16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第4章 フィガロは広場に行く2 ニコラス・コレーリャ

マキアヴェッリの山荘へ 1517年 ボローニャからキアンティ

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〈ソッラ、ニコラス・コレーリャ、ルイジ、グイドバルド、ニッコロ・マキアヴェッリとその妻〉

 ソッラとニコラス母子の道のりは果てしなく遠い。
 と言いたいところだが、フェラーラからフィレンツェまでは30レグア(約150Km)ほどしかない。16世紀のこの時期とはいえ、歩きでも健脚ならば4日ほどで着く。早馬ならば1日で行けるだろう。



 例えば、ローマからフィレンツェまでは55レグア(約275Km)の距離だが、書簡は翌々日に届いたという。現代の所要日数と変わらない。

 この旅は通過点に過ぎない。

 フェラーラ近辺からボローニャ、フィレンツェ間にはイタリア有数の大きな街道が通じていたので、至便なことこの上ない。母子を従者付きで送り出したフェラーラ公国のアルフォンソ・デステとルクレツィア・ボルジア夫妻は、母子の道中の安全をたいへん気にしていたので、至便な道を行くことは何よりも重要だった。特にフィレンツェの周囲は、さきのカンブレー同盟戦争で荒らされてしまったのだから。
 今はメディチ家がフィレンツェ国政に復帰して、対外的な戦争には巻き込まれていない。しかし、内部には不満を持つ人間が常に存在している。しばしば反乱計画が事前に察知され、逮捕されることもあった。

 まだ戦争が終わったばかりで、完全に平和なわけではない。

 それはソッラも分かっていた。ただ、彼女はフィレンツェにある実家の鍛冶屋に戻ったら、あれやこれやで自由に遠出はできなくなるだろうと思っている。
 そこで、ボローニャに着いたところで、従者として同行しているルイジとグイドバルドにあることを頼もうと思っていた。

 ルイジは長身だがひょろっとした体格、対してグイドは髭面(ひげづら)で恰幅(かっぷく)がいい。エステンセ城で城番を勤めている二人は普段から仲もよく、明るい性格の男たちである。

 何より、ソッラにとってはずっと同じ城の使用人仲間なので、ものを言いやすい。

 「フィレンツェをいったん通り越して、キアンティとシエナに立ち寄りたい」というのがソッラの頼みごとである。

 フィレンツェ郊外のキアンティ地方。もっと具体的に言えばサンタンドレア・イン・ペルクッシーナという一地区である。丘陵の中にあって、村とも言えない土地だ。ここにニッコロ・マキアヴェッリの住む山荘がある。一方のシエナにはソッラの女友達、マルガリータ・ルティがまだ住んでいるはずだ。この二人にはぜひ会っておきたい、ソッラはそう願っていたのである。

 マキアヴェッリについては、フェラーラ公アルフォンソが所在を教えてくれた。ソッラの息子ニコラスの名前が、マキアヴェッリに由来することを知っていたからである。かつてフィレンツェの官吏だった男はそこで執筆活動にいそしんでいるという。
 もちろん、アルフォンソの姉、イザベッラ・デステから聞いたに違いない。持つべきものはあらゆる情報に通じた肉親である。

 ただ、マルガリータ・ルティの居場所は定かでない。最後にシエナで会ったのはもう9年ほど前で、そのときすでに、「結婚させられそうだ」と言っていたのである。常識を持って考えれば、そのようになったはずだ。
 良く考えれば、シエナのパン屋の女主人になっているだろう。でも、他のどこかに嫁したとも考えられる。

 それでも、マルガリータを探して再会したいとソッラは思う。

 9年……あっという間だった。

 ソッラはミケーレ・ダ・コレーリアと旅をした9年前のことを思う。二人の旅はあてどなく、今回のフィレンツェへの旅よりもはるかに長かったのだ。
 それは恋人たちだけの濃密な時間でもあった。あの時間があったからこそ、ミケーレの死の衝撃は果てしなく大きく、また、慰めもたっぷりと与えられたのだろう。

 その慰めのひとつである、ソッラの息子ニコラスは道中ずっとキョロキョロして、目に触れるものすべてを描きたがった。
 心地よい声で啼(な)くヒバリ。スイスイと低空を横切っていくツバメ。高い天空からネズミを咥えて連れ去っていくタカなど鳥たちの動きにはことさら目を凝らしている。一行が足止めされることもしばしばだった。

