わっていなかったが、依頼があれば積極的に受けるつもりである。サン・ロレンツォ聖堂ファサードの仕事はその嚆矢(こうし)になるとミケランジェロは考えている。

 このとき、彼は知っていただろうか。

 レオナルド・ダ・ヴィンチはフランスで体調を崩している。彼が国賓(こくひん)としてかの国に迎えらたことは第2章でも書いた。ときの王フランソワ1世の篤い庇護を受けて、王城と隣接する城(クロ・リュセ城)を与えられて悠々と日々を過ごしていたのだ。
 彼は、天に与えられた時間があまり残っていないことを薄々感じていたのかもしれない。もう、故郷のイタリアに戻ろうとは思っていない。

 この前やっと終結したばかりのカンブレー同盟戦争は君主の代替わりの戦争でもあった。ローマでは教皇がユリウス2世からレオ10世に替わった。フランスでは国王がルイ12世からフランソワ1世に、スペインではフェルナンド王からカルロス1世に、神聖ローマ帝国では皇帝がマクシミリアン1世からカール5世に替わっている。何度も書いているが、カルロス1世とカール5世は同じ人物である。
 この代替わりは為政者だけにとどまらなかった。イタリア半島で花開き、他の国にも種が蒔かれ花開いた「文化」というものも、代替わりのときを迎えていたのである。特にイタリア半島についてだけ言うならば、この時期を「終焉」(しゅうえん)だと考える人も多い。ただ、そのさなかにある人にとっては、節目の空気は感じ取れても「終焉」というほどの切迫感はなかった。


 ミケランジェロはふと、ニコラスが練習に使った石板(せきばん)を手に取る。ローマに行く前に練習したものだ。まだまだ、彫ることには習熟が必要だが、それはどんな人間でも同じだ。自分が始めた頃もこうだった、と芸術家は懐かしく思い出す。しかし、鳥を彫ったその石板には正確で美しい形が刻まれている。
「さて、ニコラスはどんな道を進みたいと思うのだろうか。今はこの鳥のように自由な翼を持っているのだが……」


 1519年がやってきた。
 ソッラやニコラス母子にとっても、ひとつの区切りがやってくる。

 ナポリを拠点にしているスペイン人商人、アルヴァロ・ノヴェルダとソッラが結婚することになったのだ。結婚式はナポリで行うこととなり、ソッラはその仕度に追われることとなった。

 時間がほんの少しさかのぼるが、ニコラスはソッラが求婚を受け入れる前にアルヴァロと会う機会を持った。ニコラスは一目見て、母がなぜこの男と母が結婚しようと思ったのか、即座に理解した。

 教皇庁の一室で見た絵の、ミケーレ・ダ・コレーリアの姿に彼が少し似ていたからだ。

 そして、アルヴァロは商人にありがちな、人を値踏みするようなところが全くなかった。口数多くはないものの、穏やかな調子で話す。ニコラスは自身の父親もこのように話したのだろうかと少し考える。母は、ソッラは控えめながらも、はっきりした愛情をこの商人に抱いている。それもよく分かった。

 ニコラスは二人の結婚には賛成した。
 しかし、自分はナポリには行かない。
 そう伝えた。
 ソッラは驚いて聞き返した。
 後でアルヴァロも説得にやってきた。
 しかし、ニコラスの決意を変えることはできなかった。

「確かにな……まだおまえが乳飲み子なら、有無を言わさず連れていくんだが。そうだよなぁ、おまえぐらいの年齢になれば気詰まりに感じるよな」とディエゴが同情をこめてニコラスに込めて話しかける。自身もソッラの縁談に積極的だったので、孫には少々引け目を感じるらしい。

「ううん、そうじゃないんだ、おじいちゃん。僕はミケランジェロさんの弟子になって、まだ学びたいと思ってるんだ。だから、まだフィレンツェにいたい。もちろん、なるべくおじいちゃんの世話にならないようにするよ」とニコラスは言う。

 ニコラスはミケランジェロに相談をしていた。そして、ブォナローティ家に寄宿することを許されたのだ。

「そうだな、せっかくあんな高名の芸術家の弟子になれたんだから、フイにするのはもったいないことだな……いずれにしても、俺はおまえがこれからも側にいることを嬉しく思っているし、何より……誇りに思うよ」とディエゴがつぶやく。

「おじいちゃん、ありがとう。あと、僕ね、ローマに行って思ったんだ。僕はスペイン人なんだって。ママの子でもあるけれど、ミケーレ・ダ・コレーリアの子なんだって。だってね、教皇さまが教えてくれたんだ。パパは教皇さまと大学で同級生だったって。僕のパパは確かに生きていたんだって思えた。
 やっとそんな風に思えるようになったのに、すぐにノヴェルダさんの子どもになっちゃうのは、やっぱり違うなって……そう思うんだ」
 ディエゴは、「Estoy de acuerdo contigo.(その考えに同意するよ)」とスペイン語でつぶやいて、また仕事場に戻った。


 ソッラがナポリに旅立つ前の日、ソッラは夕食の後でニコラスの部屋にやってきた。手には麻袋を持っている。
「これ、今日ノヴェルダさんから届いたの。珍しいチーズだそうよ。ミケランジェロさんに明日持っていってくれる? チーズが好きって言っていたよね」
 ニコラスは、「うん、ありがとう」と言ってそれを受け取った。

