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六左衛門、勝成に駒を進める

小山評定から取って返す 父忠重の突然の死

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 上杉氏征伐のため、家康に近侍する一行が会津に向かったのは夏だった。
 関ヶ原の戦いまで、二か月を切っている。
 
 岩槻、古河と移動し小山に着いた翌日の七月二十五日、六左衛門は本陣の家康に呼ばれた。総大将に直に呼ばれるとは珍しいことである。

「わしゃ何かしたかのう」
「この前、茶屋にこっそり行ったのがばれたんだで」
 周りがからかう。
「あほう、内府様には断りを入れとるがや」と六左衛門は軽くいなした。

 しかし不安が漂う。まさか、何か不始末があって戻れと言われるのではないか。最近身に覚えはないが落ち着かない。
 家康の本陣は、小山城の南の一角にある須賀神社の境内にあった。急造の建屋はかなり広いが、行き交う人々はせかせかとしている。かといって、どこかに出立する気配はない。もっともそれならば六左衛門にも知らされているはずだが。
 建屋の中はさらに人、人、人である。家康重臣の本多忠勝、井伊直政などは旧知の間柄だが、他は分かる顔もそうでない顔もある。遠くには昨年世話になった山岡道阿弥の姿も見える。
 それもそのはず、この場には上杉征伐に参陣の福島正則、山内一豊、浅野幸長、細川忠興、加藤嘉明らの諸将が集結していた。
 六左衛門がきょろきょろしていると、不意に背後から呼びかけられた。
「おう、備中にお隠れ遊ばしておった六左衛門殿ではないか」
 振り返った途端しまった、と六左は思った。声の主は黒田長政である。六左衛門はぎこちなく笑った。
「これはこれは黒田殿、やっとかめにござる。華々しくご活躍の段、よう耳にしておりますぞ」
 長政はふんと鼻を鳴らして言った。
「貴殿も水野家に帰参されたとのこと、まことにめでたい。帰参してすぐ内府殿の近習に取り立てられるとはのう。血は水よりも濃いとはこのことですな」

 そう言う目は笑っていない。ああ、ねちねちと辛気臭くてかなわん。帆掛けを命じた時と何も変わっとりゃあせん。いや、年季が入ってさらに磨きがかかったのか。六左衛門はげんなりしたが、曖昧に笑顔を返した。長政は今や家康と西国の将を繋ぐ重要な存在、それは六左衛門も知っている。ここで機嫌を損ねては今後に響く。

 すると、長政が重ねて問うた。
「貴殿も評定か」
「いや、内府様に呼ばれたんじゃ。中身は知らん」
 長政は険しい目をした。呼ばれた、というのが琴線に触れたようだ。家康がらみで自分の知らないことに携わっているのが癪に触るらしい。
「まぁ、貴殿は鑓一本ありゃ済む。わしは頭を使って内府殿のお役に立つまでよ」
 憎まれ口にも六左衛門は目礼して歩き出した。
 不思議なほど、気持ちは平静である。
 これまでの経緯を糺そうとも思わない。十年前なら間違いなく刀に手をかけているだろうが、ずいぶん分別がついたものである。
「よう働くんじゃろうが、あの性分はいかんで。勿体無いこっちゃ。まあええ、わしもすねに傷持つ身じゃけえ」とつぶやいて人をかきわけ、家康のもとに急いだ。

 場の雰囲気にやや気圧されながら、ふぅと息をつき、いざ家康の面前に向かうと、相手は苦虫を噛みつぶしたような顔をしている。そして、開口一番、
「水野六左衛門、おぬしは直ちに刈屋に戻れ」と告げた。
 六左衛門は焦った。何か讒言があったか、と先ほどの長政の態度を思い出した。
「なぜじゃ、わしゃ何も」
 しかし、そういった類の話ではないことは家康の一喝ですぐに分かった。
「たわけがっ、おぬしの父が討たれたんじゃ」
「え、今何と」
 ぽかんとしている六左に、脇に座す榊原康政が話した。
「先ほど急の知らせがあり申した。さる七月十九日、水野和泉守殿、三河池鯉鮒(みかわちりゅう)にて堀尾吉晴殿を饗応の際、同席の加賀井重望(かがのいしげもち)に突如鑓で刺され絶命せりと」
 何のことを言っているのかさっぱり理解できない。六左衛門は気が動転していた。
「どういうことじゃ。加賀井とは何者じゃ」
「加賀野井城主にござる。加賀井は堀尾殿が格闘の末、成敗したが、控えの刈屋衆が手負いの堀尾殿を下手人と見誤り、あわや斬り殺すところだったそうにござる。それ以上のことは今分からぬ」

