16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ

背後から見る男 1517年 フィレンツェ

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〈ソッラ、ニコラス、ルイジ、グイドバルド、ソッラの父、教皇レオ10世、マルティン・ルター、ひげ面の男〉

 マルガリータと別れたフェラーラの4人はその晩はシエナに泊まった。宿でニコラスは自身が宣言した通り、マルガリータの絵を描いている。ルイジとグイドバルドは別室でとっくに眠りに就いているが、ニコラスはろうそくの灯りのもと、絵を描くのを止めない。ソッラがそれを見て苦笑している。

「ニコラスは……建物を描くのと人間とどちらが好き?」と不意に問いを投げる。ニコラスはソッラの方を見て、しばらく考えている。

「うんっと……前は建物とか大砲とか……人の作った形がいいと思っていたけれど、今は人間とか生物を描くほうがおもしろいかなあ。神様が創った、動く形」

 ソッラはベッドに横になって、ニコラスのことばを聞いている。

「神様が創った動く形か……おもしろいことを言うのね」

「人間は、少し動くだけで、その前とはぜんぜん違う形になるんだ。びっくりするぐらい。それで、右と左とか、前と後ろとか、上と下が……あ、斜めもあるね。それが不釣り合いのほうがきれいだったりするんだ」とニコラスが興奮しながら話している。

 ろうそくもだいぶ短くなってきた。
 ソッラのまぶたも重たくなっている。

「ニコラス、そろそろ、ろうそくも消えるわ。今からそんなに興奮していたら、フィレンツェに入ったとき、ひっくり返るから。旅をしていて、思ったの……フィレンツェは
やっぱりいちばん美しい街……でも、いちばん美しいのはね……」
「美しいのは?」とニコラスが紙を片付けながら聞く。

「あなたのパパの手よ。ダ・ヴィンチさんだって誉めてくれたんだから……」とソッラはつぶやいて、すぐに寝息をたてはじめた。ニコラスは母親の寝顔をニッコリと眺める。

「ママにとって、パパの手は永遠のFigaro(形)なんだね。おやすみなさい」

 ニコラスはろうそくの火を消した。



 翌朝、シエナを発った4人は一路フィレンツェに向かう。旅に行きと帰りがあるならば、帰りは早く感じるものだ。ソッラ、ニコラスたちの旅のどこを帰りとするならば、シエナからフィレンツェに向かうこの道がそうだと言える。ずっと旅に付き添ってくれたルイジとグイドバルドとも、フィレンツェに着いたら別れることになる。

 それは、ソッラとニコラスにとって、本当の、フェラーラからの旅立ちだった。


 小さい絵描きのニコラスにとって、フィレンツェは夢のような街だった。フィレンツェの門をくぐってからというもの、ニコラスの目はキョロキョロして、ひとところに定まることがない。マキアヴェッリの山荘を出た後で丘陵から見下ろした景色が、すぐ目の前に現れたのだ。
 そこにはフィレンツェのシンボルであるサンタ・マリア・デル・フィオーレ聖堂の堂々とした姿がある。フィレンツェの中心を流れるアルノ川にさしかかると、ニコラスはソッラの袖をつかんで言う。
「ママ、あんな橋は見たことないよ!」
「あれはね、ポンテ・ベッキオよ」とソッラが優しい声で答える。その橋を渡ると右手に、父母の思い出の地シニョリーア広場が現れる。
「ここがシニョリーア広場よ」とソッラが懐かしそうに眺めている。

 パンの袋を持って転びそうになったソッラを、通りかかったミケーレ・ダ・コレーリアが抱き止めたのだ。そして二人は恋人になり、この広場で落ち合って長い旅に出たのだ。

 その広場をゆっくり見たがるニコラスにソッラは、「今日からは毎日来られるからね」と諭すように告げる。ふと、ニコラスは広場の一角にそびえ立つヴェッキオ宮殿の、そのまた一角に目を凝らす。
 ソッラが、「倒れたらどうしよう」といつも避けて歩いていた高い塔のある建物である。その角に彫刻が一体備え付けてあった。

「ママ、あの大きな像だけ見てもいい?」
 ソッラはその像を見て、合点がいったようにうなずく。
「さすがニコラスね。見る目があるわ。あれはミケランジェロの『ダヴィデ』像よ。私がいた頃からずっとあるわ」

「そうなの?」とニコラスは興奮したようすで一目散に像に向かって走る。残された3人は、「最後の寄り道だな」と言って笑い合う。

 馬具屋、武具店が立ち並ぶ一角を見つけてソッラはごくりと唾をのむ。10年前にここを去ったときと何も変わっていない。ソッラはおそるおそる道を進む。そして懐かしい我が家、ソッラの父親が営む鍛冶屋の建屋があらわれる。

