福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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高札の求人と普請はじめ

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 大規模な工事にあたって、何をさておいても必要になるもの、それは「人」である。すでに上田掃部らが地元の有力者に渡りをつけているが、それは城に出仕する人が主である。家臣や勤仕する人は、刈屋から大和郡山藩まで数百人程度だったと思われるが、今度は千人規模まで増やすことになるだろう。普請に携わる人は通算でいえばその何倍、何十倍も必要だ。

 領内の村落の中心に高札が立てられる。
 村落すべてを書くわけにはいかないが、新しい城の周辺でいえば、野上村、本庄村、木之庄村、吉津村、深津村、佐波村、神嶋村、草戸村、山手村、郷分村である。「村」を「町」に変えれば今も残る地名だが、それぞれ城下町となる地にあったのだ。言い換えると、現在城周辺で上記にない村は後からできたということになる。のちに元の村で移転するものも出てくるし、新たな村のいくつかがここに出てくるだろう。
 この世紀の終わりには深津郡で二十九村、沼隈郡(鞆まで含む)で四十二村にまで増加したということだけ記しておこう。
 高札はその他、神辺の往来沿いや鞆、府中、神石、笠岡、高屋宿まで掲げられた。

 札の内容は概ね以下のようなものである。

〈備後の城と城下町を築くにあたり、以下の作業に係る人を求める。
 ・天神山と松迺山(まつのやま)間の開削に携わる者
 ・常興寺山の石垣、城普請に携わる者
 ・芦田川・吉津川などの水普請に携わる者
 ・常興寺山下の干拓事業に携わる者
 さしあたって、城普請、松迺山の開削、水普請に急ぎ人を求める。
 この作業に従事した者には藩領の内外を問わず日に二升五合の扶持米を供する
 また、城下干拓の際指定の場を自身で整地した者はそこに居住でき、土地を与える〉

 勝成は常興寺山下の仮住まいの館の出来具合を確かめに向かう途中、高札に群がる人々を少し離れて見ている。札の内容は自身が発したものなので特に改める必要はないのだが、人々がどのような反応をするのかは気になった。
「二升五合とは、破格じゃ!」
「ずいぶんと気前がええんじゃのう」
「わしゃ近在の縁者にも知らせるわ、人がいくらでも要り用なんじゃろ」
「こたび入封された水野日向さまは何でも天正の頃、備中と備後を長く放浪されたそうじゃ」
「おう、知っとるぞ。備中では三村さま、備後では世良さまの屋敷にも世話になっとったらしいのう」
「この土地に親しみを持ってくださるような方ならば、わしらもきちんと扱うてもらえるのう。わしゃ新開地の土地がほしい」
「遠方からも噂を聞きつけて、ようさん人がこちらに向こうとるそうじゃ。これは宿場も相当賑わうでのう」
「何を呑気に、はよう並ばんと口がのうなる」

 おおむね好評なようで勝成も安堵したのだが、高札前の人の言葉にハタと気づく。後で神辺に戻ってから中山将監を呼んだ。

「殿、何かございましたか」と中山が息せき切ってやってくる。
「普請に携わる人々の宿所は用意しとったな」
「はい、小場どのの差配で松廻山下、野上村に簡易な宿所がすでに完成しとります。あとは数ヶ所用意する手筈だったかと存じますが、干拓作業に入りましたら、また増やすことになっております」
 総奉行はすべてを把握していなければならない。中山は心配性の面もあるが、それだけ方々に気を遣ることができる。普通なら小心者とも言われそうだが、石橋を叩いてみる慎重さは必要だ。皆が前のめりになってしまってはいけない。その意味で中山は総奉行に向いていると勝成はみている。
「おう、それでひとつ気づいたことがあるんじゃ。普請の人らが休む場所も要るんじゃないかのう」
「休む場所……でしょうか。そうですな、ずっと普請の作業をしとったら休む場が要りますな。森の木陰などがあればよいでしょうが、普請の中身からすれば、まず終日お天道さまににさらされますし」と中山は思案しつつ言う。
「それはようない。ひどい普請場だという悪評が立てば、人は来なくなる。そこでじゃ、屋根のついた簡易な休み処のようなもんを作ったらどうかと思うてのう」
 中山はまたしばし思案してから、
「ふむ、柱を四本据えれば屋根は付けられますな。それで日射しは避けられる。床に一枚板を敷けば座って休んだりもできまする。それほどのしつらえならば、建てるのも壊すのも手がかかりませぬ。さっそく他の普請方に諮ってみましょう」と言う。
「うむ、よいのう。普請が始まれば宿所が足りなくなるのは目に見えとる。屋根があるだけで夜を明かすには心強く感じるものじゃ」と勝成はしみじみと語る。その言葉にはおそらく、野宿も多く経験した人の実感がこもっていた。
 さっそく、その考えは実行に移される。普請場や街道沿いにあっという間に「休み堂」がいくつも建てられた。

