上 下
1 / 8

1ページ丸ごと差し替えだ

しおりを挟む

  一八九八年一月三日、ロンドン

 週刊紙『THE ELECTRICIAN』編集部の室内は校了を控えてざわざわしている。質実剛健な煉瓦造りの建物は創刊時に間借りしたものだというが、まだまだ百年はいけると編集主幹のジェイムス・グレイはつねづね口にしていた。
 そして、
「何しろ、麗しき女王陛下も昨年ダイアモンド・ジュビリーを迎えられ健在なのだから、建物にも相応に頑張ってもらわないといけない」と付け足すのも忘れなかった。(※1)

 私たちが発行していた『THE ELECTRICIAN』ー電気技師ーという単刀直入な名称の刊行物は一八六一年に創刊された。創刊者はトーマス・パイパー、電気通信と応用科学に関するトピックスや紹介記事をその内容としていたが、早くも三年で終刊してしまった。
 その後、当時最大の通信ケーブル会社だったイースタン・テレグラフ・カンパニー(Eastern Telegraph Co.,)のジョン・ペンダーとジェイムス・アンダーソンによる経営を経て、一八七八年には再び週刊紙(ジャーナル)として刊行される。そこで、新たな舵を切ったのが同じく共同所有者だったジェイムス・グレイだった。彼は明晰な頭を持っており、編集主幹(編集人)の仕事を積極的に担った。彼は創刊当初の路線を進化させ電気工学、産業、科学を包括的に扱い、『THE ELECTRICIAN』に新たな道筋を付けたのだ。

 話を戻そう。
 この時は一月十五日号の最終確認に追われていた。進行はやや遅れぎみだが、みんなクリスマス休暇明けで気もそぞろなのが大きな理由かもしれない。
 印刷会社にはドイツ人のメルゲンターラーが開発したライノタイプ鋳植機械が導入されており、驚くべき早さで版を作れるようになっていた。それでも、今日の明日で印刷まですべてできるわけではない。こうも遅れぎみだと、どれほど優秀な最新機械をもってしても間に合わなくなってしまう。

 私、トーマス・スミスは出先で情報をひとつ仕入れて、それを主幹に知らせるべく急いでいた。今週号にはもう間に合わないかもしれないが、判断を仰がなければならない。私は気が急いて早足になり、その勢いでバタンとドアを開けた。部屋の中の全員が私を見るが、主幹はチラリと顔を上げて私を一瞥し、つとめて冷静な口調で言う。

「おいおい、スミス君、その手に持っているのはペンと紙かね。よもや石つぶてではあるまい。くれぐれも言っておくが、襲いかかるだけ損というものだ。私は君の偶像ではない」
 私はポカンとしていたが、ようやく話を飲み込むと素直に返した。
「主幹はオスカー・ワイルド氏の小説を読まれるのですか!?」
 主幹はニヤリと笑う。
「ああ、私を電気仕掛けの唐変木だと思ってもらっちゃ困るよ。ワイルド氏も、イエイツ氏の詩も読む。『ドリアン・グレイの肖像』はなかなか出会えないような種類の話だがな。まあ、私と同じ苗字の主人公はどんな男かと思ったのが本当のところさ。ところで君が慌てている理由は何だ」
 私は主幹が文学を語るのに感心していたが、ハッと我に返り、手に持ったメモを慌てて読み上げる。
「ジェイコブ・ブレット氏が亡くなったと、彼の管財人が先週の土曜日に公表しました。ジェイコブ・ブレット氏はかつて、ドーバー・カレー間の海底通信ケーブルを開通したブレット兄弟の弟で……」

 グレイ主幹はおもむろに立ち上がる。

「そんなことは承知している……いや、亡くなったこと以外は……君、記事はすぐに書けるか」
「えっ? もう今週号はほぼ校了でしょう。次号に載せるのでは? 材料はあるので、書くことはできますが間に合うかどうか……数行でよろしければ書いてみます」と私はどぎまぎしながら答える。しかしそれをまったく意に介さず、ジェイムス・グレイはきっぱりと言った。

「そうだな、今からなら今日の引き渡しに間に合うだろう。半分程度は下版しているが……そうだな、四ページ目の内容を丸々差し替えよう、あれは次号でもさしつかえない」
 訃報でそれほど破格の扱いをするのも、校了直前で一ページ丸ごと差し替えるのも、私には想定外だった。
「えっ、一ページ丸々ですか。そこまでは書けないです……」
 彼は私チラリと見てから、また椅子に座った。
「とにかく、書ける分は書いてくれ。それですぐ私に回してくれ。私が補う」
 そこまで言うと、主幹は自分の机に座り直し、タイプライタに向かい猛烈な勢いでキーを叩き始めた。
 編集部には何台かレミントン(E. Remington and Sons.)のタイプライターが配置されているが、少々年代物になりつつある。先代の社主の頃にどさっと購入したのだが、出来がかなりよいためか調子が悪くなることもなかった。
 レミントンの規則正しいリズムが部屋に響く。

