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<勝成ゆかりの場所>

勝成ゆかりの場所(大阪府・京都府・奈良県編)

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◆水野勝成ゆかりの場所(大阪府・京都府・奈良県編)

 今でいう「けいはんな」です。日本の中心地は江戸になるまで、長くこちらでした。上洛(じょうらく、京都の天皇のもとに赴き、地位を与えてもらうこと)が権力への階段だったのはご存じの方も多いでしょう。ですので勝成に限らず、戦国時代に活躍した人にとっては例外なく縁の深い場所です。信長も秀吉も、です。

※大坂夏の陣の地については別だてにしますね。地図が必要です(描けるのか?)。


・おとくが再嫁して暮らした町(大阪、当時は大坂)

 どこか特定できないのは都築右京(つづきうきょう)の居宅です。都築氏は大阪付けの譜代家臣ぐらいの位置付けで、船場の辺りに住んでいたかなって勝手に思っています。答え合わせはしていません。想像な割には具体的です……この程度に頭で展開していないと、歴史の余白は埋められないかもしれません。

 勝成の妻、おとくは都築家に再嫁(さいか)して、亡くなったのは大阪です。それは福山城博物館の方に聞きました。右京は勝成の母、妙舜(みょうしゅん)尼の係累のようなのですが、はっきりとした系図などは分かりません。

 →「おとく、勝成のもとを去る」の節をご覧ください。

 この再嫁の次第は、勝成の母がおとくの思いをくみとって、新たな嫁ぎ先を考えたというのが自然かと思います。それをするのは、妙舜がおとくの人柄を知っていた、つまり刈谷(当時は刈屋)に住んでいたからだと。このお話で事実が見えないとき、私は、「なぜこの人はこうしたのだろう」ととにかく考えました。

 そのように考えて、おとくが勝成のもとを去ったのは、やはりおさんを迎えるためだっただろうと結論づけました。

 別れた後の勝成とおとくについては、近況ボードにもあげました。もう二人ともいい歳になって、おさんが亡くなって、江戸に妻子を出せと言われたときです。子はいます。勝俊ですね。おさんはいない。側室はいるけれど、さあ困った。
 そこで勝成はおとくに頼みました。他家に嫁いだ女性ですから、普通はありえません。勝俊の母として、という名目です。おとくの夫、都築右京はどうだったでしょう。もうこの世を去っていたかもしれません。さすがに存命ならば、おとくが承諾しないでしょう。

 江戸を下がって、おとくはまた大阪に戻り、そこで没しました。都築家で産んだ娘は福山に嫁したので、いつでも移れたはずなのです。勝成も勝俊もそれを望んだと思います。でも、婚家に深く感謝していたのでしょうね。芯の強い、優しい女性だったと思いますし、勝成にとってはかけがえのない人だったと思います。

 他の本では、おとくを「勝成がお手付きした使用人」という書き方しかしていません。それは違うんじゃないかなあ、というのが私の視点です。どうしてそう思うかは、神奈川県編なども見てください。追っていると端々に、妻と呼べなくなってしまった一人の女性への思いが見え隠れするような気がするのです。
 2代目の勝俊も生母のおとくを大切にしていたようです。


・油掛地蔵(あぶらかけじぞう 京都・伏見)

 勝成は父忠重に奉公構(ほうこうがまえ)をくらってから、都合15年ほど放浪していました。途中は山あり谷ありだったでしょうが、長いですね。家出中年です(……怒らないでください)。
 帰参叶ったのは、石田三成と徳川家康が一触即発(いっしょくそくはつ)になっていた頃、関ヶ原の少しだけ前です。伏見向島に家康が逗留している屋敷があって、勝成はまず従兄弟を頼ったのですね。
 この帰参に至る様子が本当に面白い。あらましは勝成本人が「日向守覚書」で書いています。たぶん、本人も読者(3代将軍家光)が見てクスリと笑える内容にしたのでしょう。なんと言いましょうか、あまり自分を飾ろうとか考えないんですね。