「ニコラスにまた、紙をあつらえないとなあ。これじゃ、いくらあっても足りない」とグイド(バルド)が苦笑する。
「たっぷり持ってきたのにな」とルイジも同意する。
「これで、ボローニャに着いたらたいへんよ。あの古い街並みがこの子には豪華なごちそうだから」とソッラが笑う。

「ママ、街は食べられないよ」とニコラスは不思議そうな顔をする。一行は一瞬の沈黙ののち、大笑いする。

 そのボローニャにほどなく到着し、旅人たちは街ではなく、山盛りのパンと大盛りの煮込み料理を平らげるのである。そして、ソッラはルイジとグイドに「寄り道」の提案をする。二人とも心得ていたようで、すぐに了解する。

「ニコラスの寄り道でこれだけ時間を食うことが分かった。エステンセ城に戻るのに相当時間がかかると伝手(つて)を頼んで知らせよう。ただ俺たちが遊び呆けていると思われるのも癪(しゃく)だから、フィレンツェに着いたらソッラにも一筆書いてもらわなきゃいけない」とルイジが言う。
「もちろんよ、じゃあ、協力者には景気よく飲んでもらわないとね」とソッラが酒を注文する。

「ほどほどにね」とニコラスが釘を刺す。
 一同はまた、プッと吹き出した。

 店を出て、一行は偉容を誇るエンツォ王宮が脇に建つマッジョーレ広場を通りかかった。ニコラスはそこでスケッチをしたいとねだった。ソッラはうなずきながら、ふっとつぶやく。
「ここは前に通ったときと、何も変わっていないのね……」


 フィレンツェには、それでも3日ほどで着いた。
 寄り道のルートはまず、フィレンツェ郊外のキアンティに向かいマキアヴェッリの家を目指す。そこから、シエナに向かってルティのパン屋に行くという順序になる。



 一行がキアンティに着いたのは、もう夕方だった。道は途中で何度も聞きながら歩いてきたので間違いはないのだが、細い道を外れると一帯が森林である。辺りは夕闇が支配し、人家は極端に少ない。一行は不安になってくる。
「フィレンツェから少し離れただけなのに、ずいぶん人気がなくなるんだな」とグイドが心細げに言う。ソッラも街育ちなのでまったく同感だった。

 ここでいちばん勇敢だったのは、意外なことにニコラスだった。
「ママ、あの店に聞いてみよう」と言って、灯りのついた店に駆け出していった。

 ニコラスの行動は正しかった。
 その店は居酒屋で、近隣に住む男たちの唯一の社交場だった。ニコラスが入っていくと、一同は見慣れない子どもの姿に一瞬沈黙したが、店の主人に訳を話すとすぐに合点がいったようだった。その間にソッラとフェラーラの従者たちも店に入ってきた。

「ああ、マキャベリさんならさっきまでそこに座ってた。ここの連中はみんなよく知ってるよ。地主さまだからね。おい、アレッサンドロ、山荘まで送ってやってくれ」と店主がいう。

「ええっ、俺今日はさんざんサイコロでやられたんだぜ。今日はマキアヴェッリさんの一人勝ちだ。しかもこんな若いお嬢さんが訪ねてくるなんて、まったく、一人勝ちだ……」と指名されたアレッサンドロはぼやく。
 店主は笑いながら、「今日に限ったことじゃないだろ。マキアヴェッリさんは負けたら奥方さまに大目玉なんだから、真剣さが違うんだよ」とアレッサンドロの肩をポンポンと叩く。その様子を見て、ソッラはクスッと笑う。

「まぁ、もうこんな時間だ。もしマキアヴェッリさんのところに泊まれないようなら、うちに来るといい。汚ない部屋でよければ、4人ぐらいは寝られる」
 居酒屋の店主がソッラに快く申し出る。

 居酒屋にいた、肉屋のアレッサンドロが丘の上にあるマキアヴェッリ宅のドアを叩く。出てきた主人は肉屋の後ろに立つ客人の姿を認めて言う。

「おや……ああ、フェラーラからの客人とは、もしかして? そういえば、マントヴァ侯爵妃から手紙をもらったことがあった。ああ、懐かしい……まさかこの片田舎に来てくれるとは……どうぞ、入ってください。あ、同行の方もご一緒に。馬は大丈夫ですか」

「はい、馬は居酒屋に預けてきました」とグイドが言う。

 マキアヴェッリ夫人もにこやかに迎えてくれる。
 もっとも、マキアヴェッリが小声で、「フェラーラ公国からのお客様だ。くれぐれも失礼のないようにな」と小声で囁いていたので、そのせいかもしれない。いずれにしても、フェラーラの一行はマキアヴェッリ夫人の用意した食事にありつくことができたのである。

