水野勝成 居候報恩記

尾方佐羽

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おとくの奉公

どんぐりの求婚

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 いつの時代も同じであるが、幼い子を旅立たせるとき、親は身をもがれてしまうような切なさと、千里を飛んでいけるほどの果てない祈りを胸に抱き、それでも表面だけは満面の笑顔で見送らねばならない。いく者を不安にしてはならないからである。

 時は天正十九年(一五九一)の春、美作国の小原の庄から旅立つ者たちがいた。かれらは産土(うぶすな)の神に道中の安全を祈願し、家人の見送りを受けていた。先頭で見送るのはかの地で医業を営む小坂利直である。見送られているのはその娘・おとくで、兄の市兵衛はじめ数人の供がついている。おとくはこれから何十里も離れた備中国成羽庄(なりわのしょう)の三村越前守親成(ちかしげ)の館に預けられることになっていた。
「市兵衛、道中よろしく頼んだぞ」
「はい、しかとおとくを送り届けて戻りますけえ」
「日が傾いたら、無理に先を急ぐな。十分気をつけてのう」
 数えで十二歳になったばかりの娘を離れた土地に出すのは、父親にとっても他のきょうだいにとっても辛いことであった。利直はただただ、おとくの手を握ってその愛らしい顔を目に焼き付けているばかりである。

 辺りは一段と物騒になっていた。
 さかのぼること五年前の天正十四年(一五八六)、太閤秀吉の大号令のもと薩摩の島津氏討伐、いわゆる九州平定が進められ、宇喜多秀家の支配下にあったここ美作をはじめ、備前・備中の領主も近郷近在の人をかき集めて出陣した。ことは秀吉の立場からすれば無事になされた。しかし備中・備後・安芸などは多々の兵員の通り道となった上に、男を取られた。働き手が欠けたことで一帯は見事に荒れ果てた。戦はその前からずっと絶えなかったのだ。自らの土地を何とか守っていた領主たちも度重なる過重な負担にぜいぜいと喘ぐばかりだった。一方、緒戦における敗軍の兵は次の働き口がなければ浪人となり諸国を彷徨うしかなく、そのまま野盗と化す者も少なくなかった。噂では、まだ大きな戦があるだろうといわれているから、人びとの漠たる不安は消えない。

 神社の宮司が出立する子供たちに言葉をかけた。
「備中は由緒正しい古社も多く賑やかなところじゃ。総社の祭りなどはすごいぞ。おとくはこれまで他国に出たことはなかろう。よく見てきなさい」
「はい」と少女があどけない答えた。

 一同が神社の鳥居をくぐろうとすると、その脇の大きな銀杏の根元に一人の少年が立っていた。まだおとくより幼いほんの子供だった。
「坊(ぼん)、どうしてここに」
 おとくが少年に聞いた。
 少年は播磨国士分の次男坊であったが、戦に敗れ国を追われた親が美作の寺に預けたのだ。そのようないきさつからか、普段からあまり人と馴染まず些細なことで喧嘩沙汰を起こしていた。問題児だったのである。おとくはそんな少年のことを「坊」と呼び、目をかけていた。自分の弟を背におぶって麦踏みをしながら、少年と話す姿を村人はしばしば目にしていた。
 その少年は、おとくの前にたたっと走り出て、泥で汚れた着物の裾でくるんだものを差し出した。
「おとく姉ぇ、奉公明けで帰ってきたらおいらの嫁になれ。それまでにおいら、誰よりも強くなっておとく姉ぇを守ってやる。約束じゃ」
 少年が差し出したのは、すみれの花束と小さな頭陀袋(ずたぶくろ)に詰めたたくさんのどんぐりだった。今は木々が緑に染まる季節、どんぐりがあろうはずがない。きっと、秋からずっと大事にとっておいたものだろう。おとくは嬉しいような、切ないような気持ちになった。
「わかった。坊が大きくなって強くなって、その時も私を好きでおるんなら嫁になってもええよ。約束じゃ。でも、私のお願いも聞いて」
「何じゃ」
 少年は素直な目でおとくを見た。
「人をたくさん倒すことが強いってことではないと思うんよ。本当の強さって、大切な人を守るために使うものじゃと思うけえ、喧嘩ばかりしてはいけん。人を軽々しく傷つけてはいけん」
 自分がいなくなった後、坊が荒れてしまわないかとおとくは心配なのだった。
 少年はおとくが嫁になると答えたことが嬉しくて舞い上がっていたが、神妙な顔をして答えた。
「うーん、おいら難しいことはわからん。でも、約束する」

