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六左衛門、勝成に駒を進める

武蔵、おとくのもとを訪ねる

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 所変わって、備中成羽は本日も晴天である。
 また春が来て、つばめがすいすいと往来を横切っている。

 新免武蔵は但馬方面から豊前に向かう途中、思い立って備中成羽に立ち寄った。

 豊前は養父、新免無二斉の仕官先なのでともに使ってもらおうと思っている。成羽は通り道とはいいがたく、遠回りになるが、武蔵にとっては大したことではない。

 おとくに求婚しようと思っているのである。
 剣の腕を磨きながら、ときをひたすら待っていたのである。

 備中地域の動脈である高梁川に注ぐ支流、成羽川を抱える山々は美しく、田植えを控えて水田にはきらきらと日が射していた。どこにでもある田園風景である。
 その中で威容を誇る三村屋敷の広大さに、武蔵はひるんだ。
 それでも永年の本願を果たすため、勇気を出して門戸をたたいた。

「拙者、美作国の新免無二済がせがれの武蔵と申す。道中、こちらに奉公されている小坂利直殿ご息女、おとく殿にお会いしたくまかりこした。お取り次ぎ願いたく」
 武蔵は平静をつとめて名乗りをしたが、声が震えるのを止めるのは難しかった。何しろ久しぶりの初恋の女性との再会なのだから。

 やがて現れたおとくを見て武蔵は眩しさに目が眩むほどだった。
 前髪を上げたおとくは美しく成長して目の前に現れた。少しふっくらしたようだが、女性らしいやわらかさが神々しいほどである。武蔵は緊張のあまりなかなか言葉を発することができない。

「と、と、突然まかりこし、失礼つかまつります。いやはや、木登りなどしておられた腕白なおとくさまがすっかり美しくなられて」
 おとくは微笑んで武蔵に屋敷にあがるよう促した。
 彼女の美しい姿に引き換え……武蔵はじっと自らのなりを見た。長い旅装束で紺地の着物は白茶けたぼろきれと化し、その中身もしばらく風呂を使っておらず、それなりの臭いがする。しかし、おとくは少しも気にしていない風であった。おとくにしてみれば、出会った時の六左衛門を思い出し、つい笑みがこぼれそうになるほどであった。

 放浪には白茶けた着物と日なたくさい体臭がつきものなのだ。

 武蔵は外で時間をかけて身体のほこりをはたいてから屋敷に上がった。
「今は武蔵というのですか。国許を離れてもう九年、あなた様ももう十八、勇ましいお姿になりましたね」
「今は武者修行、旅の日々でござる。これから父の求めに応じ豊前に向かうところで」
「やはり、戦が近いのでしょうか」とおとくが心配そうに尋ねる。
「然り。豊前に人を集めているのもそのためかと」

 おとくは少しまつげを伏せると、思い切ったように口を開いた。
「幼い時分のことでもう覚えておられぬかもしれませんが、あなたは私を嫁にほしいと言ってくださいましたね」
 おとくからその話題が出たことに武蔵は面食らった。今度の戦で大功をあげれば、父とともに自身も仕官が叶うかもしれない。そうしたら、嫁になってくれないかと切り出すつもりだったのだ。
「はい、忘れたことはございません」と武蔵はきっぱりと言った。
 おとくは悲しい顔をして、武蔵に頭を下げた。
「私はあなたにお詫びを申さねばなりません。私は昨年人の妻となりました」

 武蔵は黙ってうつむき聞いていたが、やはりかなりの衝撃を受けていた。
「……さようですか。このご家中の方と」
 おとくはこくりと頷いた。
「夫は水野藤十郎忠則と申します。皆六左と呼びますが」
「そう……ですか」

 言葉を継げない武蔵に、おとくはやさしく語りかける。
「武蔵様、私の旅立つ日にすみれと宝物のどんぐりを下さり、強くなっておとくを守ると言って下さいましたね。まことに嬉しかったこと、私も忘れておりません。あなた様のことはずっと心にありましたが、このような仕儀になりました。あの日の言葉通り立派な武者になられたあなたに比べ、私はあなたとの約束を違えることになりました。お詫びしたいのです」

