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放浪者六左衛門、三村家の居候になる

六左衛門、ふたたび出奔

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 六左衛門を狙っている思われたならず者風情の刺客も、親成の取りはからいによってか、現れなくなってしばらく経つ。


ここは八島の浦づたい、蟹の家居も数々に。
     釣のいとまも波の上、霞渡りて沖行くや、
         蟹の小舟のほのぼのと見えて残る夕暮れ

 親成と六左衛門は成羽から南下して、瀬戸内海を望む笠岡の浜辺にいる。帰りしなに浜辺に立つと、親成が朗々と謡を始めた。
「仕舞でございますか」
「八島じゃ。この津の向こう、左寄りに、まことの屋島があるが……まぁ見えぬな」

 『八島』とは室町時代の世阿弥作の謡曲である。旅の僧が老人を通じて亡き源義経の語りを聞くあらすじで、修羅物の代表的な演目として有名である。

「お屋形様は仕舞もされるんじゃのう。わしは念仏踊りだの猿若舞は好みじゃが、仕舞はどうもしゃちこばった感じがしてのう」
 親成は納得したように笑った。
「おぬしにはまだ早いかもしれんのう。ただ、これほど完成された芸能は他にないと思うぞ。特にわしら武士にとってはな」
 そして、親成がまた謡いはじめ、六左衛門は黙って聞いていた。浜辺なので舞台立てはこの上なく、その声は海風に乗って縷々流れていく。六左衛門はなぜか不意に涙が浮かび、慌てて目をこすった。
 風はさわやかに二人の頬をなでている。親成を知っているらしい漁師が近寄ってきて言った。
「殿様、いい鰆(さわら)にままかり、いかがですか」
 どちらも、瀬戸内海でよく獲れる魚である。親成は嬉しそうに応じた。
「ああ、もらおうか。夕餉が楽しみじゃな」
「鰆は手当せんといけん。後でお館までお運びしますけぇ」と漁師も笑う。
「おお、じゃあ手当だけ頼もうか。わしらも馬じゃけえ、運べるぞ」
 魚を包んでもらって、二人は傾き始めた太陽を眺めつつ馬をつないでいる場所まで歩きはじめた。
 
 静かな海、静かな昼下がりだった。
 この日から親成は六左衛門に仕舞を教えるようになった。


 しかし、事件が起こったのは、そのすぐ後だった。

 三村家で月見の茶会を催すための支度が進んでいた。
 いつものように見回りを終えた六左衛門が帰ってきたが、猛烈に喉が渇いていた。茶会の準備をしている茶頭にちょうどいいとばかり、茶を所望した。すると、茶頭は険のある顔をして断ったのである。
「おまえさんに出す茶なんぞないわ。何様のつもりじゃ。新参者のくせに殿に取り入るのが本当に上手いのう。じゃけ、刺客を出されたりするんじゃ。せいぜい寝首をかかれんよう気を付けるんじゃな。せっかくわしが……」
 茶頭は口をつぐんだが、六左衛門が聞き逃すはずはなかった。
「おぬしがどうしたっちゅうんじゃ。言ってみいやっ」
 茶頭はさらにきつい顔をこちらに向けた。
 六左衛門は激昂した。

 ふと気が付くと、茶頭が袈裟懸けに斬られた状態で横たわっていた。

 かつて、織田信長が無礼を働いた茶頭を成敗したことがあった。茶頭は逃げまどって卓台の下に潜り込んだ。信長はさらに憤って茶頭が隠れた卓台こと、茶頭の胴を真っ二つに割っていた。
 その刀は『圧し折り長谷部』と呼ばれ、後に黒田長政に下賜された。

 六左衛門の刀はそれほどでもないようだが、やったことは同じだった。
 刀の血を拭いながら、六左衛門は思った。もう、この家にはおれぬ。お屋形も家中で刃傷沙汰を起こした者を許しはしないだろう。

 俺の親父もそうだった。
 今ふたたび、彼は生地を離れることになった事件を思い出していた。跡目にはふさわしくないと、六左衛門の振る舞いについて告げ口し続けた家臣を斬り捨てた時、父の態度はまことに容赦のないものだった。すぐに逃げたものの、即刻他家にも仕官させないよう通達が出された。それから父の姉の息子、すなわちいとこである徳川家康を頼っていったものの、それを知った父がさらに激怒して、怖れをなした家康は六左衛門をそそくさと追い出すしかなかった。
 あの頃は、俺をのたれ死にさせる気か、と恨みもし憤ったものだったが、今となれば致し方ない処断であったと理解できる。
 父は水野家大事であった。それは名誉や禄などという浅ましいことではなく、自らが責任を持つ家臣、朗党、領民のためじゃ。後に秀吉についたのも、先を見通してのことだろう。それはお屋形様も同様じゃ。
 わしが出奔し、裏切り者で終わった方が楽に始末をつけられる。

 思案しているのは長かったが、六左衛門が逃げ出すまでにそう時間はかかっていない。

 もちろん、すぐに屋敷中が大騒ぎとなった。
 大まかなようすは、庭の手入れをしていた者が少し離れた所から見ていただけであった。彼は親成にそれを申し述べた。他の者は皆忙しくしていて見ていない。
「六左殿が茶がほしいと言っており、茶頭はぶち渋い顔をしとりましたんじゃ。何か茶頭が言ったら、六左様は物凄く怒っとるようすで刀を抜かれました。そして、逃げました」