 →「放蕩息子の帰還 家康の臣下になる」をご覧ください。

 伏見と言えば伏見城、伏見稲荷がたいへん有名ですが、ここでは勝成がお世話になった油掛地蔵(あぶらかけじぞう)のお話をしましょう。

 このお地蔵さまは、勝成の頃よりずっと昔からあります。言い伝えによれば、空海が彫ったとも(!)。室町の頃から伏見天皇、花園天皇などが大切に守られていたようです。
https://kyotofukoh.jp/report956.html
 こちらは現在も見られます。写真も↑のサイトにありました。

 ここのお寺に寝泊まりしていたと勝成は書いていますが、それはこのサイトにもある西岸寺のことでしょう。創建は1590年ですから、勝成がいた頃は真新しいお寺だったと思います。

 結果、無事帰参に至ったのですから、油掛地蔵さま、霊験あらたかでしたね。


・伏見城(京都市伏見区)

 このお城は3回の変遷を経ています。ご存じの方も多いでしょう。初めは文禄元年(1592)年に豊臣秀吉が自身の隠居用に築城をはじめ、文禄5年(1596)に完成しましたが、直後の慶長地震(同年)で倒壊します。死者も出ました。秀吉の不興を買っていた加藤清正がまっさきに駆けつけた逸話はたいへん有名ですね。この年は主に西方に地震が続いて、勝成のいた備中も揺れたと思います。
 秀吉はこれに懲りて、近隣にまた城を築きます。これが2代目の伏見城。しかし、秀吉は病に見舞われてここで世を去ります。

 次に伏見城に入ったのが家康です。秀吉の子秀頼は大坂城に移ります。これが慶長3年(1598)のこと。勝成が伏見に入ったのはその1年後ですね。ただ、家康は常時伏見城にいたわけではないようです。向島のお屋敷にいたことは先にも書きました。一時的な居場所だと思っていたのかもしれません。

 この伏見城も安泰ではいられませんでした。慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦に至る流れの中、石田三成の軍勢が家康の伏見城を急襲します。このとき、城を守っていた鳥居元忠は必死に防戦しますが、討ち死に。伏見城には火がかけられます。

 鳥居元忠は家康にずっと付いていた忠臣でしたが、過去には勝成とドンパチがありました。家康勢が北条氏直らと甲斐で対峙した天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん、1582年)のときです。一番鑓(いちばんやり)に気がはやる勝成に対して、元忠は彼を足止めさせました。それに怒った勝成は、もう貴殿の指図は受けぬ! と先に出てしまいました。一番鑓です。勝成らしい話ですが、家康は怒ったでしょう。指揮系統が乱れるのはよくないですものね。

 あ、兜をかぶらなかったのは小牧・長久手の戦いです。(改めて後述します)

 家康が関ヶ原で石田三成の城、大垣城を勝成に攻めさせたのは、上記のことも念頭にあったように思います。伏見の意趣返しを勝成に任せた。鳥居元忠との過去を承知した上でです。そして、その器量をはかろうとしたような……。
「タヌキ親父じゃけぇのう」(勝成さん談?)


・大徳寺(だいとくじ、京都市北区)

 臨済宗大徳寺派の大本山です。今も広大な敷地ですが、昔はさらに広かった。一種の聖地だったかもしれません。
 臨済宗は禅宗のひとつで、他に曹洞宗と黄檗宗(おうばくしゅう)が残っています。黄檗宗は隠元(いんげん)、曹洞宗は道元が興しましたが、臨済宗は一休宗純や沢庵宗彭(たくあんそうほう)が有名ですね。とんちの一休さんにタクアン漬けの沢庵さんです。

