福山ご城下開端の記

尾方佐羽

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伏見の夏の一大事

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「まったく、暑くてかないませぬな」
 じりじりと照りつける太陽を恨めしそうに見やって、裃(かみしも)を身につけた中年の男がこぼす。その額に汗の玉をいくつも浮かべて赤い顔をしている。
「おう、こちらは夏暑く冬寒いもんじゃ。日頃の鍛練が足らぬか。郡山とさほど変わらんと思うが」と男の主はからかい気味に言う。うだった様子の家老は、うなだれていたがハッと気づく。
「殿、いつの間に? 袖をたくし上げておられるではありませぬか!暑いなら暑いと素直に仰せられませ」
 腕を丸出しにした大名はかかかと笑い、伏見の町を悠々と闊歩している。

 元和五年(一六一九)夏、伏見には幕府大老や僧録の金地院崇伝をはじめ多くの大名が集まっていた。ときの将軍・徳川秀忠の上洛に合わせ参集したのである。そのさまは「移動する幕府」のようでもあった。今回の上洛の期間は長い。京だけでなく大阪・尼崎・奈良にも立ち寄っているが、都合春から秋まで滞在するのである。江戸から将軍に随行してきた大名は、いつ国許に帰れるだろうと内心不安になったのではないか。

 もちろん将軍は物見遊山で畿内を訪れたのではない。ここに来なければ片付けられないことを一気に解決しようとしていたのである。その案件は実に多岐に渡っていたし、老中を揃えていないと発効しない。幕府の機能を京まで持っていったのはひとえに迅速にことを進める目的だったのだろう。
 まず禁裏・公家の絡みでは「お与津御寮人の親王出産」に関わる公家の処断が喫緊の事項だった。秀忠はかねてより娘・和子の入内を進めていたのだが、そのさなかに典侍・四辻与津子が親王賀茂宮を出産したのを知る。重ねて与津子が懐妊したと知った秀忠は由々しき事態として直々に上洛したのだ。和子の入内が確定しないうちに、ほうぼう子をもうけられては、将軍家の面目丸潰れである。
 それと同時に、事件をよい機会とも捉えていたのだろう。秀忠は懸案事項を同時に次々と片付けていく。大坂の天領化と城修築、伏見城の破却、弟にあたる徳川頼宣の駿府から紀伊への転封を始めとした諸大名の大規模な領地替えなどである。加えて捕えたキリシタン五二人を処刑するよう命を下し、京都所司代がそれを執行した。いわゆる『京の大殉教』である。

 簡単にいうなら、二代目将軍の意向と政策を知らしめるための上洛だった。元和五年は徳川家康の没後三年にあたるが、その服喪明けと考えてもいただろう。それだけに思いきった判断が示されて周囲を驚かせもしたのである。


 袖を捲ってかかかと笑っていた大名も伏見に呼ばれたうちの一人であることをここで書いておかねばならない。彼は大和郡山藩主・水野日向守勝成、同道しているのは家老の中山将監重盛と数人の伴である。
 ちなみに、中山は筆頭家老ではない。
 主従は今しがた伏見城に出向いて、将軍秀忠に会ってきたところだ。会った、というといささか軽い言葉になるだろう。たいへん重い役目を賜ってきたのである。中山は息が止まりそうになっていた。額にかいている汗は暑さからのみではないかもしれなかった。
「殿はご承知のことだったのでしょうが……」
「いや、わしは何も知らんかったで」と勝成はあっさり答える。
「またまたまたまた……こたび公方さまに家老もひとり出よと召集されたわけですが、ご存じだったのでしょう。せめて仄めかしでもしておいていただけたら、私の息が止まらずに済みましたのに」
「止まったんか? 今止まっとらんようじゃ。ええじゃろ」と主は言う。
「殿はご存じだったのでしょう? ああ、それならば私ではなく筆頭の上田どのをお呼びになられればよかったのではございませんでしょうや」

 中山はいささか気が弱く心配性である。心配になると繰りごとが延々出てくる。心配性なのはいいが、縷々口に出さずともよいのに……とは家中の多くが常々感じているところである。

「あ、もしや、伏見に到着する前に伝令が現れましたな……その時に……」と中山は話し続けようとしたが、さすがに勝成も少々うんざりした表情になる。
「将監、おぬしは聡いが少々喋りが過ぎるでいかん」
「は、はい。あい済みませぬ」と中山はシュンと肩をすぼめた。


 水野勝成は三河の生まれだが、青年期に父の忠重から奉公構をくらって長く出奔していた。奉公構というのは自家を追放の上、他家に仕えるのも禁止するという罰である。彼はそれから仮の名で客将になったり、虚無僧になったり、追われる身にもなって放浪の日々を過ごした。そして十五年後、徳川家康の取りなしでようやく父と和解し三河に帰参したのだ。
 ただ親子の再会の喜びを噛み締めたのもつかの間、父忠重は酒宴の場で殺害されてしまう。そのとき勝成は家康に従って奥州征伐に向かっていたが、下野小山で父の死を知らされる。異例のことながら、家康から「家督を六左衛門(勝成)に継がせる」よう三河の家臣に命じる文書を与えられ、勝成は一路西へ戻った。

