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「透明人間」と「一日完結型人間」

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、場面、設定等はすべて作者の創作であります。ご了承願います。

                  透明人間

 風の強さに少しだけ暖かさを感じるようになった三月のある日、それまであまり友達と一緒に過ごすことのなかった高山亜衣は、その日、珍しく友達の家で話し込んでしまったことで深夜の帰宅となった。
「泊まっていけばいいのに」
 という友達の誘いを丁重に断わって、亜衣は家路を急いでいた。友達の部屋には、どこか男臭さが滲んでいるようで、自分の居場所を求めることができなかった。何よりもタバコ臭が彼女の部屋には沁みついていて、タバコを吸わない亜衣には、苦痛でしかなかった。
 そのことは友達も分かっていたはずだった。それなのに泊まっていくことを勧めたのは、彼女がその日、一人でいたくなかったからであろう。
 亜衣が友達の部屋を訪れたのは、男にフラれて、
「今日は一人でいたくないの。一緒に呑みましょう」
 と言われ、最初は居酒屋で呑んでいたのだが、彼女の強引な誘いもあって部屋まで行った。きっと一人で帰宅するのが嫌だったのだろう。そこまでは気持ちは分からなくもない。
 その友達には普段から相談に乗ってもらっていた。亜衣の相談は男関係のものではなく、仕事場での人間関係がほとんどだった。彼女は女性にはなぜか人気があった。きっと、人の相談に自分から乗ってあげるタイプだからであろう。
「他人事のように聞いていると、アドバイスも意外と的確にできるものなのよ」
 と嘯いていたが、彼女の言葉は皮肉には聞こえない。性格的にもあっけらかんとしたところがあるところから、相談者も素直に聞けるのかも知れない。
 そんな彼女に彼氏ができたのは、半年前だった。
「あの子なら、結構うまくやっていけるんじゃない」
 と、彼女に彼氏ができたことを喜んでいた。実際に彼氏ができてからの二、三ヶ月の間に、彼女に相談した人は、その的確な回答にどれほど助けられたことだろう。亜衣はその間に相談することはなかったが、彼女の幸せそうな様子は、見ているだけで想像できるものだったのだ。
 しかし、そんな彼女の人生が暗転したのは、それから少ししてのことだった。次第に顔色が悪くなり、表情も深刻そうになってきた。明らかに表情には疲れが表れていて、その原因が相手の男にあるのは、誰の目にも明らかだった。
「どうしたっていうのかしら?」
 彼女に相談して助けてもらった人たちは、それぞれ結構仲がいい。彼女の様子が変になりかかった時には、皆その変化に対し、敏感に気づいていたようだ。
 亜衣としても、
――この私が分かるんだから、他の人にはすぐに分かったことでしょうね――
 と、まわりの人に比べて、自分はそれほど敏感ではないことは自覚しているつもりだった。
 彼女が付き合っていた男性、彼は私たちが思っていたのとはまったく違う男性で、女性を騙すことには長けていたようだ。彼女が彼氏を自分たちに会わさなかったのは、そのことを他人である友達に悟らせないため、
「君の友達に会おうとは思わないよ。お互いにプライバシーは尊重しよう」
 と言って、ごまかしていたようだ。
 彼女は、元々べたべたする恋愛を好むわけではなく、お互いにプライバシーは尊重して付き合うのを身上にしていた。そのため、彼と自分は以心伝心であるというような気持ちを抱いていた。そのことが、相手の男の気持ちを増長させたのだ。
 彼が変わってきたのは、三ヶ月もしてからだった。それまでお金のことに関しては何も言わなかったのに、ある日急に、
「少しお金がいるんだ」
 と言って、彼女にお金の無心をした。
 最初は一万円ほどのもので、数日後にはキチンと返してくれたので、彼女は彼の金銭感覚に何ら疑問を感じなかった。
 すると、また金の無心を彼がしてきたのだ。
「いくらなの?」
「三万円ほどなんだけど」
 と彼がいうので、
――それくらいなら――
 と思い、
「いいわよ」
 と言って、貸してしまった。
 本当は、この時にお金を貸した時がターニングポイントだったのだ。
 最初に貸してほしいと言われた時は、彼も貸してくれてもくれなくても、さほど問題にはしていなかった。二回目の無心でも貸してしまったことで、
――この女なら金をねだれば貸してくれる――
 と相手に思わせてしまったのだ。
 実はこの男、他にも女がいて、女たらしだった。しかし、目的は女ではなく、あくまでも金だったのだ。
 この男は金に対しての執着は激しいが、女に対しての執着はさほどない。だから、恋人になったとしても、いちゃいちゃするわけではなく、「大人の付き合い」をしているように見えるのだった。
 彼女が考える男性像としては、
「女関係がまず最初に来て、女関係が垣間見えなければ、お金やその他のことに対してもルーズではないはず」
 という思いを持っていた。
 他の友達にもその思いを話していて、意外と共感してくれる人も多く、それもあって、自分の感覚にそれなりの自信を持っていた。
 しかし、彼の後ろに女の影がないことで、彼女はすっかり安心してしまっていた。彼の後ろに女の影を感じないのは、
「女と付き合うのは、あくまでも金のため。金づるはたくさんいればいるだけいいものさ」
 と、男性仲間にはそう嘯いていたようだ。
