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【番外編】もののふの末裔 吉川広家
書写する父親
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山城に煌々と月が輝いている。
元春は自室で瓦灯(がとう)の光を便りに綴じ本とまっさらな紙を文机に上下に並べた。
これから書写をはじめる。
元にするのは、まださほど年代を経ていない綴じ本である。表紙には『太平記』と記されている。
そして、彼は大切にしている硯を丁寧に取り出す。中国宋代のもので瑞渓石の名品だった。そこで墨を丁寧に摺って、これまた名品の筆の先を浸す。辺りに墨の香りがパアッと広がる。
この香りが漂い始めると、誰も部屋に近寄ってこない。合図のようなものだ。
「あちらを写すんは次郎五郎に任せようとずっと思うとったが、無理なんかのう」
元春はそうつぶやいて、脇に積んである『吾妻鏡』の束を眺める。
元春はこのような習慣を、もう四半世紀も続けている。それは平時に限らない。かつて、因幡・伯耆(ほうき)の一大勢力であった尼子氏との戦いが長く続いていた頃、月山富田城を臨む陣中でやはり書写をしていたほどである。数年で『太平記』四十巻の書写は完遂している。
その後は校訂を重ね、写し誤りが目立つものを一葉一葉、差し替えられないかと思い、いまだに時折筆をとるのである。
ここにある『太平記』と『吾妻鏡』の出所について少し述べておく。成立は『吾妻鏡』が先なので、その順でいく。
『吾妻鏡』は源平の合戦から鎌倉幕府の開府から6代将軍までの治世を仔細に記述したもので、鎌倉幕府の公式な記録といえる。何月何日に何があったということまで細かく書かれている(欠落がある)。
元春の手元にある綴本は長門・周防の守護大名・大内氏ゆかりのものである。実際に収集したのは重臣陶(すえ)氏の一族、右田弘詮(みぎたひろあき)である。右田は文人として有名で、高名な連歌師(れんがし)の宗祇(そうぎ)とも交流していた。
右田は主の命で諸国を放浪し、散逸していた『吾妻鏡』諸本を集めたのである。守護大名として栄華を誇った大内家の財力があってできたことである。
ただし、大内氏は天文20(1551)年に陶晴賢の謀反によって滅びた。もう30年も前のことになるが、書写している元春の記憶には鮮明に残っている。
この『吾妻鏡』はその後、毛利元就を経て実子の吉川元春の所蔵となった。
一方、『太平記』は鎌倉幕府の瓦解から室町時代、南北朝に分裂した時期を中心に書かれた史記である。
吉川元春の手元にある綴じ本は家臣の口羽通良(くちばみちよし)の手によるものである。口羽は毛利元就の重臣・志道広良(しじひろよし)の次男である。口羽は学問に明るいことから、元就に命じられ散逸した諸本をできる限り集め写本を完成させた。この『口羽本』をさらに家臣の益田藤兼・兼治が書写している。
この2つの文書は、武士というものの成立と変遷を知るための基本といってよい。もちろん、他にも史記として書かれたもの、貴族の手による日記、口述で伝えられたものが複数存在する。それでもこの2つは特に武士にとっては特別な記録・史記だった。
大内家には『吾妻鏡』だけではなく、さまざまな文物が保管されていた。居館のある山口は当時、日本で最も栄えた町だった。紛うことなき中国地方の覇者であり、石見銀山(いわみぎんざん)という宝の山を元手に、朝廷の命で明への朱印船を自前で出すこともできるほどの財力を誇っていた。長く続いた応仁の乱で荒廃した京都より、山口の方が雅で華やかだったという。
それも昔の話になった。このときの中国地方は毛利氏がほぼ手中に収めている。
元春は当初、『太平記』を書写し終わったら、次は『吾妻鏡』にかかろうと考えていた。ただ、もう元春は若くない。目もひどく疲れるようになったし、持病の胃痛も頻繁に出るようになった。筆の進みも昔のように早くはない。自分ひとりでは完遂できないかもしれないと思い始めていた。
よく知られていることだが、『毛利三川』の一翼を担って戦働きをし毛利本家を助けるのが彼の本分で、次が領地をきちんと治めることだった。山陰に勢力を誇った尼子氏が滅びたのち、中国地方はほぼ毛利氏の手中に収まり、山陰地方は元春に託された。大内氏を潤した石見銀山も吉川の家臣が現地で管理している。そこから産出される銀が毛利の屋台骨を支えることになるのだ。
そのような中で、元春は合間を見てすでに書写の済んでいる『太平記』の校訂をしていた。それもほぼ終わろうとしている。次にかかる前に次郎五郎とこの書物の扱いについてきちんと話をしたい。これはそれだけの価値がある仕事だと元春は考えていた。
元春には三人の男子がいる。
長兄の元長は父に代わって表に立つことが増えた。立派な吉川の跡継ぎである。次男の元氏は周防の仁保隆在の婿養子となっている。やや病弱ではあるが、戦では兄を支えている。三男の次郎五郎だけは今回の養子入りの件もそうだが、まだ納まるところに落ち着いていない。端から見るなら反抗期なのである。戦働きには秀でているのだが、大人の忖度などくそ食らえという風である。
今回毛利宗家に睨まれたのも、そのような事情が少なからず影響しているのかもしれない。
しかし、父の元春はそんな次郎五郎が可愛くて仕方ないのだ。養子に出ることがなくてもいい。吉川にずっといればいい。そして書写の仕事を次郎五郎に任せたい。
それが元春の本心だった。
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