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Epilogue
青い晴れた空の下
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ブルーの服を縫う間は一時休業としていたが、待ってでもヨネに仕立ててもらいたいという客はありがたいことに何人もいた。だからヨネはろくに休む暇もなく、この二ヶ月ほどは仕事漬けだった。
知らぬ間に梅雨が明けて、やっと一息つけそうな頃。それを見計らったようにパイロット・ノアが訪ねてきた。そろそろくるだろうと踏んでいたヨネはたいして驚きもせずに迎え入れ、もう飽き飽きした『ごきげんよう』から始まる挨拶と愛と賛辞をやり過ごし、ノアを客間に通す。窓を開け放すと涼しい風と葉擦れの音が流れ込んでくる。
喜美江に教えてもらった赤紫蘇シロップをソーダ割りにして、よく冷えたレモン風味のシフォンケーキを切り分けて出した。
パイロット・ノアは赤紫蘇シロップの人工的に見えるほどに鮮やかな赤を光に透かしてまじまじと見つめ、感嘆の吐息を漏らす。
「それにしても、テーラー・ヨネのお茶の時間はすばらしい。併設でティールームを営業されてはどうでしょう」
「まさか。お店を出せるようなクオリティではありませんわ。あくまで、家庭のおやつの時間ですよ」
「それがよいのですよ。とても温かい気持ちになります」
ノアはシフォンケーキに添えられたホイップクリームを愛おしそうにフォークですくう。普段の気取った表情ではなく、少年のように見えた。
自分が作ったものを誰かがおいしそうに食べる様子を見るのは気分がいい。自分の仕立てた服を着て満足そうに微笑む客を見るときの気分には遠く及ばないけれど。
一息ついて、ノアは改めてヨネに向き直った。本題なのだなと、ヨネも居住まいを正す。
「ブルーは最初から、あなただけを生かすつもりだったのです。彼が禁忌を犯したとしても、わたしが不幸な少女、ヨゼフィーネを見捨てられないと踏んで」
「信頼されていたということですよ、ノアさん」
慰めのつもりはなく、本気でそう思っている。だけどノアは静かに首を振る。
彼の中ではまだ、ブルーの犯した過ちに整理をつけられないのかもしれない。自分の管理下にあった死神が、送るはずの死者をアンデッドにしてしまったのだから。
氷がとけて薄くなった赤いジュースを一口含み、ノアは笑う。とても悲しい笑顔だった。
「我が部下は、愚かではありましたが、多少は賢しいところもある男だったのですよ」
ブルーはもう戻ることはない。彼は死神でも罪人でもなくなったのだ。そしていつか、新しい命として誕生するだろう。その頃には、何も覚えていない。
自分の前世も、どうして死神になったのかも、ヨゼフィーネという少女を愛したことも。厳しくも美しい連鎖の輪に戻っていった。
「寂しいですか」
「いいえ。マチとチャコもいますし、お友だちは楽しい方ですわ」
たとえ、彼女らが自分を忘れ去る日がくるとしても。だからといってこんなに満ち足りた日々を手放す理由にはならない。
「それに、ノアさんはずっと、わたしの近くにいてくださいましたから」
百年あまりのつき合いだ。信頼はしている。相変わらずうさんくさいとは思うし、好きかと言われると肯定はしづらいが。
「感謝しておりますわ、ノアさん」
ヨネが微笑むと、ノアはいつになく言葉に詰まって、視線を泳がせた。それからシルクハットを取って深くお辞儀をしてみせた。
「これからも、おそばでお守りいたしますよ。愛しいマドモアゼル」
「ええ。よろしくお願いいたします」
「――――っ」
手元のグラスを倒しそうになり、ノアは慌てて両手で支え、テーブルに戻した。
「そ、それはもちろん……」
「どうして動揺なさるのですか。今までおっしゃっていたのはご冗談だったのですか」
「いえ、決してそういうわけでは」
頬が少し赤い。最初はブルーを奪った憎い男だと思っていたが、長い年月を経て共にいると、存外に可愛らしいところも見えてくるものだ。
