16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ

父のかたちとスペイン 1518年 ローマ

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〈ミケランジェロ・ブォナローティ、ニコラス・コレーリャ、教皇レオ10世、スペイン人の枢機卿、ファルネーゼ枢機卿、フランチェスコ・レモリーネス、ラファエロ・サンティ、ソッラ、アルヴァロ・ノヴェルダ〉

 ローマのカスタル・サンタンジェロで、ミケランジェロ・ブォナローティとニコラスはときの教皇レオ10世に謁見している。

 ミケランジェロにとって現教皇はフィレンツェ時代から近しい間柄である。
 彼はかつてメディチ家に寄宿していたことがある。その頃から仲はよくなかったが、今は教皇と芸術家という立場がはっきりしている。その分距離ができて、付き合うにはちょうどいい。
 一方、面食らっているばかりなのはニコラスである。教皇に謁見するのはミケランジェロだけだと思っていたし、かつての父を想像してぼうっとしていたところにいきなり呼ばれたからである。
 実際に見る教皇レオ10世は荘厳な正装を着ていても分かるほど、ずんぐりとした体躯(たいく)の、まだそんなに老けていない男だった。この役目をする人間はしかめっ面の老人だと思っていたニコラスはほんの少し気が楽になった。

 ミケランジェロが「ジョヴァンニ」と呼ぶぐらいだから老人ではないと察することはできるのだが、「教皇」という言葉の持つ威厳のためであろうか。

「ミケランジェロ、話は十分に承知している。聞けば、サン・ロレンツォ聖堂ファサードのデザインが一向に決まらない理由は、積もり積もった感情的な行き違いのようだ」

「まさに仰せの通りです。つきましては、この際私が降りたほうが万事よいのではないかと思い、依頼主の教皇猊下(げいか)にご判断をいただこうと、まかりこした次第です」

 教皇にミケランジェロは礼節を尽くした口上を述べる。教皇は分かっているぞと言わんばかりに深くうなずく。ニコラスは、この芝居がかったやりとりを、頭を伏した態勢のままで興味深く聞いている。ミケランジェロは付いてきたニコラスに作法を教えるためにそうしているようだ。ニコラスにもそれがわかった。もうすでにミケランジェロはその経緯と自分の意思を書面で伝えている。ここで改めて苦情を述べる必要はないのだ。

「ファサードの件はミケランジェロ・ブォナローティに一任するよう、新たに契約書を作成する。それでよいか」と教皇が重々しい口調で問う。ミケランジェロは、「御意」とうやうやしく膝まづいたまま礼をする。ニコラスは伏してその声を聞きながら、やっぱり芝居のようだと思っている。

「さて、ニコラス・コレーリャ」という声を聞いて、少年はハッとして頭を上げる。レオ10世は少年の顔をしげしげと見る。ニコラスはどうしてよいかわからず固まったようになっている。たいへん珍しいことだが、謁見室を彩る調度品の数々もこのときばかりは少年の目に入らなかった。

「ああ、確かにドン・ミケロットによく似ている。そうか、ミケロットの子がミケランジェロとともに現れるとは……これも神のご意志であろうか」と教皇はしみじみとした口調で言う。ニコラスの前に膝まづいているミケランジェロが後ろを見てひそひそ声で告げる。

「そうだ、ニコラス。教皇猊下はおまえの父を知っている」

 それが聞こえている教皇は続ける。

「チェーザレ・ボルジアと、ドン・ミケロットをはじめスペイン人の側近たちは、ピサ大学で同級生だったのだ。懐かしい……本当に懐かしい。フィレンツェからほど近いピサで私はのほほんと過ごしていたが、チェーザレの一団は黒ずくめの出で立ちで勇ましいことこの上なかった。おまえの父親は第一の側近だったから、少し怖いほどだったがな。ああ、今チェーザレ・ボルジアが生きていれば、カンブレー同盟戦争も早く収拾できただろうに。ミケロットもミラノで亡くなったと聞いた。おまえも大変だっただろう」

 ニコラスは話の間、ひたすら目をぱちくりさせることしかできない。ミケランジェロはニコラスを見てうなずく。それに促されるように、ニコラスは子どもらしい、しかししっかりとしたあいさつをする。
「教皇猊下にそのようなお言葉をかけていただけるとは、亡き父の分も合わせて篤くお礼申し上げます」

 謁見室から出ると、ミケランジェロとニコラスはまた控えの間に通された。緋色の衣に身を包んだ枢機卿が二人、側についている。ミケランジェロは枢機卿(すうききょう、すうきけい)に尋ねる。
「教皇猊下に、美術品を拝観する許可も求めていたのだが……」
「はい、確かに仰せつかっております。私どもがご案内します。ただし、教皇の居住部分につきましては、大変恐れながら手短にお願いしたいと存じます」と枢機卿の一人が言う。そして、もう一人の枢機卿が言葉を継ぐ。
「その前に、ミケランジェロ・ブォナローティ様、私どもニコラス・コレーリャ様に少しばかりお話をさせていただきたいと思いまして」

 ミケランジェロはうなずく。枢機卿のうち、スペイン人の方が懐から手紙を出してニコラスに手渡す。ニコラスは恐る恐るその手紙を開く。その手紙には、ドン・ミケロットの血を引く子に会えないのが残念だという言葉とともに、何か困ったことがあれば同胞の枢機卿にいつでも相談してほしいと手短に書かれていた。末尾にはフランチェスコ・レモリーネスと署名されている。
「この方はどのような……」とニコラスは尋ねる。
「フェルモとテルニの司教をしておりまして、私どもスペイン人枢機卿団の指導者でした。それでは分かりづらいでしょうか。司教はチェーザレ・ボルジアの家庭教師をしておりました。もちろん、ニコラス様のご父君のこともよくご存じでございます」

