16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ

彼 1518年 フィレンツェ

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〈ニコラス・コレーリャ、ミケランジェロ・ブォナローティ、ラファエロ・サンティ、ソッラ、ディエゴ、ニッコロ・マキアヴェッリ、マルガリータ・ルティ、ルクレツィア・ボルジア、アルヴァロ・ノヴェルダ〉

 ローマでの予定を無事に終えたミケランジェロとニコラスである。

 もめていたサン・ロレンツォ聖堂ファサード制作の件も、すんなりミケランジェロに一任されることになった。ミケランジェロを降ろすという発想は教皇レオ10世にはなかっただろうし、当然の帰結ともいえる。

 またもう一つの用件、『ラザロの蘇生』についても、関わるセバスティアーノ・ピオンポだけではなく、競作相手のラファエロ・サンティとも有意義な話をすることができた。ラファエロの工房に行ったのも初めてなら、本人に絵の着想を聞いたのもそうだった。

 自分がこのような性格だからそうなったのだろうが、少しもったいないことをしたのかもしれない、とミケランジェロは思う。デッサンについて熱く語るラファエロは自身がこれまでに抱いていた印象とはまったく違うと感じる。
 それに加えて、彼のやつれ方は普通ではないとミケランジェロは強く感じていた。それは、髭を生やしたから、少し老けたからというようなことではない。彼はまだ35歳なのだ。ローマの雀たちは、「愛欲に耽って心身を消耗している」などと変わらず下世話なことを言っているが、逆だ。ラ・フォルリーナは彼を支えているのだ。
 ニコラスは、ラ・フォルリーナすなわちマルガリータ・ルティがローマ行きにずっと難渋を示していたと言っていた。しかし、行ってくれて正解だとミケランジェロも思う。そうでなければ、ラファエロは本当に倒れていただろう。それほど、彼の顔色は悪かった。
 『キリストの変容』のデッサンを机に広げて、構図について語る彼の姿はどこか鬼気迫るものがあった。

 ミケランジェロは自分の想像を打ち消すように、首をぶんぶんと振る。
 ニコラスは、気に入った風景を描いている。この少年は写生のたびに時間を使うことに申し訳なさを感じるようになったので、小さな画帖と細いチョークを携行してほんの数分ほどで形をトレースするに留めている。記憶を呼び起こすためのメモのようなものである。これなら立ったままでも十分にできる作業だ。

 ミケランジェロはニコラスに聞く。
「ローマにもう少しいたかったか?」
「はい、素晴らしいとしか言えないようなものばかりで……教皇庁に1カ月ぐらい滞在させてもらえればいいのですけれど」とニコラスが答える。
「ああ、おまえならまたじっくりローマに滞在できるぞ。だから、今回は下見だと思えばいい」とミケランジェロはあごひげをゆっくりと撫でる。突然ニコラスがハッとする。

「それより、師匠! あんなに高いところにある天井画をどうやって描いたんですか。足場から落ちなかったんですか」
 システィーナ礼拝堂の『天地創造』のことを言っている。

「落ちていたら、今ここにはいないと思うぞ」とミケランジェロは苦笑する。

 ローマが遠ざかっていく。

 フィレンツェ、ディエゴの鍛冶屋ではソッラが息子の帰りを今か今かと待ちわびている。
 ニコラスが、母親と離れて過ごすのは初めてのことだった。それに、ローマにはニコラスが狂喜乱舞するに違いない無数の芸術品があるというから、帰ってこなかったらどうしようかとも思っていたのだ。

 ソッラはローマに行ったことがない。なので、「無数の芸術品」がどのような状態で存在しているのかさっぱり分からない。いずれにしても、その芸術品を創ったうちの一人と旅をしているのだ。そのミケランジェロと旅をするのだから心配する必要がないことは頭では分かっている。

 それでも心配するのが、母親というものなのだ。
 
 心配のあまり、ラファエロのところにいるマルガリータに手紙を書いただけではなく、キアンティのマキアヴェッリやフェラーラのルクレツィアにまで手紙を書いてしまったほどである。

 どこからも、息子が帰って来る前に返事が届いた。

 最も近隣のマキアヴェッリからは、
「あなたのご主人もたくさん旅をしていらっしゃった。その息子が旅をするのもまた、理にかなったことかもしれません。私の息子などはあちこち飛び回っていますが、とんと顔も見せません。まぁ、返ってせいせいするというところでしょうか。それより、ミケランジェロ・ブォナローティと楽しく旅を過ごせる小さなニコラスに最高の敬意を抱いております。そのようなことができる人間に会ったことがありません」
と、ミケランジェロと同郷のフィレンツェ人らしい、ユーモアのある慰めが寄せられた。

