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第二章 頼朝も知らぬこと 長江義景と三輪
馬は川に駆け下りた
しおりを挟むまだ昼まではだいぶ間があるというのに、空はどこまでも灰色に染まり、地上に落ちてくるかと思うほど重かった。
健久九年(一一九八)十二月、長江太郎義景(ながえたろうよしかげ)は新たに完成した相模川大橋(現在の神奈川県茅ヶ崎市)供養に、征夷大将軍・源頼朝の供としておもむいていた。
鎌倉の政庁である大倉御所から相模川のこの辺りまで約38里(約20km ※1)あまり、常に富士の山を仰ぎ見て進む。鎌倉を取り囲む山間の道を抜ければ、後はほぼ平坦な道のりだ。そこは東海道である。この道筋は西に進む場合必ず通り抜ける道で、相模川もごく近隣の通過点に過ぎない。
馬立ちの11人は静かに進んでいく。天候がよければのんびりと難なく進むことができる道だ。
天候がよければ、である。
「まことに重たい空だ。雨が降り出さねばよいのですが」
藤沢を通り過ぎた頃に供の一人がつぶやく。
「お天道さまが出ておりませぬゆえ、ずいぶんと冷えますな」
別の者も合いの手を打つ。
ただ、あるじである武衛(ぶえい)、すなわち源頼朝は言葉を発しない。何か考え事をしているのかと一同は不思議に思う。
「いかがなされました?」と義景が頼朝の馬に寄って声をかける。
すると、頼朝ははっと気がついたように義景の方に向き直る。
「ああ、ぼうっとしておったか……少し頭が痛いのだ」
「大儀ございませぬか。いつでも休息を取りますが」と義景が気遣って提案する。しかし頼朝は軽くかぶりを振って馬を進める。
「いや、遅れるわけにはいくまい。案ずるな」
一行は直垂(ひたたれ)姿に折烏帽子(おりえぼし)の正装を身につけていたが、もう大晦(おおつごもり、おおみそか)も近い。それにこの曇天である。寒風がしんしんと身に堪える。義景は場合によっては帰途どこかに宿を取って温まったほうがよいと考えていた。これから雨やら雪が降ったりしたら目も当てられない。
相模川はずっと暴れ川だった。氾濫したら川は一帯を飲み込み、水が引いた後はまるで形が変わっている。一番困るのは、しばらく渡し舟が出せなくなってしまうことだった。無理を押して舟を出し急流にのまれた人の話も数多くある。武士の府である鎌倉に人が馳せ参じるために、京都に至る東海道だけでなく、北陸、関東一円、陸奥まで街道の整備が行われている。ごく近隣の相模川が難所のままではいかにも格好がよくない。
ただ、今回の落成式は他のものとは少し趣が異なっていた。有力な御家人である稲毛入道重成(いなげにゅうどうしげなり)が亡き妻の供養のために建造したのだ。
彼の妻は4年前に病でこの世を去った。その後重成は後妻をめとることもなく剃髪し入道と名乗って今日に至る。妻の名は後世に伝えられていないが、北条時政の娘で、頼朝の妻・政子の異母妹だった。
「まったく、入道どのは非の打ち所のないことをなさるものだ」
頼朝に付く供の者はそのように感じている。何しろ稲毛の主城である枡形(現在の川崎市生田)から大橋の地点へは短く見積もっても約68里(約36km)はある。自身の所領だから建造したということではないのである。
加えて、「妻の追善供養のため」というその理由だ。自身の岳父が将軍の岳父でもあることを考えると、周囲が何かと穿って見てしまうのは仕方ない。
とはいえ、おべっかと言うにはあまりにも規模の大きな工事だった。着工から一年ほどかかっての完成である。本来の予定からは少し遅れていた。そのために、年の瀬も押し迫っての式典となったのである。
式典と表現したが、供養ということもあり晴れがましさは一切ない。場は厳粛な空気に包まれ静かに執り行われた。出席したのは頼朝と供の者10人、追善の経をあげる僧侶ら、建造に携わった大勢の者、そして稲毛の一党が総出で端に控えていた。
頼朝はその橋の姿に目を見張る。
丸太のヒノキの大木で橋脚が組まれている。3本の橋杭が横一列、およそ6尺(のちの一間)ごとに組み合わされ、それが橋を四カ所で支えている。木の直径は2尺(約60センチ)ほどあるのではないか。立派な木を揃えたものである。良い香りが湿気に混ざって、清冽な気を放っている。
橋は堅牢かつ豪壮である。
「まことに素晴らしい。かような大木を運ぶのは難儀だったろう。宇治川橋にもひけを取るまい」と頼朝はつぶやき、ふっと苦い微笑みを浮かべた。
頼朝が口にした宇治川橋は京都でもっとも古い橋で、飛鳥時代の僧の道登(どうとう)が手掛けたと伝えられている。日本でも有数の立派な橋であるが、頼朝にとっては深い因果を感じさせるものだった。遡ること14年前の寿永3年(1184)、その橋で木曽義仲と源義経が激突したのである。それぞれ頼朝の従兄弟であり、異母弟である。木曽義仲は敗れて逃れ、のちに討ち死にした。
