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第3章 フィガロは広場に行く1 ニコラス・コレーリャ
公会議はどこで開いたらよいか 1511~12年 ミランドラ~ローマ
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<教皇ユリウス2世、フェラーラ公アルフォンソ・デステ、フランス王ルイ12世、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世、トリヴルツィオ将軍、ウルビーノ公フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ、エルコレ・デステ、ニコラス・コレーリャ>
カンブレー同盟戦争がまだ続いている。いや、これから本格化するのだ。
さて、イザベッラ・デステが手紙で揶揄(やゆ)したように、教皇ユリウス2世は勇ましく自ら軍を牽いてミランドラまでやってきた。ここからフェラーラへは東に12レグア(60km)ほどである。もちろん、周りの者(無理やり同行させられている枢機卿など)は引き止めた。「教皇という立場にある者がそのようなことをするとはいかがなものか」というのがまず先に立つが、この教皇はもう60代も後半で、滞在しているボローニャでも一度倒れているのである。神の代理人といえども人間なのである。
ミランドラはフェラーラの手前にある街で要衝となっており、進攻してきた教皇軍(フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ公爵が司令官)を防ぐ戦いを展開している。
この、ウルビーノ公と教皇は甥とおじの関係になる。
対抗するミランドラ側に詰めて、フェラーラ公アルフォンソ・デステは城砦の中で様子を聞いて、ため息をつく。
「何のためにここまで来たんだ……われわれが歓喜の涙を流して投降(とうこう)すると思っているのか。しかし、ミランドラも長い籠城で疲れきっているし、老体にもこの寒さはきついだろう……早く帰してやった方がいい」
ユリウス2世はさっそく近隣のサンタ・ジュスティーナ修道院を本陣として勇ましく指揮を取りはじめたのだが、僧院は異様に寒い。アルフォンソの言う通り、北イタリアの冬は老人にとって優しいものではなかった。雪がしきりに降って止むことがない。
本陣(実は修道院の台所)で戦局が一向に変わらないことに腹を立てている教皇は、もっと後方で待機するように頼む一同に対して一喝した。
「まず、大砲がここまで届くかどうか、届かないのではないか。それならば問題ないだろう」と教皇は気楽に言う。射程距離の話もそうだが、教皇に大砲を打ち込むことができるかという思いの方が強かった。
しかし、アルフォンソ・デステにそのような甘い感情はない。これ以上籠城を長引かせるわけにはいかないのだ。したがって、「ユリウス2世に早々にお引取り願う」のにもっとも適した手段が選ばれる。
1月17日、修道院に大砲が打ち込まれ、そこにいた数人の人間が死傷した。
ユリウス2世は無事だったが、目の前で人が倒れるのを見て、さすがに一端退却する気になった。しかし、責任感というのだろうか、翌日にはまた修道院に戻っている。
頑固である。
結局その3日後、フランスからの援軍が到着しないこともあって、ミランドラは開城することを決めた。
ユリウス2世は大喜びである。いきさつはともかく、自分が指揮して勝利したのだから。
しかし、遠征中のユリウス2世にとっても、嬉しいことばかり続くわけではなかった。
ボローニャをフェラーラ攻めの本拠地としている教皇軍は、ミランドラが陥落したことに勢いを得て、次に本格的なフェラーラ進攻を算段していた。
この頃の戦争は間が空く。一度にいくつもの街が征服されることはない。移動時間ももちろんあるが、そのほか第三国も含め各国でやりとりをしたり、当事国の講和交渉をしたりするのである。
