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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ
大人の事情 1518年 フィレンツェ
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〈ソッラ、ニコラス、ディエゴ、ミケランジェロ・ブォナローティ、ラファエロ・サンティ、マルガリータ・ルティ〉
フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂のファサードに関するデザインはなかなか決まらなかった。ミケランジェロ・ブォナローティはデッサンを用意して共同制作者と打ち合わせを重ねるのだが、ミケランジェロのアイデアはことごとく難癖をつけられた。
ミケランジェロのデッサンにケチをつけるなど現代では考えられないが、共同制作者が彼の実力と名声を快く思っていなかったのである。かつて彼の描いた「カッシーナの戦い」の下絵が破かれたことがあったが、それも悪感情を持つ者のしわざである。妬みそねみその他もろもろ、悪感情というのはそこらにあるので、決して珍しくない。
たとえ、ミケランジェロの下絵を破く行為でも。
世渡り上手のラファエロですら、そういう「人の口」から逃げられたわけではない。
他の画家と競合すればどちらが優れているかと噂になる。邸宅を建てれば、「絵描きがあんな豪壮な家を」と道端でこそこそ言われる。枢機卿と懇意にすれば、「腰巾着(こしぎんちゃく)」だと冷笑される。女性を連れていれば、「女好き」だとおしゃべり雀の格好の餌になる。
ある程度は有名税として甘受しなければならないものであった。
噂が一気に広まるのも21世紀とさほど変わらない。この頃のネットワークをあなどってはいけない。ローマのできごとは外交官やらそれに準ずる役職の者によって、イタリア半島各地のみならず、フランス、スペイン、神聖ローマ帝国、イングランドなど西欧諸国にくまなく回るのである。現代より少し時間はかかるのだが。
ミケランジェロは、もともとの性格もあるが、それが嫌だからそうそう人に心を開かなかったのだ。創作以外のことに無駄な時間を使うのは「愚の骨頂」(ぐのこっちょう)でしかない。
もちろん、世間は噂することを忘れない。結婚もせず、女性と関わることのないこの男には、「同性愛者」だという風聞がついて回った。男性の像を主に彫って、身体の究極の美しさを追求していたことがそれに拍車をかける。ただ、実際に男性の愛人がいたという記録はないし、ここでさほど追求する意味のないことである。
ミケランジェロは今の仕事は首尾よくいかないような気がしている。風聞や噂ならば鼻で笑えばいいのだが、共同作業を暗に妨害されるのは論外だった。もうこの仕事を降りると言いたいところだが、現教皇レオ10世からの直接の依頼である。簡単に放り出すわけにはいかない。
いつもより難しい顔をしているミケランジェロにニコラスが尋ねる。
「ファサードのデザイン画はできているのに、なかなか決めてもらえないんですね。いったい、どこがいけないんでしょう。躍動的でとても素晴らしいのに」
「うむ、大人の事情というやつか……いや、どこが大人なんだ! 子どものほうがよほど大人だ」
ミケランジェロはそう言って苦笑する。
「大人の事情って、難しいんですね」とニコラスがため息をつく。少年のついたため息がおかしくなって、ミケランジェロはぷっと吹き出す。
「心配するな、いざとなったら教皇猊下(げいか)に直談判だ。もうすでに内々に話をしている。そうしたら、ローマに行くからおまえも一緒に行くか」
「えっ、本当ですか?」とニコラスは思わず大きな声を出す。ミケランジェロはにやりと笑う。いつも物静かな少年の、驚く顔を見るのは楽しいーーと思いながら。
