上 下
7 / 8

The Modern World Never Concerns

しおりを挟む

 さて、スミス君、ここから壮大な大西洋横断ケーブルの話が始まるわけだが、外も暗いし大分時間が経ってしまったようだ。いや、そういうことではなくて……ブレット兄弟にも落陽のときが来ていたのだ。

 本格的な大西洋海底ケーブル敷設がアメリカの実業家の主導でスタートする。その辺りから弟のジェイコブは表舞台に出てこなくなる。この事業から一切手を引いて引退してしまったのだ。一方
、兄のジョン・ワトキンスが『アトランティック・テレグラフ』社に参画したのだが、この事業は簡単には目的を達せられなかった。一年?二年?いや、五年経っても成功しなかった。
 そして、ジョン・ワトキンス・ブレットは一八六三年にこの世を去ったのだ。大西洋のケーブル敷設と通信が完全に成功したのはその三年後、一八六六年七月二七日のことだった。都合十二年もかかったが、ひとえに最後まで事業を諦めなかったサイラス・フィールドの尽力の賜物だった。ジョン・ワトキンス・ブレットはもちろんその報を聞くことができなかったし、まだ存命のジェイコブ・ブレットの名も人の口の端にのぼることはなかった。

 ジェイコブはなぜ事業からひっそりと引退してしまったのだろうか。

 実際兄弟に何が起こったのか分からないので私の想像でしかないのだが、アトランティック・テレグラフ社の設立に際して、兄弟の意見が合わなかった可能性は高いだろうと思う。
 これまでのいきさつを振り返ってみると、鉄道事業から通信に舵を切るきっかけはジェイコブだったし、実際に技術的な問題を考えていたのも彼だった。ジョン・ワトキンスは公的な役割を担っていた。表に出るのはほとんどが兄で、本来穏やかな性質の弟が出てくることはなかった。それでも技術的なことで役に立つならばまだよかった。発明というのは常に技術的な背景が重要とされるからだ。
 そこにトーマス・クランプトンが登場して、技術面の改良による成功を成し遂げてしまった。だんだんと自分の居場所がなくなるように感じていたかもしれない。
 さらにアトランティック・テレグラフ社の話だ。今度は大富豪のアメリカ人がやってきて、兄はそちらにすぐさま乗ってしまった。おそらく、ジェイコブに相談などしなかっただろう。
 これは決定的だったんじゃないか。
 きちんと兄弟で考えを合わせていけば、弟が引退することはなかったような気がしてならない。大西洋のケーブル敷設成功はジェイコブにとっても叶えたい夢だったはずだ。それが些細な行き違いで決裂してしまったのだとしたら、これほど残念なことはない。

 彼には兄と共同で持っている資産があった。そして兄の遺産もいくらかはあっただろう。なので一切事業から手を引いても、まったく差し支えがなかったのは事実だ。事実だったが、実際は優雅な引退生活とはならなかった。ブレットの名は英国じゅうに知れ渡っているし、ジェイコブが裕福であることも一部で知られていた。彼には事業に投資してほしいという依頼が山のように押し寄せてくる。彼は元々人のよい男だし、新たな事業の共同経営者になるのも悪くないと再び考えるようになる。彼が情熱を傾けた海底ケーブル事業もすでに大西洋からインド洋に伸びていこうとしていた。新たな投資話に心が疼くようになったのも仕方のないことだと思うよ。
 それほど長くない間に彼はすっかり自分の資産を使い果たしてしまった。そして、昔の知人たちに金を無心して歩くようになった。

 彼の人生の後半は窮乏のうちに暮れていった。

 話はここまでだよ、スミス君。

   ・・・・・・・・・

 

 グレイ主幹は薄暗いパブの照明でも眩しすぎるというように、目を一瞬引き絞ってから私に目を向けた。
「誰もが皆、実現したい人生があるし、結局叶わないのもよくあることだ。どんな人も皆自分の人生を懸命に生きている。なのでそれをここでとやかく言うつもりはない。私が思うのは……この時代の、人々の生活の向上に貢献する輝かしい功績、素晴らしい発想、完成までのたゆまぬ努力……それらを果たした人の人生が何かの拍子に暗転し、終いには貢献した社会から追いたてられ用済みになってしまうという嘆かわしい事実についてだ。それがまだ若く純粋なきみの問いに答えることにもなる」
 ジェイムス・グレイが語りたかったことはその言葉に収斂されていた。

 すでに外には夜の帳が降りていた。


 一八九八年のこの日、私は上司のジェイムス・グレイが滔々と語るのをひたすら清聴した。彼は酒量がいつもより多いので話し続けているのだろうと私は考えていた。しかし彼の話す様子を見ているとそれは酔っぱらいの単なる愚痴であるとか、大洞吹きの類いではなかった。彼の裡には語るべき言葉がぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、外に出る時を待っていたのかもしれない。
 私もラム酒をいささか飲み過ぎたこともあって、この時の話を素面で出すことはなかった。しかし、グレイ氏がこの世を去ってしまった今、私とグレイ氏が書いた記事の背景を記しておくのは意味のないことではないと信じる。