イザベッラ・デステが手紙に書いたように、このときすでに神聖ローマ皇帝とフランスは教皇に対する次の手を検討していた。そしてイザベッラ自身も弟のフェラーラを何とか窮地から救いたいと、当事国に呼びかけて和睦をはかるための会議を開くことを提唱していた。マントヴァが中立だからできることである。もちろん、勝利をいったん得た教皇はそれに応じる気などないのだが。
2月11日、教皇に対して親和的だったフランス軍総司令官であり、ミラノ総督でもあるシャルル・ダンボワーズ伯がこの世を去った。そして代わりにフランス軍の総司令官になったのが、さきのアニャネッロの戦いで大活躍したトリヴルツィオ将軍である。フランス軍総司令官ながら、彼はイタリア人のコンドッティアーレ(傭兵隊長)である。彼が到着すると、軍は新たに再編成されて、精鋭からなる1万人の軍隊ができ上がった。彼らはミラノからボローニャに出発した。
トリヴルツィオ将軍もアルフォンソ・デステと同様、教皇に弓を引く(大砲を撃つ)ことなど何とも思わない人間である。
フランス軍出発の報を聞いた教皇は戦慄した。いよいよフランス軍が重い腰を上げたのだ。しかも司令官は猛将トリヴルツィオである。さすがに今回は周囲の進言を聞き入れて、教皇はボローニャからラヴェンナに移動することにした。
その5月、立て続けに、まるで示し合わせたかのように、戦争に動きが起こる。
教皇軍が戦争の本拠地としていたボローニャが教皇に対する反乱を起こしたのである。フランス軍がボローニャに進軍しているという情報を得たことによるものだろう。ボローニャは今回の教皇の滞在をあまり快く思っていなかったらしい。もっと言うなら、イタリア半島の中部をどんどん自分の支配下に置こうとすることに反発していたのだ。特にボローニャは過去から自治権があった都市である。その国を教皇がわがもの顔で軍とともに駐留し続けていることにかねてからの不満があったのだ。
結局、教皇軍はボローニャをてんでばらばらに撤退した。
そして、トリヴルツィオ率いるフランス軍は悠々とボローニャに入城した。もちろん、フランスと同盟を組んでいるフェラーラ公国のアルフォンソ・デステも一緒である。
一方、ラヴェンナに撤退した教皇軍にも事件が起こった。
教皇軍の司令官フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ(ウルビーノ公)が同道していたアドリアージ枢機卿に刃を向けたのである。アドリアージ枢機卿はしばらく後に死んだ。教皇に戦況報告をする際に、ウルビーノ公はアドリアージ枢機卿をなじった。しかし教皇は枢機卿を慰め、ウルビーノ公を叱責した。
それがこの事件の発端らしい。
甥の失態も教皇の気を著しく削ぐことになった。一同はラヴェンナを引き上げ、ローマへ向かうことになった。
その途上である。
5月28日、リミニの教会の中心であるサン・フランチェスコ教会の扉に1枚の紙が貼り出された。教皇の従者はそれを見て飛び上がるほど驚き、すぐさま伝えようと駆けていった。以下のような趣旨である。
「9月1日を期し、ピサにおいて公会議を開くことを要請する。
教皇ユリウス2世は就任当初、公会議を開催すると宣言していたにも関わらず、これまで一度も公会議を召集していない。そこで止むを得ないことから、枢機卿数名の同意を得て公会議の開催を決めたものである。教皇は出席されるか代理を派遣するか、どちらでも選ぶことができる。聖職者各位にも教皇の判断を待つまでもなく出席の自由があるので、ぜひ参加されたい」
そこには神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とフランス王ルイ12世の署名があり、有志として枢機卿9人の名前が列記されていた。
リミニの教会にまで貼り出されているということは、ヨーロッパ各国にもすでにこの宣告が回っているということだ。きのう今日の思いつきではない。ミランドラ攻略、ボローニャ反乱にかけての半年の間に、周到に用意されたに違いなかった。
