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放浪者六左衛門、三村家の居候になる

六左衛門の遍歴

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 新参者の遍歴は実に波乱に富んでいた。聞いていた親成もはじめは嘘八百ではないかと疑うほどであった。

 六左衛門は三河の領主の嫡男である。初陣から目覚しい活躍を見せ、武田勢を攻めた高天神城の戦いでは首級を十五上げて、織田信長から感状をもらったほどである。しかし、「一番鑓を入れねば気が済まぬ」が口癖の、この血気盛ん過ぎる若者は、ある時、とがめる家臣に逆上し、斬ってしまった。家臣は即死であった。
 かねがね息子の態度に懸念を抱いていた父親は、カンカンに怒り、奉公構を食らわした。六左衛門が二十歳のときである。奉公構とは勘当などという甘いものではなく、他家への仕官も一切禁ずるという厳しい処置である。お尋ね者と言っても差し支えない。
 いとこにしばらく匿ってもらった後、たいそうな金子も貸し与えられたのだが、京都でしばらく放蕩三昧、喧嘩と酒と女性にはまり込み、バサラな暮らしをしてすっからかんになった。その後、さらに流れて仙石秀久の客分となり四国の長宗我部攻めに参戦した。そこでも目覚ましい活躍をして、戦の後多くはないが秀吉に知行を与えられもした。しかし、あくまでも奉公構の身である。父の横鑓が入ったこともあり仙石家を離れ、今度は九州に流れる。どんどん西に流れていったということで、天下統一の道に似ていなくもない。
 しかし六左衛門の道はひたすら放浪の道である。
 豊前・豊後辺りを放浪した後、肥後に入った佐々成政の客分となり地元豪族の一揆を鎮圧、その佐々成政が肥後を去った後、小西行長の元に移った。それから加藤清正、立花統虎(後の宗茂)、黒田官兵衛家中と渡り歩き、備中にやってきたのだという。
 語らない部分もあるものの、佐々成政から始まる九州時代については語り口にも熱がこもった。敵の主将を討ち取った、殿を見事に務めたなどの武勇譚もあれば、些細な口論で相手に刃を向けてしまったことなども隠さず話した。この男の取り柄は、バカが付くほどの正直さであった。親成もこの客分の正直さには、愛すべきものがあると感じた。
 黒田官兵衛の息子、長政に疎まれて飛び出した後は、備中を虚無僧姿で放浪していたという。西国の主だった武将に知れ渡ってしまったため、仕官がさらに難しくなったのである。結局尾羽打ち枯らして、成羽にたどり着いたのである。

 六左衛門は遍歴を一通り話した後で、少し間をおいて成羽に来た理由を話した。
「実は旅の道中、三村殿のことをいまわの際まで気にかけていた御仁がおった。もう大分昔のことなれど、ようやくお会いする機会を得たのだから伝えない訳にもいきますまい」
「ほう、どなたじゃ」
「吉川駿河守元春殿でござる」
 六左衛門がこともなげに答えたので親成は驚くほかなかった。吉川元春といえば、毛利両川体制を成す西国でも名うての武将、わが三村家とも縁の深い御仁じゃ。しかしその臨終に牢人が立ち会うなどありえない、ありえないはずじゃ。

 親成親子は吉川元春が倒れた九州平定の際に出陣していた。しかしその死についてはしばらく秘されていたので、知ったのはしばらく後のことだった。毛利家と三村家は親成の兄・家親が備中を手中に収めた際に同盟を結んで以来の深い関わりがある。今日に至る次第を思うと昔日の感を覚える。複雑な感情が奔流のようにあふれ出すのを抑えることは難しかった。
 そんな六左衛門は吉川元春の最後について語り始めた。


 あれはわしが仙石家中をふいと飛び出した後のこと、かの家には四国長宗我部攻めの将として参陣しておりましたが、戦の後ちょっとしたいざこざがあり暇を告げる次第となり申した。元より生国にて勘当の身、東に戻ることもできず、より遠い西国に向かうこととしたのです。豊臣秀吉は着々と西進し、残る九州が主戦場であろうと容易に想像がつきます。鑓働きには困らないだろうと思い、とにかく九州に向かうことにしたのです。その時点で島津はすでに薩摩から北上の軍を進めて久しく、筑前岩屋城にて高橋紹雲殿が十四日もの籠城戦の末、皆壮絶に討ち死にした次第も途上にて聞き及んでおりました。かような話を聞きますと、何やらわが血が熱く煮え立つような思いがし、まずは伊予から豊後に向かったんじゃ。