 フランチェスコ・レモリーネス。

 かつて、チェーザレと父教皇アレクサンデル6世がマラリアに倒れた1503年の夏、ミケロット(ミケーレ、ニコラスの父)は教皇庁をすべて封鎖した。アレクサンデル6世が危篤状態になったのに呼応して、チェーザレの立場が危うくなるのを阻止しようとしたのだ。ミケロットは次の教皇選出に事態が進まないように、枢機卿会議の場に乗り込んで剣を抜いた。

 それを涙ながらに止めたのが、レモリーネスである。チェーザレの家庭教師であり側近だった彼は、ボルジア家が突然陥った苦境について誰よりも理解していた。そして勢い任せのミケロットの行動が、今後によい影響を与えないと冷静に判断していた。そして、レモリーネスはミケロットを止めた。

 ニコラスはレモリーネスのその後についても聞かされた。教皇がユリウス2世に替わった後、ボルジア派ースペイン人枢機卿団は一掃されるところだった。しかし、レモリーネスはかつての教え子がしたように頭を使った。それまで太いつながりを持ってこなかったスペインのフェルナンド王に渡りを付けてスペイン勢力を守ったのである。王が出てくれば、教皇も譲歩せざるをえなかった。そして、次の教皇レオ10世にも信用されるにいたったのである。

 レモリーネスは、スペインに追放されたチェーザレ・ボルジアとカスタル・サンタンジェロの地下牢に閉じ込められたミケーレ・ダ・コレーリアのことをずっと心配していた。立場上表だって動くことはできなかったが、その動向をできる限り追っていた。  
 チェーザレの足取りはモタ城で途切れた。
 それから1年ほど後に、ミケーレはミラノで殺された。フランスに付いたことを裏切りだと考えた同胞(スペイン人)の仕業だと考えられたが、他の可能性もある。いずれにしても、フランスのダンボワーズ伯の治世下のことでそれ以上のことは知ることができなかった。

 ミケーレの死を知ったレモリーネスは涙で彼の死を悼んだ。自分を頼ってくれれば、何とかしてやることもできたのに……と断腸の思いが彼を苛(さいな)んだ。しかし、しばらくしてフェラーラのルクレツィア・ボルジアから手紙が届いた。

 ミケーレには妻がいます。彼女はフェラーラで無事にミケーレの子を産みました。

「彼はあなたにずっと会いたがっていました。フェラーラを訪れることも考えていたようです。しかし、カンブレー同盟戦争があってそれもかなわなかった。フェラーラは敵でしたからね。
 そして残念なことに……彼は今年の2月に亡くなりました」とスペイン人の枢機卿がうつむく。

「そうか……わずかに間に合わなかったのか……」とミケランジェロがつぶやく。

 ニコラスはミケランジェロを見る。
 その目はまるで夢の中にいるように、焦点が定まっていなかった。

 想像でしか描けなかった父親。
 その父親が確かに生きていた像が、ニコラスのなかで明確に現れてきているのだ。

 ミケランジェロは二人の枢機卿に告げる。
「弟子は少し疲れたようです。少しだけ、休ませてもらってもいいでしょうか」

 控えの間には師匠と弟子の二人が残された。ミケランジェロは黙ってニコラスを見ている。ニコラスの目はだんだん焦点がはっきりし、師匠を瞳に映した。ミケランジェロは笑う。

「どうだ、かたちはできあがったか?」
「はい」とニコラスも微笑んだ。

 それから二人は教皇庁の美術品を拝観して回った。教皇の居室にはほんのわずかしかいられなかったが、ラファエロの『アテナイの学堂』や『ボルゴの火災』などを見ることができた。これはミケランジェロも初見だった。

「あ、レオナルドと俺を描いてやがる!」とミケランジェロは悪態をつくが、顔は笑っている。

 見るべきものは山ほどあった。
 ミケランジェロの『ピエタ』も『天地創造』もある。いちいち写していたら何日あっても足りない。したがって、ニコラスも頭の中に刻み込んでいくしかない。

 二人は駆け足で星の数ほどある絵画や彫刻、装飾品や建築をなぞっていく。
 ニコラスの頭の中には新しい波が次から次へと押し寄せてくるようだ。

 そして、枢機卿たちが最後に示した絵にニコラスは息をのむ。
「あれがあなたのお父様ですよ」
 今はもう使われていない部屋の一画で、ニコラスの父親が難しい顔をしていた。

「パパ……」とニコラスはつぶやいたきり、しばらくそこに立ち尽くしていた。

 彼は教皇庁で、自分の父親の面影をかたちにした。そしてもうひとつ、ニコラスは今まで抱いたことがないほど、強烈な感覚に襲われていた。

 自分はスペイン人なのだ。


 その頃、フィレンツェではニコラスの母親が鍛冶屋の片隅でもの想いに耽っている。

 彼女はスペイン人のアルヴァロ・ノヴェルダに改めて、正式に求婚されたのだ。
 ソッラはアルヴァロの熱意に心を大きく揺さぶられて、それに飲み込まれそうな自分と必死に闘っている。

 ミケーレが逝って10年以上経った。
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