教皇は卒倒しそうなほどショックを受けたし、何よりもプライドを傷つけられた。
教皇に何の事前確認もなく公会議を召集するということは通常ではありえない。このような例は、教皇を失墜させようという意思が働いたときに見られるものである。
しかし、移動中の教皇には、この大々的な共同作戦に対抗するすべがない。
ローマへ帰らなければ。
勇敢な教皇の華麗なる進軍は、波乱の予兆だけ残して終わりを告げたのである。
神聖ローマ皇帝とフランスが打ってきた手に対抗するには少しばかり時間がかかった。
ローマへ帰着後、ユリウス2世はさっそく本業にとりかかった。
「私を誰だと思っているのだ」
怒りは深かった。教皇に召集権がある公会議を勝手に召集するとは何事か。この反教皇の動きの先鞭を取るのは明らかにフランスだと思われた。そして様子見の神聖ローマ帝国を巻き込んだのだと。さっそく想定に基づいて、教皇はピサ公会議への対抗措置と今後の方向について決定していく。
まず、ピサ公会議召集に応じた枢機卿たちへの懐柔、脅迫あるいは処分である。それが概ね内定すると、次は自身が公会議を召集する準備に取りかかる。場所はもちろんローマである。
そして、何よりも重要なことはカンブレー同盟の今後の編成だった。
ころころ変わっているため、非常に分かりづらいが、これまでのものをおさらいしてみると――第一次が教皇軍・フランス・神聖ローマ帝国・スペイン・フェラーラ・フィレンツェ・マントヴァ対ヴェネツィア。
第二次が教皇軍(スイス人傭兵団)・ヴェネツィア対フランス・フェラーラ(他の国は行動としては中立)。
そして第三次は、教皇軍(スイス人傭兵団)・スペイン・ヴェネツィア対フランス・フェラーラ(神聖ローマ帝国もこちら寄り)である。教皇軍にはのちにイギリスも賛同することになる。
神聖ローマ帝国とフランス、この2つの国が教皇の前に立ちはだかってきたことで、教皇軍はスペインを本格的に動員することにしたのである。スペインも条件は出したものの、参加を約束した。たいてい、このような場合に条件なしで受諾する国はない。
その準備が整った。
7月25日、ローマ・サンピエトロ聖堂の大扉に1枚の宣告文が貼り出された。
〈公会議を召集するのは教皇の権利である。教皇ユリウス2世がその権利をないがしろにすることはない〉
その文面は激しい調子で綴られ、9月1日にローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ聖堂で公会議を召集することが記されていた。
フランスと神聖ローマ帝国に対抗する形の宣告である。ここからローマは、表向き公会議の2重開催への対処、実際はフランスと神聖ローマ帝国叩きがはじまるのである。
季節は夏になっている。
ユリウス2世はまた倒れた。ボローニャでのそれより症状は重く、側近や枢機卿たちもいざというときの心の準備をはじめたのだが、この不屈の教皇は、それでもまた持ち直した。意思だけが彼を支えていた。
フランスと神聖ローマ帝国は教皇の身体をおもんばかって、自身たちが呼びかけたピサの公会議を11月に延期すると知らせてきた。教皇がどうなるか分からなければ、公会議開催をアピールして対抗しても意味はないからだ。
それは瀕死の状態から脱した老人にとっては幸運なことだった。敵に攻撃する策が練られるからである。
公会議のかたちをした駆け引きはまだ続くのである。
一方、アルフォンソがフランス軍に随行してボローニャに出ている間、エステンセ城の中では外の戦争がまるで嘘のように静かな日々が続いている。
街を取り巻いている城壁には寝ずの番がついて、ポー川の岸辺から南のイーモラ方面まで見張り、槍を手に防衛態勢を取っている。平穏なのは中だけで外は非常事態なのだ。
