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激闘 大坂夏の陣

勝成、京の遊女で興行を打つ

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 ようやく腰を据えて三河刈屋藩主としての生活を始めた勝成には新しい挑戦の日々が続くのだが、そこでただちに真面目一徹の素晴らしい領主になったとは言えなかった。その風狂を好む性質はまだまだ残っていたのである。

 勝成は慶長十三年(一六〇八)に京の遊女、出来島隼人を大枚はたいて身請けした。
 まだ十七、八の娘だったがたいそうな美貌の持ち主で、勝成は瞬時にのぼせ上がってしまったのである。側女として置くつもりで刈屋に連れて帰ったところ、彼女は舞も小唄もなかなか筋がよかったため、勝成はすっかり感心した。そして彼女を主役に張り、京都で遊女踊りの興行を催すことを思いついた。吉原を貸切にした豪商・紀伊國屋文左衛門の話よりかなり前だから、お大尽遊びの走りともいえる。
 刈屋の家臣は遊女を身請けするぐらいならと初めは大目に見ていたが、その額に目をむいた。さらに京都で興行を打つと言うので、「これはまずい」と慌てはじめた。金だけの話だけではなかった。将軍を息子の秀忠に譲り、大御所となって駿府に居を構えることになった家康があからさまに遊女おどりに嫌悪の情を示していたからである。いくら家康のいとこといえども、いや、だからこそいい印象を与えるはずがない。家康は身びいきといわれるようなことを嫌うのだ。
 大御所となった家康からも、当然、ちくりと小言が飛んできた。

 おとくもここに至っては一言二言言わずにはいられなくなったし、勝成の母妙舜(みょうしゅん)もおとく以上に怒りを露わにした。
「遊女に入れあげて、藩の金を湯水のように使うとは何事か」
 まさにその通りだった。
 周囲からの集中砲火を、勝成はのらりくらりとかわし続けた。そうではないのだと心の中でぶつぶつつぶやきながら。確かに出来島隼人にのぼせあがってはいたが、興行にはそれなりの理由があった。

 京の北野天満宮に固定の舞台を構え、天下一のかぶきおどりの名をほしいままにしていた阿国一座はこの年の春に京を去り、長い江戸興行に出た。
   京に残ったのは阿国の模倣ともいえる遊女おどりだった。新たに四条河原がその中心地となり、連日黒山の人だかりとなっていた。遊女屋が主催するこの手の興行は、女たちの顔見せという大きな目的があった。阿国一座とは比べものにならない大きな舞台に、大量の遊女を綺羅星のごとく並べ、それは華やかなものだった。
 勝成ももちろんそれを見た。出来島隼人を見初めたのもそこだった。
 しかし、おどり自体はさほどのものではなかった。勝成もはじめは愉快愉快と見ていたが、芸として目新しいのは女衆の美しさと三味線の演奏ぐらいである。当然ながら能や狂言と比べれば素人の芸だった。勝成は芸能を万遍なく好み、自身も謡や舞のみならず笛などもたしなんでいたので、やはり物足りない。

 阿国のかぶきおどりは能や狂言、風流踊りなどそれまでの芸能を踏まえたもので、構成もきちんとしていた。そこに当世の自由な空気を加えたからこそ、禁裏でも評判を得たのだ。勝成は伏見で見たかぶきおどりの舞台を懐かしく思い出した。

 傾城の美女を手に入れた勝成が、阿国の向こうを張って京で興行を仕掛けたいと思ったのは、自然な成り行きというものだった。勝成は一座の衣装や道具に銀七十貫目(約二五〇キロ)をかけて興行を行い京ではたいへんな話題となった。
 江戸初期の大名がこの種の興行を行ったのは、伊達政宗や勝成の義弟である加藤清正の例があるが、それは京都の都の話ではなかったし、これほど大きな規模ではなかった。

 家康は例のごとく、「あのどたわけが」とこぼしたがあえて沙汰することはなかった。
 一方の阿国一座も江戸の興行を成功させたが、これを頂点に、大衆芸能はゆるやかに形を変えていくこととなる。
 出来島隼人との関係は、京都の興行の後自然に消滅していく。勝成にとっては徒花(あだばな)のような恋であった。


 京都で出来島隼人の興行を打った慶長十三年(一六〇八年)、以前の約束通り、息子の長吉が徳川秀忠の小姓として江戸に赴くこととなった。
 おとくもそうだが祖母の妙舜はたいへん寂しがった。それを紛らわすためか、初孫の行く末が明るいことを祈って熱心に寺社への参詣を重ねた。ただ、将軍にお目見えするということは正式に家臣として認められるということであり、栄誉である。勝成は母に呆れた様子で言ったが、寂しいのは勝成も同じだった。
「母上、戦へ出るのと違うで、心配が過ぎる」
 すると、妙舜はきっと勝成を睨みつける。
「おまえは風来坊だから、親の心情というものがわからない」
 返って説教される始末である。
 あぁ、いとこの申す通り、水野のおなごは皆気が強いでいかん。おとくもじきに、わしに説教するようになるんかのう。

