水野勝成 居候報恩記

尾方佐羽

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◼️番外編 於大の方 慶長上洛記

水野の口伝、かたちで残る

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 慶長8年(1603)4月4日、京都の二条城に各国の大名が顔を揃えていた。ここで徳川家康が将軍に任ぜられた祝儀能が3日間開かれるのだ。家康は大名から次々と祝いのあいさつを受けていた。そして三河諸国の大名が揃って座に揃うと、それぞれ手短にあいさつを言上する。家康はふっと、刈屋藩主の水野勝成を見る。
「康元は今、病で臥せっとるで来られんと報せが来た」と家康がつぶやく。
 久松(松平)康元の領地は下総関宿で京都からはかなり遠い。
「大過ないとよいですが。昨年刈屋に寄られたときはご健勝のご様子だったで、この晴れやかな催しを見られんのは至極残念なこと」と勝成が口をへの字にして言う。それを見ると、本当に残念な様子が伝わってきて家康も心が和む。
「貴殿には他に話もあるでや、またのちほど足を運んでくれまい」と家康は勝成に告げる。

 この2月から4月にかけて、家康は公の席が多く正直なところ疲れている。生涯に一度しかないであろう、公式な行事だ。
 2月12日、後陽成天皇が勅使を伏見城に遣わし、六種八通の宣旨(せんし)を下す。家康はここで正式に征夷大将軍、右大臣となる。
 3月21日、衣冠束帯(いかんそくたい、朝廷での正式な服装)を纏い行列を整えて御所に参内し将軍拝賀の礼などを行う。3月27日には二条城で重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。

 3日間続く将軍宣下能(しょうぐんせんげのう)だが、1日にいくつも番組(演目)がある。初日はめでたいときの定番と言われる『翁』などが演じられた。

 家康は能を好んで鑑賞するし、みずから演じることもある。かつて今川家の人質だった頃に、観世十太夫(かんぜじゅうだゆう)から稽古をつけてもらったことがきっかけである。人質の身ではあったが、今川家では武士に必要な学問や素養を与えられた。それに家康はたいそう感謝していた。
「人質で心細いときもあったが、それだけではなかった」と家康は思う。

 ただ、勝成と話したい、と言ったものの座の主役である家康はそうそう外すことができない。ようやく三日目の中盤を過ぎ、『橋弁慶』が終わった後に勝成は呼び出された。

 別間に招かれ、つかつかと入ってきた勝成は少し興奮した様子で、家康に語る。
「いや、これだけの謡曲(ようきょく、能と同意)が見られるなど、まこと重畳至極(ちょうじょうしごく、この上なく喜ばしいこと)。うきうきしてもうたでや」
「はて、おぬしはそれほど謡曲を好んでおったか」と家康も気さくな口調で尋ねる。
「備中の親父どのに教わりました」と勝成が言う。家康は合点がいったとばかりにうなずく。
「なにかを与えてくれる師というのは、何者にも代えがたいのう」

 家康は続けて、昨年母於大の上洛に際し、刈屋で歓待してくれた礼を言う。そして、於大が勝成が立派になったと喜んでいた話もした。勝成は目を丸くする。
「そのようなこと、わしにはちぃとも言うとらんかったのう。ああ、でも沢瀉(おもだか)の話をして下さったとき、まこと励ましを頂戴しましたで」
「ほう、どのような話じゃ」と家康が聞くので、勝成は於大の話をそのまま伝えた。そのまま伝えても長くかかる話ではない。

 それでも、家康は興味深く話を聞いて何事か考えているようだった。勝成は天井を仰ぎながらポツリとつぶやく。

「於大の伯母は、よう分かっておったと思いますで。あれが、戻ることのない最後の旅になると。間に合わんかったら困る。だで、冬の旅でも出立したんでや」
「……わしも同感じゃ」と家康がうつむく。

 謡曲の番組がひとつ終わり、間狂言(あいきょうげん)の賑やかな音が響いてくる。太郎冠者(たろうかじゃ、狂言の役のひとつ)が出てきてどっと笑いが起こるのも聞こえてくる。
「さて、そろそろ戻るか。次は『唐船』だで」と家康が立ち上がる。
「将軍さまは、『唐船』などご覧になったら、身につまされるんではないんかや」と勝成が苦笑する。

「だから、見たい」と家康が言う。

 この時の『唐船』(からふね)は謡曲の一部を舞中心に仕立てたものだ。
 大まかなあらすじは以下のようなものである。

 唐土(もろこし、中国のこと)の祖慶官人は戦のおりに日本に留められる。牛飼いをして過ごすうちに妻を得て2人の子もでき、13年の月日が流れた。
 一方、唐土に残された2人の子は父が生きていることを知り、宝を父に換えて連れて帰ろうと船でやってくる。祖慶は喜び帰国しようとするが、日本の2人の子が一緒に連れて行ってほしいと嘆く。板ばさみになった祖慶は「身は一つ、心は二つ」と海に身を投げようとした。それを見た領主はその親心に打たれ、日本の子を連れて帰国することを許す。

「於大の伯母も、家に引き裂かれるように思うたこともあったはずだで。それでも、しまいはすべてをつないで逝ったんだで、まったくどえりゃあお方でございました。
 この晴れの日におってくれたらのう。ぶち残念じゃ」と勝成は立ち上がり、家康に深々と頭を下げた。

「しまいのほう、三河言葉と違うがや」と家康は苦笑して去っていった。

ーーーーー

 それから20年の月日が流れた。
 元和9年(1623)のことである。
 水野勝成はまた、城の普請にいそしんでいた。ただし、今度は三河刈屋城ではない。備後福山城である。