「さて。ノアさん、わたしはそろそろ出かける準備をいたしますわ。マチとチャコも連れて、お友だちとホテルのランチビュッフェに行く約束ですの」
「それは素敵ですね」
「ええ。デザートの種類もとても豊富なのですのよ。女子会ですから、ノアさんはご一緒できませんけれど」
「それは残念です。マドモアゼルとのデートは、また日を改めてディナーでも」
ノアはいつもの気取った顔でさらりと言う。
この人は、本当に二人きりでディナーに行くと言ったら、さっきみたいにひどく狼狽するのだろうか。その顔を少し見てみたい気もするけれど、二人きりでの食事はやっぱり遠慮したい。
いつも通りノアの軽口を無視して、ヨネは立ち上がる。まだかまだかといったふうで、マチとチャコが物陰からこちらを窺っていたから。彼女らはすでにお出かけ用のギンガムチェックのワンピースに着替えていた。
「マドモアゼル・ヨネ。一つお伺いしてもよいですか」
珍しく堅い声でノアは問いかけてくる。
「あなたも、ブルーと共に逝きたかったですか」
ノアは、あの布がまだ残っていることを知っている。ヨネはそれを自分のために使うこともできた。
頭の隅を掠めたのは事実だ。だけどあまり魅力的なプランだとは思えなかった。
長く生きるために人の記憶から消えていくヨネだけれど、それでもこの世に柵ができてしまったから。
柵、それは生きる理由だ。たとえ束の間であったとしても、温かい人との関わりはそれだけでこの世に留まるに値するものだ。
「いいえ」
ヨネは静かに首を振る。それから、恐らくは今までノアに見せたことのない本心からの笑顔で、彼をまっすぐに見つめた。
「まだまだ、わたしの仕立てる服を必要としているお客様が、きっとたくさんいらっしゃいますから」
せっかくブルーが与えてくれた時間だ。彼の苦しみの分、彼が愛してくれた分、もっともっと使わないともったいない。
せいぜい、この尽きない命を楽しむとしよう。
マチとチャコが待ちくたびれて、早く早くとヨネを急かす。ノアは肩を竦め、双子に追い立てられるように帰って行った。
去年自分のために縫ったストライプのスカートと黄色いシャツを着て玄関を出た。くるりと身を翻してみる。スカートの裾がふわりと膨らんで、涼しい風が素足を撫でていく。
夏の空は呆れかえるほど澄んだ青で、目が痛いくらいに明るかった。
知らぬ間に梅雨が明けて、やっと一息つけそうな頃。それを見計らったようにパイロット・ノアが訪ねてきた。そろそろくるだろうと踏んでいたヨネはたいして驚きもせずに迎え入れ、もう飽き飽きした『ごきげんよう』から始まる挨拶と愛と賛辞をやり過ごし、ノアを客間に通す。窓を開け放すと涼しい風と葉擦れの音が流れ込んでくる。
喜美江に教えてもらった赤紫蘇シロップをソーダ割りにして、よく冷えたレモン風味のシフォンケーキを切り分けて出した。
パイロット・ノアは赤紫蘇シロップの人工的に見えるほどに鮮やかな赤を光に透かしてまじまじと見つめ、感嘆の吐息を漏らす。
「それにしても、テーラー・ヨネのお茶の時間はすばらしい。併設でティールームを営業されてはどうでしょう」
「まさか。お店を出せるようなクオリティではありませんわ。あくまで、家庭のおやつの時間ですよ」
「それがよいのですよ。とても温かい気持ちになります」
ノアはシフォンケーキに添えられたホイップクリームを愛おしそうにフォークですくう。普段の気取った表情ではなく、少年のように見えた。
自分が作ったものを誰かがおいしそうに食べる様子を見るのは気分がいい。自分の仕立てた服を着て満足そうに微笑む客を見るときの気分には遠く及ばないけれど。
一息ついて、ノアは改めてヨネに向き直った。本題なのだなと、ヨネも居住まいを正す。
「ブルーは最初から、あなただけを生かすつもりだったのです。彼が禁忌を犯したとしても、わたしが不幸な少女、ヨゼフィーネを見捨てられないと踏んで」
「信頼されていたということですよ、ノアさん」
慰めのつもりはなく、本気でそう思っている。だけどノアは静かに首を振る。
彼の中ではまだ、ブルーの犯した過ちに整理をつけられないのかもしれない。自分の管理下にあった死神が、送るはずの死者をアンデッドにしてしまったのだから。
