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◼️番外編 清正の妻、福山の空を見上げる

かな、京都に旅立つ

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 ⚫京都に旅立つ決意

 かなは肥後を出ることが明らかになった頃から、京都六条の本圀寺(ほんこくじ)の脇に庵を結んで余生を送ろうと決めていた。合わせて逆修墓をそこに建立することにした。



 そのことは兄の勝成にも打ち明けた。勝成は差配をするのはもちろん金銭的な援助を申し出たが、かなは援助をやんわりと断った。勝成の金子は福山藩のものである。肥後熊本の奥にあった自分が拝領するわけにはいかないと伝えたのだ。

 勝成は、「わしらはきょうだいじゃ。何を水くさいことを」と悲しそうな顔をした。
 彼にしてみれば、肥後の家中が穏やかならぬ状態になるまで具体的に何かしてやれなかったという悔いがある。もちろん、幕府には清正亡き後に加藤家を取り潰すようなことがないよう、家康と秀忠にたびたび申し入れてきた。
 かなにはそれがよく分かっている。

「兄上にはずっと金子以上の庇護を受けてまいりました。西国の要衝になると幕府に言上され務められたからこそ、私どもも守られてきたのです」

 彼女は夫の清正没後から、化粧料(けわいりょう)として幕府から定期的に金子を得ていた。年金のようなものである。その大半を有事のためにと取っておいたのである。
 有事はだいぶ後になってやってきた。しかし、そのときに金子を使うような戦にはならなかったし、福山ではすべて勝成が面倒を見ていた。かなは自身の金子を本圀寺に寄進するのと、自身の庵と生前墓(逆修墓)の建立に使うことにした。
 かなが福山に逗留していたのはそれを待つ間の、ほんのひとときだったのだ。

ーーーー

 京都堀川の本圀寺は日蓮宗の大本山で、加藤清正がもっとも熱心に信奉した寺だった。朝鮮出兵の前にはこの寺に両親の遺骨と自身の頭髪などを納めたうえで、生前墓(逆修墓)を建立した。生前に帰依する寺社に墓を建てることは大きな徳と考えられているからである。

 このときはもちろん、自身が異国の地で儚くなることも覚悟の上だった。
 その時のことに少し触れておこう。

 朝鮮出兵(文禄・慶長の役)、武士がぞくぞく渡海して繰り広げた大規模な侵攻である。

 清正らが必死に転戦を重ねている間に事態は彼にとってよくない方へ向かっていた。
 一度帰国した折には石田三成に朝鮮での専横を責められ、秀吉の不興を買いもした。現地でそりが合わなかった小西行長の訴えが発端である。

 秀吉の元で世話になってから戦働きを重ね、『賤ヶ岳の七本槍』と呼ばれるまでになった清正に対して、小西行長は商家の出でそこまでの戦闘経験がなかったことも遠因になるのかもしれない。
 また、この二人は当時肥後国を分け合って治めていたが、それに先立つ九州攻めから対立していた。秀吉勢に抵抗する地元の豪族の一揆に対して、鎮圧を第一に戦いをすすめる清正。一方の行長は自身がキリシタンで、信徒の多い肥後天草や周辺の反乱に厳しい態度を取るのを望まなかった。

 清正は人を貶めるために、讒言を口にすることはない。そうされたら懸命に説明する。それが清正の高潔さであるのだが、疑念を持たれた時点でそれは弁明に過ぎなくなる。
 失意のうちに再び朝鮮に渡った清正だった。

 長く果てのない二度の朝鮮出兵は豊臣秀吉の死で幕を閉じる。秀吉の遺児、秀頼を補佐する五大老・五奉行体制が作られ政事にあたることになる。五大老は徳川家康・前田利家・上杉景勝・宇喜多秀家・毛利輝元である。そして石田三成を筆頭に五奉行が編成される。