「ああ、ラファエロの絵を見たいしな。おまえも、ラ・フォルリーナ(マルガリータのこと)に会いたいだろう」とミケランジェロが聞く。
「はい」とニコラスは元気に答える。
「よし、決まりだ。さて、それはそれ、これはこれだ。ニコラス、この正面入口のバランスはどうだ? 紋章を入れる位置が俺としてはまだしっくりこない」
メディチ家の印は盾のような形に丸を8つ配置したデザインである。もともと、両替商や薬商をしていたことに由来すると言われている。
「そうですね、バランスもですが、あまり上に配置しないほうがいいかもしれません。人がさっと避けるかも……」とニコラスがつぶやく。
「なぜだ?」とミケランジェロ。
「凹凸を付けたら、蜂の巣と間違えるかも……」
「そうか! 蜂の巣か! そうだな」と言ってミケランジェロは笑う。彼はアトリエではよく笑うようになった。
ここには大人の事情は存在しないようだ。
しかし、「大人の事情」はディエゴの鍛冶屋でも起こっている。
ソッラに求婚する男が現れたのだ。ナポリからフィレンツェに来ていた商人、アルヴァロ・ノヴェルダという男である。数年前に妻を亡くしたこの商人はまだ30代半ばで、商人によく見られるでっぷりとした体躯は持っていない。率直に言って、すらりとした長身の、なかなかの美男子である。
通りがかりに鍛冶屋の娘を見たアルヴァロは一目で気に入ってしまったのである。と言って、すぐに鍛冶屋に乗り込んだわけではない。きちんと周辺で話を聞き、彼女が夫を亡くして実家の鍛冶屋に戻って来たことや、息子がいることも分かった。アルヴァロが特に気に入ったのは、ソッラがフェラーラ公妃の乳母をしていたということだった。鍛冶屋の娘が公妃の乳母を務めるというのは、あまり聞いたことがなかった。上流階級(貴族)の暮らしを知っているというのは、商人にとって好ましい条件である。
そして、フェラーラ公妃も鍛冶屋一家もルーツがスペイン(アラゴン)だと知るにいたって、アルヴァロは運命のようなものを感じてしまったのだ。
アルヴァロはまず、フィレンツェの懇意の商人に頼んで鍛冶屋のディエゴに話を持ちかけた。ディエゴは渋い顔で聞きつつも、内心では快哉(かいさい)を叫んでいた。仲立ちをした商人に聞いたところ、アルヴァロは穏やかな性格で商売以外では本を読むことを好むようだ。かっとして女房を殴ったりすることもない。商人の妻なら、くるくると1日じゅう働く必要がない。ナポリに嫁いでしまうとなると滅多に娘に会えなくなってしまうが、自分達が引退して、ナポリに引っ越してしまうという手もある。結婚歴があっても、子どもがいてもいいと言うのだからこれ以上の話はない。
ソッラは困った。父が自分の再婚を望んでいることは知っていたが、まさかナポリの商人から申し出が来るとは思っていなかった。これ以上の相手は見つからないだろう、とディエゴも太鼓判を押すが乗り気にはなれない。
それはアルヴァロ側も承知していた。「1日や2日で決められるはずはないだろう」とのことでまったく焦っていない。「まず、一回対面してみてから決めればいい」と仲立ちの商人も言う。ディエゴに押される形で、ソッラはアルヴァロに会ってみることを承諾した。
その夕方、ミケランジェロのアトリエから戻ってきたニコラスは興奮した様子でソッラのもとに駆け寄っていく。
「ママ、ミケランジェロさんからママに手紙を預かってきたよ。読んでね」とニコラスはソッラに手紙を渡す。
ソッラは手紙を開いてみる。
〈近々ローマに所用があるので、ニコラスも手伝いがてら一緒に付いてきてもらいたいと思います。ニコラスにとっても、いい勉強になるでしょう。親御さんのお許しをいただきたくお願いしたい。期間は1カ月程度を見込んでください。ローマ滞在中は教皇庁や近辺の建造物、美術品、ラファエロ・サンティの工房も見学させるつもりです。費用は私が持ちますのでご心配なく。敬具〉
