青い死神に似合う服

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第1章 テーラー・ヨネ

§7§

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 その夜、ヨネは魔女の時間にいた。どんなに忙しくても土曜日は休むという決まりは、萠衣の死亡場所を訪ねた時点で破ってしまっている。それなら、もう少し仕事をしようと思ったのだ。

 デスクに座り、手元を照らすライトをつけて、裁縫道具を取り出す。
 この間シンブル帽が二〇人分を裁断してくれた生地は一着分ずつ箱に仕舞ってある。仮縫いは済ませて、試着も終わっている。あとは仕上げていくだけだ。布と布を縫い合わせていく作業は無心になれて好きだ。

 一針一針縫い進め、小さな燕尾服の形が徐々に見えてくると、自然に笑みが漏れた。二〇人が揃いで着たらさぞかし可愛らしいだろう。それぞれが楽器を持って演奏をする姿を思い描いて、ヨネは針を進める。

 もう少しで一着分ができそうなところで、風もないのに窓が開く。

『おやおや、仕事かい? 誓いを破るのは感心しないねぇ。今日は安息日だろう』
「誓いなんて大げさなものではありませんわ。ただの仕事の決めごとです。それに、この時間の中には安息日なんてないのでしょう?」
『そりゃあ、そうだ』

 カラカラと笑うのは、魔女だ。この時間の主、魔女。嗄れた老女の声はその呼称に相応しい。名は知らない。姿も見たことがない。ヨネが一人でいるとき、気まぐれにこうして話しかけてくる。

『今度は何を縫うんだい?』
「これは小さなオーケストラの衣装。コンサートまでに納品しないといけないのです」

 魔女はそれにはさして興味は示さない。彼女は時間が有限だという感覚に乏しいのだ。この場所では当たり前に時間が進んだりしない。ここで仕事をすれば、ゆっくりと丁寧に服を仕上げられるのだ。だからヨネにとって作業量は問題ではない。方針が決まらないのが一番困る。

『まぁ、ここでのんびり縫えばいいじゃないか。それよりも、あのバレリーナの衣装は手こずっているみたいだねぇ』
「ええ、まぁ。パイロット・ノアさんと一緒に、彼女の亡くなった場所へ行ってみたのですけど……」

 萠衣の婚約者と会い、彼女の話を聞いた。圭司はごく普通の、優しい人だった。萠衣を愛して、大切にしていた。ノアが言っていたような、振られて然るべきなどと評されるほど愚かなように思えない。
 ただ、萠衣のような人とは相性はよくないのかもしれない。

『なんだい、スノーと会っていたのかい』

 少し呆れたような声音で、魔女は言う。

「魔女さん。彼はパイロット・ノアと名乗っていますわ」
『おお。そうだった、そうだった。あのこわっぱめ、ややこしいことを』

 パイロット・ノアは嫌われ者なのだな……。あれほどの美男子で物腰も柔らかいのに、何故か女性に嫌われる。ヨネも彼を嫌ううちの一人であるが。

 それでも、彼のおかげでテーラー・ヨネを営んでいられることも事実だ。定期的に客を紹介してくれるのはありがたい。何せ、テーラー・ヨネへの道はわかりにくいのだ。好き嫌いはともかく、ノアには感謝はしているし信頼もしている。

 しかし、魔女は声のトーンを落とし、心配そうな声で言い募る。

『スノーと係わるのはもうお止し。あいつはお前さんの望む答えなど持ってこないよ』
「わかっています。いつも諦めろと言われますもの」

 その言葉を言うときのノアの声は、いつも冷ややかだ。
 嫌だ。諦めない、諦めない……諦めて、たまるものか。
 ヨネは黙々と針を進ませる。

『パイロット・ノアという名は、あいつにとっては遊びみたいなもんさ。奴の本当の名はスノー』

 ――……っ。

 過って針で指を指す。慌てて布地を机に置いた。指の先からはぷつりと膨れあがる血を、ハンカチで抑えた。赤い染みは洗っても取れずに薄く残るだろう。縁の刺繡が気に入っていたのに。
 ヨネの動揺にはかまわず、魔女は嗄れた声で続ける。

