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<勝成ゆかりの場所>
勝成ゆかりの場所(静岡県・神奈川県編)
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◆水野勝成ゆかりの場所(静岡県・神奈川県編)
「あれ、愛知県じゃなかったの?」という声が聞こえてきそうですが、愛知県にはやや重きを置いて(主人公の出身地なので)、最後にしようかなと思います。
静岡は徳川家康がらみの場所が多いです。江戸幕府が開府して将軍を息子の秀忠に譲ったあと駿府(静岡市)に移りました。戦国史が好きな方はよくご存じでしょう。家康の経歴も語りだしたら終わらないのですが、もともとは岡崎(愛知)の人です。6歳のときに生家松平家から駿河(静岡)の今川義元のところに人質として送られます。家康と静岡の関係はここからはじまります。
この項では駿府(静岡市)は流します。ペコリ。
勝成は家康のいとこ(家康の母と勝成の父がきょうだい)なので、関わる部分が出てきます。ただ、2人の年齢は21離れていますので、気楽な関係ではなかったでしょう。性格もまったく違う。忍耐と深謀遠慮(しんぼうえんりょ)が旗印の家康と、放蕩無頼(ほうとうぶらい)の勝成です。普通なら人間関係として成り立たないようにも思えます。歳が離れていることがこの場合はよく作用したのかもしれません。また、お互いにないものを面白がったのかもしれません。勝成は何だかんだ言って家康を最後の頼みにしているし、家康も何だかんだ返して勝成に手を貸してやる。
面白い関係です。
・高天神城(たかてんじんじょう、静岡県掛川市)
勝成の初陣(ういじん)の場です。天正年間(1573~)の頃、甲斐の武田信玄・勝頼親子は、今川氏が力を失った後の遠江(とおとうみ、静岡県西部)を手中にしようと、何度も攻めてきます。その一つが2度に渡る高天神城の戦いです。尾張の織田信長と同盟を組んだ家康。その配下として出陣した勝成は第二次の戦いで15人を討ち取ります。一番の手柄ではありませんでしたが、信長は勝成に感状(ごほうびですね)を与えます。初陣だからでしょう。
→「信長公記」(しんちょうこうき、太田牛一)に書かれています。
嬉しかったですよね。ここで勝成は信長に猛烈に憧れたと思います。後年、バサラ、かぶき者になったのも、信長の影響が大でしょう。私が書いたものにはほとんど出ていません。あ、兜を着けずに一番槍(いちばんやり)の話は書きました。放浪をはじめて京都でかぶいている頃までは、信長のフォロワー全開で微笑ましいです。
高天神城に行ったことはありませんが、掛川なら事任(ことのまま)八幡宮に行ったことがあります。秀忠(家康の子)にはゆかりがあるようです。立派な楠と杉があって、私は杉が特に気に入りました。家康や勝成も見たのかな。ここは素敵なお社ですね。
・浜松城(静岡県浜松市)
ここは元亀(1570~)の頃から20年間、家康が本拠地としていました。一番長くいた城ではないかと。私は城マニアではありませんが、石垣が本当に見事です。ちなみに、ってちなんでいいですか。「姫様と猫と勧進能」に出てくる木原氏は浜松城の改修(普請)を仕切った人なのです。
ここに勝成本人はあまり関わりないです。ただ、家康の負け戦で1、2を争うかという三方ケ原(みかたがはら)の戦いのことは書かなければ(1573)。武田勢が攻めてきたこの戦いで敗走した家康が恐怖のあまり大小垂れ流してしまった話はよく知られています。
私は浜松城と三方ケ原、それなりに離れていると思ったのです。浜松城の天守から見てビックリ。目の前ですよ、目の前。1里? ないない。こんな近くまで攻め寄せられたら、それは家康でなくても……です。
この戦いで、勝成の父、水野忠重が家康の影武者をしていたという話があります。影武者は何人もいて、命を落とした人もいました。忠重は数多くの戦に出ましたが、このときは彼も危ないと思ったのかもしれません。
そのずっと後、江戸になってからのことです。浜松藩主の松平忠頼を、勝成の弟忠胤(ただたね)の家臣が誤って斬り殺してしまう事件が起こります。忠胤は切腹、その遺児は勝成が引き取ることになります。
ちょっと不思議な感じがします。
勝成の家族と浜松城のお話でした。
・福山藩の飛び地領があった地(神奈川県厚木市)
厚木市のあたりは、古くは毛利(もり)庄で大江氏が領していました。お分かりの方もいらっしゃるでしょうが、安芸の毛利家の先祖です。室町期に移ったのですね。