 六左衛門はかっと目を見開いたまま、ものが言えなかった。家康はそれを察したように、六左衛門に申し渡した。
「おぬしに水野の跡を継がせるよう、急ぎ家臣らに文を書いた。それを持ち、急ぎ刈屋に戻られよ」
 六左衛門はようやく、我に返った。致し方ないことだが、進軍中に退出を勧められるとは武士にとって何たる不名誉。おまえは要らぬと言われているようなものではないか。やっと思い切り大手を振って、鑓を振るって戦働きができるというのに。
「しかし、会津攻めは」
 性急な六左の問いかけに、家康は憐憫のまなざしを返した。
「安心せい。わしらもじき引き返す。石田方が挙兵するよし、今日の評定にて会津攻めは中止にするつもりじゃ。だで、まだおぬしには存分に勤め口を用意するゆえ、早う戻れ」
「かたじけない」
 六左衛門が頷き、慌てて立ち去ろうとすると、家康が引き留めた。
「わしゃ評定があるもんで身動きがとれん。あい済まぬ……忠重のことは叔父というより、兄とも思い付き合うてきた。三方ヶ原の戦いでの勇猛な働きぶりは今でも目に焼き付いておるよ。どたわけの嫡男も帰参し、初孫にもじきに会えるというに……忠重はもちろん、わしも無念極まりない心持ちじゃ。その旨、刈屋の衆にもよう伝えてくれまい」
 六左衛門は深々と頭を下げ、直ちに小山を発った。彼に付いていた水野家臣の中山将監重盛ら少数が同道し、後の者は本隊と共に行動することになった。

 この日、慶長五(一六〇〇)年七月二十五日は重大な出来事がいくつも起こった。
 この後のいわゆる小山評定では家康が黒田長政や福島政則ら客将に、大坂に在する人質の扱いについての見解を諮った。言い換えれば、石田三成に付くか、家康に付くかの最終決断を迫ったのである。福島政則や細川忠興が率先して人質を放棄し、「三成を討つべし」と気炎を上げて全体が意を一つにした。
 上杉征伐の中止も決定され、一同が西に引き返すこととなった。

 家康の配下である鳥居元忠が留守居を勤める伏見城へ、石田三成が攻撃を始めたのもこの日のことであった。
 これが関ヶ原合戦への重要な布石となるが、家康は総大将として誰よりも多忙だったにも関わらず、六左衛門に家督を継がせる文をみずから書き起こしている。この数ヶ月、家康は大量の書状を方々に発しており、その数は後世分かっているだけでも百を優に超える。その大半が、来たる天下分け目の戦いに向けて、諸侯に内応を促したり行動を指示する内容であった。
 その中で、一家臣の家督について言及することは異例であるといってよい。

 水野和泉守忠重殺害の顛末については、座についていた堀尾吉晴が十七もの鑓傷を負って伏せっていたため、どうにも要領を得なかった。皆したたかに酔っていたのも災いした。水野家中の者たちも人払いをされ、やりとりを見てはいない。大分後に堀尾が語ったところによると、加賀井は家康のやり方に不満を言い連ね、石田方に付くのが道理と主張していた。それを忠重が一蹴したのに激高して凶行に及んだという。石田方につくよう説得するために加賀井がやってきた可能性が高い。
 この凶行について、加賀井が石田三成の密書を携えていた、大谷吉継が暗殺を指示したという者もいたが、密書の中身も明らかではなく、真実は藪の中である。
 いずれにしても、戦国大名三名が饗応の席で死傷するという、悲惨極まりない事件であった。

 何が起こったにせよ、父忠重はもうこの世にいない。

 六左衛門はそればかり頭の中で誦んじていた。心臓に重い石の蓋を乗せられたような息苦しさがずっと続く。頭ははっきりしているが、またぼやけてもいる。十五年ぶりに帰参が叶い、やっと親子で働けるようになったのもつかの間、戦場以外で父が突然みまかるなどとは夢にも思っていなかった。 本当につかの間でしかなかった。
「このどたわけぎゃっ!」と鑓を構えて追いかけて来た姿、山岡道阿弥に頭を下げる姿、ともに家康の警固に並んだこと、ほんのわずかな親子和解のときを思い、六左衛門は胸がつぶれそうになっていた。