 親成はしばらく考えて、大声で家中に告げた。
「月見の茶会は中止じゃ。とにかく皆に伝えてくれんか。あと、もしよければ、茶室の始末を手伝ってくれ」
 皆はしんと静まり返っていたが、きよが前に進んで声を上げた。
「さぁさぁ、はよう片付けんとお月様が高く上ってしまうけん、急ぎましょ」
 皆は黙々と片付けに加わった。

 その頃、六左衛門は村外れの川岸にポツンと腰掛けていた。
 もう夕暮れどきなので周りから見ても目立たない。それをよいことに、ためいきをついておもむろにゴロリと寝転がった。どのくらい転がっていたのだろう。不意に、呼ばれた気がしてびくっとして起き上がった。

「六左様、やっぱりここですね」
 見ると、おとくであった。六左衛門はほっとしたのが半分、焦りが半分の心持ちでおとくに問うた。
「なんでここにおるとわかったんじゃ」
「わかります。六左様はよくこの辺りを歩いておられましたから」とおとくは驚くほど穏やかな声で応えた。悪さをした子をやさしく諭す母親のような、優しい声である。
「わしに構うな」
「茶頭さまを斬られたと聞きました。なぜ」とおとくが単刀直入に問うた。
「うむ。わしに立てる茶はないとぬかしおったからの」
「それだけですか」とおとくは優しい声ながらたたみかける。
「いや、それだけではないが」と六左衛門は言いよどむ。
「でしょう」

 六左衛門は困った顔をした。
 でしょう、だと。この娘は何やら知らんが、わしの考えておることがわかるもんだでいかん。
 あの茶頭は宇喜多と言いかけた。確かに聞こえた。さきの乱暴狼藉のならず者と何か関わりがあるのやもしれんが、あの言い草はどうにも許せん。それをおとくに説明するのは難しかった。
 後悔の念が胸をしめつける。
 親成の顔に泥を塗ったことは間違いない。取り返しがつかない。痛恨事だった。またこれまでと同じことを繰り返してしまった。

 顔を覗き込むおとくに、六左衛門はすがるように訴えていた。
「おとく、いかんがや。わしも鬼じゃ、しのごの言い訳をしても、人を殺めることに変わりはないで。またやってしもうた。お屋形様にあれだけ世話になっておきながら、何ということじゃ。鬼じゃ、鬼じゃ、わしは、わしは」

 しかし、その姿を見ておとくが発したのは厳しい言葉だった。
「何をためらうのですか。鬼になるならなればよいのです。鬼になる自分を真正面から受け止めればよいのです。その覚悟ができなければ、罪の重さに潰されてしまうでしょう」

 六左衛門は驚いた。
 おぼこい娘っこの言うようなせりふではない。いや、そう思っているのは自分だけか。目を丸くしている六左衛門におとくは続ける。
「ただ、約束してくださいませんか。きょうからは太平の世を築く鬼になって下さい。今後無用な人斬りは決してしないでください。約束」
 そして、右手の小指を突き出して六左衛門に同じ動作を求めた。

 六左衛門はしばらく黙っていた。そして静かに目を閉じた。干天の慈雨のごとく、その言葉は彼を潤していった。目を開くとおとくはまだ彼の小指を待っていた。その指をじっと見て、六左衛門は自分の小指をそれにからめた。そして、立ち上がった。
「おとく、わしはまた戻ってくるとお屋形様に伝えてくれぬか」
「六左様……」
「それからな、わしの名は……水野藤十郎忠則と申す。お屋形に伝えてくれまい」
おとくの目をじっと見つめてそれだけ言うと、六左衛門、本名藤十郎忠則は駆け去っていった。


 おとくが屋敷に戻ると、すでに客人も皆去ってひっそりとしていた。そうっと親成の部屋をのぞいた。
 親成は目をつむって瞑想しているようだった。
「お屋形様」とおとくは小さな声で呼びかける。
「おとくか。どうした」
「六左様に追手を出したのですか」
「いや、出してはおらん。皆いろいろ言っておったが」
 親成はいつものように落ち着いている。ただ、少し疲れているようだ。
「どうして追手を出さないのですか」とおとくは逆に聞いてみる。
「あの茶頭は六左を侮蔑したようだ。あと……」
「あと?」
 親成はおとくに言うべきか少し思案した。しかし、この娘は知りたがっている。
「宇喜多と通じておる」と親成は言った。
「宇喜多様の。なぜですか」とおとくは再び尋ねた。
「誰かの命で六左を放逐しようと企んだのではないか」
 それが現時点で想定できるこの事件の真相であった。
「あのどあほうは逃げたか」と親成が聞いた。
 おとくは正直にうなずく。
「惜しいのう。あやつもかっとして人を斬ったりせず頭を冷やす癖をつければ、真の無双なんじゃがのう。まったく、短気はこらえなければ物の道理を見誤るというのに」

「でも……あの方は必ず戻るとおっしゃいました」
「そうか」とうなずきながら親成はおとくをじっと見た。
「それと、お名前を水野藤十郎忠則と申されました」
「そうか、それが六左の名か。何やら別人のようじゃのう。しかし、どうして去り際に名乗る気になったのか」
「不思議でございます」とおとくも首をかしげる。

 親成はひとつため息をついて軽く首を横に振り、ひとり月を眺めようと庭に出ていった。


  →引用「八島」日本古典文学大系第41 謡曲集 (岩波書店)より
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