本編の中では吉川広家(きっかわひろいえ)の述懐に出しています。厚木とは書いていませんが、毛利三川(さんせん)の一人である父の吉川元春について語る中で、鎌倉以来の「武士」とは何だったのだろうと思い返しているのですね。
厚木は江戸期になると天領(てんりょう、幕府の直轄領)や他藩の飛び地領に細かく分けられていきます。その中に福山藩のものもあったようです。
勝成と毛利氏(吉川氏も含めて)に関わりがあったという史料は見つけていません。ただ、勝成が居候していた成羽は戦国後期、毛利氏系(吉川氏、小早川氏含む)の配下でしたから、まったくつながりがないということは……ないと私は思っています。吉川広家が関ヶ原で実質は東軍に加勢したにも関わらず、その後所領を失うのを、勝成はどんな気持ちで見ていたでしょう。
・常福寺(じょうふくじ、神奈川県横須賀市浦賀)
江戸時代の末期にペリーが来航したところですね。そこの、海沿いから少し入ったこのお寺に、勝成の妻おさん(於珊)の位牌があります。
ご住職にお尋ねしたところ、江戸時代、相模国の僧が福山を訪れた際におさんの墓前で歯痛の完治を祈願したら、見事に治ったそうです。それに感激して位牌を分けてもらったとのこと。それが浦賀に来たのです。今でもお参りされる方がいるようです。
相模の地誌に残されているとのこと。
おさんは歯の神様になっていました。歯痛に悩まされた彼女がそのように遺言を残したそうです。江戸時代には芝の増上寺辺りにもおさんの位牌を預かった寺があったようです。有名だったのかもしれません。
おさんは江戸に来ることなく亡くなりましたが、勝成がおさんを偲ぶために位牌を持参していたのかもしれません。それが転じて歯の神様として祀られるようになったのかもしれません。
ここのお寺は常福寺、おさんとおとくの菩提寺は定福寺、じょうふくじ、という読みが一緒です。
もうひとつ、神奈川ではなく岡山にもあります。井原(いばら)にある成福寺です。ここにはどなたのお墓があるかというと……おとくの祖父、藤井皓玄(こうげん)です。
勝成さん、これは勝成さんの仕掛けなように思いますが、いかがですか?
それに、勝成さん、実は軍船好きじゃないですか? あ、その話はまたの機会に。
ということで、今回は紹介する場所は少ないのですが、ミステリィっぽく締められました。
次はどこにしようかな。
【続く】
「あれ、愛知県じゃなかったの?」という声が聞こえてきそうですが、愛知県にはやや重きを置いて(主人公の出身地なので)、最後にしようかなと思います。
静岡は徳川家康がらみの場所が多いです。江戸幕府が開府して将軍を息子の秀忠に譲ったあと駿府(静岡市)に移りました。戦国史が好きな方はよくご存じでしょう。家康の経歴も語りだしたら終わらないのですが、もともとは岡崎(愛知)の人です。6歳のときに生家松平家から駿河(静岡)の今川義元のところに人質として送られます。家康と静岡の関係はここからはじまります。
この項では駿府(静岡市)は流します。ペコリ。
勝成は家康のいとこ(家康の母と勝成の父がきょうだい)なので、関わる部分が出てきます。ただ、2人の年齢は21離れていますので、気楽な関係ではなかったでしょう。性格もまったく違う。忍耐と深謀遠慮(しんぼうえんりょ)が旗印の家康と、放蕩無頼(ほうとうぶらい)の勝成です。普通なら人間関係として成り立たないようにも思えます。歳が離れていることがこの場合はよく作用したのかもしれません。また、お互いにないものを面白がったのかもしれません。勝成は何だかんだ言って家康を最後の頼みにしているし、家康も何だかんだ返して勝成に手を貸してやる。
面白い関係です。
・高天神城(たかてんじんじょう、静岡県掛川市)
勝成の初陣(ういじん)の場です。天正年間(1573~)の頃、甲斐の武田信玄・勝頼親子は、今川氏が力を失った後の遠江(とおとうみ、静岡県西部)を手中にしようと、何度も攻めてきます。その一つが2度に渡る高天神城の戦いです。尾張の織田信長と同盟を組んだ家康。その配下として出陣した勝成は第二次の戦いで15人を討ち取ります。一番の手柄ではありませんでしたが、信長は勝成に感状(ごほうびですね)を与えます。初陣だからでしょう。
→「信長公記」(しんちょうこうき、太田牛一)に書かれています。
嬉しかったですよね。ここで勝成は信長に猛烈に憧れたと思います。後年、バサラ、かぶき者になったのも、信長の影響が大でしょう。私が書いたものにはほとんど出ていません。あ、兜を着けずに一番槍(いちばんやり)の話は書きました。放浪をはじめて京都でかぶいている頃までは、信長のフォロワー全開で微笑ましいです。