 黙りこくって馬を駆る六左衛門に、中山将監が呼びかけた。
「若、少し休まれた方が」
「ああ、そうじゃな」
 六左衛門は力なく応じた。朝方までの生気はみじんもない。中山はかける言葉もなく、近隣の農家に水をもらいに出た。幸い、親切な農夫が軒下を貸してくれたので、一服入れることとした。茶をもらっていると、農夫がぼた餅を持ってきた。
「せがれが昨年嫁をもらいまして、かかあのやるのを見よう見まねで作ったんだべ。お口に合わねえかもしれねけっど」

 六左衛門はじっとぼた餅を手に持って見つめた。

 おとくは達者かのう、長吉は大きくなったじゃろうのう。成羽の皆の顔が浮かんでくる。ああ、妻と子をあの父に見せてやりたかった。きっとわしにはもったいないと申すに違いない。
「若、どうされました」
 六左衛門はぼた餅にぽたぽたと涙をこぼした。そして、それをおもむろにむしゃむしゃと口に詰め込む勢いで食べ始めた。
 隣でそれを見ている中山は少し安堵した。
 泣くのは心の重荷を吐き出し始めた証、ようよう悲しみなされ。拙者は刈屋までその悲しみにお供致そう。そう決心を新たにしたのである。
「うまかった。馳走になった」
 そして、一行は再びはるかな道に出立した。


 六左衛門が刈屋に到着すると、さっそく中山将監が家臣団を召集し全員が揃った。そして家康の書状をその宛名人の上田清兵衛らに手渡した。出奔以来、まだろくに顔合わせもしていない在城の家臣たちがどんな反応をするのか、六左衛門は少し怖ろしかった。
 家臣の上田玄蕃がすかさず前に進み出た。
「若、やっとかめでござる。こたび諸国遍歴より帰参され誠に……」
 言葉に詰まる上田玄蕃を見て六左はばっとひれ伏し詫びを入れた。
「この十五年、皆には、父には大変な迷惑をかけた。詫びれば済むとは毛頭思っとらんが、とにかく申し訳なかった。済まぬ」
 玄蕃の目には涙が光っていた。
「さればわしも申し上げたき儀がござる。殿はずっと若の帰りを待っておられたのだで。京で対面なったのは幸いやったが、なぜもっと早よう帰参されなかった」
 思いもよらない激しい問いに六左は面食らった。
「済まぬ、相済まぬ……」
「殿が唐入りの際、肥前那護野城に入られたのはご存じか」と上田は泣きながら言う。

 六左衛門は首を横に振った。父が九州にいた……?
 わしが赴かなかった慶長の役に、父が出陣していた?

「本当はみずから出ずとも済んだのです。若が九州で戦働きをしていると風の噂で聞き、会いたい一心で出陣されたに違いないとわれらは考えております。もっとも、そんなことを語るような方ではございませぬが」と上田は袖で涙をふいた。
 書状の宛名にもなっている鈴木重兵衛も続けた。
「太閤殿に臣従した時も一時は刈屋を取り上げられるなど苦労の連続でした。それでも雑賀攻め小田原攻めと戦に出続け、太閤殿下に義理を果たしてきました。だから今われらはここにいるのです。殿がそこまで、隠居もせず働き続けたのはなぜだと思われますか。若が帰参されたとき城が無くては面目が立たぬ。その一心だったのでしょう」

 家臣団が次々と述べる言葉に六左衛門ははばからず嗚咽をもらした。
「若、内府様の命なくとも、われら一同、水野藤十郎、または六左衛門を刈屋藩の家督を継ぐ方と思うておりますで。殿の遺志は皆よう分かっておりましたからな。あなたさまを刈屋藩当主として戴くこと、家臣一同異論はございませぬ」
 満場一致だった。
「あいわかった。わしは父の思いを無駄にしとうない。これから皆、どうかよろしく頼む」
 六左衛門は素直に皆に頭を下げた。

 これが、父のいなくなった刈屋への本当の帰参であった。
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