 忘れていなかった。とく姉は忘れていなかった。わしの思いは通じていたのだ。

 武蔵は目を閉じてその喜びと切なさをかみしめた。

「わしも、これから戦に向かいます。もとより幼き頃のこと、たとえ今おとく様が承知下さっても武者修行の身では嫁に来ていただくことは叶わん。ですから、お幸せなおとく殿にお目にかかれただけで、わしは満足です」と武蔵は目を細めて伝えた。
 そこに襖が静かに開き、赤ん坊が抱かれて現れた。
「お乳をご所望のようです」
 赤ん坊がおとくの腕に抱かれる。
「もしや、おとく様の」と武蔵が身を乗り出す。
「はい、昨年産まれました。長吉ともうします」
「長吉殿……何とも愛らしい男子じゃ」
「ありがとうございます」とおとくは微笑む。

 武蔵はその赤子を飽くことなく見つめ続け、新たな希望を見出したようだった。
「おとく様、わしはまだまだ未熟者なれど、天下一の兵法者になった暁には、この御子を守るため必ず参上いたす。それを今日からの、新しいわれらの約束としては下さらぬか」
 黙って身を引く、さらにおとくの子を守りたいという。武蔵の思いの深さにおとくは胸を打たれた。
 武蔵にしてみれば、大事に大事にあたためてきた初恋が潰えたわけだが、それでも、この女性に関わっていたい。この手に抱くことはかなわなくとも。そのような気持ちだった。
 長年想い続けてきたものを胸の奥深くにしまって、誰も害することのないただひとつのことは、相手の子を守ることぐらいしかない。それでお役に立つことができるのなら、僥倖。わしがおとく様にできるのはもうそれだけなんじゃ。
 武蔵の気持ちを誰が責められようか。
 おとくにも彼の気持ちが痛いほど理解できた。
「お礼申しあげます。この館には三村家のご厚意により滞在させていただいております。じきに出ることになりましょうが、出先は分かるように言付けますゆえ、またぜひお顔を見せてください。あと、武蔵様」
「はい」と武蔵は昔日のように素直に応じる。
「無用な人斬りは決してなりませぬぞ。鬼に食われます」
「承知しました」

 武蔵はすがすがしい顔で成羽を発っていった。
 この日以降、彼は思いを封印しいっさい語ることはなかった。また、生涯妻を娶ることもなかった。
 しかし、この時の約束は十数年ののち、きっちりと果たされることになる。



 一方、京都ではきなくさい戦の匂いがぷんぷんと漂っている。

 会津の上杉景勝が石田三成と謀り、家康に対して挙兵する準備を進めていたことから、家康はまず上杉征伐に取り掛かることとなった。

 じきに、一年余り過ごした伏見を離れるという頃、六左衛門は阿国に再会した。阿国の一座はこの時期、京都で勧進興行を行なっていたのである。六左衛門はこっそりとのぞいてみようと座を訪れていた。もちろん、阿国に見つかると厄介なので、辺りをきょろきょろ見回しながらである。
 
「おやまあ、水野の旦那、ご無沙汰しております。京都にいてはるとは奇縁でございますね」と六左衛門を目ざとく見つけた阿国が気さくに声をかけてくる。
 六左衛門は顔をしかめた。
「まったく。いつも見つかってしまうでいかん。また何を言われるんか、わしゃ肝が冷える」
 阿国はほほほと高笑いした。その笑い声は自分の伯母・於大に似ていた。

 家康の母として有名なこの女性は豪快な性格で、同じ気性の甥とは馬が合った。とはいえ、彼女も順風満帆できたわけではない。今川と織田の関係が悪くなると家康の父、松平広忠と離縁させられ、久松家に再嫁させられた。しかし、伯母はたくましく運命の波を乗り越えた。今でも、あの家康を一喝できる希有な存在なのだから。思えば、わしが女子を強き生き物だと思うようになったのは於大の影響かもしれない。六左衛門は阿国にも、同種のたくましさを感じずにはいられなかった。