公妃ルクレツィアは今日もゆっくり起き出した。子どもはもう食事を済ませている。そして、元気よくバタンとドアを開けて母親を起こしに来る。
ソッラがこどもを目覚まし役に任命したのかしら、とルクレツィアは考えて微笑む。
「ちょっと待ってね、今着替えますからね」
「はい、おかあさま」と行儀よくこどもは部屋から去っていく。
ルクレツィアの名誉のために言うが、彼女の朝が遅いのはもともとの体質だと思われる。それに加え、最近の2回の出産で身体を消耗していて、しばらく寝込んでいた時期もあったのだ。アルフォンソが城内を平時と同じ状態にしているのは、ルクレツィアへの配慮でもあった。
長男のエルコレは3歳、二男のイッポーリトはもうすぐ2歳になる。そして、乳母ソッラの息子のニコラスももう3歳になる。
3歳になると、こどもにもそれぞれ個性が出てくるものだ。乳児の時から一緒に育ってきたエルコレとニコラスにもそのような兆しがみられる。
ふたりはソッラが付き添っていれば、エステンセ城の中を好きに動き回ることができた。その日も朝食を取るルクレツィアと対話する時間を持ったあと(対話といってもこどもの方は単語の羅列になるのだが)、エルコレ指揮官を先頭に一同はさっそく散歩(こどもにとっては冒険、あるいは行軍)に出た。
男の子ふたりが好きな場所は同じだった。アルフォンソが手入れをしている倉庫、大砲置き場だ。エルコレはさすがに未来のコンドッティアーレらしく、大砲の扱い方に興味津々だ。
「おとうさまみたいなコンドッティアーレになる」と可愛らしく将来の抱負を語ると、今は遠征中だが、アルフォンソはことのほか喜んでエルコレを高々と抱き上げるのだった。
「それでこそデステ家の血を継ぐ者だ!」と激賞する。
エルコレははじめ、ニコラスとソッラを引き連れて行軍ごっこをしていた。しかし、ニコラスは少しすると行軍ごっこに飽きてしまい、ソッラに紙とチョークをねだった。ソッラがルクレツィアからそれを譲り受けニコラスに手渡すと、おもむろに大砲の側に向かっていく。そしてそのかたちを描きはじめた。追ってきたソッラとエルコレがそれを覗きこむ。ニコラスの描くたどたどしい線は、しだいに大砲のかたちになっていく。
「フィガーロ!」とエルコレが叫ぶ。
ソッラもそれを見て微笑む。
「ニコラス、あなたのおとうさまはこんなに絵がうまくなかったわ」
ソッラは微笑みながら泣いていた。
カンブレー同盟戦争がまだ続いている。いや、これから本格化するのだ。
さて、イザベッラ・デステが手紙で揶揄(やゆ)したように、教皇ユリウス2世は勇ましく自ら軍を牽いてミランドラまでやってきた。ここからフェラーラへは東に12レグア(60km)ほどである。もちろん、周りの者(無理やり同行させられている枢機卿など)は引き止めた。「教皇という立場にある者がそのようなことをするとはいかがなものか」というのがまず先に立つが、この教皇はもう60代も後半で、滞在しているボローニャでも一度倒れているのである。神の代理人といえども人間なのである。
ミランドラはフェラーラの手前にある街で要衝となっており、進攻してきた教皇軍(フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ公爵が司令官)を防ぐ戦いを展開している。
この、ウルビーノ公と教皇は甥とおじの関係になる。
対抗するミランドラ側に詰めて、フェラーラ公アルフォンソ・デステは城砦の中で様子を聞いて、ため息をつく。
「何のためにここまで来たんだ……われわれが歓喜の涙を流して投降(とうこう)すると思っているのか。しかし、ミランドラも長い籠城で疲れきっているし、老体にもこの寒さはきついだろう……早く帰してやった方がいい」
ユリウス2世はさっそく近隣のサンタ・ジュスティーナ修道院を本陣として勇ましく指揮を取りはじめたのだが、僧院は異様に寒い。アルフォンソの言う通り、北イタリアの冬は老人にとって優しいものではなかった。雪がしきりに降って止むことがない。