ソッラは巷間(こうかん)、偏屈だと言われている芸術家が、このような好意ずくの丁寧な手紙を書くとはとても信じられなかった。何より、ミケランジェロの達筆には感動すら覚えた。
「ミケランジェロさんの字ってすごく綺麗だよね。清書の仕事をしても十分やっていけると思わない?」とニコラスが無邪気な顔をして言う。
「ええ、こんなに綺麗な字を見たのは初めて! 看板書きだったら素晴らしく繁盛するでしょうね」とソッラが感心する。
ミケランジェロは清書屋でも看板屋でもない。
ただ、その筆跡は誰もが賞賛するほど美しい。
ソッラはミケランジェロがわざわざラファエロの工房に行くことを明記していることに深く感謝する。マルガリータのことを知っていて、配慮してくれたのだ。ソッラは偏屈な芸術家という世間の噂がいかに誤っているかということをこの時に思い知った。
ニコラスはいい師匠に見いだされたーーと神に、夫に感謝を込めて祈りたい気持ちになった。
「ローマ行き、ぜひお願いしますって私も手紙を書くわ。待ってて」とソッラはニコラスに微笑む。
そして、ソッラは友人のことを思う。
マルガリータはラファエロさんを今、心から愛している。ラファエロさんもそうだ。結ばれるまでの歳月は長かったけれど、今ふたりが幸せならばそれでいい。ラファエロさんには婚約者がいるから、妻にはなれないみたい。でもそんな、形ではないのよね。愛し合っていると感じることがいちばん大事なこと。マルガリータは子どもが欲しいと手紙に書いていた。そうなってほしいと心から願ってる。
ソッラの脳裏にかつてミケーレがつぶやいた言葉が蘇ってくる。
「……男にもいろいろいると思うが……結局いくら威張っている男でも、女性に癒されることを求めるものだ。その画家は本当に彼女に恋をしているのかもしれない……」
ミケーレは最初から分かっていたのね。
ソッラはふっと自分の境遇を思う。
他の男の妻になることは、ミケーレを裏切ることになるような気がする……いいえ、違う。あんなに愛し合ったことを忘れてしまうようで怖い……ミケーレ以外の男に身体も心も捧げたくない。でも、鍛冶屋の娘をいつまでもやっていられないことも分かっている。それがいやならば、修道院に入るしかない。
そうしたら、ニコラスはどうなるの?
数日後、指定されたサンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂の前で、ソッラはアルヴァロを待っている。シニョリーア広場でなくてよかったと彼女は思う。万が一、ダヴィデ像の側にニコラスがいたら困ってしまう。何より、ミケーレとの思い出がある場所で他の男を待つのはいやだったのだ。
ふっと通りを見やって、ソッラはどきりとする。背の高い、黒い髪の、髭をたくわえた男がこちらに歩いてくる。
ミケーレ!?
ソッラは目をごしごしとこすって、その男の手を見る。そして、その男がミケーレではないことを悟る。ただ、手を除けば男は彼女の夫にどことなく似ていた。そして、彼はソッラの前までまっすぐ歩いてきて、落ち着いた優しい声で言う。
「ソッラ、初めまして。アルヴァロ・ノヴェルダです。よく来てくれましたね。グラシアス(ありがとう)」
ソッラの中で新たな時計の歯車が回り始めた瞬間だった。
「そうか、おっ母さんの許しが出たか。じゃあ、これで出発の支度ができるな。ジョヴァンニに手紙を出しておこう。あ、ジョヴァンニ・メディチは、教皇の俗世での名だ」
ニコラスに話を聞いたミケランジェロは、新たに運び込まれた大きな石の塊を触りながら言った。
「はい、師匠によろしくお願いしますって、母から手紙を預かってきました」とニコラスが懐から手紙を取り出して渡す。
ミケランジェロはそれを受け取り、目を通してからうなずいた。
