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◼️番外編 於大の方 慶長上洛記

白い花を旗印にせよ

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 さて、慶長7年の伝通院の話に戻る。三河阿久比(みかわあぐい)から出立してごくごく近い刈屋城に泊まる夜である。

 彼女は「伝通院」と呼ばれるようになって久しいが、甥だけは未だに彼女のことを「於大(おだい)の伯母」と呼ぶ。長年出奔していて浦島太郎のような状態なのだから仕方ない。それに、彼女自身もそう呼ばれるのは不快ではなかったので、特に正すこともしなかった。
 宴の夜は賑やかに過ぎていく。

「妙舜さまも、城主どのがそこそこ上手くやっとるもんだで、安泰なこと」と彼女は笑う。
「まこと、そこそこです」と妙舜も笑う。

 そこそこだと言われている城主は少しふてくされた顔になる。しかし、伯母と実母の二人が揃ってはもう何も返しようがない。
 妙舜は彼女より10以上年下である。なので、食卓でも隣についてかいがいしく世話をする。そんな妙舜の好意をにこやかに受けつつも、やんわりと、「まだ大抵のことは一人でできますで、ご案じ下さいますな」と断りを入れる。
「さようでございますね」と妙舜もさらりと受け止める。女どうしの連携はうまく取れているようだ。

 藤十郎は出る幕もなく、ちびちびと酒をすすっている。彼女に付いて来た息子が、いとこに酒を注ぎにくる。
「まあ、このような和やかな宴ができるのも、貴殿が帰参なった故でござる。わが母は、ああ言うても喜んどるのです」
 いとこの慰めに藤十郎は苦笑いして頷き、「こちらも一献」と酒を酌み交わす。


 翌朝まだ日も出ないうちから、藤十郎は伯母に起こされた。さすがに年寄りは朝が早い、と思いつつも慌てて居ずまいを正す。
「そなたに話しておきたいことがあるで」と伯母が言う。
「それはありがたきことにございます。ただ、まだどえりゃあ寒うございます。今、火鉢を入れますで、ふたりで当たりながらお話いただき、お伺いしましょう」と藤十郎が提案する。
「それは願ってもない」と伯母も了承する。

 側用人が火鉢をえっちらおっちらと運んでくる。

「ああ、確かに暖かい。多少は気が利くようになって……さて、そなたは水野の家紋の話を聞いたことがありますか」と彼女が尋ねる。
 藤十郎は質問の趣旨が分からず、少し思案する。まだ寝起きで頭がはっきりしていないのか、うまく答える自信がない。
「沢瀉(おもだか)紋のことでございましょうが……あの、よく水辺に咲いている……」
 彼女は微笑んでうなずく。
「それだけか、父に聞いたのは」と彼女はさらに続ける。藤十郎はさらに考えて、「うーむ」と唸るばかりである。
「それならば、この婆(ばば)も語る甲斐があろうというもの。まあ、聞いとってくれんかね」

 そして、彼女は語り始めた。

 文明7年(1475)、水野家が知多半島の緒川(おがわ)に城を築き本拠地に定めた頃の話である。この時の城主は水野貞守、藤十郎(六左衛門、水野勝成)から遡ること6代前の頭領になる。
 貞守は当時三河の豪族、足助弾正左衛門(あすけだんじょうざえもん)との勢力争いに明け暮れていた。しかし、たびたび兵を率いて一戦交えるものの、勝機を得ずに撤退することが続いた。

 再度の出陣を翌日に控えて床に付いた貞守である。その夢に日頃信仰している池鯉鮒(ちりゅう、現在の知立)大明神が現れて告げた。
「明朝、出陣のおりに、白い花を見つけるであろう。その花を皆の旗印(はたじるし)とせよ。さすれば必ずや勝利するであろう」
 翌朝、出立した水野隊が道を進んでいくと、夢のお告げの通り、沢沿いに白い花がたくさん群生していた。貞守はためらわず皆に言った。