 現在も備後地域には『四ツ堂』という遺構が多く残る。これは他の地域にはほとんど見られない。四本の柱を据え、屋根が付き、板の敷かれた簡易な建物が人通りの多い辻や街道沿いに据えられている。それは江戸期を通してもっぱら旅人の休憩所として使われることになるが、のちには地蔵尊も配置され地域の人々の集まる場所にもなっていく。
 その始まりが高札の前の一言だったのかもしれない。いずれにしても、この高札の効果は絶大で、まだ普請の始まる前にも関わらず神辺城の麓に設けた受付所には早々に大行列ができた。




 江戸から派遣された目付役がいよいよ鞆の津に入港するとの知らせを受けて、勝成は家臣とともに出迎えに向かう。江戸からやってくるのは小幡勘兵衛(図面割師)、花房志摩(石垣奉行)、戸川佐守(石垣奉行)の一行である。神辺から鞆の津までは六里ほど、途中で新城が建つ常興寺山の麓を抜けていく。
「今日は幕府ご一行のお迎えののち、饗応などございますでしょうか」と不意に中山将監が筆頭家老の上田掃部に尋ねる。
「むろん」と掃部は答える。
「たいへん恐縮ながら、縄張りの手はずを今一度改めたいので中座するわけにはいきませぬか」
 上田はふむ、とあごひげを撫でる。
「普請総奉行がはなから不在では礼を失するが、折を見て中座するのは構わんと思うぞ。幕府のお歴々もお疲れであろうしな。わしと殿で勤めるので心配は無用」

 幕府目付役一行の乗ったの船はまだ午前のうちに無事に鞆の津に入った。
 上陸した彼らは一様に感嘆の言葉を口にする。鞆の津の穏やかな海と島の風景、阿伏兎岬(あぶとみさき)の峻厳な姿もだが、笠岡沖から大きな石を運搬する船が連なっていることに驚いたのである。それらは藩領内の深津辺りを流れる吉津川河口から船を入れて陸揚げされている。
「常興寺山の南方に広い湊を設けると聞いたが、船に積まれたあれらの石はまことに立派なものだった。沿岸にあれほど良い石の産地があるとは知らなかった。城の石垣に使う石であろうか」と尋ねたのは石垣奉行の花房だ。
「さようです。北木島という島が産地でございます」と上田が答える。

 神辺までは少し距離があるため、道中は馬が用意されている。馬の背に乗りつつ目付役はいくつか質問をしてくる。
「この鞆の津はまことに由緒正しく美しく、便利がよいと思われるのだが、城下町が整った際はそちらが主になろう。こちらは用済みとされるのか」
「いえ、普請はこれからですがこの美しい津は今後とも残したいと思うております。例えば先ほどご覧いただいた運搬船のように資材物資を扱うもの、あるいは安宅船のような大きな船は城前に入れるとよい。鞆の方はこれまで通り人が入る津でええと思いますんじゃ」
「なるほど」と目付役は納得する。
 語りつつ、勝成は自身がそれだけ語れることに内心驚いていた。

 この地のことならばどんなことでも答えられるような気がする。
 この数ヶ月ずっと皆と話し合うて、ほうぼう見て回ったからこそできるんじゃが、それだけではない。
 わしには見えるんじゃ。
 この津から進むと広がっていく湊、運河、城下町、寺社、往来を行き交う人々、そしてそれを見守るように建つ堂々とした城の姿が見えるんじゃ。
 いや、なぜかは分かる。
 それはわしの夢じゃ。
 この歳になってようやく与えられ、
 この先一生かけて叶えていく夢なんじゃ。
 かつてわしは、備中に必ず戻ると誓うたことがある。三村の親父がすべての地位を失い、自身の罪を悔いながら世を去ったときじゃ。あれは戦世の下ではいたしかたない出来事じゃったが、わしは大恩ある親父どのをあのような形で失いとうはなかった。
 三村の親父に恩返しがしたかった。
 わしがここまで来られたのは、備中の日々があったからじゃ。三村から送り出してもらい、ようやく実父に詫びを入れ権現さま(家康)の臣下に復すことができた。以降懸命に務めてきたんも、いつかは親父どのに恩返しができると信じとったからじゃ。
 しかしそれは叶わんかった。
 間に合わんかった。
 そして、親父どのの死から十年あまりが経ち、備中の隣に転封を命じられるに至った。親父どのには恩返しがでけんかったが、備後の新たな藩を自身の全身全霊をかけて築いていこうと決めたんじゃ。
 もう戦は起こらん。
 いや起こさん。
 人が皆生命や暮らしを脅かされることなく、豊かに暮らせる町を築くんじゃ。それがわしの残りの生涯を賭けて為すべき仕事であり、夢なんじゃ。