「よし、来週出発だ。それを確かに伝えておけよ。あと、この石は大きさも手頃だし、おまえにやる。基本は教えるが、好きなように彫ってみるといい。いいもんだぞ。切り出した石に命を吹き込んでいくのは。フィガロに命を与えられる」
ニコラスは目を輝かせる。
新たな旅の道が、親子の前に現れようとしている。それもまた、はるかに続く道だった。
フィレンツェ、サン・ロレンツォ聖堂のファサードに関するデザインはなかなか決まらなかった。ミケランジェロ・ブォナローティはデッサンを用意して共同制作者と打ち合わせを重ねるのだが、ミケランジェロのアイデアはことごとく難癖をつけられた。
ミケランジェロのデッサンにケチをつけるなど現代では考えられないが、共同制作者が彼の実力と名声を快く思っていなかったのである。かつて彼の描いた「カッシーナの戦い」の下絵が破かれたことがあったが、それも悪感情を持つ者のしわざである。妬みそねみその他もろもろ、悪感情というのはそこらにあるので、決して珍しくない。
たとえ、ミケランジェロの下絵を破く行為でも。
世渡り上手のラファエロですら、そういう「人の口」から逃げられたわけではない。
他の画家と競合すればどちらが優れているかと噂になる。邸宅を建てれば、「絵描きがあんな豪壮な家を」と道端でこそこそ言われる。枢機卿と懇意にすれば、「腰巾着(こしぎんちゃく)」だと冷笑される。女性を連れていれば、「女好き」だとおしゃべり雀の格好の餌になる。
ある程度は有名税として甘受しなければならないものであった。
噂が一気に広まるのも21世紀とさほど変わらない。この頃のネットワークをあなどってはいけない。ローマのできごとは外交官やらそれに準ずる役職の者によって、イタリア半島各地のみならず、フランス、スペイン、神聖ローマ帝国、イングランドなど西欧諸国にくまなく回るのである。現代より少し時間はかかるのだが。
ミケランジェロは、もともとの性格もあるが、それが嫌だからそうそう人に心を開かなかったのだ。創作以外のことに無駄な時間を使うのは「愚の骨頂」(ぐのこっちょう)でしかない。
もちろん、世間は噂することを忘れない。結婚もせず、女性と関わることのないこの男には、「同性愛者」だという風聞がついて回った。男性の像を主に彫って、身体の究極の美しさを追求していたことがそれに拍車をかける。ただ、実際に男性の愛人がいたという記録はないし、ここでさほど追求する意味のないことである。
ミケランジェロは今の仕事は首尾よくいかないような気がしている。風聞や噂ならば鼻で笑えばいいのだが、共同作業を暗に妨害されるのは論外だった。もうこの仕事を降りると言いたいところだが、現教皇レオ10世からの直接の依頼である。簡単に放り出すわけにはいかない。
いつもより難しい顔をしているミケランジェロにニコラスが尋ねる。
「ファサードのデザイン画はできているのに、なかなか決めてもらえないんですね。いったい、どこがいけないんでしょう。躍動的でとても素晴らしいのに」
「うむ、大人の事情というやつか……いや、どこが大人なんだ! 子どものほうがよほど大人だ」
ミケランジェロはそう言って苦笑する。
「大人の事情って、難しいんですね」とニコラスがため息をつく。少年のついたため息がおかしくなって、ミケランジェロはぷっと吹き出す。
「心配するな、いざとなったら教皇猊下(げいか)に直談判だ。もうすでに内々に話をしている。そうしたら、ローマに行くからおまえも一緒に行くか」
「えっ、本当ですか?」とニコラスは思わず大きな声を出す。ミケランジェロはにやりと笑う。いつも物静かな少年の、驚く顔を見るのは楽しいーーと思いながら。
「ああ、ラファエロの絵を見たいしな。おまえも、ラ・フォルリーナ(マルガリータのこと)に会いたいだろう」とミケランジェロが聞く。
「はい」とニコラスは元気に答える。
「よし、決まりだ。さて、それはそれ、これはこれだ。ニコラス、この正面入口のバランスはどうだ? 紋章を入れる位置が俺としてはまだしっくりこない」