 大徳寺、修学旅行で行く率高いですよね。私もお茶をいただきました。
 このお寺の大まかな特色は2つ、ひとつは茶の湯と関わりが深いこと、もうひとつは多くの戦国武将の帰依(きえ)を受けたことです。茶道を嗜まれる方はよくご存じでしょう。茶道手帳を見ると、大徳寺の歴代住持が書かれています。それぞれ茶の湯に通じた人がならび、必須科目のようなものでしょう。
 千利休の話を始めるときりがありませんね。

 ここには、戦国武将の建てた搭頭(たっちゅう、院内寺院)が多く残っています。一種の寄進であり、追善供養(ついぜんくよう)であり、そうですね、武士の名誉といえる行いだったでしょう。例えば、秀吉はここに信長を偲ぶ搭頭を建てました(総見院ーそうけんいんー)。

 その他ですか、挙げてみましょうか。今もあるものとして、足利満詮(養徳院)、畠山義元・大内義興・大友義親(龍源院)、織田信長(黄梅院)、大友宗麟(瑞峯院)、石田三成・浅野幸長・森忠政(三玄院)、三好義継(聚光院)、黒田長政(龍光院)などがあります。これらは親や主君のために建てられたもの。出ている名前は建てた人です。あとは、豊臣家、細川家、前田家の墓所をはじめ数多くの戦国人の墓所があります。

 ここに、勝成は搭頭を建てました。「瑞源院」という名称です。今はありません。紫野(むらさきの)高校の辺りに碑だけが残っているということです。
 そのいきさつは、本編の「報恩」という節で書きましたので、よろしければ。

ーちょっと閑話休題、勝成さんと話します。
 報恩という言い方でよかったですよね、勝成さん。
 鑓をぶん回すのも、遊女を囲って大盤振る舞いも、カッとして刀を抜くのも、それはあなたらしい。でも私は、あなたがなぜ放浪の末に真っ当な道を歩くようになったのか、それが知りたかったのです。だから書いたのですよ。


・北野天満宮(京都市北区)

 学問の神様として名高い、菅原道真(すがわらのみちざね)を祀っているお社です。受験生には縁の深いところですね。梅の木が本当にあって、梅を干しているのを見て妙に感心してしまいました。→「飛梅」の話は有名ですね。
 パワースポットというのが少し前に流行りましたが、ここは「気」が強い場所だなと思いました。「肥後の春を待ち望む」で「北野大茶会」の碑の写真を出しましたが、あれ、駐車場の脇にポツンとありました。車じゃない人は気づかないかもしれません。「やれやれ」と寄りかかってみようとしたら、それが碑だったという……。
 「肥後」にも勝成は出ていますので、ぜひ。「大茶会」のことも説明しました。一言で言えば、スノッブです。

 勝成はそれほど深い付き合いはなかったかもしれませんが、遊女(出来島隼人)を見初めたのは、どの辺りだったのでしょう。京都なのは間違いないです。

 北野天満宮は出雲の阿国(おくに)には縁の深い場所です。ここに定舞台(じょうぶたい、今で言う期間限定の劇場)がありましたから。阿国は公卿からひいきを得て、人気を博しました。はじめは、ちょっと艶っぽい「ややこおどり」です。そこまでは平安以来の白拍子(しらびょうし、多くは流れて芸事をする女性)を模して、いやそのものだったかもしれません。白拍子は権力者の寵愛(ちょうあい)を受けることもままありましたが、そのようなこともあったかもしれません。学問の神様のお社で艶っぽい芸事とはいかに? とも思いますが、「聖と俗」は対立していなかったのかな。

 阿国がすごかったのはその後です。かぶきもの(不良というか愚連隊というかヤンキーというか)が茶屋女を口説く見世物を創作してしまいました。しかも、かぶきものを女が演じるという男女逆転。この目新しさに公卿も一般人もノックアウトされてしまったのです。恋人の名古屋山三郎(なごやさんさぶろう、蒲生氏郷ーがもううじさとーの家臣)も一緒に創作したと言われています。

