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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ
パン屋の娘はローマへ シエナ 1517年
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〈ソッラ、ニコラス・コレーリャ、マルガリータ・ルティ、フランチェスコ・ルティ、ラファエロ・サンティ、アゴスティーノ・キージ、教皇レオ10世〉
シエナのカンポ広場でソッラとマルガリータ・ルティはお互いの辿ってきた道について話し込んでいる。レンガ造りの建物群も二人の話に聞き耳を立てるように、身を寄せている。
一方、ルイジとグイドバルドに付き添われてスケッチを兼ねた散歩に出ているニコラスは同じカンポ広場の一角に陣取っている。ルイジとグイド(バルド)がルティの店のパンを頬張っている間、広場をなだらかに取り囲んで建つレンガ造りの建物を熱心にスケッチしている。こうなると、誰が話しかけても無駄だ。そんなことは先刻承知している男たちはニコラス用のパンを布製の袋に入れてとっておくことにした。
「パンが格好の餌食になってしまう前に俺たちの分は食っておかなけりゃ」とルイジが口をもぐもぐさせながら言う。
「くわばらくわばら。しかし、本当にうまいな」とグイドもパンを頬張りながら言う。
この頃からパンは消しゴムとしても使われていた。画家とパン屋は縁の深いものなのだ。
さて、画家ラファエロとパン屋の娘マルガリータの話に戻る。
ラファエロはローマに行ってからも、マルガリータのことが忘れられなかった。恋仲になる前に袖にされたのは、自身の失態によるものだった。それを何とか許してもらおうと、ローマに移ってからも手紙を書いたり、教皇庁に次ぐパトロンであるシエナの銀行家、アゴスティーノ・キージに仲介を頼み、マルガリータに思いを伝え続けた。
困惑したのはルティ一家である。
マルガリータは結婚し、パン屋の女主人としてシエナに根を下ろして暮らしていこうとしていた。ラファエロの尽きない熱情はルティ一家に影を落とすようになる。誰よりも不愉快に感じたのは、言うまでもなく夫になった男である。彼はルティのパン屋でずっと働いていたから、ラファエロがかつてマルガリータに言い寄って出入り禁止になったことを知っている。それにも関わらず、画家がずっとマルガリータに執心するありさまを見て、次第に心に疑念がわくようになったのである。
「実は深い仲だったのではないか」
マルガリータは結婚したとき処女だった。なので、そのような疑いが生まれる余地はなかったのだ。当然マルガリータは怒る。夫は黙りこみ、憮然として席を立つ。そんないさかいがたびたび起こって、夫婦仲はどんどん冷えていった。一度妊娠したが流産し、それ以降子どもはできなかった。いや、子どもをつくることもしなくなった。
一方のラファエロはと言えば、飛ぶ鳥を落とす勢いである。すでに、ミケランジェロがフィレンツェに、レオナルド・ダ・ヴィンチがフランスに去っている。ローマはラファエロの独壇場で、古(いにしえ)の都を自身の作品で覆い尽くしてしまうのではないかと思われるほどだ。彼の工房は常時50人を越える職人・徒弟を抱え、画、壁画、建築デザイン、邸宅の装飾、タペストリーの原画、版画など何でも請け負った。そして分業によって、短い納期でもどんどん依頼品を仕上げていった。
仕事が早くても質が悪ければ話にならないが、その点についても抜かりはない。ラファエロの工房には、才能のある弟子が集まった。筆頭に挙げられるのがジュリオ・ロマーノで、次いでジョヴァンニ・ダ・ウディネ、ジョヴァンニ・フランチェスコ・ペンニ。彼らはそれぞれ画家として立派に独り立ちできるほどの腕前を持っていた。
