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◼️番外編 これが武蔵の生きる道
武蔵の江戸日記
しおりを挟む寛永14年(1637)、新免(宮本)武蔵は江戸にしばらく逗留していた。
兵法指南役として勤仕している豊前小倉藩の屋敷に逗留し、他藩でも指南を望む人のところに赴いていく。いわば、出張稽古とでもいえるものだが、縁のあった姫路、日出(ひじ)、尾張、福山をはじめ、どこでも引っ張りだこで忙しい日々を過ごしていた。木刀を背負って歩く姿を見かけた町人から、「先生、今日も精が出ることですな」とあいさつされるまでになってしまった。
なかなかの人気者である。
江戸といえば後に八百八町と呼ばれることになる大都会である。寛永のこの頃にはせいぜい三百というところだが、いずれにしても日本一であることは間違いない。武蔵はキョロキョロとしながら大名屋敷を回る日々が続いた。しかし、江戸の町割はそれほど複雑怪奇ではない。大名屋敷の間に職種ごとにまとまる一画があり、それを目印にすることができた。例えば紺屋(こうや、染物屋)を過ぎると、鍛冶屋、鉄砲屋などが続いて日本橋の河岸に至る。ここは街道の起点にあたるため、江戸でもっとも人通りが多い。
それでも、川や運河が至るところに流れており、行き来する船を眺めてふうと一息つくこともできた。
じきに武蔵もこの賑やかな町々を移動することが楽しみのひとつになっていく。
行き先は武家ばかりではなかった。
武家の紹介ではあるが、日本橋の一画に作られた吉原遊郭の楼主・庄司甚右衛門に頼まれて、武術の指導も請け負うのである。庄司は吉原遊郭を開いた人物であるが、酔客が多い場所だけに人のいさかいが絶えないことに困っていた。あまりにいさかいが多いと、幕府に目を付けられ遊郭が潰されるかもしれない。普段は丸腰でも、喧嘩を仕掛けられたり、刀を向けられたときに堂々と立ち向かうことができ、相手がすごすごと引き下がるほど強い用心棒がもっと必要だと思い、江戸にいた武蔵に指南の依頼をしたのである。
用心棒の中で筋のよいふたりが武蔵の円明流高弟となった。
ここで武蔵は大いに庄司と気心を通じたようだが、太夫と情を通じることはなかったようである。
よもや何かあったとしても、そこは秘するのが粋というものであろう。
しばらくすると武蔵の現在の主君である小笠原忠真(ただざね)も参勤交代で江戸に上がってきて、養子の伊織もやってきた。近侍する者らが詰める神田の小倉藩屋敷は一気に賑やかになる。
「しかし、ゆるりと逗留するなどと……騙されたもんじゃのう。ざわざわしておるけぇ、心持ちも落ち着かぬ」と武蔵は一人ごちる。
声をかけた当の水野日向守勝成にも会った。武蔵は福山藩の屋敷を訪れたときのことを思い出す。
「まったく、水野の殿様も前ぶれなく人がたまげるようなことをしおって……」
そこに、永年の想い人であるおとくがいたことをいっている。会ったのは何年ぶりのことか。美作守(勝成の息子、勝重)が生まれてすぐのことだったから、かれこれ40年前……もうそんなに経ったのかと武蔵は遠い目をする。
勝成と離縁し再嫁したおとくがなぜ福山藩屋敷にいるのかは、おとくから話を聞いた。
勝成の正室、お珊はかねてから病で臥せっていたが、寛永13年(1636)にこの世を去った。それと前後して三代将軍・徳川家光が参勤交代と合わせて大名の正室と嫡子を江戸に置くよう命じたのである。勝成は困って幕府に諮ったが、「側室でも何でもいいから出せ」という。そこで、大坂の都築家に嫁いでいて寡婦になっていたおとくに相談したのである。嫡子勝重(美作守)の母として来てくれないかと。
「そんなことできるはずがございません、とお断りしたのです」とおとくはいう。
しかし、勝成には他の手段がもう考えられなかった。幕府にそれを認めさせ、都築家の係累にも話をし、その上でおとくの前で土下座して懇願したのである。おとくも根負けして承諾するしかなかった。
「また、幕府の皆さまに無理を申されたのでしょう」とおとくが勝成に言う。福山藩を立てるときに、さんざん無理を言ったことは知っているのだ。
「いや、権現様(初代将軍の徳川家康)も他家へ再嫁した母君を、禁裏に正式に認めさせましたぞ。そう言ったら、すんなり通った」と勝成は笑う。
それでおとくは福山藩嫡男の母として江戸に上がったのだ。表向きはそうだが、もともと夫婦だったのだ。藩の者はそれを承知しているので「お方様」と普通に呼んでいる。
「殿様はおとく様にべた惚れじゃったからのう。無理を通してでも、側に置きたかったんじゃろ」というのが武蔵の抱いた感想である。
福山藩屋敷にはあれから何度か行ったが、おとくがいつも優しく出迎えてくれるので、つい長居してしまう。ただ、初恋の人であるおとくに改めて求愛するようなことは決してすまいと心に決めていた。もう武蔵は56歳になるということもある。おとくが福山藩の「お方様」だということもある。
なにより、水野勝成という男にも、武蔵は心底惚れていたからである。
◼️
寛永14年も暮れようかという頃に、武蔵は主君の小笠原忠真に急の帰国を告げられた。
「一揆、いや……反乱じゃ」
「どちらで?」と武蔵は尋ねる。
「肥前島原から肥後天草に広がっておる。代官の林某(なにがし)がすでに討たれ、領主の松倉殿、寺沢殿の手にも負えぬ。上使として御書院番頭の板倉重昌殿がすでに向かわれた。九州の諸藩にも上様からじきじきに号令がかかった。わしらも急ぎ小倉に戻り戦備えを整える」
「わしも加えてくださいませ」と武蔵はすかさず答えた。
「ああ、ぜひ頼む」と忠真は真剣な目になり、側に付く伊織の方を見る。伊織は無言で力強くうなずく。
忠真の言う通り、この反乱を鎮圧するために、九州諸藩に召集がかかった。筑後柳河藩(立花宗茂)、肥後熊本藩(細川忠利)、肥前佐賀藩(鍋島勝茂)、筑前福岡藩(黒田忠之)、日向延岡藩(有馬直純)などである。もちろん反乱の起こった島原藩の松倉勝家、肥前唐津藩の寺沢堅高の軍勢はすでに現地に向かっている。
「備後も大軍を出すと言っておった」と移動中に忠真は武蔵に告げる。武蔵は仰天する。
「確かに、福山藩は西国の抑えだということじゃったが、備後から出張るのですか。しかし、日向様も結構なお歳じゃけえ、美作様が先頭に立たれるのでしょうな」
「いや、日向殿はご自身も行かれるとおっしゃっておった。柳河の立花左近殿も」
水野日向守勝成は数えで74歳である。
柳河の立花宗茂は数えで71歳である。
そして、彼らは戦国の世を実体験として知っている世代である。
彼らが再び戦に出るのか、と武蔵は感慨に耽っていた。
《最終話につづく》
※思いのほか長くなりましたので、明日あと1回載せます。
応援ありがとうございます!
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