 少年は、名を弁蔵と言うが、おとくの姿が視界から消えた後もしばらくその場に立っていた。周りでは通りすがりの人々がひそひそと話していた。
「あんなに遠くに奉公に出されるんじゃ、ちぃと会うのも難儀じゃろう」
「小坂様も先頃奥方を亡くしたんじゃ、致し方ねえ。噂じゃあまた大きな戦があるっちゅうじゃろう。幼い女子を残していくわけにはいかん。致し方なかろうが」
 弁蔵はぷいとそっぽを向いた。そんなことはどうでもよかった。
 またひとりぼっちになってしまった。
 弁蔵は心に大きな穴が開いて、暗い穴に吸い込まれていくような気持ちになっていた。素行がよくない弁蔵は近々さらに東、讃甘(さのも)の武家に養子に出されることが決まっていた。あらゆることが不安で仕方なかった。それでも、弁蔵の心には希望の灯が点ったようだった。おとく姉はきっとわしを待っていてくれる。だから精進して誰にも負けない武者になり、どんな敵からも守ってやる。そう発心したのであった。

 彼は少しして新免家に養子に入り、剣術の稽古に熱心に取り組んだ。すべてを剣術の鍛錬に費やしたといってもよい。
 後の宮本武蔵である。

 小坂の娘が他所に預けられる理由は概ね噂話の通りだった。
おとくの母は前年の秋に病を得て他界した。彼女には姉が二人、兄が一人、弟妹が一人ずついたが、二人の姉もすでに奉公に出ていた。医師と言っても十分な収入があるわけではなく、暮らしは汲々としていたのである。
 さらに近々、秀吉が大軍を率いて唐攻めを始めるという噂が西国一帯に広まっていた。それほどの大戦が現実になれば一帯の領主・家臣が総勢で出陣することになり、元々は士分の小坂利直と息子市兵衛にも招集がかかる。そのことを考えて子の預け先を考えていたところ、成羽の三村家から、「女子を一人預かりたい」という依頼があった。前の当主で、今も後見をしている親成からの文では、「病がちな娘の世話や話し相手をしてくれる者が欲しい、奉公人ではなく養女として来てくれないか」と希望が述べられていた。これはいい話であると、おとくを行かせることに了承したのだ。

 おとくの兄である小坂市兵衛は出立してしばらく、意地を張って冷静を装って歩いていた。おとくは素直で気だてがよい娘である。内心では、妹と別れたくない。わが家も毛利さえいなければ、このような目に遭わずに済んだのに。そう繰り返していた。自分が生まれるはるか前の悲劇を思いつつ市兵衛はぐっと涙をこらえた。
 それを心配そうにおとくが見つめている。いかん、一番不安なのはおとくなんじゃ。父に昨晩言われたことを思い出し、市兵衛は無理に笑ってみせた。
「しかし、弁蔵がおとくを嫁にしたいと言い出すとはのう」
 おとくは恥ずかしそうに俯き、頬を赤くした。

 日が出ている間に道を急いだが、銭を節約するため一行の旅は徒歩である。宿もそれなりの格のところを選ばざるを得ない。結局、三日で成羽の地に至った。
 成羽は備中の北西部に位置する山間のこじんまりとした集落である。一帯を悠々と流れる高梁川に注ぎ込む支流の一つ、成羽川が側を流れ山と水が豊かな土地である。もっとも、どちらも中国山地の端と端なので、違和感はさほどない。
 一行が三村家に着くと、親成と、その息子で現当主の三村親宣(ちかのぶ)が揃って出迎えた。三村親宣は切れ長の目が涼しげな三十代の若い領主、父の親成はもちろん似た顔であるが、穏やかな表情の好々爺という印象である。
「女子の脚では遠かっただろう。はるばるよう来てくれたのう」
 親成はにこやかにおとくに話しかけた。おとくはぺこりと頭を下げてから言った。
「ちぃとも疲れとりません。こちらも山が多いですが、なだらかな段々になっていてたいへん美しゅうございますね。美作とはまた違うようです」
「それはよう見てきたんじゃのう。成羽にはよいところがようけある。今度馬に乗り案内いたすぞ」と、成羽の景色をほめられた親宣が嬉しそうに言う。
「はい、ぜひお願いいたします。とくは走って参りますけえ」
 おとくの言葉に一同が笑った。
 三村親成は深く何度もうなずいた。長旅にもへこたれずに嬉々として語っている。好奇心旺盛な明るい娘のようじゃ。
 一行が一様に驚いたのは三村家の居館の広さであった。三村親宣はもともと、この地、成羽を見下ろす鶴首(かくしゅ)山に聳(そび)える城の主であった。しかし、この時にはすでに城ではなく麓の館に居住している。館とはいえ、その規模は敷地八十七町歩、堀七十七町歩と伝えられている。一町がおよそ三千坪であるからかなりの広さである。そこに当主の親宣、親成、親宣の妹おさん、弟の親良(ちから)が暮らしている。後は家臣団と奉公人が二~三十人ほどいるのだろうか。この地域の領主としては多くもなく、少なくもない人数である。だからこそ、家中の人数に比して大きい居館や山に聳える城の威容に驚きもするのである。
 館に入ると、どたどたと恰幅(かっぷく)のよい年増の女が迎えに出てきた。おとくを見て正座で深々とあいさつをすると、にこりと笑った。
「私、女中頭のきよでございます。はるばるよう来んさったです。とりあえず、お部屋をお教えいたしますけえ」
 おとくの後ろに付く市兵衛はきよをじろじろと見た。勢いのよい女丈夫に妹が酷い扱いを受けないか心配しているのだ。きよは振り返り、強張った面持ちの市兵衛を見て笑った。
「小坂様、あれほど可愛いお嬢様をご心配するはごもっともにございますが、いくらここが吉備の国とはいえ、私は鬼女ではございません。私は元々、おさん様の乳母でしたから、おさん様のお話相手が来てくださって大喜びしとりゃあす」
 おとくも兄をにらんだので、市兵衛は肩をすぼめて頭を下げるばかりだった。