これまでローマで手がけた有名な仕事を一部挙げておこう。まずは教皇の居宅、作業場を彩る壁画である。1510年に完成した「アテナイの学堂」についてはさきに述べた。「署名の間」の壁と天井を飾るフレスコ画もほぼ同時期に完成している。続いて「ヘリオドロスの間」、「ボルゴの火災の間」、「コンスタンティヌスの間」とバチカンでの作業は続いていく。そして、他の聖堂フレスコ画ではサンタゴスティーノ聖堂の「イザヤ」、サンタ・マリア・デッラ・バーチェ聖堂の「巫女たち」が挙げられる。その他に祭壇画として、「シストの聖母」、「フォッリーニョの聖母」も描かれている。教皇庁の関係では、教皇や枢機卿の肖像画も依頼され、複数描いている。そして、システィーナ礼拝堂のタペストリーの下絵制作とサン・ピエトロ大聖堂のデザインも依頼されている。しかし、大聖堂のデザイン案は直接採用されることはなかった。
その他に、アゴスティーノ・キージ邸の装飾など一般人(ただし非常に裕福な)からの依頼も請け負っている。これらのほとんどが、カンブレー同盟戦争と同時期に行われていたのである。
言うまでもないが、大繁盛である。工房には多額の売上が入り、ラファエロは豪奢な邸宅を購入している。
この間にラファエロは教皇だけではなく、他の枢機卿(すうきけい、すうききょう)にも知己を得た。特にビビエーナ枢機卿とはつながりが深く、その姪マリアと婚約までした。
しかし、結婚することはなかった。
彼はどんなに成功し、たくさんの女性に囲まれても、婚約者を得ても、自身の最高のモッデーラ(モデル)を忘れることがなかったのである。
そして、シエナの大富豪アゴスティーノ・キージに新妻と暮らす新居の装飾を依頼されて、その思いをもう抑えることができなくなったのだ。この邸宅は新婚夫婦にふさわしく、「アモールとプシュケ」をテーマに装飾することが決まっていた。
「愛」である。
彼は、彼の激しい愛の対象を得ることができなければ、この仕事はできないとキージに訴えた。
キージはこの訴えにほとほと困り果てた。新妻と早く甘い蜜月を過ごしたいのに、その最高の舞台がなかなか整わないのはつらい。しかし、ラファエロは彼女がいないのならば仕事をしないとまで言う。そこでキージは、シエナのパン屋のためにローマの邸宅を用意するから来てほしいーーと頼むことにした。
キージは地元の有力者である。この依頼に対しては頼む側のキージ以上に、ルティ一家も困惑した。
そこまでしてマルガリータが欲しいのか。
マルガリータの父親であるフランチェスコはこの時点で少し心が動いていた。地元の有力者の頼みを無下にはできない。しかもローマに邸宅まで用意され、家族で住むことができ、生活の心配もないという。マルガリータは夫とうまく行っておらず、子どももいない。それならば……。
マルガリータは父親に説得される羽目になった。父親までキージの話に乗り気なのを知って、マルガリータは愕然とする。しかし、もう亭主も心が離れていて、こっそり他の女に会いに行っている。自分はどう生きていったらいいのだろう、と途方に暮れるしかない。父親の説得に頑強な拒絶で返す気力ももうなくなっていた。
マルガリータの話を聞き終わると、ソッラはため息をつく。
「それで、ローマに行くことになったのね」
マルガリータはうなずく。
「そう、店は亭主に譲って、父と母と一緒にローマに行く……そうね、来月には」
「そうか、じゃ私たち会えたのは奇跡ね……」
「本当に。このことを話せる人もいないし、神様の思し召しね」とマルガリータはうつむく。
「ママ、お話は済んだ?」と紙の束を手にニコラスがひょっこり顔を出す。
「ああ、ニコラス、もうすぐよ。ルイジとグイドは?」とソッラが尋ねる。
「うんっと、宿屋を取りにいったよ。決まったら馬をつないで迎えに来るってさ」とニコラスが答える。
マルガリータはまじまじとニコラスを見る。そして、ひどく懐かしそうな顔をする。
「ああ、司令官さまに、お父さんにそっくり。何だろう、とても懐かしい感じがするわ」
ソッラとニコラスは顔を見合わせる。マルガリータはつぶやくように言う。
「私ももう、そんなに若くない。こんなふうに子どもがいたらよかったな……」