「その白い花をおのおの笠に付けよっ。池鯉鮒大明神様のお告げだで、早よせいっ!」

 一同は一瞬ぎょっとしたものの、白い花を摘んで笠に茎を差し込んで花を付けた。
 この時の水野隊は、のちに使われるような硬い陣笠を付けていない。農民が被るのと変わらない編笠を付けていたので、花の茎を差し込むのに苦労しなかった。



「いや、それはこっ恥ずかしいで、いくらお告げとは言え、わしなら絶対にせん」と藤十郎が顔をしかめる。伯母はきっと睨む。
「こんどたわけぎゃ。話はしまいまで聞きゃあ!」と一喝する。
 藤十郎は、「あい済みませぬ」と縮こまる。伯母はそれ以上、甥を追及せずに話を続ける。


 白い花を笠に付けた水野勢は、気勢を上げて足助勢にかかっていった。皆、白い花を大明神の加護のしるしと思い、果敢に戦った。結果、水野勢は大勝利を果たした。

 以降、貞守は水野家の家紋をその植物にしたのである。


「それが、沢瀉でしょうや?」と藤十郎が聞く。
「さようです」と彼女がうなずく。
「いや、葵紋や桐紋のように、朝廷から下賜されたとか、由緒正しいどこかから取ったものではないと……」
「さようです。その方がよかったきゃ?」と伯母は微笑む。
 藤十郎は首を横に振る。そしてにかっと笑う。
「いや、まったく。お告げの方が剽げとるっちゅうか、水野のご先祖がどえりゃあ近う思えますで」

 彼女も笑いながら言う。
「藤十郎、この話は私や兄(信元)が幼き時分に父からよう聞かされとった話です。和泉(忠重)も聞いとったかもしれんけど……父は和泉が三つの歳に逝きました。じかに聞いてはおらんかったやもしれん。まあ、聞いとったとしても、嫡子はとんだバサラ者で家を飛び出して15年も帰ってきゃあせん。そして、ようやく帰って来たと思ったら、自身が世を去らねばならなかった。言う暇はなかったと思いますで」

 藤十郎はうなだれる。自分が荒くれて、飛び出していた間に、どれほどの人間に心配をかけてきたのか。その重みが胸にズシンと堪えたのだ。父母きょうだいだけではない、家臣だけではない、この伯母にしてもいとこの家康にしても、皆心配していたのだ。
 彼は涙もろい。つい涙をこぼしそうになって、思い切り鼻をすすった。

「今この話ができるのも、私だけになってしもうたで、まあ、おまえさまにしておこうと思うてや。おまえさまは水野の頭領だでね」

 どうしてこの段でそんなにしんみりと語るのだ、と藤十郎は思った。涙が止まらなくなるではないか。しかし、伯母はきちんと締めることを忘れてはいなかった。

「まあ、大明神様がご先祖の夢に出たのがまことかは分かりませぬ。奇しくもご先祖がお告げをいただいた氏神様の池鯉鮒で和泉が非業の死を遂げたのはいかにも無念です。そこまで守ってくれたらどれほどよかったか。ただ、この話から学ぶことはまだあります。沢瀉の根は食すことができるのです」

「食べられる、ということでしょうや?」と藤十郎が話の変転についていけず、尋ねる。

「さようです。米が不作のとき、兵糧が足りぬとき、沢瀉のありかを知っておれば、手をかけることなく空腹を満たすことができる。これこそ、ご先祖がまことに伝えたかったことやもしれませぬ」と於大が真剣な面持ちで告げる。

 藤十郎は目をごしごしとこすって、伯母にひれ伏した。

「先祖伝来のありがたきお言葉、拙者しかと胸に刻ませていただきまする」


 於大の一行は、日が昇ってすぐに刈屋を発っていった。鳴海まで進んで東海道筋に出ていくのだ。
 藤十郎は鳴海まで送ると言ったが、「こんなに人がおるで、大仰なこと」と断られた。
 去っていく伯母たちの姿を見て、藤十郎は無性に寂しい気持ちになった。憎まれ口は耳に痛いがもっと逗留してくれたらいいのに、とも思う。ただ、伯母の言葉は昔日と変わらず、また昔日よりはるかに温かく藤十郎の胸に響いていた。

(続く)
※参考資料 www.medias.ne.jp>omodaka
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