「水野様はほんま可愛いお方やなあ。まぁ失礼をいたしました。そこらの雀がちゅんちゅん申しておりましたが、お家に帰参され今は内府さまにお仕えのよし。ご活躍を祈念し、われら一座の新たな芸をお目にかけとう存じます」と相変わらずそつなく、しかも艶やかに口上を述べる。

 阿国一座の演目は猿若舞、風流踊り、ややこ踊りと続く。
 六左衛門が備中で見たときと同様であったが、即興や掛け合いなどが増え、芸の円熟を感じさせた。思えば阿国がわしを京で見たというのは十五年も前なのだ。お互い相応に歳をとるもんじゃ。

 そのうち、曲調が変わり、舞台に異装の男が現れた。派手な柄の小袖に獣の皮をまとい、髪はてっぺんでくしゃくしゃの茶筅髷に束ねている。
「なんじゃありゃ」
「かぶき野郎だ」
 ざわざわとつぶやく観客の中で、六左衛門は心の臓が口から飛び出すほど驚いた。

 その姿は十五年前の自分と同じ出で立ちだったからである。ご丁寧にクルス(十字架)までぶら下げている。キリシタンでは全くないが、南蛮趣味の信長にかぶれていた六左もまねをしてよくぶらさげていたのである。よお覚えとるもんじゃ。六左衛門は呆れ、また感心した。すると、さらに観客が湧いた。かぶき男が茶屋女を口説きはじめたのである。茶屋女に扮するのは男性である。茶屋女を口説くのは特に六左の専売特許ではなく、かぶいた荒くれ者がよくやりそうな仕草であったから皆に大受けしたのである。
 しかし、六左衛門は自分の、今となっては恥ずかしい過去をさらされているようで、たいへんばつの悪い思いをしていた。

 阿国がらみでは、もうひとつ奇特な出会いがあった。
「それがし、名古屋山三郎(なごやさんさぶろう)と申します」
 六左衛門の許へ突然尋ねてきたその男に見覚えはなかったが、よくよく見ながら感心した。
 長身であることを除けば、その眉目秀麗なること傾城傾国の妖艶さである。衣を替えれば、どんな男も魅せられてしまうだろう。女の装束といえばもしかして。
「阿国の一座の者か」と六左衛門は尋ねる。
「いっとき一座に加えてもらったことがありますが、今は違います」

 六左衛門は部屋に山三郎を招きいれ、茶を用意させた。彼はここに来たわけを話しはじめた。

 山三郎は蒲生氏郷(がもううじさと)の小姓として仕え、研鑽を積んでいた。一番鑓の名誉も手にしたが、その美貌から周辺には必ず妬まれた。「あれは衆道ゆえじゃ」と陰口を叩かれるばかりだった。それでも耐えられたのは氏郷が下の者に平等であったからだろう。慶長の役後に主が病を得てこの世を去り、山三郎は蒲生家を去った。

「まぁ、それほど綺麗ならば無理もない」と六左衛門がつぶやく。
 それから山三郎は京都で放蕩三昧の生活を送った。女がこの色男を放っておくはずもなかったので、暮らし向きには全く困らなかった。六左衛門はため息をついた。
「吝嗇ないとこに借金しとったわしとは大違いじゃ。普通のやさ男ならば嫌みに聞こえるがおぬしなら感服するしかないわ」
「いえ、私はあなた様に憧れておりました」
 きっぱりと言う山三郎に六左衛門は面食らった。