 それでも長吉は元気に江戸に出立していった。
 立派に育った息子を見て、勝成は誇らしい気分になる。わが家は順風満帆じゃ。


 しかし前年の華やかさに彩られた日々から、翌年慶長十四年(一六〇九)になると、勝成の身内に大きな事件が立て続けに起こり、勝成はみずからの責任の重さについて深く考えさせらることになる。

 この年、同じ三河に領地を得た勝成の弟忠胤に突然の凶事が起こった。

 それは九月のこと、忠胤の江戸屋敷での茶会に遠江浜松藩主、松平忠頼が招かれていた。
 この場で、水野家臣・久米左平次が松平家臣の服部半八と碁を打っていた。どうにも劣勢の久米に対し、端で見ていた忠頼はあれやこれやと攻め手を告げていた。
 忠頼は久米と旧知の間柄だったため、気安い雰囲気だったのが服部の癪にさわった。しまいに二人は盤を囲んで口論をはじめた。
 服部の言葉に耐えかねた久米が刀を抜いた。慌てた忠頼は仲裁に入るがもう収まらない。
「おのれっ」
 久米は服部に襲いかかる。とっさに服部をかばった忠頼が背中から袈裟掛けに斬られた。

 駆けつけた忠胤は顔面蒼白になった。
 返り血を浴びた久米は魂を抜かれたように突っ立っている。周りには忠頼の近習が抜刀して取り囲んでいる。久米は忠胤が来たことを認めると意を決したように叫んだ。
「身命もってお詫びいたすっ」
 久米は脇差を抜き、頸動脈に突き立てた。鮮血が畳から襖までほとばしり、久米はどさっと倒れた。


 この事件は江戸屋敷でのこと、隠し立てできるはずもない。家臣同士の喧嘩で終わればまだしも、藩主が殺害されたという事実は重かった。翌月忠胤は切腹を命じられ、藩は取り潰しと決められた。喧嘩の当事者の服部半八も切腹の沙汰となった。

 忠胤の領した藩名や官位は後年、将軍家の正式な記録には残されなかった。ただ松平忠頼の没年が残るだけである。

 勝成は事件の顛末を知りたいへんな衝撃を受けた。ことの重大さは重々承知していたが、忠胤は直接の当事者ではない。大垣城の戦いを兄弟で声を掛け合いながら突破したことがしきりに思い出される。
 何とか蟄居など軽い処置にできないかと秀忠にかけあったが、無理だった。二代目将軍秀忠は勝成に言った。
「日向守よ、それでは済まないのだ。何事も公平に断じなければ幕府は信を失う。藩主が殺害されたんじゃ。家臣がしたことでも目が行き届いていないならば、相応の責任を負ってもらわねば」
「そうか……」
 勝成はうなだれた。
 秀忠は勝成にかすかな同情の眼差しを与えて言った。
「この沙汰は忠胤の藩だけのこと。おぬしや弟の忠清には及ばぬゆえ」
「そんなことは今言うとらん。忠胤の沙汰について申しておる次第」
 勝成は力なく返した。秀忠がまた、同情を込めて言う。
「大御所にもはかったが、日向守には忠胤の子を預かってもらったらよいと思う。水野朗党の今後の働きによっては、子にいつか再起の道が開かれるやもしれぬ。何分、子の母は織田信長公の娘、絶やすには惜しい血筋じゃ」
「……血筋か。承知した」
 割り切れない思いを抱えて、勝成は江戸城を退出した。

 ずいぶん不自由になった。

 勝成はつぶやいた。
 皆高い官位を得るために平だの源だの藤原だのの子孫になっておったから珍しくもないが、幕府も血筋だの何だのと言い出すのか。わしが何か不始末をしたら、長吉は殺されてしまうかもしれないのう。おとくの藤井も立派な武人じゃったが、中央には出ておらんからのう。
 だいたい、わしも昔はかっとして刀を抜いていたから、とっくに切腹ものじゃ。
 これが藩主の責任というものか。
 自分では何もしとらん忠胤が死を迎えねばならぬとは。
「戦で命を落とすならまだしも、父も忠胤も何と死に甲斐のないことよ。悔しかろう、無念じゃろう」
 勝成は空を仰いだ。

 忠胤は十月十六日に切腹して果てた。
 勝成は弟の忘れ形見を刈屋に引き取り、勝信という新たな名を与えた。勝信の母である振姫は他家に嫁いでいった。
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