 徳川家康は将軍職を受けて2年ほどで、みずからが開いた江戸幕府を息子の秀忠に譲り隠居した。駿府(静岡)に移って、「大御所」と呼ばれるようになった後も政務に目を配り、変わらず大きな影響力を持ち続けた。
 その一方で、一大名の立場に下げられた形になった、豊臣秀吉の遺児・秀頼とその母・淀の方とは対立が激しくなる。そして、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で両者は激突する。
 そして、豊臣方は滅びた。

 水野勝成は大坂夏の陣のあと、三河刈屋から大和郡山(奈良)に領地が変わった。それから間もなく、安芸・備後(広島)を預かっていた福島正則が改易(かいえき、領地を没収されること)となったのに伴い、備後福山を任されることになったのである。

 大御所家康は大坂夏の陣の翌年にこの世を去った。勝成に備後を与えたのは二代目将軍の秀忠になる。西国ににらみが利く強さを持ち幕府に忠実な大名、ということで抜擢されたのだった。加えて、勝成が放浪時代に長く逗留していたので、土地に明るいという利点もあった。
 勝成には、「世話になった土地に錦を飾る」という気概があっただろう。ただ旧来のものに乗じるのでは物足りず、「海際の要衝に新しい城下町を作る」と幕府にぶち上げて、見事にそれを実現した。その場所を、「福山」と名付けたのである。

 ちょうどこの前の年、元和8年に勝成の望みを形にした要衝の、備後福山城が完成したところだ。とは言っても、元々は葦原しかなかったような場所に城下町を築くのは、かなりの難事業だった。水気の多い河口の土地を人が住める、田畑(耕作地)として使える土地にしなければいけないのである。この作業には専門家の意見も必要だったため、家臣を送って学ばせることもしている。
 今日的に言うなら大規模干拓事業ということになるだろう。

 海際なのだから水が多いのは当然として、この土地は内陸にかけても沼がたいへん多かった。川の水をどう引くか、沼の水をどう活用するかということも大きな問題だった。

 そのような日々の中で、ふっと勝成は20年以上前に聞いた伯母のことばを思い出す。そして、城内に大寄合(地区を任された者)らが集まっているときに尋ねてみた。

「ここいらで沢瀉がよう咲いとる場所はあるか」

 問われた寄合衆は突然の質問に眉をきゅっと上げる。そのうちの一人が言う。
「殿さま、沢瀉は確かによう見られたものでしたが……おそれ多きことながら、あれは水のある場所に咲くもんです。普請(工事)しとるときに他の草と一緒に根っこごと抜いて捨てとりますけえ、今どれほどあるものか……」

 確かに彼の言う通りである。干拓工事で沢瀉を見つけたからといって、それを大事に置いておいたら工事にならない。ましてやいちいち植え替えていたら仕事にならない。
 いや、そもそも自分はそれを命じていない。
 勝成は自分の考えのいたらなさに頭を抱えた。

「そりゃあ、もっともじゃ。もう、今残っとるところはないんかのう」と勝成は藁にもすがるような気持ちで再び問う。

 別の一人がおそるおそる言葉を発する。
「神辺に向かう往来沿いに大きな沼があります。そちらは確か沢瀉がようけございました。白い花がキレイでしたけえ、よう覚えとります。まだ残っておるかと……」
「おう、でかした! おぬし、さっそくわしをそこへ案内してくれんか」と勝成が手を打つ。
「今から行くので?」
「ああ、頼む。皆の衆、大儀じゃった。これでお開きじゃ」と勝成が立ち上がる。

 残された寄合衆は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で二人を見送った。

 福山から神辺(旧国府)に向かう往来(街道)沿いに千田という集落があり、そこに大きな沼がある。少し離れたところを芦田川(あしだがわ)が流れているので、氾濫した折の名残だろうか。勝成は寄合役の後をついていく。

「殿、あちらです」

 さされたほうを見て、勝成は満面の笑みを浮かべる。
 沼沿いに沢瀉がこれでもかというほど白い花を咲かせていた。
「あれだけ咲いとれば、福山藩の皆の兜に付けさせられるのう」と勝成がニカッと笑う。
「えっ、いくらなんでもそれだけの数は……どうじゃろ」と寄合役は思案をはじめる。本当に兜に付けさせるつもりだと思っているらしい。

 勝成は心の中で亡き伯母に話しかける。

「この沼は大事に残しましょうぞ。わしゃ水野の頭領じゃけえのう」

 三河弁でないとたしなめられそうである。
 沢瀉の白い花がくすくすと笑うかのように、ゆらゆらと揺れている。

ーーーー

 さらに時は下る。
 明治35年(1902)のこと。日清戦争と日露戦争のはざまの時期である。



 かつて勝成が見た沢瀉の群生地は、まだ千田の沼ぞいに残っていた。
 それを、福山城の掘沿いに植えて殖やした人がいた。なぜ福山城の堀端を選んだのかは分からないが、沢瀉が自生できるだけの水質を保っていたのかもしれない。日当たりもよかっただろう。
 沢瀉は見る見るうちに城の堀端に増えていった。
 球根を畑で育てる技術もすでに海外から伝わっていたので、じきに沢瀉は畑でも育てられることになる。

 もちろん、兜に花を差すためではない。根っこ(球根)を作物にするためである。
 その作物を今、日本で最も多く生産しているのは広島県福山市である。

 くわいである。

 はからずも、水野の家紋の言い伝えが勝成の立藩した福山で花開くことになった顛末である。

(終わり)
※この話は史実を参考にしたフィクションです。
〈参考資料〉
・将軍宣下能について http://www.tokugawa.ne.jp/20100812rinnouji.htm
 http://cte.jp/detail/15/150906/index.html
・『唐船』のあらすじ http://www.syuneikai.net/tousen.htm
・くわいについて 
http://www.jafukuyama.or.jp/tokusan-kuwai.html
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