 ソッラとニコラスはここのところ、きちんと話をしていない。お互いに気兼ねしているのだ。淋しいという感情も双方にある。
 特にソッラは、ずっと一緒に過ごしてきたニコラスと離れたくないという気持ちが強かった。この頃には早くから職人の徒弟として働きに出る子どもも多かったので、親子が離れて住むのは珍しいことではない。ただ、ソッラはミケーレを亡くして以降、ニコラスの成長だけを心の支えにしていたのだ。ミケランジェロのアトリエに行くようになってからは、親子が始終一緒に過ごすことはなくなった。ローマ行きでは1ヶ月も離れていた。それだけでも心配で仕方なかったのに、今度は期限のない別離である。ナポリとフィレンツェはすぐに会いに行けるほど近くない。それは100レグア(約500km)という実際の距離だけの話ではない。ナポリは今世紀(16世紀)ずっと、スペインの領土になっているのだ。いわば、「外国」である。

 子どもはいつかは、親のもとを飛び立っていくものだけど、こんなに早く一人立ちさせることになるなんて……。ソッラはミケーレに謝りたいような気分になる。

 チーズをニコラスに渡すついでに、ソッラはニコラスに、「ちょっと話そう」と声をかけた。ニコラスもうなずいて母親を見る。

「ニコラス、今さらだけど、ナポリに来る気はない? あなたのおじいちゃんにも話は聞いたけど、私はあなたと離れたくないのよ……」

「ママ、離れて住んだからって、ママはずっと僕のママだよ」とニコラスが答える。まるでソッラが慰められているようだ。ソッラはさらに悲しくなって、ニコラスの手を握りしめる。そして、ハッと気づく。ニコラスの手にひどく懐かしさを感じたのだ。

「ニコラス、ニコラス……あなたの手は、ミケーレにそっくりだわ。節くれだった長い指も触った感じも……いつの間にこんなに大きくなって、あなたのパパにそっくりになって」
 そう言って、ソッラは涙をぽとりぽとりとこぼす。ニコラスは母の手を握り返す。

 窓の外にはおぼろげにかすんだ月が浮かんでいる。暖炉がなくても寒くはない。もう季節は春になろうとしている。

「ママ、僕はね、ローマでパパの絵を見たんだよ。そして、枢機卿(すうきけい、すうききょう)の人が困ったことがあったら言ってきなさいって。パパはね、確かに生きていて、たくさんの人と関わっていたんだ。それがわかって、パパと少しだけつながったような気がしたんだよ」

 ソッラは涙が溢れて止まらなかった。
「ミケーレ、ミケーレ、ごめんなさい」

 ニコラスは泣きじゃくる母の姿を見て、自分も涙がこぼれそうになっていることに気がついた。でも、母を明るく送り出してあげたい。そう思って、息を思い切り吸い込んで、吐き出してから言った。

「ママ、幸せになってほしい。だって、ママはずっと僕と一緒にいてくれた。パパだって、きっとありがとうって言うと思うんだ」

 ソッラはただただ泣き続けている。
 フィレンツェの、ソッラの最後の夜が更けていく。


 それからしばらく、フィレンツェでは静かな時間が流れていた。

 とはいえ、ミケランジェロは相変わらずの忙しさである。サン・ロレンツォ聖堂ファサードだけでなく、他の仕事も舞い込んできていた。時間がかかることが見込まれるファサードの仕事に専念したいミケランジェロだが、また頭の痛い問題が生じていた。

 石材の調達である。

 この規模の作品を創るためには良質で巨大な石材が大量に必要になる。それがなかなか見つからないのだ。ミケランジェロ自ら石材探しに赴くこともあったが、なかなか満足のいくものは見つからない。ひびや割れ目があっては話にならないのである。そして見つかったとしても、フィレンツェまで運搬するのがさらに難問だった。
 石材を探すばかりに時間を費やすわけにもいかないので、結局合間に他の仕事も請け負うことなる。例えばサンタ・マリア・ソプラノ・ミネルヴァ聖堂のキリスト像の制作依頼などである。イエス・キリスト像はミケランジェロも『ピエタ』で制作した経験がある。
 ニコラスもその作業の助手として忙しく働くこととなった。

 そんなある日のこと。

 5月中旬の初夏の薫りを胸一杯に吸い込みながら、ニコラスがアトリエにたどり着くと、ミケランジェロの姿がすでにそこにあった。ニコラスはあいさつをするが、ミケランジェロの様子はいつもと違っている。憔悴した様子がありありと見える。ニコラスが静かに師匠に寄っていく。彼はニコラスの顔を認めてからうつむくと、絞り出すように一言だけ口にした。

「レオナルドが……死んだ」

 ニコラスは思わず手で口を覆った。
 その人はイタリア半島で最も高名な芸術家であり、天才と称されていた。ニコラスの父とも面識のある人だった。
 その人が死んだとミケランジェロがうつむいて口にした。

 ニコラスはおぼろげながら、ミケランジェロの悲嘆を感じることができた。

 偏屈で頑固だと言われるこの男が、そうと人前で公言することは決してなかった。ニコラスにも言うことはなかった。しかし彼は、ずっとレオナルド・ダ・ヴィンチを偉大な先達として尊敬し、慕っていたのだ。

 フィレンツェ庁舎の会議場、同じ場所で壁画制作をすることになったときも、ミケランジェロはレオナルドと親しく語り合うことなどしなかった。でも内心では、とても喜んでいたのだ。そのための下絵制作にも精魂傾けて取り組んでいたのだ。

 絵が唯一の、彼の敬愛を表現する方法だった。
 そして、自分の壁画を完成させられなかったことを心から後悔していたのだ。

 もう彼には会うことができない。

 ニコラスはただ、ミケランジェロの後ろ姿を見ていた。そして、自分に預けられた小振りの石のところに行き、ノミを手に黙々と彫りだし始めた。
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