 そして放浪者は三河刈屋藩主となり、大坂夏の陣の後は大和郡山藩を任されている。

 中山が驚いたのは今回勝成に領地替えが命じられたことだった。
 これまで、安芸・備後四九万五千石を治めていた福島正則が信濃高井田などの四万九千石に転封を命じられた。元の数からすればおよそ十分の一への減封だった。罰も含めての処分だが、幕府の許可を得る前に広島城の雨漏りを修繕したのが直接の理由とされる。もともと豊臣秀吉に仕え、安芸では善政を敷いていたものの大坂の陣でも豊臣方を心情的に擁護していた。いたしかたないことだが、その隠れた心情が外様大名の中でとりわけ危険だと秀忠は判断したのだろう。幕府の体制が磐石になっても、反徳川の芽はとことん摘んでおくというのが秀忠の考えだった。
 安芸広島は浅野長晟が、備後は水野勝成が任されることになった。当然だが、空く大和郡山にも後任が決まっていた。のんびりとしている暇はない。
「また引っ越しか」と正直中山は思った。この前のてんやわんやは三年ほど前なので確かに落ち着いた気分にはなれない。
 城の引き渡しは幕府役人の立ち会いのもと、作法に則って執り行う「儀式」である。荷物を運び出せば終わりというわけではない。それに荷物を運び出し、新たな城に納めていくのも簡単な作業ではない。
 そこまではため息とともにこなしていけばまだよいのであるが、主はさらに中山が驚愕するような一言を将軍の前で発したのである。
「城地につきましては現行のものを使うか、新たに築くか、現地をよう調べ改めてお答えさせていただきたい」
「うむ、あまり時間はないが西国の鎮衛に足る、しかとよい土地を見定めてこい。とり急ぎ城受け取りの儀はつつがなく行うように」と将軍は勝成の言葉を受け止めた。
 はて?
 新たな城を築く?
 幕府が新規築城を禁止されたのではなかったか。
 勝成と将軍の言葉に中山は目を丸くした。
 引っ越しなど吹き飛んでしまうほどの一大事ではないか。
 これから何が起こるのだろうか。

 何かとてつもなく大きなものが目の前に迫ってくるように感じ、勝成の二番家老は呆然とするばかりだった。思えば、家老を一人呼ばれたのはそのためだったのかと深く納得する。新たな領地で城の受け取りをする算段をここ伏見で整え、国許の大和郡山に一端戻って引っ越しの支度を差配する。こちらの城の明け渡しもしなければならない。そして備後に移動……中山は想像しただけで頭がくらくらするのだった。

 以降、備後に移動して城地を定める話が続くのだが、当の藩主の動向についてひとつだけ書き留めておきたい。

 転封の命を受けていったん大和郡山に戻る直前のことである。中山は主に付いてとある場所へ赴いた。とある場所、というのはそこがどこだか中山には分かっていなかったからだ。馬の背に揺られて伏見城からまっすぐ北に向かう。このときは二人きりであった。
 平坦な道でさほどの距離もないが、相変わらずぎらぎらと太陽が輝いている。彼は額に汗を浮かべ汗ばんだ手で手綱を握っていた。
「殿、これからどちらへ」
 勝成はああ、と呟いてさらりと言う。
「伊達陸奥守の屋敷じゃ、言うとらんかったかのう」
 それを聞いてまた、中山は心の臓が口から飛び出しそうになった。
「な、なにゆえこの時分に陸奥守さまのところへ赴かれるのでしょうか」
「いや、あいさつしておこうと思うてな」
「あ、あいさつですか!? あいさつとは……」
「あいさつは、あいさつじゃ」と勝成はキョトンとした顔で言う。

 あいにく屋敷に伊達陸奥守政宗は不在で、格上の家臣らしき留守居の男性が丁重にその旨を告げた。勝成は「そうか、残念じゃの」とだけ言って、早々に屋敷を退出した。
「殿、もしや、訪問するとも何とも言わず、いきなり行ったのですか」とおそるおそる中山が聞く。気の置けない友ならばいいが、普通の大名同士ではまずあり得ないことである。
「ああ、訪問すると言って断られたら目も当てられぬが、いきなり行って不在なのはついていないというだけじゃ。次の目もあろう。わしの書状は託してきたでええんじゃ」

 いや、そんな博打のようなことを……と中山は言いかけたが、かろうじて内に留めた。
 中山は主の真意が一向に掴めない。
 伊達陸奥守政宗というのは水野の藩と浅からぬ因縁のある人物だった。それは藩の内外によく知られている事件に端を発するのだが、あのときはまさに一触即発の危機だった。
 その顛末は後で記す。
 いずれにしても、政宗が不在だったのでこのときは何も起こらなかった。

 一行は大和郡山に戻り支度をして、幕府の役人衆とともに備後に発っていったのである。

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