 窮乏のうちに亡くなったジェイコブ・ブレット氏について付け足しておこう。少々遅きに失してはいたが、政府が無視していたわけではない。一八八六年には、グラッドストーン氏の推薦により、年間一〇〇ポンドの年金が支給された。それがジェイコブ・ブレットの定期収入となった。しかしそれでは生活が成り立たないので、一八九二年、電気技術者協会が財務省長官に申請し、王室報奨基金から二〇〇ポンドが支給されることになった。
 それはしかし、彼の生活を維持するには不十分だった。ジェイコブはもう九〇歳になろうかというほどの歳で散財する活力もなかったが、生活のもろもろを介助する人を頼むとか、病院にかかる費用は重くのしかかった。新しい挑戦が不可能になっても、ただでは生きていけないのだ。それらの助成もあっという間になくなってしまった。

 実は、一八九七年の暮れには再度ジェイコブの窮状を救おうと、ケルビン卿、レイリー卿、ジョン・ホプキンソン博士、W・H・プリース氏、ヘンリー・マンス卿、ラティマー・クラーク氏によってさらなる援助を求める嘆願書が作成されたのだが、それが実行される前にジェイコブは世を去ってしまった。

 彼のしてきたことを知ると、その結末はあまりにも不相応に思える。
 彼の訃報が他の新聞に載っていないと主幹があえて書いたのも『THE ELECTRICIAN』に異例のページを割いたのも、それを踏まえてのことなのだ。彼の業績をきちんと残しておかねばならない。主幹の狙いはその一点に尽きた。

 そろそろ原稿も終わりに近づいた。

 この話は難問を即座に解決する探偵の冒険ではないし、いまだに世間の耳目を集めている『切り裂きジャック』の犯人探しでもない。その意味で読者の興味を激しくそそるものでないと認めるしかないのだが、ひとつ考えてみてほしい。電信、ひいては電話が今日、この島国からヨーロッパ、アメリカ、インド、アフリカへと繋がっている。何が繋げているのか。
 世界の海に無数に張り巡らされたケーブルによって繋がっているのだ。それを最初に実現したのは誰か。関心を持つ人がいなくなればその事実すら埋もれて消えてしまうのではないか。

 最後にひとつだけ書いて締めくくろう。

 介助人、援助した人などジェイコブ・ブレットの側にいた数少ない人の証言によると、彼は人生に呪いの言葉を吐くこともなく、回りからの援助に感謝しながら朗らかに過ごしていたという。
 それが私たちにとって、ささやかな慰めである。
 T・スミス
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

浅井長政は織田信長に忠誠を誓う

ピコサイクス
歴史・時代
1570年5月24日、織田信長は朝倉義景を攻めるため越後に侵攻した。その時浅井長政は婚姻関係の織田家か古くから関係ある朝倉家どちらの味方をするか迷っていた。

16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。 12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。 ※このお話は史実を参考にしたフィクションです。

水野勝成 居候報恩記

尾方佐羽
歴史・時代
⭐タイトルを替えました。 ⭐『福山ご城下開端の記』もよろしくお願いします。 ⭐福山城さま令和の大普請、完成おめでとうございます。 ⭐2020年1月21日、5月4日に福山市の『福山城築城400年』Facebookでご紹介いただきました。https://m.facebook.com/fukuyama400/ 備後福山藩初代藩主、水野勝成が若い頃放浪を重ねたあと、備中(現在の岡山県)の片隅で居候をすることになるお話です。一番鑓しかしたくない、天下無双の暴れ者が、備中の片隅で居候した末に見つけたものは何だったのでしょうか。 →本編は完結、関連の話題を適宜更新。

独裁者・武田信玄

いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます! 平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。 『事実は小説よりも奇なり』 この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに…… 歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。 過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。 【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い 【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形 【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人 【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある 【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。 (前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)

本能のままに

揚羽
歴史・時代
1582年本能寺にて織田信長は明智光秀の謀反により亡くなる…はずだった もし信長が生きていたらどうなっていたのだろうか…というifストーリーです!もしよかったら見ていってください! ※更新は不定期になると思います。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

枢軸国

よもぎもちぱん
歴史・時代
時は1919年 第一次世界大戦の敗戦によりドイツ帝国は滅亡した。皇帝陛下 ヴィルヘルム二世の退位により、ドイツは共和制へと移行する。ヴェルサイユ条約により1320億金マルク 日本円で200兆円もの賠償金を課される。これに激怒したのは偉大なる我らが総統閣下"アドルフ ヒトラー"である。結果的に敗戦こそしたものの彼の及ぼした影響は非常に大きかった。 主人公はソフィア シュナイダー 彼女もまた、ドイツに転生してきた人物である。前世である2010年頃の記憶を全て保持しており、映像を写真として記憶することが出来る。 生き残る為に、彼女は持てる知識を総動員して戦う 偉大なる第三帝国に栄光あれ! Sieg Heil(勝利万歳!)

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

処理中です...