   The death of Mr. Jacob Brett has so far entirely escaped notice in the daily Press; and the sad circumstances surrounding the close of his life may not, therefore, be seized upon, as well they might, to point a moral or adorn a tale. 
But one question, and possibly two, must, we think, arise in the minds of many who read the short story of Mr. Brett’s career. ……

〈ジェイコブ・ブレット氏の死は、これまでのところ、日刊紙ではまったく報道されていない。したがって、彼の人生を取り巻く悲しい状況は道徳を示したり、物語を飾ったりするために取り上げられることはそうそうないのかもしれない。しかし、ブレット氏の生涯を描いた短編小説を読む多くの人の心には、ひとつの疑問、あるいは二つの疑問が浮かぶに違いないと私たちは考えている……〉(※2)

 グレイの様子を見て、私もタイプライタの前に座り手持ちのメモをくくり始めた。主幹があれだけ猛然と記事を叩いているのだから、自分も仕事をしなければいけない。


※1 ヴィクトリア女王。一八九七年に在位六〇周年記念式典(ダイアモンド・ジュビリー)が実施された。
※2 『THE ELECTRICIAN』1898.1.15付より抜粋。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

3lads 〜19世紀後半ロンドンが舞台、ちょっとした日常ミステリー

センリリリ
歴史・時代
19世紀後半のロンドン。 属する社会階層の違う3人のlad(にーちゃん)が、身近に起きるちょっとしたミステリーに首を突っ込んでいく短編連作集。

旧式戦艦はつせ

古井論理
歴史・時代
真珠湾攻撃を行う前に機動艦隊が発見されてしまい、結果的に太平洋戦争を回避した日本であったが軍備は軍縮条約によって制限され、日本国に国名を変更し民主政治を取り入れたあとも締め付けが厳しい日々が続いている世界。東南アジアの元列強植民地が独立した大国・マカスネシア連邦と同盟を結んだ日本だが、果たして復権の日は来るのであろうか。ロマンと知略のIF戦記。

16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽
歴史・時代
【第12章を週1回程度更新します】世界の海が人と船で結ばれていく16世紀の遥かな旅の物語です。 12章では16世紀後半のヨーロッパが舞台になります。 ※このお話は史実を参考にしたフィクションです。

浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル

初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。 義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……! 『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527 の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。 ※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。 ※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。

上意討ち人十兵衛

工藤かずや
歴史・時代
本間道場の筆頭師範代有村十兵衛は、 道場四天王の一人に数えられ、 ゆくゆくは道場主本間頼母の跡取りになると見られて居た。 だが、十兵衛には誰にも言えない秘密があった。 白刃が怖くて怖くて、真剣勝負ができないことである。 その恐怖心は病的に近く、想像するだに震えがくる。 城中では御納戸役をつとめ、城代家老の信任も厚つかった。 そんな十兵衛に上意討ちの命が降った。 相手は一刀流の遣い手・田所源太夫。 だが、中間角蔵の力を借りて田所を斬ったが、 上意討ちには見届け人がついていた。 十兵衛は目付に呼び出され、 二度目の上意討ちか切腹か、どちらかを選べと迫られた。

朱元璋

片山洋一
歴史・時代
明を建国した太祖洪武帝・朱元璋と、その妻・馬皇后の物語。 紅巾の乱から始まる動乱の中、朱元璋と馬皇后・鈴陶の波乱に満ちた物語。全二十話。

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

薙刀姫の純情 富田信高とその妻

もず りょう
歴史・時代
関ヶ原合戦を目前に控えた慶長五年(一六〇〇)八月、伊勢国安濃津城は西軍に包囲され、絶体絶命の状況に追い込まれていた。城主富田信高は「ほうけ者」と仇名されるほどに茫洋として、掴みどころのない若者。いくさの経験もほとんどない。はたして彼はこの窮地をどのようにして切り抜けるのか――。 華々しく活躍する女武者の伝説を主題とし、乱世に取り残された武将、取り残されまいと足掻く武将など多士済々な登場人物が織り成す一大戦国絵巻、ここに開幕!

処理中です...