身内との激しい相克が始まったのはあの時だったのだろうか。
頼朝は橋の前でぼんやりと考える。
九郎(義経)も私が討てと命じた。
それだけではない、それだけではない。
頼朝の頭の中で次から次へと映像が流れる。木曽義仲も源義経も彼が手を下したのではない。彼らの最期は見ていない。見ていないからこそ、その映像は実際よりはるかに凄惨に彼の脳裏を横切るのである。
そしてそのまぼろしはとどまることなく、頼朝の脳裏に現れていた。
頼朝が感慨に耽っていると思ったのだろう。僧形(そうぎょう)の稲毛入道が隣にやってきて言う。
「お褒めにあずかり、おそれ多きことにございます。私も庄司次郎とともに宇治川橋に馳せ参じました。そのとき、実に立派な橋だと感じ入りましたので、東国にもあれだけのものを築きたいと思うておったのです。あの橋はその後地震で壊れておりますから、そのようなことがないようにと頑丈に造らせました。これほど堅牢であれば人々を難なく大倉府(鎌倉府)に向かわせてくれるものと信じております」
庄司次郎とは、稲毛入道の従兄弟・畠山重忠のことである。武蔵国男衾(おぶすま)の荘を領し、「板東武士の鑑(かがみ)」と称された猛将である。御家人衆の筆頭格の一人である。
「そうだな、立派な仕事だ。これで上洛も難なくできる」と頼朝が遠い目をして言う。
「姫様の入内もじきにございましょう。その行列をつつがなく通すのがこの橋の役目にてございます」と入道はうやうやしく礼をして持ち場に戻る。
「そうだな……いや、しかし冷えるな」と頼朝はつぶやき、ぶるっと身体を震わせる。
長江義景はその様子を見ながら、面白くないと感じていた。義景には稲毛入道や畠山の一党を面白くないと思う理由があった。それは後で語られるだろう。
僧侶らによる厳かな読経が済むと、稲毛入道は家人に命じて川原に火を焚かせ、参列者に暖を取るようにすすめる。皆待ってましたとばかり、火の周りに集まってくる。源氏の頭領も一緒に火にあたっている。
焚き火で暖を取ったところで、頼朝は鎌倉に戻ることにした。
義景は頼朝が馬に乗るのを助ける。そして他の朗党とともに馬に乗る。頼朝がゆくのに付き従う。一連の、いつもの動作をしただけなのだが、義景は後ろから主人の背中を見て、どこかいつもと違うような気がした。わずかに上半身がふらついているように思えたのだ。
一行は東海道に出るまで相模川の脇を進んでいく。
ふっと、頼朝の馬が斜めに進んでいることに義景は気づいた。川の方に寄っていく。
「武衛さまっ!」と義景が叫ぶ。
「何だ」と頼朝は振り向く。その表情はぼうっとしていて顔色も青白い。
「馬が、川に寄っておりますぞ。危のうございます」
「そうか」と頼朝が馬の態勢を直そうとした。
その時である。
馬の右前脚が川べりの土手からずり落ちる。
馬は態勢をみずから直すために、胴体を振ってそのまま斜めに土手を駆け下り、川の中に飛び込んだ。
その途中で頼朝は振り落とされ、放り出された。その左半身が地面に叩きつけられる。
鈍色の空の下、すべてが一瞬の出来事だった。
「いかんっ!」
全員が馬を下り一斉に主に駆け寄る。すぐさまその身体を抱き起こし、大事がないか確かめる。
「うう……」と頼朝がつぶやく。
意識はあるようだ。一同は安堵して、主に呼びかける。
「武衛さま、腕や足を折られていませぬか」
「あぁ、何とか大事ないようだ」と頼朝がつぶやく。そして手助けを受けて何とか馬に乗る。一人が自身の馬を頼朝に譲ったのだ。そして、川に入った馬の様子を見に行く。
「脚は折れていないようにございます」
確かに、馬は痛がるそぶりを見せていない。ただ、川に飛び込んだことでたいそう興奮している。鼻息を荒くし、手綱を握られるのを嫌がって首を振っている。
「この馬はしばらく休ませましょう。入道どのの用人が残っておりましょうから、預けてまいります」
様子を見ながらゆっくりではあったが、その後頼朝一行は鎌倉まで無事に到着した。すでに冬の日は暮れかけており、気温はいっそう下がっていた。大事があってはいけないと医師や薬師が急ぎ集められ、念入りに身体を確かめたが打撲や擦過傷(すり傷)以外の異常が認められなかった。当の本人も、「少し頭が痛いが、それは今朝からずっとなので大儀ない」と言う。ただ、そうしゃべるとき、酔った時のようにろれつが回らない。
発熱があるので、寒さのせいで風邪にかかったのかもしれない。
医師はそのような見立てをして、いったん座を下がった。
※1 当時の尺貫法による、一里約530m。
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