 それが「歌舞伎」の原点です。

 阿国は少女の頃に京の街を闊歩するかぶきものの実物を見ていました。髪をわしゃわしゃにひっつめて、獣の毛皮をひっかけて、クルス(十字架)をぶら下げた異装の徒です。信長なんでしょうか、モデルは。そのなかに、水野勝成がいたかもしれません。彼は父に奉公構を食らったあと、家康のところでお金を借りて、しばらく京都でかぶきものをしていました。三河からついてきた、いくらかの家来も一緒だったでしょう。羽振りがいい彼らは目立っていたはずです。

 阿国と勝成につながりがあったという史料はありません。でも勝成のやんちゃな時期を阿国が見ていたら、という想像ははてしなく楽しい。後を思うとなおさらその感を強くします。勝成の孫の話は歌舞伎になりましたからね。→それは東京編にて。


・大和郡山城(奈良県大和郡山市)

 ここは外してはいけません。勝成は藩主だったのです。彼は帰参して三河刈屋(現在は刈谷、愛知県)城主になります。父の跡を継ぐ形です。大坂夏の陣(現在は大阪)のあとに論功行賞(平たく言えば手柄の配分、あるいは選挙後の組閣のようなもの)で、大和郡山を与えられます。なぜ、そうなったかはいろいろ説もありますが、お話でも書いてみました。

 まるっきり縁もゆかりもない土地を任されることも多々あります。端から見れば、大和郡山→勝成というのはそのパターンでしょう。ただ、大坂夏の陣での大和国(奈良)と勝成の関係はたいへん濃いものでした。結果的には布石になったでしょう。

 大和の小領主・神保相茂(すけしげ)の隊に触れている本はあまりなくて、「徳川家康 第25巻」(文庫)だけでした。まさか、山岡荘八先生に助けていただけるとは。主にその広い視点に学ばせていただきました。

→本編の「夏の陣 大和方面先鋒大将 古都を守る」~「神保隊全滅 勝成の意趣返し」などをご覧下さい。このルートについては改めて。

 現在、大和郡山といえば、金魚で有名ですね。「全国金魚すくい選手権」もやっています。唐招提寺や薬師寺などの古刹(こさつ、いや、超をつけたいほどの古刹です)も近隣です。

 大和郡山城といえば、まず筒井順慶(つついじゅんけい)です。松永久秀の襲撃を受けては巻き返しの繰り返しで、結構な年月を使いました。それが済んで大和郡山城に移ってからは、信長・秀吉に臣従して、所領は安堵されました。戦には出ていましたが、基盤ができたことには安心していたのではないでしょうか。順慶は何より僧籍にありましたから、大和という古都の価値がよくわかっていて、その保護につとめました。

 順慶亡き後子は伊賀に転封となり、大和郡山城には秀吉の弟、秀長が入りました。この頃の所領は紀伊まで含む100万石です。よく知られたことですが、秀長は実直な性格で、人望もありました。順慶の子への所領を担保したりもしています。人の気持ちを思える人だったのでしょう。長生きすれば歴史は変わっていたかもしれません。でも、早くに病死してしまいます。

 秀長の後には石田三成派の増田長盛が入りましたが、その治世は関ヶ原まででした。そして城主は不在になります。

 それから15年後に勝成が城主になりました。長年正式な城主が不在だった上に、夏の陣の前哨戦で焼かれています。行軍で見たときは、「ひっでーな」と思ったでしょう。

 そのひどい状態の城の改修に、勝成は取りかかります。結局改修したぐらいの段階で、勝成は備後に移封となりましたので治世に目立った業績は残していませんが、この改修が福山城を築く大きな学びとなったことでしょう。

◆◆

あれれ、何か長くなりました。
よかった、夏の陣と別だてで。

次ですか?
まぁ、ぼちぼちで。
大阪じゃないかもしれません。
地図がイタリアより難しい。

【続く】
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