 放蕩生活を送るのに飽いた頃、勧進興行をしていた阿国に知り合ったという。
「阿国は他の女性とは全く異なっておりまして、それがしの容貌には目もくれませぬ。かぶくならばもっと濃く生きねばならないと申しました。そして、あなた様が京にいた頃の姿をとうとうと私に語りました。仲間とでも一人でも、常に堂々とした立ち居振る舞い。喧嘩のときの勇ましさ、遊女と消えるときはこっそりと」と山三郎は笑う。
「こっそりとは余計じゃ。しかしこそばいのう。わしゃあ、そんな風に見えたんかのう」

 山三郎には芸能を好む気性があり、しばらく阿国の一座と行動を共にしていたのだという。
「阿国も、子供が後朝(きぬぎぬ)を謡い舞う看板のややこおどりには飽いていたようで、新しい目玉を探しておりました。それがしをかぶき野郎として振る舞わせてみては、違うと首をひねっておりました」と山三郎が少し悲しい表情になる。
「そりゃ、気の毒に。わしのような顔ならばええが、おぬしに荒くれ者の役はな。面をつければええんじゃろうが、素面となるとな」と六左衛門はひたすら納得している。
「さよう、仕方がありません。すると、阿国はいきなり私に女子の小袖を羽織らせて叫びました。ああ、これやと」
「それがこの前の茶屋女か。傾城の美女でなく」
 山三郎は、「はい」と素直に答えた。
「そこからは阿国にもトントン拍子に考えが浮かんだようで。自分がかぶき野郎に扮して茶屋通いをするという筋を作りあげたしだいです」

 六左衛門は楽しい気分になった。
「そりゃ愉快じゃ。わしは能も風流踊りも神楽も好きじゃが、まったく新しい。この前は見なかったが、おぬしも出るのであろう」
 山三郎は首を横に振った。
「訳あってしばらく前に一座を出ました。それがしはしばらく大徳寺にて厄介になり、このたび森家に仕えることになりましてございます」
「森か、昔は敵味方に分かれたこともあるで。すると信濃に行くのか」と六左衛門が聞く。
「はい。京を去ることもあり、それがし、先頃近衛邸に招かれていた阿国一座に暇乞いにまいりましたところ、阿国が高ぶった様子で駆け寄ってまいりました。あのかぶき者が京都におるんやと、何度も繰り返し。それがしに会えた嬉しさかと一瞬思い違いをいたし、肩を落としました。ただ、それがしもぜひその御仁にお目にかかりたいと、失礼を承知でまかりこした次第です」
「阿国に振られたのはおぬしのほうか」と六左衛門が言うと、山三郎が苦笑した。

「話を聞くと、おぬしもわしもこれから再出発になるようじゃ。出る前にええ話が聞けて何より。次に会うときには、阿国の舞台を見て、かぶき装束にて飲み明かそうぞ」
「はい、ぜひ」と山三郎は艶っぽく微笑んだ。


 その時はついに訪れることはなかった。阿国一座は戦乱の気配を避けて越後に向かい、その後しばらく京都には現れなかった。また森可政に付いて信濃、そして美作に移った山三郎は、彼を妬む家中の者に斬られて命を落とす。
 阿国と山三郎が作りあげた「かぶき踊り」は一座が京に戻ってきた際も、変わらず人々に喝采を持って迎えられるのである。それが多くの模倣者を産む。この頃、家康の次男、結城秀康が阿国を「天下一の女」としたのが最も有名な論評であろう。これに商いの種を見つけた近在の遊女屋が次々と同様の興行を打つようになり、玉石混淆の、石のほうが多くなったものの、大人気を博して全国に波及していった。

 それにしても、と六左衛門は思う。
 阿国は本当は山三郎に惚れとるんじゃないんかのう。
 あまりにも美丈夫で臆したのか。阿国の性分であれば、その思いを素直に出すとは思えん。
「要は互いに思い合うていたということじゃ」

 六左衛門はふと、成羽の妻子に思いをはせていた。
 わしは惚れた女を妻にし子も生まれ、幸せもんじゃ。
 ずっと親父殿に預けて待たせるばかりじゃいかん。早く迎えてやらねば、と心を新たにするのであった。
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