本陣(実は修道院の台所)で戦局が一向に変わらないことに腹を立てている教皇は、もっと後方で待機するように頼む一同に対して一喝した。
「まず、大砲がここまで届くかどうか、届かないのではないか。それならば問題ないだろう」と教皇は気楽に言う。射程距離の話もそうだが、教皇に大砲を打ち込むことができるかという思いの方が強かった。
しかし、アルフォンソ・デステにそのような甘い感情はない。これ以上籠城を長引かせるわけにはいかないのだ。したがって、「ユリウス2世に早々にお引取り願う」のにもっとも適した手段が選ばれる。
1月17日、修道院に大砲が打ち込まれ、そこにいた数人の人間が死傷した。
ユリウス2世は無事だったが、目の前で人が倒れるのを見て、さすがに一端退却する気になった。しかし、責任感というのだろうか、翌日にはまた修道院に戻っている。
頑固である。
結局その3日後、フランスからの援軍が到着しないこともあって、ミランドラは開城することを決めた。
ユリウス2世は大喜びである。いきさつはともかく、自分が指揮して勝利したのだから。
しかし、遠征中のユリウス2世にとっても、嬉しいことばかり続くわけではなかった。
ボローニャをフェラーラ攻めの本拠地としている教皇軍は、ミランドラが陥落したことに勢いを得て、次に本格的なフェラーラ進攻を算段していた。
この頃の戦争は間が空く。一度にいくつもの街が征服されることはない。移動時間ももちろんあるが、そのほか第三国も含め各国でやりとりをしたり、当事国の講和交渉をしたりするのである。
イザベッラ・デステが手紙に書いたように、このときすでに神聖ローマ皇帝とフランスは教皇に対する次の手を検討していた。そしてイザベッラ自身も弟のフェラーラを何とか窮地から救いたいと、当事国に呼びかけて和睦をはかるための会議を開くことを提唱していた。マントヴァが中立だからできることである。もちろん、勝利をいったん得た教皇はそれに応じる気などないのだが。
2月11日、教皇に対して親和的だったフランス軍総司令官であり、ミラノ総督でもあるシャルル・ダンボワーズ伯がこの世を去った。そして代わりにフランス軍の総司令官になったのが、さきのアニャネッロの戦いで大活躍したトリヴルツィオ将軍である。フランス軍総司令官ながら、彼はイタリア人のコンドッティアーレ(傭兵隊長)である。彼が到着すると、軍は新たに再編成されて、精鋭からなる1万人の軍隊ができ上がった。彼らはミラノからボローニャに出発した。
トリヴルツィオ将軍もアルフォンソ・デステと同様、教皇に弓を引く(大砲を撃つ)ことなど何とも思わない人間である。
フランス軍出発の報を聞いた教皇は戦慄した。いよいよフランス軍が重い腰を上げたのだ。しかも司令官は猛将トリヴルツィオである。さすがに今回は周囲の進言を聞き入れて、教皇はボローニャからラヴェンナに移動することにした。
その5月、立て続けに、まるで示し合わせたかのように、戦争に動きが起こる。
教皇軍が戦争の本拠地としていたボローニャが教皇に対する反乱を起こしたのである。フランス軍がボローニャに進軍しているという情報を得たことによるものだろう。ボローニャは今回の教皇の滞在をあまり快く思っていなかったらしい。もっと言うなら、イタリア半島の中部をどんどん自分の支配下に置こうとすることに反発していたのだ。特にボローニャは過去から自治権があった都市である。その国を教皇がわがもの顔で軍とともに駐留し続けていることにかねてからの不満があったのだ。
結局、教皇軍はボローニャをてんでばらばらに撤退した。
そして、トリヴルツィオ率いるフランス軍は悠々とボローニャに入城した。もちろん、フランスと同盟を組んでいるフェラーラ公国のアルフォンソ・デステも一緒である。
一方、ラヴェンナに撤退した教皇軍にも事件が起こった。