「マルガリータさん、悲しいお顔だよ」とニコラスがつぶやく。
「ああ、うん。私ね、ローマに行かないといけなくなっちゃって……」とマルガリータは言う。ソッラがマルガリータに確かめるように目配せしてから、ニコラスに告げる。
「マルガリータはね、どうしてもモデルになってほしいと、ずっとある画家にずっとお願いされていて、それでローマに行くのよ」
「画家って、だあれ?」とニコラスは無邪気に聞く。
「ラファエロ……、ラファエロ・サンティよ」とマルガリータはニコラスに言う。ニコラスは驚いて目をぱちくりさせる。
「すごい! ローマで一番有名な画家だ。ぼく知ってるよ。フェラーラで聖母の絵の模写を先生に見せてもらった。じゃあ、マルガリータさんも聖母のモデルになるんだね」
「さほど若くない、子どもも産んだこともない、生活やつれした女がモデルになれるのかしら」と、彼女は自嘲的につぶやく。
ニコラスはニコニコしながらマルガリータを見る。
「マルガリータさんは目が優しい。でもくっきりしていて、とてもすてき。ぼくも描いてみたいなぁ。ローマで何か言われたら、帰ってくればいいと思う。こっちから願い下げよ、ってさ」
マルガリータはそれを聞いて、プッと吹き出した。
「ニコラスはきっと女性を口説くのが上手になるわね。ありがとう」
マルガリータの機嫌が少し治ったようで、ソッラもホッとしている。ほめられたニコラスは、少し考えてから二人に言う。
「ぼくね、絵を描く人はみんな、目に見えること、頭の中で思っていることを本当の形にしようとしていると思う。夢中になって、本気になって描くほど、嘘が入る隙間はなくなる。じょうずな人ほどそうだと思うんだ。だから、ラファエロさんは、本当にマルガリータさんを描きたいんだよ。目の前にいる本物のマルガリータさんを描きたいんだと思う。それに……」
「それに?」とソッラが聞く。
「ラファエロさんがどんな人か、ぼくは知らない。でも、美しい絵を描く人は、美しいものを心の奥から求めているから描くことができるんだよ。ぼくもそうだもん。それに……チョークや紙や絵具は、人の心を動かせるけど、人を殺すことはない。
ぼくのパパの命を奪ったナイフのように」
カンポ広場の雑踏の中、ソッラの回りだけ音が止んだようだった。彼女はニコラスの言葉をひとり噛みしめる。
「ニコラス……だから、だからなのね。エステンセ城で、どんなにエルコレ坊っちゃまに請われても、従者になることを断ったのは……」
ニコラスは、うん、とうなずく。
「だって、ぼくが戦争に出かけて死んじゃったら、ママはまたたくさん泣かなきゃいけないでしょう」
ソッラはニコラスをぎゅっと抱きしめる。
マルガリータはその様子をただ圧倒されて見ている。
何て健気な子なんだろう。
私もこんな子を産むことができたら……。
誰の子でも……。
広場の向こうから、ルイジとグイドが歩いてくるのが見える。辺りはもう夕焼けに染まりはじめている。
「宿は取れました。そろそろ行きましょう」
ソッラとニコラスは宿屋の方角に。
マルガリータはルティのパン屋に戻る。
ソッラとマルガリータが名残惜しそうに何度も抱擁を繰り返す。二人はようやく離れる。そして、マルガリータがニコラスの方を向いて言った。
「ニコラス、確かに絵描きは人を殺さないわ。あんたの言う通り。そういうふうに思えば、いいこともあるような気がしてきた。もし、フィレンツェで雇ってもらえなかったら、絶対ローマにいらっしゃい。そうでなくても、ローマに遊びに来てね。私も頑張って待っているわ」
「うん、ありがとう、マルガリータさん」とニコラスが笑う。
マルガリータの後ろ姿が遠くなっていく。
「ぼく、宿に着いたら、マルガリータさんの絵を描こうっと」とニコラスが不意に宣言する。
「おお、記憶だけで描けるのか、さすがニコラスだな」とグイドが感心する。
「だって、ラファエロさんより早く、ラファエロさんのモデルを描くなんて、すごく自慢できるよ」とニコラスが舌を出す。