 しばらく逡巡し、ようやく在地の武将と対面が叶った時には、もう秋から冬になっておりました。その時すでに毛利の大軍に黒田官兵衛が軍監として付き、島津討伐のため上陸しており、豊前で島津方についた諸将の城を攻めている真っ最中でした。
 その武将の名か、忘れてしもうた。
 いきなり飛び込んできた馬の骨の話なぞ取り合ってくれぬかと思うたが、その方はまじめにわしの話を聞いて下さった。しかし結論として今は毛利配下として参戦するか、じきに出兵する仙石家に加わるしか方法がないということだった。ちょうど立花統虎殿は主城立花城を死守し、攻勢に転じておった。そのような情勢で勝手知らずの者は返って邪魔になる。わしは出遅れたことを心底口惜しく思ったが、豊前宇留津城攻めを控えた毛利の陣にわしを連れて行って下さると申された。
 これでは鑓働きができぬ、そんな焦りもあったが案じても仕方ない、ままよとばかり着いていった。
 毛利の宿陣にたどり着いたのはもう夜がしらじらと明ける頃だった。きんと冷たい空気が肌を刺す。あたりは静まり返っておったが、やがてその一角からざわざわと声が聞こえてきた。早朝の出陣かと身構えたところ、われらの姿を認め駆け寄る者があった。黒田官兵衛その人であった。
「おう、貴殿か。よいところへ」
 官兵衛が駆け寄ってきて言う。この早暁、毛利軍の将、吉川元春がにわかに激しい頭痛を訴え倒れたと言う。たいへん急を要するので前線から退いて療養させたい。毛利がすでに手中にした豊前小倉城まで連れていってほしいと言う。
「元春殿の嫡男と供数人が随行するが、土地に不案内な上、どこに敵の伏兵がおるか分からない。しかし小倉城には在陣の医師もいる。貴殿にも諸事あろうが、警護してお連れしてもらえないか」
 そのお方はしばし思案していた。ふとわしに気が付いた官兵衛が尋ねる。
「さて、そちらは。どこかでお会いしたかな」
 官兵衛はふとこちらをじろりと見て言った。会ったことがあるやもしれぬ。ぎくりとした。用心深いと言えば、あのようなことを言うのだろう。戦場では必要とされる資質の一つじゃ。その方はこともなげに、わしを見て、家中の者である、と簡潔に答えた。

 話はすぐにまとまり、息子たち二人に抱えられて吉川元春殿が現れた。顔色は紙のように青白く、とてもよい状態には見えない。意識もはっきりしていないようだった。小倉城までは陸路を採ると九里余り。しかし宇留津城は海沿いにあった。少し回り込まねばならぬが、病に障りなく、敵襲に遭わぬようにするには海路が好都合だった。小早川の軍船もすぐ脇に着岸していたゆえ、わしが何をするでもなく、あっという間に万事が整えられた。明け方の外は寒い。身体が随分と冷えておられた。ありったけの衣類でくるみ、乗船した後もずっと脇についており申した。

 吉川殿は船に横たえられると、首をわずかに向けわれわれに礼を述べた。
「幼い頃から鍛錬を積んでおったのに、還暦を待たずしてこの有様とは、情けないばかりじゃ」
「あなた様の武勇は天下に広く知られておりまする。今はとにかく、お休みくだされ」
 周りが慰めると、吉川殿は力なく微笑まれた。吉川元春と言えば父毛利元就、弟小早川隆景の陰に隠れがちだが、上杉謙信、武田信玄にも引けを取らぬ猛将じゃ。それが、戦を前に倒れるなど、さぞかし無念であろう。わしはそんなことを考えておった。
 船は日が暮れる前に小倉の津にたどり着いた。すでに早馬が知らせていたらしく、迎えが出ていた。これだけ人がいるならば、わしはここでお役御免かと去ろうとした。また宇留津に戻り、仕官させろとは言いづらい。すると、周りの誰かがわしに言った。
「行きがかりという奴で済まぬが、病状が落ち着くまで警固を頼めないか。城内にはわしが伝える」
 わしは仰天した。
「それがしにか。それはいくら何でも。わしが言うのも何じゃが、初めて会った人間をそこまで信用せん方がよいかと思うが」
 脇に立っていた者が耳打ちしてきた。
「殿の具合が悪いのは病のせいだけではないかもしれぬ。毒を盛られておるやもしれぬ。ここはいつ敵が襲って来るか分からない場なのだ。決して目を離してはならぬのじゃ。貴殿は敵方の間者とも思えん」
「なるほど」とわしは納得した。自分があほうに見えているのかと、いささか頭に来たが、まぁええ。