教皇軍の司令官フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ(ウルビーノ公)が同道していたアドリアージ枢機卿に刃を向けたのである。アドリアージ枢機卿はしばらく後に死んだ。教皇に戦況報告をする際に、ウルビーノ公はアドリアージ枢機卿をなじった。しかし教皇は枢機卿を慰め、ウルビーノ公を叱責した。
それがこの事件の発端らしい。
甥の失態も教皇の気を著しく削ぐことになった。一同はラヴェンナを引き上げ、ローマへ向かうことになった。
その途上である。
5月28日、リミニの教会の中心であるサン・フランチェスコ教会の扉に1枚の紙が貼り出された。教皇の従者はそれを見て飛び上がるほど驚き、すぐさま伝えようと駆けていった。以下のような趣旨である。
「9月1日を期し、ピサにおいて公会議を開くことを要請する。
教皇ユリウス2世は就任当初、公会議を開催すると宣言していたにも関わらず、これまで一度も公会議を召集していない。そこで止むを得ないことから、枢機卿数名の同意を得て公会議の開催を決めたものである。教皇は出席されるか代理を派遣するか、どちらでも選ぶことができる。聖職者各位にも教皇の判断を待つまでもなく出席の自由があるので、ぜひ参加されたい」
そこには神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とフランス王ルイ12世の署名があり、有志として枢機卿9人の名前が列記されていた。
リミニの教会にまで貼り出されているということは、ヨーロッパ各国にもすでにこの宣告が回っているということだ。きのう今日の思いつきではない。ミランドラ攻略、ボローニャ反乱にかけての半年の間に、周到に用意されたに違いなかった。
教皇は卒倒しそうなほどショックを受けたし、何よりもプライドを傷つけられた。
教皇に何の事前確認もなく公会議を召集するということは通常ではありえない。このような例は、教皇を失墜させようという意思が働いたときに見られるものである。
しかし、移動中の教皇には、この大々的な共同作戦に対抗するすべがない。
ローマへ帰らなければ。
勇敢な教皇の華麗なる進軍は、波乱の予兆だけ残して終わりを告げたのである。
神聖ローマ皇帝とフランスが打ってきた手に対抗するには少しばかり時間がかかった。
ローマへ帰着後、ユリウス2世はさっそく本業にとりかかった。
「私を誰だと思っているのだ」
怒りは深かった。教皇に召集権がある公会議を勝手に召集するとは何事か。この反教皇の動きの先鞭を取るのは明らかにフランスだと思われた。そして様子見の神聖ローマ帝国を巻き込んだのだと。さっそく想定に基づいて、教皇はピサ公会議への対抗措置と今後の方向について決定していく。
まず、ピサ公会議召集に応じた枢機卿たちへの懐柔、脅迫あるいは処分である。それが概ね内定すると、次は自身が公会議を召集する準備に取りかかる。場所はもちろんローマである。
そして、何よりも重要なことはカンブレー同盟の今後の編成だった。
ころころ変わっているため、非常に分かりづらいが、これまでのものをおさらいしてみると――第一次が教皇軍・フランス・神聖ローマ帝国・スペイン・フェラーラ・フィレンツェ・マントヴァ対ヴェネツィア。
第二次が教皇軍(スイス人傭兵団)・ヴェネツィア対フランス・フェラーラ(他の国は行動としては中立)。
そして第三次は、教皇軍(スイス人傭兵団)・スペイン・ヴェネツィア対フランス・フェラーラ(神聖ローマ帝国もこちら寄り)である。教皇軍にはのちにイギリスも賛同することになる。
神聖ローマ帝国とフランス、この2つの国が教皇の前に立ちはだかってきたことで、教皇軍はスペインを本格的に動員することにしたのである。スペインも条件は出したものの、参加を約束した。たいてい、このような場合に条件なしで受諾する国はない。
その準備が整った。
7月25日、ローマ・サンピエトロ聖堂の大扉に1枚の宣告文が貼り出された。
〈公会議を召集するのは教皇の権利である。教皇ユリウス2世がその権利をないがしろにすることはない〉