ニコラスにもそれなりの功名心があるようだ。
しかし、ラファエロがすでにマルガリータの面影をモデルにして、大量の絵を描いていることをニコラスは知らなかった。
それは文字よりも雄弁なラファエロのラブレターだった。
シエナのカンポ広場でソッラとマルガリータ・ルティはお互いの辿ってきた道について話し込んでいる。レンガ造りの建物群も二人の話に聞き耳を立てるように、身を寄せている。
一方、ルイジとグイドバルドに付き添われてスケッチを兼ねた散歩に出ているニコラスは同じカンポ広場の一角に陣取っている。ルイジとグイド(バルド)がルティの店のパンを頬張っている間、広場をなだらかに取り囲んで建つレンガ造りの建物を熱心にスケッチしている。こうなると、誰が話しかけても無駄だ。そんなことは先刻承知している男たちはニコラス用のパンを布製の袋に入れてとっておくことにした。
「パンが格好の餌食になってしまう前に俺たちの分は食っておかなけりゃ」とルイジが口をもぐもぐさせながら言う。
「くわばらくわばら。しかし、本当にうまいな」とグイドもパンを頬張りながら言う。
この頃からパンは消しゴムとしても使われていた。画家とパン屋は縁の深いものなのだ。
さて、画家ラファエロとパン屋の娘マルガリータの話に戻る。
ラファエロはローマに行ってからも、マルガリータのことが忘れられなかった。恋仲になる前に袖にされたのは、自身の失態によるものだった。それを何とか許してもらおうと、ローマに移ってからも手紙を書いたり、教皇庁に次ぐパトロンであるシエナの銀行家、アゴスティーノ・キージに仲介を頼み、マルガリータに思いを伝え続けた。
困惑したのはルティ一家である。
マルガリータは結婚し、パン屋の女主人としてシエナに根を下ろして暮らしていこうとしていた。ラファエロの尽きない熱情はルティ一家に影を落とすようになる。誰よりも不愉快に感じたのは、言うまでもなく夫になった男である。彼はルティのパン屋でずっと働いていたから、ラファエロがかつてマルガリータに言い寄って出入り禁止になったことを知っている。それにも関わらず、画家がずっとマルガリータに執心するありさまを見て、次第に心に疑念がわくようになったのである。
「実は深い仲だったのではないか」
マルガリータは結婚したとき処女だった。なので、そのような疑いが生まれる余地はなかったのだ。当然マルガリータは怒る。夫は黙りこみ、憮然として席を立つ。そんないさかいがたびたび起こって、夫婦仲はどんどん冷えていった。一度妊娠したが流産し、それ以降子どもはできなかった。いや、子どもをつくることもしなくなった。
一方のラファエロはと言えば、飛ぶ鳥を落とす勢いである。すでに、ミケランジェロがフィレンツェに、レオナルド・ダ・ヴィンチがフランスに去っている。ローマはラファエロの独壇場で、古(いにしえ)の都を自身の作品で覆い尽くしてしまうのではないかと思われるほどだ。彼の工房は常時50人を越える職人・徒弟を抱え、画、壁画、建築デザイン、邸宅の装飾、タペストリーの原画、版画など何でも請け負った。そして分業によって、短い納期でもどんどん依頼品を仕上げていった。
仕事が早くても質が悪ければ話にならないが、その点についても抜かりはない。ラファエロの工房には、才能のある弟子が集まった。筆頭に挙げられるのがジュリオ・ロマーノで、次いでジョヴァンニ・ダ・ウディネ、ジョヴァンニ・フランチェスコ・ペンニ。彼らはそれぞれ画家として立派に独り立ちできるほどの腕前を持っていた。
これまでローマで手がけた有名な仕事を一部挙げておこう。まずは教皇の居宅、作業場を彩る壁画である。1510年に完成した「アテナイの学堂」についてはさきに述べた。「署名の間」の壁と天井を飾るフレスコ画もほぼ同時期に完成している。続いて「ヘリオドロスの間」、「ボルゴの火災の間」、「コンスタンティヌスの間」とバチカンでの作業は続いていく。そして、他の聖堂フレスコ画ではサンタゴスティーノ聖堂の「イザヤ」、サンタ・マリア・デッラ・バーチェ聖堂の「巫女たち」が挙げられる。その他に祭壇画として、「シストの聖母」、「フォッリーニョの聖母」も描かれている。教皇庁の関係では、教皇や枢機卿の肖像画も依頼され、複数描いている。そして、システィーナ礼拝堂のタペストリーの下絵制作とサン・ピエトロ大聖堂のデザインも依頼されている。しかし、大聖堂のデザイン案は直接採用されることはなかった。