 小倉城に入ろうとすると、ふと背後から呼ぶ声がした。
「六左衛門殿と申したか。吉川元春が三男、経言でござる。道中ご助力いただいた上に、引き続き父の警固をお引き受けいただき、誠にかたじけない」
 頭を深く下げるその姿を見て、立派な息子じゃとわしは思うた。見たところ、わしとさほど歳も変わらぬ。つい深く頭を下げていた。
 それから、小倉城の二の丸でわしは元春殿に付きっきりで番をしておった。医者もかかりきりで診ておったが、一向に良くならなかった。全身が痛むようで高熱を発し、食事も喉を通らない。嘔吐も見られ日に日に衰弱されていった。三日ぐらいそのような状態が続いて、わしがうとうとしておると、瀕死の吉川殿に声をかけられた。
「経言を呼んでくれぬか」
 経言殿は供に脇で控えておったのだが、その父君はもう目が見えていなかったのかもしれぬ。もちろん父の声を聞き息子はすぐに答えた。わしは席を外そうとしたが、「これも何かの縁じゃけぇ居るように」と告げてから、吉川元春殿はぽつりぽつりと語り始めた。それは昔語りをまじえた遺言だった。内容は申せぬが、息子経言殿が若年のみぎり、親に内緒で他に養子に出ようと画策したことなど、随分無茶をして心配したと申されていた。

 元春殿はこんなことを喘ぐ息の下で、ぽつりぽつりと語っておった。
「母の実家である吉川本家をなきものにしたことに始まり、多くの人間を殺めた。父の申すことが絶対と付き従うてきたが、わしの来た道は本当に正しかったか、今となっては自信がない。特に、父亡き後の戦いには今でも悔いが残る。
 備中の三村攻めを覚えておるか。義は三村にあったと今でもわしは思うとる。わしらが三村の仇敵と同盟を組まなければ、三村もあのような仕儀にはならんかった。わしも納得はしとらんかった。三村は早くから父元就と信頼を保ち付き合うてきたと再三隆景に伝えたが止めることはできなんだ。
 かの源平合戦、壇ノ浦後も落ち延びて生き残った平氏はいくらもいたが、残党狩りに遭い、また遭わずとも世を厭い隠れざるを得なかった。
 三村は滅びた。残ったのは一族への義を殺し、身内を裏切ってわしらに付いた親成の郎党だけじゃ。思えばわしらはあの辺りから道を違えてしまった。
 生き残るも地獄、まさにそれが親成にわしらが与えたものよ。
 ああ、一度親成にきちんと詫びたかった。
 経言よ、猛将だの勇将だのと言われても、しょせんはどれだけ人を殺めたかというだけじゃ。あの頃からわしは戦うことへの意義が見いだせんようになった。戦無き世が来るのならわしもそこまで生きたい。しかし、それはまだ先のようじゃ。それならば、身内同士も殺し遭わねばならぬような、百年も続くこの戦世を終わらせる才覚のある者に付け。わしがおまえに言えるのはそれだけじゃ」

 元春殿の口調は鬼気迫るものだった。ひとしきり経言様に語りかけると、少し安心したのか、元春殿は眠りにつかれた。そして、そのまま目を覚まさず四日後に息を引き取られた。


 座はしんとしていた。
「おぬし、それを伝えるために流れ流れて成羽に来たか」と親成はため息のような言葉を発した。
「そういうわけではなかったんじゃがのう。九州を転々とした後、結局は吉備の国に留まり、長く放浪の日々を過ごしてしまった。吉川元春殿がそこまで気にかけていたんじゃ。心のどこかに三村の名が残っておったんじゃろうの」と六左衛門も珍しくしんみりとして語った。
 親成は静かに瞑目して聞いていた。しかし、六左衛門がしばらく次の言葉を待っていると、絞り出すような声が耳に届いた。
「駿河守に恨みはござらん。あの方はわが家のことで力を尽くしてくださった。吉川家は我が家に今でもよくして下さっとる。いっそ、われらもあの時に討ち死にしておればよかったのかもしれぬがのう」
「それは困る。わしが世話になれぬ」と六左衛門が慌てて言うと、親成が笑った。
「あほうめ」
 その晩は夜通し、親成の読経の声が成羽の館に響き渡っていた。駿河守を偲んでいるのか、一族に報告しているのか。六左衛門は畳にごろんと転がって空を仰ぎ思った。
「戦に勝つのもあさましきことよのう」
 吉川元春は義の人である。だからこそ身内に諫言もした。それにも関わらず、無理を押して、病を押して戦に出て斃れてしまった。三村家の終焉も、顛末はよくわからぬがさぞかし無念なものだったのだろう。
 いったい何が正しいのか、この戦世では皆目判断がつかない。強き者に付いた、磐石じゃと思うても見誤れば身の破滅。
「わしは自分の道が間違いとは思わんが、今は立ち止まるときなのかもしれんのう」
 六左衛門はそんなことを思った。
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