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◼️番外編 これが武蔵の生きる道

かけがえのない絆

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 大和郡山藩主、水野日向守勝成の正室であるお珊(おさん)はまだ日が開けきらない時間に目が覚めた。また眠る気にはなれなかったので、少し散歩に出てみようと思い、侍女とともに建屋の外に出た。

 まだ空には煌々と月が輝いている。

 彼女は髪を結い上げておらず、後ろひとつに束ねただけにしている。少しだけ白いものが見られるが、その年齢に比べればまだまだ美しく艶のある黒髪だった。さっくりと小袖を身につけているが、きっちりとしていないさまがまた艶っぽい。

 武家の女性のたしなみとされているお歯黒はしていない。お珊はもともと歯の具合がよくなく、その治療や予防もかねて、長くお歯黒を使っていたがまったく効果はなかった。それなので、この頃には煩わしいと塗るのを止めていた。もともと噛み合わせも悪かったのだろう。歯に起因する偏頭痛がしばしば彼女を苦しめた。
 それに加えて、長く体調もよくなかったので、彼女は若い頃から物憂げな表情をしていることが多かった。

 唇に紅を差し、物憂げな表情をすると彼女は、見慣れた周りの者でもドキリとするほど艶かしかった。

 月の下を歩いていると、お珊の耳に威勢のよい男性の声が飛び込んできた。
「やあっ!」
「そりゃあっ!」
 お珊は声のする方にゆっくりと進んでいく。
 月明かりの下で、男と少年が木刀で立ち会っている。お珊はああ、と納得して微笑みながら眺める。すでに夫の勝成から、新免武蔵が中川志摩助の三男を養子に取って、姫路の本多家に仕官させるという話を聞いていたのだ。

 ああ、このような光景はまことに懐かしい。

 お珊は過ぎ去った日々に思いを馳せる。
 備中成羽の三村親成(ちかしげ)の館に勝成がーー当時は六左衛門と言っていたがーー居候していた頃の話である。六左衛門は時折、親成の養子である親良(ちから、親成の甥にあたる)に鑓刀の稽古をつけていた。稽古というよりは童の遊びのようだったけれど、とお珊はクスリと笑う。それに比べて、今目の前にしているのは、真剣な稽古だと感じる。

 武蔵は養子になった少年、三木之助の構えをよく見ている。
「上・中・下段の構えはしっかりしとってええのう。はじめよりも格段にようなった。ただ、まだ柄を握るときに力を入れすぎとるんじゃ、指で優しく包むようにやってみんさい」
「はいっ!」

 ふと、武蔵は女性がこちらを見て立っているのに気がつく。そして、仰天する。

 なんと美しい、妖艶な女性だろうか。

 武蔵はあまり、いや、ほとんど女性と関わることがなかった。相手にどのように見られるか分かっているので、自分から避けるようにしているのである。そのような武蔵でもハッとして見入ってしまうほど、その女性は美しかったのだ。

 お珊に気がついた三木之助がぱっと頭を下げる。
「お方様、おはようございます。もしや、うるさくて目覚めてしまわれたのでは?」
「まさか、寝所までは届いてきませぬ。それにしても、早くから精の出ることね」とお珊は笑う。
 その会話を聞いた武蔵も、慌てて居ずまいを正してきちっと頭を下げる。
「これはこれは、奥方様にお初にご対面かない恐悦至極に存じます。拙者、新免武蔵と申します」

 お珊は笑っている。
「いえ、武蔵どの、わたくしは初めてではございませんの」
「えっ、かように美しい方を見て、覚えていないはずが……」
「もうだいぶ前のことです」
「もしや、成羽にいらっしゃったのですか」と武蔵が尋ねる。
 お珊はうなずく。
 かれこれ22年前のことになる。関ヶ原の合戦の少し前に、武蔵は備中成羽にいたおとくに会いに行ったことがある。ちょうどおとくは勝成の子、長吉(勝重)を出産したばかりだった。武蔵はおとくと話をし、長吉の顔を眺めて去って行ったのである。そこから武蔵はしばらく九州で過ごすことになった。
「成羽にいらしたとき、こっそり拝見しましたの。おとくの幼馴染みはどんな方だろうって」
「それはそれは、さぞかしがっかりされたでしょう」と武蔵は頭をかく。
「いいえ、まっすぐで素敵な方だと思いました」
 武蔵は真っ赤になる。
 脇にいる三木之助は師匠であり養父になった男の動揺を見て何事かを察したらしい。そっと礼をしてその場を去って行った。