 少し後に、小坂の兄妹が通り過ぎて離れの建物に進んでいくのを向かいの角からこっそり見る女性がいた。
「あら、ずいぶん小さい子だこと。そんなに働けるのかしら」
 少し皮肉めいた口調でつぶやいている、それが二十六になる三村家の姫君おさんである。

 後でおとくは部屋でおさんと初めて対面した。そこで初めて見た姫君は、化粧っ気がないのに肌の色が透き通るように白い。唇にはたしなみ程度に紅が乗せられていて、それが肌を一層白く見せている。きれいなひとだ、とおとくは思った。大人の色香というのがまだよく分かる年頃ではなかったが、おさんにはその言葉が見事にあてはまるように思えた。肌色は外に出ていないせいもあるのだろう。
「姫様、お初にお目にかかります。美作の小坂利直が娘、とくにございます。この家にお世話になりますからには、一生懸命つとめまする。どうぞよろしくお願い申します」
愛らしく、見事な口上だった。おさんも少し面食らった。
「よろしく……」とぶっきらぼうに言うと背中を向けた。
部屋を辞すると、連れ添っていた親宣が言った。
「おとく、おさんは大変な思いをして今に至っておるんじゃ。病もあるし、どうしても心を閉ざしがちになる。どうか、そのこと承知して接してくれまいか」
 おとくは大きくうなずいた。
 市兵衛一行は成羽で一泊してたくさんの土産を持たされ、帰途についた。
 三村家の当主は温和で好い人のようじゃ。姫様がぶっきらぼうじゃけど、きよがいれば大丈夫か。市兵衛はそんな感想を持って、美作に戻っていった。

 そうして慣れない成羽の日々が始まったが、おとくは元気が良いだけではなく、素直にはいと言いつけを聞き、くるくると働くのでぶっきらぼうなおさんもあまり文句の言いようがなかった。ただししばらくして、おとくが「姫様」というのだけは止めさせた。十五も下の娘に呼ばれるには気が引けたし、妹同然に付き合うよう親成に言われたからである。

 おとくが来て半年ほど経った頃、きよは親成に嬉しそうに言上している。
「奉公人ではないけえてーげーにせえ、と言いましても、炊事・洗濯・掃除に野良仕事まで本当によく働く娘です。いつも明るく話しとりますけえ、おさん様も随分明るくなられたように思います」
しかし、おさんもひとたび具合が悪くなれば人のことに構っている余裕はなかった。
おさんの病については、医者にもはっきりしたことが分からない。ひどい貧血持ちで、たびたび真っ青になって卒倒する。血の道も芳しくない。数ある不調の中で最も激烈なのは、少々意外なことながら歯痛であった。かみ合わせが極端に悪いのだ。薬でごまかしていても、雨後の筍のように痛みが顔を出してくるのである。しまいにはひどい偏頭痛も併発し、寝込んでしまうことが多かった。
「ううぅっ」
 苦しそうに呻くおさんが赤子のように身を頑なに縮込めてうずくまるのを見て、おとくは静かに背中をさすり続けた。半刻ばかりのち薬が効いてきたのか、次第におさんの呼吸は楽になったが、おとくはしばらくその動作を止めなかった。
「私ひとりでも薬は飲める。よけいな心配は無用じゃ」
 おさんは一つ憎まれ口を叩いたが、その声に力はなかった。
「お話はよいですから、身体をゆるめてくださいませ」
 おさんが仰向けになると、おとくはその腹をさすりはじめた。おさんはいやがる風もなく、されるがままになっていた。ゆっくり、ゆっくり、円を描くように、撫でるように、ゆっくりと。
 そのうちにおさんは寝息を立てて眠りについた。おとくは布団を掛け直して、しばらくおさんの美しい横顔を見ていた。
 今よりずっと幼い頃、おとくは母に身体をさすってもらうのが大好きだった。子だくさんだったので、始終構ってもらえるわけではない。それでも母はできる限りおとくや弟妹が寝入るまで傍らにいてくれた。おとくは母の甘い匂いを思いだし、少し泣けてきた。その母が病で床に伏せるようになってからは、母をさするのはおとくの役目になった。さすったからといって病が治るはずはない。それでも母は身体が楽になると言って、たいそう喜んだ。
 おさんの姿が母と重なった。おとくは目をしばたかせて、おさんの部屋から静かに出た。
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