その他に、アゴスティーノ・キージ邸の装飾など一般人(ただし非常に裕福な)からの依頼も請け負っている。これらのほとんどが、カンブレー同盟戦争と同時期に行われていたのである。
言うまでもないが、大繁盛である。工房には多額の売上が入り、ラファエロは豪奢な邸宅を購入している。
この間にラファエロは教皇だけではなく、他の枢機卿(すうきけい、すうききょう)にも知己を得た。特にビビエーナ枢機卿とはつながりが深く、その姪マリアと婚約までした。
しかし、結婚することはなかった。
彼はどんなに成功し、たくさんの女性に囲まれても、婚約者を得ても、自身の最高のモッデーラ(モデル)を忘れることがなかったのである。
そして、シエナの大富豪アゴスティーノ・キージに新妻と暮らす新居の装飾を依頼されて、その思いをもう抑えることができなくなったのだ。この邸宅は新婚夫婦にふさわしく、「アモールとプシュケ」をテーマに装飾することが決まっていた。
「愛」である。
彼は、彼の激しい愛の対象を得ることができなければ、この仕事はできないとキージに訴えた。
キージはこの訴えにほとほと困り果てた。新妻と早く甘い蜜月を過ごしたいのに、その最高の舞台がなかなか整わないのはつらい。しかし、ラファエロは彼女がいないのならば仕事をしないとまで言う。そこでキージは、シエナのパン屋のためにローマの邸宅を用意するから来てほしいーーと頼むことにした。
キージは地元の有力者である。この依頼に対しては頼む側のキージ以上に、ルティ一家も困惑した。
そこまでしてマルガリータが欲しいのか。
マルガリータの父親であるフランチェスコはこの時点で少し心が動いていた。地元の有力者の頼みを無下にはできない。しかもローマに邸宅まで用意され、家族で住むことができ、生活の心配もないという。マルガリータは夫とうまく行っておらず、子どももいない。それならば……。
マルガリータは父親に説得される羽目になった。父親までキージの話に乗り気なのを知って、マルガリータは愕然とする。しかし、もう亭主も心が離れていて、こっそり他の女に会いに行っている。自分はどう生きていったらいいのだろう、と途方に暮れるしかない。父親の説得に頑強な拒絶で返す気力ももうなくなっていた。
マルガリータの話を聞き終わると、ソッラはため息をつく。
「それで、ローマに行くことになったのね」
マルガリータはうなずく。
「そう、店は亭主に譲って、父と母と一緒にローマに行く……そうね、来月には」
「そうか、じゃ私たち会えたのは奇跡ね……」
「本当に。このことを話せる人もいないし、神様の思し召しね」とマルガリータはうつむく。
「ママ、お話は済んだ?」と紙の束を手にニコラスがひょっこり顔を出す。
「ああ、ニコラス、もうすぐよ。ルイジとグイドは?」とソッラが尋ねる。
「うんっと、宿屋を取りにいったよ。決まったら馬をつないで迎えに来るってさ」とニコラスが答える。
マルガリータはまじまじとニコラスを見る。そして、ひどく懐かしそうな顔をする。
「ああ、司令官さまに、お父さんにそっくり。何だろう、とても懐かしい感じがするわ」
ソッラとニコラスは顔を見合わせる。マルガリータはつぶやくように言う。
「私ももう、そんなに若くない。こんなふうに子どもがいたらよかったな……」
「マルガリータさん、悲しいお顔だよ」とニコラスがつぶやく。
「ああ、うん。私ね、ローマに行かないといけなくなっちゃって……」とマルガリータは言う。ソッラがマルガリータに確かめるように目配せしてから、ニコラスに告げる。
「マルガリータはね、どうしてもモデルになってほしいと、ずっとある画家にずっとお願いされていて、それでローマに行くのよ」