 無事に京都まで戻れたとき、清正は何を思っただろうか。
 本圀寺で自身の墓の前に立ち、何を誓っただろう。

 清正は徳川家康に付くことを決めた。それまでのいきさつを考えると、石田三成には不信感しかない。家康の考えは今一つ測りかねるのだが、三成よりはるかに戦の経験がある。善悪の彼岸をこえて、それを生き延びたという確かな「凄み」がある。それは清正が家康に深く共感している由縁だった。
 何より、秀吉への恩義はあっても他に自身を生かす道がなかったのだ。

 かなはそのときの清正を知らない。
 婚約が整い妻となるときにその話を聞くことになる。清正の本心を聞いて、かなはひどく胸を打たれた。

「わしは唐攻めでいつ倒れても不思議ではなかったで、戻ってきたときはただありがたいとしか思えんかった。周りの様子がどえりゃあ変わっとって、わしはいつの間にやら皆の間で傲岸不遜の悪者になっとった。小西はもともとわしをよう思うとらんかったもんで、悪く言うだろうと合点はいった。ただ、それを真に受けて太閤さままで疑いの目を向けてくる。わしゃどえりゃあ腹を立てたで。
しかし、ふっと我に帰ったんじゃ。修羅場をいくつも越えて、人も多く殺めた。そしてこれからも、権力争いという修羅に生きんといかん。それならばなにゆえ、わしは生かされとるんかと思案した」

「今は悩んでおられないようです。どのように始末をつけられたんですの」とかなは率直に、あどけない顔で尋ねる。
 素直に聞かれた清正は、にっこりと微笑む。
「かな姫、人にはのう、それぞれ役目があるで。真っ直ぐに生きとりゃあ、それが自然にわかる。しかし欲や権力に目がくらんどったら何も見えんようになる。わしが生かされたのは、肥後をよく治め民を幸せにするためだがや。かな姫の兄上はよう知っとるが、肥後は戦で荒れ果てとった。もともとおった土豪が根こそぎ払われたほどだで、ひどいもんだった。わしゃそれをじかに見てきとるで、なおさらそう思う」

「加藤さまの方が兄をよう知っとるようです」とかなは苦笑する。
「わしは親の代から受け継いで日蓮宗を信奉しておるが、開祖の日蓮上人も鎌倉の執権やら他宗と真っ向からぶつかっとった。それでも法華経の教えをひたすらに守り、世直しを訴え続けた。それを思うと、肥後を立て直すことはわしの務めだと、それだけに邁進せんといかんと、なおさら固く誓うようになったで」

 かなはこのときの清正の言葉を終生忘れまいと思った。そして、夫が急逝した後はその遺志を自身が引き継いで20年余りを過ごしたのである。

ーーーーーー

 紀州にいるかなの娘、八十は母の決心を知ると直ちに「私も本圀寺に逆修墓を建てます」と申し出てきた。それを聞いた勝成はびっくりした。
「頼宣公の許可は得たんかのう。まったく水野のおなごは……」とあごひげを撫でている。


  ⚫福山を去る

 京都の方で支度が整ったという報せを受けて、かなは福山を発つことになった。

 大げさな見送りはしてほしくないとかなが希望したため、警固をする供と世話をする侍女を勝成が付けての福山城出立となった。
 門を出ると、かなが訪れた寺の僧侶らが出迎える。
 かなは仰天したが、好意を素直に受け取り、一団となって鞆の津に向かうことになった。
 鞆から堺に船で行き、そこから京都に行くのだ。

「今日はまことに突き抜けるような青い空、よう晴れております。清浄院(かな)さまの旅立ちを祝しておられるようです」と僧の一人がかなに話しかける。
 かなは福山の空を見上げる。そして空をまんべんなく、ゆっくり見回す。