 だいぶ低くなった太陽に照らされて、群青の水面はきらきらと光を散らし輝いている。勝成はそれを見やると歩を進める。

 それは未来の方角だった。

 幕府から派遣された奉行と顔合わせ、進捗状況の話をしているうちに一日はあっという間に過ぎていった。さすがに移動の後に活動し続けるのは身体に堪えたらしく、饗応も手短に切り上げられた。ほっとしたのは中山将監で、そそくさと縄張りの計画図を整えに戻った。彼が念入りに確認していたのは翌日から縄張りが始まると思っていたからである。幕府の目付役も揃ったのだ。そうだと思い込んでいた。

 翌朝、神辺城の広間に幕府からの目付役はじめ家臣から使用人まで全員が集まった。家中の者だけではない、普請役に直接付く職人も座の内にいる。大工・左官の棟梁である福井藤兵衛正次・渡辺長右衛門吉次・宇野信正・和泉屋九郎兵衛らが京都から招かれたほか、領内から鍛治・金具師・石工・木挽職人などがずらりと並んでいる。
 普請総奉行である中山将監はその光景を見て、スッと背筋に芯が通るような心持ちになった。さあ、これから現地で縄張りにかかるぞと意気込みは増すばかりである。

 そして一同は常興寺山に向かって出立する。中山は家中一同が全員移動しているのを不思議な顔で眺めていた。

 はて、縄張りというのは家中こぞってするものだったかいな。

 中山はつい、脇にいる神谷にこっそり尋ねる。
「神谷どの、家中皆で縄張り作業をするのでや?」
 神谷は驚いたように目を見開いている。そして、中山の声に負けず劣らずひそひそ声で応える。
「中山さま、今日は地鎮祭をするのです。縄張りの作業は明日からだで、今日はないですぞ」
 中山は仰天して、口をパクパクし始めた。
「あやや、あやや……」
 神谷は興奮した馬を鎮めるような調子で、
「中山さまは、ここ数日縄張り図を改めるのに懸命でしたで。そういえば殿が地鎮祭の話をされたとき、中山さまは眠たそうにしておられました……さきに明王院に出向いた折に話は出ましたが、日取りまで決めておりませんでしたからな。いずれにしましても、今日は中山さまの出番はないですから、落ち着いてドンと構えておられませ」と伝える。
「そ、そうか……わしとしたことが……総奉行というのに何ともはや」と中山はうなだれる。
「明日の仕度を昨日済ませたのですから、よいではないですか」と神谷は微笑んで行く先へ向き直る。
 常興寺山下に設けられた場に着くと、すでに明王院住持の宥将を初め僧がズラリと待ち構えている。黄色の袈裟を身につけた住持を始め、全員が法衣に袈裟姿で揃うさまは荘厳そのものである。勝成を筆頭に全員が整列すると、読経の声とともに地鎮祭が始まった。
 明王院円光寺は本庄村にある真言宗寺院であるが、神辺の明神社同様に古色蒼然の状態だった。備後国が安芸国のうちに入っていた期間に、寺社はそれまで与えられていた地を減らされ、為政者からの保護もなく多くが衰退しかけていたのである。
 その寺院にあえて勝成は地鎮式を依頼した。
 それは「備後の新藩が寺社をこれまでのように扱うことはない」と宣言したのと同義であった。

 さて翌日、中山将監のみならず藩の一同は心も新たに城づくり、城下町づくりへの第一歩を踏み出した。
 江戸からの目付役と藩の普請奉行らの一行が現場に出て図面との付き合わせをし大まかな区分けをする。それから「縄張り」をするのだ。縄張りがどのようなものか書いていなかったが、要するに建築のための測量である。
 まず、ある地点に板と棒を据えて北を正確に測る。午前中の日差しで棒に影ができる位置に印を付け、半円を描く。そして、午後の太陽でできた棒の影が半円に接したら直線で結ぶ。午前と午後の間の正中線が北の方角になる。そこから水縄という目盛り付きの細い縄で方位図と結び、東西南北を定めていく。方角が決まったら絵面図に基づき間竿(約二m)で計り杭を打ち水縄を張っていく。これを複数の人間で正確にすることになる。文字通りの「縄張り」である。
 そのように、城と城下町の設計図を元に土地の測量を行っていく。城地だけでも一大事だが、そこに城下町が加わるとかなり大がかりなものとなるのは言うまでもない。

 このように、元和六年(一六二〇)の年明けから普請作業が正式に始まった。転封の命を受けてから五ヵ月余りが経っていた。
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