「ああ……」
 そうつぶやいて、ソッラは立ち尽くす。

 ルイジとグイドバルドがソッラの視線の先を確かめて、鍛冶屋のほうに歩いていく。ソッラは少し恥ずかしげにルイジとグイド(バルド)の後ろに隠れるように歩く。
 ニコラスは母親の振る舞いを不思議そうに見ながら歩いている。

 近づくと、鍛冶屋のほうでも見慣れない一団の姿を見つけたようだ。徒弟らしい若者が中に入っていく。
「親方、親方ぁっ、お嬢さんがお帰りですよ」と叫ぶ声に応じて、ソッラの父親が出てきた。ルイジとグイドバルドが進んで行って、ソッラの父親に丁寧にあいさつする。

「フェラーラ公国で公妃ルクレツィア様の乳母としてお務めになられたお嬢様とご子息をお連れして参りました」

 ソッラは普段のルイジとグイドからは想像もできない丁寧な態度に内心笑いをこらえていたが、ソッラの父はいきなりのあいさつに面食らっていた。
 しかし、二人の後ろに立つソッラの姿を見ると、父親は目を細めてまっしぐらに娘のもとまで進んだ。
「おまえ……突然いなくなって……どれだけ心配したか……」
 ソッラの目から涙がこぼれる。
「ごめんなさい……パパ」
「孫がこんなに大きくなるまで帰ってこないんだからな。本当に親不孝な娘だよ、まったく」
 父親はそれだけ言うともう言葉をなくして、娘を思い切り抱きしめた。

 ルイジもグイドも、そしてニコラスも微笑んでただそれを見守っていた。


 さて、フィレンツェはこの時期、メディチ家が復帰し、同家出身の教皇(レオ10世)も輩出し表面上は平穏を保っている。カンブレー同盟戦争も終息した。
 しかし、レオ10世が教皇となってからの教皇庁の浪費ぶりは凄まじいものだった。画家ラファエロの工房が数々の作品を教皇庁の依頼で制作している話は先に書いたが、それに対して支払う金銭も倍々で増えていった。この教皇は3代の教皇が使う分をひとりで使ったと後世言われることになる。

 この頃、教皇庁の臨時収入を増やす手段はいくつかあった。新しく枢機卿(すうききょう、すうきけい)を任命するのがそのひとつである。枢機卿に任命された人間は多額の持参金を用意しなければならない。それがすなわち、臨時収入になるのだ。枢機卿になれる人間は限られているし、キリスト教会の最高位(教皇)に次ぐ存在である。ヨーロッパ中、多額の持参金を用意してでもなりたがる者は多かった。

 

 しかし、それをもってしても先代の教皇から持ち越しのままの、サン・ピエトロ大聖堂(ローマ)の改築に回す費用はなかった。

 そこで、レオ10世は資金調達のために、もうひとつの手段に打って出る。

 贖宥状の販売である。

 このいきさつについては第二章の『とびきり欲深い者に対する論題』の節で詳しく書いているので、そちらをご覧いただきたい。いずれにしても、神聖ローマ帝国における、大司教座をふたつ求める選帝侯と豪商フッガー家の派手な贖宥状販売が大きな、取り返しのつかない事態を招いたのだ。

 ちょうどソッラたちがフィレンツェに到着したのと同じ時期に、神聖ローマ帝国領内のヴィッテンベルグ大学神学教授が立ち上がった。贖宥状の大量販売に疑義を訴える内容の『論題』を大量に印刷して、ほうぼうに配布した。

 マルティン・ルターによる『贖宥の効力を明らかにするための討論』である。



 ソッラとニコラスはフィレンツェの鍛冶屋に住み、ソッラは以前のように客の応対をする。ニコラスはフィレンツェに数多く存在する画家の工房の見学をはじめた。工房は選ばなければならないほどあったのだ。

 ニコラスは、工房を見学する合間を縫って、フィレンツェの街並みや人々をスケッチすることに余念がなかった。しかし、回っている途中で必ず寄る場所があった。ニコラス一番のお気に入りといっていいだろう。

 それは、『ダヴィデ像』だった。多少の誇張があるが、何と美しい彫像だろう。ニコラスはダヴィデ像をさまざまな角度から眺め、全体や部分を熱心にスケッチした。周辺の天候や時刻によっても、彫像を彩る光や影の具合が変わる。何枚描いても足りないとニコラスは感じている。

 そんなある日のことだった。
 ニコラスが熱心に『ダヴィデ像』をスケッチしているのを、黒髪でひげ面の中年の男がじっと後ろから眺めている。気配を感じてニコラスが後ろを振り向くと、その男はあごひげを撫でながらぶっきらぼうに言った。

「気にするな。そのまま描いてろ」

 ニコラスはその低い声を少し恐ろしく感じたが、言われた通りに描き続けた。

 男はそれを、ものも言わずただ見ていた。
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