『死神スノー。名前通り、冷酷な奴さ』

 名を聞いただけでぞわりと鳥肌が立つ。ヨネは深く息をつき、心を落ち着かせようと反論する。

「彼と関わらずにいては、仕事に差し障りがありますわ。それに、水先案内人としてはとても頼もしい方です」
『そうかい。まぁ、あたしはどっちでもいいさ』

 呆れたような口調だけれど、魔女の声音は優しかった。しばらく間を置いたあと、嗄れた声は懐かしい名前を口にする。

『ヨゼフィーネ』
「その名前では、もう呼ばないでくださいとお願いしましたでしょう。わたしはヨネ。寺田ヨネです」

 子どもの頃に仲良くしてくれた女の子がそう呼んでいた。日本人にはヨゼフィーネという名は呼びにくかったのだろう。縮めて、ヨネと呼んでくれた。親しみを込めて。

『本当、若い奴はややこしいことを言うねぇ。まぁいい、ヨネ』

 ふぅ、と魔女のため息が聞こえる。そして改まった声で、こう告げてきた。

『ブルーを救う方法について、あたしから提案があるんだが』
「方法があるんですか」

 ノアも知らなかったのに? 疑問を投げかけると、少し迷うように息をついて、魔女は話し出した。

『救うといってもいろんな方法があるってことさ。あたしが教えてやれるのは――……』
 密やかに、魔女は話す。その提案にヨネの心は激しく波打った。一言一言が胸に突き刺さる。まるで毒針のようにじわりじわりと痛みが増していく。
 ヨネは痛みに耐えるように、うつむいてじっと机の上を見つめた。

『魔女と死神、どっちの助言を聞くかは、あんた次第さ』
「魔女と死神……」

 どちらの助言も、福音をもたらすようには思えない。魔女がヨネに愛着を持ってくれているのは感じるが、果たしてそれが自分にとって利になるのか。

「少し、考えさせてください」
『いいさ。よぉく考えるといいよ。ただし、それほど時間はないよ』
「時間がない?」

 珍しいことを言う。彼女にとっては、時間はいくらでもあるものだ。

『最近、公園へ行ったかい?』
「ノアさんから禁じられています」

『かまうこたないよ。あんたにはその責任があるさ。あの若造がどう言おうとね』

 ノアの言いつけを破るのには抵抗があった。彼のサポートなしでテーラー・ヨネを経営していくのは困難だろう。

 それに……少し、怖い。再びあの場所を訪れるのが。

『行ってみるといい。ちょっとショックを受けるかもしれないけどね』
「ショックって……?」

 返答はない。不穏な言葉を残し、どこかへ行ってしまったようだ。

 ヨネはため息をつき、しばらく思案したあと、縫いかけの燕尾服を仕舞い、別の布地を作業台の上に出した。萠衣が注文したジゼルを踊るためのロマンティック・チュチュの生地だ。すでに上体部分にあたるボディスの仮縫いまでは終わっている。

 確かにメインに扱う紳士服とは勝手が違う。紳士服の仕立てはどこか建築に似ている気がするのだ。建築に造詣が深いわけではないのだが、綿密な計算によって作られるところは近しいものを感じた。

 それに対して女性用のドレスは、花を育てるような感じがするものだ。慈雨と太陽を注ぎ、優しく手をかけて作り上げる。

 ボディスにはラインを美しく出すためにボーンを仕込み、チュチュには淡い淡いラベンダーカラーのチュールレースを幾重にも重ねている。幽玄の森や気まぐれに舞い踊る精霊はきっと、こんな色をしているのだろう。

 ジゼルの悲哀と純愛を現すのに相応しい、幻想的なチュチュになりそうだ。
 これを萠衣がまとい踊れば、どれほど美しいだろう。

 美しい、はずだ。妖精のような衣装はきっと、美貌のバレエダンサーを可憐に彩ることだろう。
 だけど、何かが足りない気がする。或いは、何かが間違っている。そんな気がしてならない。

 本当に、この衣装でいいのだろうか。本当に、この方法で?

 思考に埋没していると、ふいに首筋を何かが撫でたような気がした。風だろうか。

「……魔女さん? 戻ってきたの?」

 姿はないはずなのに、ヨネは部屋中を見渡す。ふと、ストライプの壁紙に今までなかったシミを見つけて目を留めた。

 コインほどの大きさの黒いシミだ。じっと見つめていると、それはじわりと蠢く。
 一瞬ひやりとし、全身に緊張を走らせる。

 しかし再び壁を見ても何もない。ミントグリーンとアイボリーのストライプ模様はいつ見ても同じだ。

「根を詰めすぎたかしら」

 肩を竦め、元の時間へ戻ることにした。そこはカフェでお茶をして帰ってきた頃、時刻は夕方のはずだ。

 戻ってみると双子は留守で、リングケーキと朝食用のブリオッシュは買ってきたときのまま紙袋に入っている。

 時間は経っていない。
 だけど、もう三日も働いたような気がしていた。

 郵便受けを覗くと切手のない手紙が入っていて、流麗な文字で一言『ご無理をなさらないように』と真白な便箋に書かれていた。差出人は、パイロット・ノア。

 優しい気遣いを見せられて一瞬、感謝の念が湧く。煙たがっていることに罪悪感を覚えた。だけど……ヨネが魔女の時間に長居していることをどこかで監視しているのかと思うと、薄気味悪く感じた。

 やっぱり、彼のことは好きにはなれなそうにない。
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