「いや、本当に懐かしい。あの鍛冶屋の娘さんがフェラーラ公国妃に仕えていたなんて、まったく、うらやましい限りですよ」とマキアヴェッリは葡萄酒をそれぞれに注ぎながら告げる。

「うらやましい、ですか」とソッラはきょとんとする。

 マキアヴェッリは遠い目をしている。
「ええ、そうでしょう。私はほんの少しの間だけ、仕事としてチェーザレ・ボルジア、ドン・ミケロット(ミケーレ)と接しただけです。それなのに、あなたはミケロットと恋に落ち、子をなした。しかも、チェーザレの妹君であるルクレツィア妃に付いていたのでしょう。自分が女性だったらと、つい思ってしまいますよ」

 一同は侍女の装束のマキアヴェッリを思い浮かべて沈黙する。当の本人はハッとして、両手を振って否定する。

「何を想像しているんですか。ものの喩えですよ」

 脇に立つマキアヴェッリの妻が一瞬きっと夫をにらんだのをニコラスは目にした。

〈ぼくたち、迷惑だったかな? それともマキアヴェッリさんがおかしなことを言ったからかな〉

 両方かもしれない。

 結局、4人はマキアヴェッリ家に宿を得ることになった。ルイジとグイド、そしてニコラスは早々に食堂を辞したが、マキアヴェッリはソッラと話をしたがった。フィレンツェ軍の総司令官を解任されたミケーレ・ダ・コレーリアと、恋人ソッラがどのような日々を過ごしたのか、マキアヴェッリはただただソッラの話に耳を傾けた。
 チェゼーナでミケーレが亡霊の影に怯えた一夜。そして、ミラノのダンボワーズ伯爵邸を出たところで、ミケーレが刺されて絶命した雪の日。そのくだりに至ると、マキアヴェッリの目からは涙がこぼれる。

「ああ、彼がそんな最期を迎えなければならなかったのは、私のせいだ! 私がフィレンツェに招いたからだ! 彼は本当に素晴らしい軍人だったのだ。あのまま戦果を重ねれば、イタリア半島において16世紀最強のコンドッティアーレと呼ばれたに違いないのに……」

 ソッラは感情を露(あらわ)にしたマキアヴェッリの姿に驚く。そしてこの元官吏がミケーレの、ソッラがもっとも愛した男の死をこれほどまで惜しんでくれていることに震えるほど感動した。

 ソッラは静かにマキアヴェッリに語りかける。
「マキアヴェッリ様、ミケーレはあなた様に本当に感謝していたのです。チェーザレ様が生きているか死んでいるかも分からず、ミケーレが希望を失いかけていたとき、あなた様だけが地下牢までわざわざ迎えに来て、役目を与えて下さったことを。だから私は、私とミケーレの子に、恩人のあなた様の名前をいただいたのです」

 マキアヴェッリはまた涙を流して、それを袖でごしごしと拭いた。こっそりと脇で聞いていたマキアヴェッリの妻でさえ、ぐずぐずと鼻をすすってしまったほどである。

 マキアヴェッリは妻の立てた音に気付いて、ソッラにそろそろ休むよう促した。
「さぁ、ずいぶん話し込んでしまいました。今日は私もついつい、日課である古(いにしえ)の英雄との邂逅(かいごう)を休んでしまいました」
「英雄とお会いになるのですか?」とソッラは尋ねる。
「はい、それを書くのが私の生涯の仕事です」とマキアヴェッリは笑う。
「素敵なお仕事ですね」
「ソッラ、素敵ではないです。人間はいい、悪いだけでは決して判断できない。嫌な面もたくさん持っている。それが複雑に絡み合って、政治というものになります。
 それでも、どの英雄も反乱者も、あるいは鍛冶屋も官吏も、みんなただの人間なのですよ。チェーザレもミケロットも、そしてあなたもです」とマキアヴェッリはまた話し始める。

「私も英雄ですか?」とソッラは笑う。
 マキアヴェッリは笑ってうなずく。

「ええ、あなたもです。素晴らしい人生を生きている。私は……今は森の隠者のようになっていますが、ここはそのようなことをじっくりと考えるには本当によい環境です。
 とどのつまり……人生は美しいと思えるようになってきたのです」

「人生は……美しい」とソッラが反芻(はんすう)する。

「はい、そうです。今夜も美しい夜でした。明日はニコラスとも話させてください」とマキアヴェッリが言い、ソッラは会釈して席を立つ。

 ふくろうの声が遠くに聞こえる。
 静かな、森の夜だった。
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