氷がとけて薄くなった赤いジュースを一口含み、ノアは笑う。とても悲しい笑顔だった。
「我が部下は、愚かではありましたが、多少は賢しいところもある男だったのですよ」
ブルーはもう戻ることはない。彼は死神でも罪人でもなくなったのだ。そしていつか、新しい命として誕生するだろう。その頃には、何も覚えていない。
自分の前世も、どうして死神になったのかも、ヨゼフィーネという少女を愛したことも。厳しくも美しい連鎖の輪に戻っていった。
「寂しいですか」
「いいえ。マチとチャコもいますし、お友だちは楽しい方ですわ」
たとえ、彼女らが自分を忘れ去る日がくるとしても。だからといってこんなに満ち足りた日々を手放す理由にはならない。
「それに、ノアさんはずっと、わたしの近くにいてくださいましたから」
百年あまりのつき合いだ。信頼はしている。相変わらずうさんくさいとは思うし、好きかと言われると肯定はしづらいが。
「感謝しておりますわ、ノアさん」
ヨネが微笑むと、ノアはいつになく言葉に詰まって、視線を泳がせた。それからシルクハットを取って深くお辞儀をしてみせた。
「これからも、おそばでお守りいたしますよ。愛しいマドモアゼル」
「ええ。よろしくお願いいたします」
「――――っ」
手元のグラスを倒しそうになり、ノアは慌てて両手で支え、テーブルに戻した。
「そ、それはもちろん……」
「どうして動揺なさるのですか。今までおっしゃっていたのはご冗談だったのですか」
「いえ、決してそういうわけでは」
頬が少し赤い。最初はブルーを奪った憎い男だと思っていたが、長い年月を経て共にいると、存外に可愛らしいところも見えてくるものだ。
「さて。ノアさん、わたしはそろそろ出かける準備をいたしますわ。マチとチャコも連れて、お友だちとホテルのランチビュッフェに行く約束ですの」
「それは素敵ですね」
「ええ。デザートの種類もとても豊富なのですのよ。女子会ですから、ノアさんはご一緒できませんけれど」
「それは残念です。マドモアゼルとのデートは、また日を改めてディナーでも」
ノアはいつもの気取った顔でさらりと言う。
この人は、本当に二人きりでディナーに行くと言ったら、さっきみたいにひどく狼狽するのだろうか。その顔を少し見てみたい気もするけれど、二人きりでの食事はやっぱり遠慮したい。
いつも通りノアの軽口を無視して、ヨネは立ち上がる。まだかまだかといったふうで、マチとチャコが物陰からこちらを窺っていたから。彼女らはすでにお出かけ用のギンガムチェックのワンピースに着替えていた。
「マドモアゼル・ヨネ。一つお伺いしてもよいですか」
珍しく堅い声でノアは問いかけてくる。
「あなたも、ブルーと共に逝きたかったですか」
ノアは、あの布がまだ残っていることを知っている。ヨネはそれを自分のために使うこともできた。
頭の隅を掠めたのは事実だ。だけどあまり魅力的なプランだとは思えなかった。
長く生きるために人の記憶から消えていくヨネだけれど、それでもこの世に柵ができてしまったから。
柵、それは生きる理由だ。たとえ束の間であったとしても、温かい人との関わりはそれだけでこの世に留まるに値するものだ。
「いいえ」
ヨネは静かに首を振る。それから、恐らくは今までノアに見せたことのない本心からの笑顔で、彼をまっすぐに見つめた。
「まだまだ、わたしの仕立てる服を必要としているお客様が、きっとたくさんいらっしゃいますから」
せっかくブルーが与えてくれた時間だ。彼の苦しみの分、彼が愛してくれた分、もっともっと使わないともったいない。
せいぜい、この尽きない命を楽しむとしよう。
マチとチャコが待ちくたびれて、早く早くとヨネを急かす。ノアは肩を竦め、双子に追い立てられるように帰って行った。
去年自分のために縫ったストライプのスカートと黄色いシャツを着て玄関を出た。くるりと身を翻してみる。スカートの裾がふわりと膨らんで、涼しい風が素足を撫でていく。
夏の空は呆れかえるほど澄んだ青で、目が痛いくらいに明るかった。
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