「ここは何やら、日なたの国やったと。ほんなこつよかとこたい。こいで見納めやけん、よう見とかんといかんね」
 しばらくかなは空を眺めて、駕籠に乗った。

 鞆の津にたどり着き、船に荷が積まれ始める。
 かなが来た道を振り返ってみると、馬が一頭勢いよく駆けてこちらに向かってくる。よくよく見ると、それは藩主の水野勝成であった。
 かなは驚きとともに、嬉しいような、少し可笑しいような心持ちになる。

「あら、兄上、お一人で来られたとですか。一国の主でござりんしゃるのに」とかなはひょうげて尋ねる。
 馬を下り、白髪を撫で付けながら兄はかなの前に立つ。
「血を分けた妹がまた旅に出るんじゃ。来ずにおられんじゃろう」
「ああ、兄上は変わらん。そげんとこばり好いとうよ」
 そう笑顔で告げるかなに、勝成はうなずいているばかりだ。
「……わしは備後のことばになって、おまえは肥後のことばになって、三河はどこかに行ってまったでいかん」
「なぁにたわけたこと言うとるで。もとはおんなじだがや」とかなは笑う。

「兄上」とかながふっと真顔になる。
「お、何じゃ」
「美作どの(勝重)が兄上とはまったく違う性分でまことによかこつです」
「は、確かにそうじゃのう」
「兄上は手のつけようのない暴れ馬やったけんが」
「ははは……今もそう言われとるんじゃが」と勝成は頭をかく。
「まこと、よか跡継ぎたい。兄上、福山は肥後の二の舞にはならんやろうが、大事にせんと。間違うても兄上がごり押しして潰すようなことはなさるまじ」
 かなの言葉を勝成はしっかりと受け止める。

 かなは深々と一礼をして、船の方に向かう。
 勝成は妹が去っていくのが無性に名残惜しくなって、「かなっ」と声をかける。
 かなはゆっくり振り向いて、にっこりと笑う。

「兄上、かなは権現さまに約束したことを果たしましたぞ」

 勝成は大きく目を見開いてはっと思い出す。
 関ヶ原の前の年に家康が、嫁ぐ直前のかなと帰参間もない勝成を引き合わせたときのことを。
 浅黄の美しい小袖を身に着けた若い娘は、芯から晴れ晴れとした様子で家康にこう言った。

「内府様、ご覧になっていて下さいましね。かなは清正殿を、必ずや徳川一の忠臣にしてみせまする」

 家康はかなの心意気に手を打って喜んでいた。
 
 そうじゃった。あれがかなの約束……。

 勝成は満面の笑みでうなずく。しかしその目は少し潤んでいる。それを誤魔化そうと、彼は口上のように声を張り上げる。

「おう、おう、おまえは立派に約束を果たしたぞ。よう肥後をここまで守りきった。忠広公もご母堂も不本意ではあろうが、庄内で静かに暮らすことを許された。
 今のおまえを見て、虎之助も草葉の陰でさぞかし喜んどることじゃろう。
 おまえは立派に約束を果たしたぞ。
 立派に……」

 かなは微笑んだまま、別れの言葉を述べた。
「兄上、美作どのとまたわが庵にお立ち寄りくださいませ」
 そして船上の人となった。
 勝成は鞆の津から船が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。


  ⚫後日談

 水野美作守勝重は福山にいる折にたびたび日蓮宗の寺院を詣でるようになった。
 在寺の僧ともしばし語らい、亡き清正のために祈祷を頼んだりもするようになった。藩主となる身のこともあって寺社を贔屓するようなこともない。かなが言ったように、鞆の辺り一帯にかけては日蓮宗の寺院が多かったのでそこを訪れても差し障りはなかったのである。

 のちに勝重は二代藩主を継ぎ、名を勝俊と改める。
 そして、日蓮宗に帰依し城下に近い妙政寺の大壇越(だいだんおつ)となった。
 墓所もその寺院に建立された。

 かなと八十の逆修墓は今日も京都御陵(みささぎ)に移った本圀寺の、清正を祀った宮の脇にひっそりとたたずんでいる。




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