その文面は激しい調子で綴られ、9月1日にローマのサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ聖堂で公会議を召集することが記されていた。
フランスと神聖ローマ帝国に対抗する形の宣告である。ここからローマは、表向き公会議の2重開催への対処、実際はフランスと神聖ローマ帝国叩きがはじまるのである。
季節は夏になっている。
ユリウス2世はまた倒れた。ボローニャでのそれより症状は重く、側近や枢機卿たちもいざというときの心の準備をはじめたのだが、この不屈の教皇は、それでもまた持ち直した。意思だけが彼を支えていた。
フランスと神聖ローマ帝国は教皇の身体をおもんばかって、自身たちが呼びかけたピサの公会議を11月に延期すると知らせてきた。教皇がどうなるか分からなければ、公会議開催をアピールして対抗しても意味はないからだ。
それは瀕死の状態から脱した老人にとっては幸運なことだった。敵に攻撃する策が練られるからである。
公会議のかたちをした駆け引きはまだ続くのである。
一方、アルフォンソがフランス軍に随行してボローニャに出ている間、エステンセ城の中では外の戦争がまるで嘘のように静かな日々が続いている。
街を取り巻いている城壁には寝ずの番がついて、ポー川の岸辺から南のイーモラ方面まで見張り、槍を手に防衛態勢を取っている。平穏なのは中だけで外は非常事態なのだ。
公妃ルクレツィアは今日もゆっくり起き出した。子どもはもう食事を済ませている。そして、元気よくバタンとドアを開けて母親を起こしに来る。
ソッラがこどもを目覚まし役に任命したのかしら、とルクレツィアは考えて微笑む。
「ちょっと待ってね、今着替えますからね」
「はい、おかあさま」と行儀よくこどもは部屋から去っていく。
ルクレツィアの名誉のために言うが、彼女の朝が遅いのはもともとの体質だと思われる。それに加え、最近の2回の出産で身体を消耗していて、しばらく寝込んでいた時期もあったのだ。アルフォンソが城内を平時と同じ状態にしているのは、ルクレツィアへの配慮でもあった。
長男のエルコレは3歳、二男のイッポーリトはもうすぐ2歳になる。そして、乳母ソッラの息子のニコラスももう3歳になる。
3歳になると、こどもにもそれぞれ個性が出てくるものだ。乳児の時から一緒に育ってきたエルコレとニコラスにもそのような兆しがみられる。
ふたりはソッラが付き添っていれば、エステンセ城の中を好きに動き回ることができた。その日も朝食を取るルクレツィアと対話する時間を持ったあと(対話といってもこどもの方は単語の羅列になるのだが)、エルコレ指揮官を先頭に一同はさっそく散歩(こどもにとっては冒険、あるいは行軍)に出た。
男の子ふたりが好きな場所は同じだった。アルフォンソが手入れをしている倉庫、大砲置き場だ。エルコレはさすがに未来のコンドッティアーレらしく、大砲の扱い方に興味津々だ。
「おとうさまみたいなコンドッティアーレになる」と可愛らしく将来の抱負を語ると、今は遠征中だが、アルフォンソはことのほか喜んでエルコレを高々と抱き上げるのだった。
「それでこそデステ家の血を継ぐ者だ!」と激賞する。
エルコレははじめ、ニコラスとソッラを引き連れて行軍ごっこをしていた。しかし、ニコラスは少しすると行軍ごっこに飽きてしまい、ソッラに紙とチョークをねだった。ソッラがルクレツィアからそれを譲り受けニコラスに手渡すと、おもむろに大砲の側に向かっていく。そしてそのかたちを描きはじめた。追ってきたソッラとエルコレがそれを覗きこむ。ニコラスの描くたどたどしい線は、しだいに大砲のかたちになっていく。
「フィガーロ!」とエルコレが叫ぶ。
ソッラもそれを見て微笑む。
「ニコラス、あなたのおとうさまはこんなに絵がうまくなかったわ」
ソッラは微笑みながら泣いていた。
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