「画家って、だあれ?」とニコラスは無邪気に聞く。
「ラファエロ……、ラファエロ・サンティよ」とマルガリータはニコラスに言う。ニコラスは驚いて目をぱちくりさせる。
「すごい! ローマで一番有名な画家だ。ぼく知ってるよ。フェラーラで聖母の絵の模写を先生に見せてもらった。じゃあ、マルガリータさんも聖母のモデルになるんだね」
「さほど若くない、子どもも産んだこともない、生活やつれした女がモデルになれるのかしら」と、彼女は自嘲的につぶやく。
ニコラスはニコニコしながらマルガリータを見る。
「マルガリータさんは目が優しい。でもくっきりしていて、とてもすてき。ぼくも描いてみたいなぁ。ローマで何か言われたら、帰ってくればいいと思う。こっちから願い下げよ、ってさ」
マルガリータはそれを聞いて、プッと吹き出した。
「ニコラスはきっと女性を口説くのが上手になるわね。ありがとう」
マルガリータの機嫌が少し治ったようで、ソッラもホッとしている。ほめられたニコラスは、少し考えてから二人に言う。
「ぼくね、絵を描く人はみんな、目に見えること、頭の中で思っていることを本当の形にしようとしていると思う。夢中になって、本気になって描くほど、嘘が入る隙間はなくなる。じょうずな人ほどそうだと思うんだ。だから、ラファエロさんは、本当にマルガリータさんを描きたいんだよ。目の前にいる本物のマルガリータさんを描きたいんだと思う。それに……」
「それに?」とソッラが聞く。
「ラファエロさんがどんな人か、ぼくは知らない。でも、美しい絵を描く人は、美しいものを心の奥から求めているから描くことができるんだよ。ぼくもそうだもん。それに……チョークや紙や絵具は、人の心を動かせるけど、人を殺すことはない。
ぼくのパパの命を奪ったナイフのように」
カンポ広場の雑踏の中、ソッラの回りだけ音が止んだようだった。彼女はニコラスの言葉をひとり噛みしめる。
「ニコラス……だから、だからなのね。エステンセ城で、どんなにエルコレ坊っちゃまに請われても、従者になることを断ったのは……」
ニコラスは、うん、とうなずく。
「だって、ぼくが戦争に出かけて死んじゃったら、ママはまたたくさん泣かなきゃいけないでしょう」
ソッラはニコラスをぎゅっと抱きしめる。
マルガリータはその様子をただ圧倒されて見ている。
何て健気な子なんだろう。
私もこんな子を産むことができたら……。
誰の子でも……。
広場の向こうから、ルイジとグイドが歩いてくるのが見える。辺りはもう夕焼けに染まりはじめている。
「宿は取れました。そろそろ行きましょう」
ソッラとニコラスは宿屋の方角に。
マルガリータはルティのパン屋に戻る。
ソッラとマルガリータが名残惜しそうに何度も抱擁を繰り返す。二人はようやく離れる。そして、マルガリータがニコラスの方を向いて言った。
「ニコラス、確かに絵描きは人を殺さないわ。あんたの言う通り。そういうふうに思えば、いいこともあるような気がしてきた。もし、フィレンツェで雇ってもらえなかったら、絶対ローマにいらっしゃい。そうでなくても、ローマに遊びに来てね。私も頑張って待っているわ」
「うん、ありがとう、マルガリータさん」とニコラスが笑う。
マルガリータの後ろ姿が遠くなっていく。
「ぼく、宿に着いたら、マルガリータさんの絵を描こうっと」とニコラスが不意に宣言する。
「おお、記憶だけで描けるのか、さすがニコラスだな」とグイドが感心する。
「だって、ラファエロさんより早く、ラファエロさんのモデルを描くなんて、すごく自慢できるよ」とニコラスが舌を出す。
ニコラスにもそれなりの功名心があるようだ。
しかし、ラファエロがすでにマルガリータの面影をモデルにして、大量の絵を描いていることをニコラスは知らなかった。
それは文字よりも雄弁なラファエロのラブレターだった。
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