「姫路にはいつ?」とお珊が尋ねる。
「10日ほど後には」

 姫路の本多忠刻(ただとき)の元へは武蔵と三木之助の2人で向かう予定だ。それまでの間、三木之助と親子としての絆を結び、子の武芸の力を見定め指導してやらねばならない。勝成が言うような「一子相伝」が短い間でできるものではないが、基本としている部分だけでも伝えておきたいと武蔵は考えていた。それは三木之助も同じ気持ちだったようで、みずからできる限り指導してほしいと申し出てきたのだった。師弟の気合さえ合っていれば何の問題もない。突然結び付くことになったわけだが、この2人は相思相愛とみてよさそうだった。

「そう、武蔵どのと三木之助なら大丈夫。これなら、おとくも安心するでしょう」
「おとく様とやりとりをされているのですか」と武蔵は尋ねる。
「ええ、おとくとわたくしは、姉妹も同然なのよ」とお珊はうなずく。武蔵はその言葉を聞いて少し思案顔になる。そして、しばらく黙ったのちに思いきって尋ねる。
「お方様は、おとく様が再嫁されたことを、どう思われとりますんじゃろうか」
 水野勝成の最初の妻はおとくだった。
 おとくの望みで離縁することとなり、お珊が新たに正室として入ったのだ。
 お珊は白みはじめた空を見上げる。
「そうね……、武蔵様だから教えましょう。殿と初めて会ったときもおとくが一緒だったの。わたくしは狼藉ものから守ってくださった殿に一目惚れしてしまったの。気持ちはお伝えしたわ。殿も応えてくれると信じていたのだけれど……殿の気持ちを揺らしたのはおとくの方でした。ですから、わたくしは諦めることにしたの」
「そうなのですか……」と武蔵はうつむく。自分もそのようにおとくのことを諦めたので、他人事と思えなかったのだ。
「どこかの性悪女が相手ならば、私もそうはしなかったでしょう。でもおとくは本当に性根のまっすぐな優しい娘で、わたくしも大好きだった。
 でもね、おとくは優しすぎたの。わたくしの気持ちも知っていたから悩んで、そしてついにはわたくしを正室にすることを殿に認めさせて、自分は去っていった」
 武蔵はまだうつむいていたが、ぽつりと言った。
「お方さまもおとくさまも、優しすぎたのでございましょう……」
「ありがとう。武蔵どの、わたくしはこう思っているのです。おとくも殿もわたくしも皆、大切なときをともにしてきた家族で、ずっと変わることのない、かけがえのないものだと。今夫婦であるとか、そのような形ではない。諦めたり、失くしたりするものではないと思っているのです」

 お珊の言葉はたおやかに、力強く武蔵の耳に響いた。

 わしもそのように思える絆を持つことができたら。いや、すでにもう与えてもらっておるのかもしれん。

 そして、武蔵と三木之助は姫路に出発した。このときには二人とも心を通わせることができており、気兼ねもなくなっていた。藩主の勝成は江戸に呼ばれていて二人を見送ることはなかったが、道中、武蔵を兵法指南として迎えるよう諸藩に伝えておくと請け負った。
「殿、何から何まで本当に面倒をかけてしまい、礼の申しようもござらぬ」と武蔵は頭を下げた。

 勝成はニカッと笑って言う。
「またおぬしの放浪の旅が始まるんじゃのう。しかし今度は、寄る辺なく孤独な旅ではない。人もようけおって、明るいお天道様の当たる、おぬしだけのまっすぐな道じゃ。のう」

 武蔵はうん、うんとうなずくようにして、勝成の真似をして笑った。

 姫路に到着した武蔵と三木之助は藩主の忠刻はじめ家中の皆に温かい出迎えを受けた。三木助は小姓として城に入る。武蔵はすぐに出立しようとしたが、藩主の忠刻が引き留めた。彼の話が聞きたいというのである。三木之助にもう少し剣術の指導をしたいと思っていたこともあった。そこで武蔵はしばらく留まって藩主や家臣に話をしたり、小姓たちに剣術の指導をして過ごした。

 しばらく姫路に留まった後、武蔵はまた旅に出ることにした。しかしあてどもない旅でも、立ち寄る場所、戻りたい場所というのができた。なので、放浪のための放浪ではない。

 彼だけの、まっすぐな道を歩いていた。
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