高天神城に行ったことはありませんが、掛川なら事任(ことのまま)八幡宮に行ったことがあります。秀忠(家康の子)にはゆかりがあるようです。立派な楠と杉があって、私は杉が特に気に入りました。家康や勝成も見たのかな。ここは素敵なお社ですね。
・浜松城(静岡県浜松市)
ここは元亀(1570~)の頃から20年間、家康が本拠地としていました。一番長くいた城ではないかと。私は城マニアではありませんが、石垣が本当に見事です。ちなみに、ってちなんでいいですか。「姫様と猫と勧進能」に出てくる木原氏は浜松城の改修(普請)を仕切った人なのです。
ここに勝成本人はあまり関わりないです。ただ、家康の負け戦で1、2を争うかという三方ケ原(みかたがはら)の戦いのことは書かなければ(1573)。武田勢が攻めてきたこの戦いで敗走した家康が恐怖のあまり大小垂れ流してしまった話はよく知られています。
私は浜松城と三方ケ原、それなりに離れていると思ったのです。浜松城の天守から見てビックリ。目の前ですよ、目の前。1里? ないない。こんな近くまで攻め寄せられたら、それは家康でなくても……です。
この戦いで、勝成の父、水野忠重が家康の影武者をしていたという話があります。影武者は何人もいて、命を落とした人もいました。忠重は数多くの戦に出ましたが、このときは彼も危ないと思ったのかもしれません。
そのずっと後、江戸になってからのことです。浜松藩主の松平忠頼を、勝成の弟忠胤(ただたね)の家臣が誤って斬り殺してしまう事件が起こります。忠胤は切腹、その遺児は勝成が引き取ることになります。
ちょっと不思議な感じがします。
勝成の家族と浜松城のお話でした。
・福山藩の飛び地領があった地(神奈川県厚木市)
厚木市のあたりは、古くは毛利(もり)庄で大江氏が領していました。お分かりの方もいらっしゃるでしょうが、安芸の毛利家の先祖です。室町期に移ったのですね。
本編の中では吉川広家(きっかわひろいえ)の述懐に出しています。厚木とは書いていませんが、毛利三川(さんせん)の一人である父の吉川元春について語る中で、鎌倉以来の「武士」とは何だったのだろうと思い返しているのですね。
厚木は江戸期になると天領(てんりょう、幕府の直轄領)や他藩の飛び地領に細かく分けられていきます。その中に福山藩のものもあったようです。
勝成と毛利氏(吉川氏も含めて)に関わりがあったという史料は見つけていません。ただ、勝成が居候していた成羽は戦国後期、毛利氏系(吉川氏、小早川氏含む)の配下でしたから、まったくつながりがないということは……ないと私は思っています。吉川広家が関ヶ原で実質は東軍に加勢したにも関わらず、その後所領を失うのを、勝成はどんな気持ちで見ていたでしょう。
・常福寺(じょうふくじ、神奈川県横須賀市浦賀)
江戸時代の末期にペリーが来航したところですね。そこの、海沿いから少し入ったこのお寺に、勝成の妻おさん(於珊)の位牌があります。
ご住職にお尋ねしたところ、江戸時代、相模国の僧が福山を訪れた際におさんの墓前で歯痛の完治を祈願したら、見事に治ったそうです。それに感激して位牌を分けてもらったとのこと。それが浦賀に来たのです。今でもお参りされる方がいるようです。
相模の地誌に残されているとのこと。
おさんは歯の神様になっていました。歯痛に悩まされた彼女がそのように遺言を残したそうです。江戸時代には芝の増上寺辺りにもおさんの位牌を預かった寺があったようです。有名だったのかもしれません。
おさんは江戸に来ることなく亡くなりましたが、勝成がおさんを偲ぶために位牌を持参していたのかもしれません。それが転じて歯の神様として祀られるようになったのかもしれません。
ここのお寺は常福寺、おさんとおとくの菩提寺は定福寺、じょうふくじ、という読みが一緒です。
もうひとつ、神奈川ではなく岡山にもあります。井原(いばら)にある成福寺です。ここにはどなたのお墓があるかというと……おとくの祖父、藤井皓玄(こうげん)です。
勝成さん、これは勝成さんの仕掛けなように思いますが、いかがですか?
それに、勝成さん、実は軍船好きじゃないですか? あ、その話はまたの機会に。
ということで、今回は紹介する場所は少ないのですが、ミステリィっぽく締められました。
次はどこにしようかな。
【続く】
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