メディチ家の印は盾のような形に丸を8つ配置したデザインである。もともと、両替商や薬商をしていたことに由来すると言われている。
「そうですね、バランスもですが、あまり上に配置しないほうがいいかもしれません。人がさっと避けるかも……」とニコラスがつぶやく。
「なぜだ?」とミケランジェロ。
「凹凸を付けたら、蜂の巣と間違えるかも……」
「そうか! 蜂の巣か! そうだな」と言ってミケランジェロは笑う。彼はアトリエではよく笑うようになった。
ここには大人の事情は存在しないようだ。
しかし、「大人の事情」はディエゴの鍛冶屋でも起こっている。
ソッラに求婚する男が現れたのだ。ナポリからフィレンツェに来ていた商人、アルヴァロ・ノヴェルダという男である。数年前に妻を亡くしたこの商人はまだ30代半ばで、商人によく見られるでっぷりとした体躯は持っていない。率直に言って、すらりとした長身の、なかなかの美男子である。
通りがかりに鍛冶屋の娘を見たアルヴァロは一目で気に入ってしまったのである。と言って、すぐに鍛冶屋に乗り込んだわけではない。きちんと周辺で話を聞き、彼女が夫を亡くして実家の鍛冶屋に戻って来たことや、息子がいることも分かった。アルヴァロが特に気に入ったのは、ソッラがフェラーラ公妃の乳母をしていたということだった。鍛冶屋の娘が公妃の乳母を務めるというのは、あまり聞いたことがなかった。上流階級(貴族)の暮らしを知っているというのは、商人にとって好ましい条件である。
そして、フェラーラ公妃も鍛冶屋一家もルーツがスペイン(アラゴン)だと知るにいたって、アルヴァロは運命のようなものを感じてしまったのだ。
アルヴァロはまず、フィレンツェの懇意の商人に頼んで鍛冶屋のディエゴに話を持ちかけた。ディエゴは渋い顔で聞きつつも、内心では快哉(かいさい)を叫んでいた。仲立ちをした商人に聞いたところ、アルヴァロは穏やかな性格で商売以外では本を読むことを好むようだ。かっとして女房を殴ったりすることもない。商人の妻なら、くるくると1日じゅう働く必要がない。ナポリに嫁いでしまうとなると滅多に娘に会えなくなってしまうが、自分達が引退して、ナポリに引っ越してしまうという手もある。結婚歴があっても、子どもがいてもいいと言うのだからこれ以上の話はない。
ソッラは困った。父が自分の再婚を望んでいることは知っていたが、まさかナポリの商人から申し出が来るとは思っていなかった。これ以上の相手は見つからないだろう、とディエゴも太鼓判を押すが乗り気にはなれない。
それはアルヴァロ側も承知していた。「1日や2日で決められるはずはないだろう」とのことでまったく焦っていない。「まず、一回対面してみてから決めればいい」と仲立ちの商人も言う。ディエゴに押される形で、ソッラはアルヴァロに会ってみることを承諾した。
その夕方、ミケランジェロのアトリエから戻ってきたニコラスは興奮した様子でソッラのもとに駆け寄っていく。
「ママ、ミケランジェロさんからママに手紙を預かってきたよ。読んでね」とニコラスはソッラに手紙を渡す。
ソッラは手紙を開いてみる。
〈近々ローマに所用があるので、ニコラスも手伝いがてら一緒に付いてきてもらいたいと思います。ニコラスにとっても、いい勉強になるでしょう。親御さんのお許しをいただきたくお願いしたい。期間は1カ月程度を見込んでください。ローマ滞在中は教皇庁や近辺の建造物、美術品、ラファエロ・サンティの工房も見学させるつもりです。費用は私が持ちますのでご心配なく。敬具〉
ソッラは巷間(こうかん)、偏屈だと言われている芸術家が、このような好意ずくの丁寧な手紙を書くとはとても信じられなかった。何より、ミケランジェロの達筆には感動すら覚えた。