 マルガリータからはローマでニコラスに再会した様子が浮き浮きした調子で綴られ、「ニコラスにキスをしたのは、私で3人めだそうよ。一人はあなた、もう一人はフェラーラ公妃ですって!」と追伸があった。どちらの手紙も心配するソッラを安堵させる内容だった。
 しかし、ルクレツィア・ボルジアからの手紙だけは、気にかかることが書いてあった。彼女は今また懐妊しているが、あまり体調がすぐれないということだった。

 何人めの子どもだろう、とソッラは指折り数えてみる。
 エルコレ坊っちゃまから数えて6人めだ……。

 ルクレツィアがもう30代後半にさしかかっていることをソッラは思う。出産はエルコレのときからもうすでにルクレツィアにとって大変な身体の負担になっていた。自分が側についていたい。ただ、彼女の世話をして見守っていたいと思う。でも自分から暇を願い出た身でまたフェラーラに戻りたいと言うことはできない。

「ルクレツィアさま、どうかご無事に出産されますように……」

 ソッラは祈るしかなかった。

 出発からほぼ一ヶ月後、ミケランジェロとニコラスは元気にフィレンツェに戻ってきた。
 ニコラスは目の前に広がるシニョリーア広場とダヴィデ像を見て、今までに感じたことのないような懐かしさを覚えた。もし今、フェラーラのエステンセ城に戻ったら、やはりこのように感じるのだろうかとニコラスはふと思う。過ごした時間で言えば、そちらの方がずっと長いのだ。

 ここがぼくのふるさとなのかな。
 今はそうみたいだ。

 ニコラスとともに、ミケランジェロが珍しく鍛冶屋にも顔を出した。迎えるソッラだけではなく、ディエゴも姿を現す。何しろミケランジェロ・ブォナローティはフィレンツェを代表する芸術家、名士なのである。

「おかえり!」
 両手を広げて迎えるソッラにニコラスは駆け寄ってその胸に抱かれる。ミケランジェロはポリポリと頭を掻く。母子の抱擁を見るのは少し気恥ずかしい感じがするらしい。ディエゴ親方(ニコラスの祖父)はそんなミケランジェロを見て笑う。
「ブォナローティ様、わざわざ孫を旅に連れてやっていただいて、本当にありがとうございました。ひょろっとしていたニコラスが少したくましく見えますよ」
 ミケランジェロは無言でうなずくが、口の端はかすかに上がっている。そして母子を眺めながら言う。
「旅の疲れがあると思います。明日は私も仕事は休もうと思っていますので、どうかニコラスもゆっくり休養を取らせてやってください」
「もちろんですよ。あ、これはブォナローティ様に。気に入ってもらえたらいいのですが」とディエゴが箱を渡す。
 ミケランジェロは箱を開けてにっこりする。そこには石を彫るときに使うノミと金づちが何本も入っていた。
「いやいや、これは本当に助かる。本当に」とミケランジェロが親方に礼を言う。


 翌朝、仕事が休みのニコラスがいつもより遅く目を覚ますと、ソッラがベッドの脇に立っていた。ニコラスは慌てて起き上がる。

「いいのよ、ニコラス。ママね、ニコラスと二人だけで話したいことがあるの」とソッラが微笑む。しかし、その微笑みはどこか淋しげだ。ニコラスは首を傾げながら耳を傾ける。

「ママね、結婚しようかどうか迷っているの。ニコラスの考えを聞かせてほしい」とソッラは話を始める。

 ソッラはしばらく前から、ナポリ在住のスペイン人商人のアルヴァロ・ノヴェルダから求婚されていることをニコラスに告げた。
 鍛冶屋にはもう跡を継ぐ職人が決まっており、ディエゴもソッラができるだけいいところに嫁いでほしいと思っていること。求婚してきたアルヴァロが子どもも一緒に来てよいと言っていることなどを、ぽつりぽつりと話した。
 この時代は親が結婚相手を決めることは普通だった。ましてやソッラは結婚歴があって息子がいるのである。そこまでソッラは打ち明けなかったが、ニコラスもそれぐらいのことは理解していた。

「そうかあ……」とニコラスはつぶやく。
 こういうときに何というべきか、思いつかなかったのだ。ソッラもひとつ、ため息をつく。朝日が眩しい。

「本当は、ローマの土産話をはじめに聞きたかったのに。ごめんね、ニコラス。それで、今度彼に会って見てもらえるかな」とソッラが尋ねる。

 求婚の相手のことを「彼」と呼んだソッラにニコラスは大きな衝撃を受けた。そこにもう、自分の知りえない何かがあると直感したのだ。
 それを表に出さないように、「うん、わかった」と明るく答えるニコラスだった。
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