「ミケランジェロさんの字ってすごく綺麗だよね。清書の仕事をしても十分やっていけると思わない?」とニコラスが無邪気な顔をして言う。
「ええ、こんなに綺麗な字を見たのは初めて! 看板書きだったら素晴らしく繁盛するでしょうね」とソッラが感心する。
ミケランジェロは清書屋でも看板屋でもない。
ただ、その筆跡は誰もが賞賛するほど美しい。
ソッラはミケランジェロがわざわざラファエロの工房に行くことを明記していることに深く感謝する。マルガリータのことを知っていて、配慮してくれたのだ。ソッラは偏屈な芸術家という世間の噂がいかに誤っているかということをこの時に思い知った。
ニコラスはいい師匠に見いだされたーーと神に、夫に感謝を込めて祈りたい気持ちになった。
「ローマ行き、ぜひお願いしますって私も手紙を書くわ。待ってて」とソッラはニコラスに微笑む。
そして、ソッラは友人のことを思う。
マルガリータはラファエロさんを今、心から愛している。ラファエロさんもそうだ。結ばれるまでの歳月は長かったけれど、今ふたりが幸せならばそれでいい。ラファエロさんには婚約者がいるから、妻にはなれないみたい。でもそんな、形ではないのよね。愛し合っていると感じることがいちばん大事なこと。マルガリータは子どもが欲しいと手紙に書いていた。そうなってほしいと心から願ってる。
ソッラの脳裏にかつてミケーレがつぶやいた言葉が蘇ってくる。
「……男にもいろいろいると思うが……結局いくら威張っている男でも、女性に癒されることを求めるものだ。その画家は本当に彼女に恋をしているのかもしれない……」
ミケーレは最初から分かっていたのね。
ソッラはふっと自分の境遇を思う。
他の男の妻になることは、ミケーレを裏切ることになるような気がする……いいえ、違う。あんなに愛し合ったことを忘れてしまうようで怖い……ミケーレ以外の男に身体も心も捧げたくない。でも、鍛冶屋の娘をいつまでもやっていられないことも分かっている。それがいやならば、修道院に入るしかない。
そうしたら、ニコラスはどうなるの?
数日後、指定されたサンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂の前で、ソッラはアルヴァロを待っている。シニョリーア広場でなくてよかったと彼女は思う。万が一、ダヴィデ像の側にニコラスがいたら困ってしまう。何より、ミケーレとの思い出がある場所で他の男を待つのはいやだったのだ。
ふっと通りを見やって、ソッラはどきりとする。背の高い、黒い髪の、髭をたくわえた男がこちらに歩いてくる。
ミケーレ!?
ソッラは目をごしごしとこすって、その男の手を見る。そして、その男がミケーレではないことを悟る。ただ、手を除けば男は彼女の夫にどことなく似ていた。そして、彼はソッラの前までまっすぐ歩いてきて、落ち着いた優しい声で言う。
「ソッラ、初めまして。アルヴァロ・ノヴェルダです。よく来てくれましたね。グラシアス(ありがとう)」
ソッラの中で新たな時計の歯車が回り始めた瞬間だった。
「そうか、おっ母さんの許しが出たか。じゃあ、これで出発の支度ができるな。ジョヴァンニに手紙を出しておこう。あ、ジョヴァンニ・メディチは、教皇の俗世での名だ」
ニコラスに話を聞いたミケランジェロは、新たに運び込まれた大きな石の塊を触りながら言った。
「はい、師匠によろしくお願いしますって、母から手紙を預かってきました」とニコラスが懐から手紙を取り出して渡す。
ミケランジェロはそれを受け取り、目を通してからうなずいた。
「よし、来週出発だ。それを確かに伝えておけよ。あと、この石は大きさも手頃だし、おまえにやる。基本は教えるが、好きなように彫ってみるといい。いいもんだぞ。切り出した石に命を吹き込んでいくのは。フィガロに命を与えられる」
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