 つまりは、友達相手の顔と、金づる相手の女に対しての顔の両面を持っていることになるのだ。
「お前のように、女に対してドライになれれば、俺にもお金が回ってくるのかな?」
 と言われて、
「才能が必要なのさ」
 と、平気で言っている。
 つまり、女を女として見ていないどころか、人間としても見ていない。だからこそ、女はコロッと騙されるのだ。
 しかも、友達はお金にあまり執着があるわけではない。自分が困らなければ、好きな相手にならいくらでも貢ぐ方だ。実際に彼女は無駄遣いをすることもなく、子供の頃からコツコツお金を貯めていたこともあって、かなりの貯金もあったはずである。それを相手の男は彼女から結構な金額を貢がせようとしていたようだ。
 しかし、別れは簡単に訪れた。
 彼女が偶然、その男が他の女性と一緒にいるところを見かけた。
 彼女はもちろん問い詰めた。
「あの女性は誰なの?」
 そう言われて、この男は最初何も言わなかった。
――余計な言い訳をしない人なんだわ――
 と、もしこのままこの男が何も言い訳をしなければ、そう思い、彼のことを見直してしまったかも知れない。
 しかし、彼は何を思ったのか、翌日になって、
「あれは妹さ」
 と、言わなくてもいい言い訳をした。
 その瞬間、友達の中で何かが崩れた。
「そう、妹さんなのね」
 そう言って、明らかに冷めた態度を取った。
「ああ、妹なんだよ。今度、紹介するね」
 紹介すると言えば、彼女が納得するとでも思ったのだろう。
 言い訳をしないでごまかそうとすることよりも、曖昧を嫌う彼女に対しては、
「紹介する」
 というキーワードでごまかせると思ったのだろう。
 しかし、彼女は違った。最初に言い訳しないことでせっかく繋ぎとめることができたかも知れない信用を、自らが壊してしまったのだ。
 彼女は、もう彼を信用することはなかった。男の方もそれ以上言い訳をしようとは思っていないようで、気まずくなったまま、別れを迎えたのだ。
 友達は、彼の正体を何も知らないまま別れたのだが、他の友達がその男のことを知っていた。
「あの男、相当ひどい男のようなのよ」
 この前まで付き合っていた相手が目の前にいるということを知ってか知らずか、井戸端会議の話題になった。もちろん、彼女は口を出すつもりもないが、その場から立ち去ることもできなかった。その時立ち去ってしまうと、自分がその男と関係があったのではないかと勘ぐられるのが嫌だったからだ。
 だから、会話はその男とは無関係の二人が勝手にしていた。
「どんな男なの?」
「とにかくお金にはルーズで、角度によってはいい男なので、女性が引っかかりやすいのをいいことに、女性を金づるとしてしか見ていなかったのよ」
「それが本当なら、ひどいわね」
 友達がどんな気持ちで聞いていたのか、亜衣には分からなかった。亜衣はその場にいたが、その時の彼女の様子の不自然さに気が付き、やっと彼女が悪い男と付き合っていて失恋したことを知ることになる。
「ええ、その男はたくさんの女性と一度に付き合っていて、最初の頃は皆から適当にお金の無心をする程度で済んでいたんだけど、女から簡単にお金を引き出せるということを覚えてしまったことで、完全に金遣いが荒くなったみたいなの。ギャンブルや株、いろいろなものに手を出していたって話しよ」
「堕ちるところまで堕ちたのかしら?」
「そうかも知れないわね。それで、お金に困ってくると、女たちからの無心もあからさまになり、中途半端にしかお金を持っていない女性とは別れて、明らかにお金を搾り取れるセレブのような女としか付き合わなくなったの。しかも、それは同時に女たちから少しずつなどという生易しいものではなく、一人の女性から金を借りて、他の女性にお金を返す。そして、またその女性に返すために、他の女性からお金を借りるといういわゆる『自転車操業』のようなやり方で女性を騙し続けていたの」
「お金を返すのは誠意からではなく、次に借りるためのものだったのね。それだけに、たくさんお金を持っている人であれば、誰にでも、そしてなるべくたくさんの女を繋ぎとめておく必要があったのよ」
「それで、その男はどうなったの?」
「そんな危ない関係を、たくさんの人とするんだから、相手が増えれば増えるほどリスクが高くなってくるのは当たり前でしょう。彼も次第に女たちだけでは危なくなって、どうするのかと思えば、サラ金に手を出したのね」
「バカじゃないの」
「ええ、その男、相手が女性であれば、それなりに頭が働くみたいなんだけど、女性以外であれば、本当に浅はかな行動しかできないの。もうこうなってしまうと、ここから先はさっき言っていたみたいに、堕ちるところまで堕ちたってわけなのよね」
 その話を彼女は黙って聞いていた。
 事情を知っている人がいれば、
「あんな男と別れて正解だったのよ。騙されかけたのは浅はかだったけど、あなたはしっかり別れることができたからよかったのよ」
 と言われるであろう。
 しかし、彼女が別れることができたのは、セレブのようにお金持ちではなかったからだというのが一番の理由だろう。だが、彼女の中では、
――私が彼をフッたのよ。あの言い訳がすべてだったんだわ――
 と言いたかったことだろう。
 彼女のまわりで、その男と彼女が一時期付き合っていたというのを知っているのは亜衣だけだった。
「亜衣は、どうして分かったの?」
「だって、さっきの話を聞いている時、私はずっとあなたのことを見ていたんですもの」
 と、答えた。
 その日、仕事が終わって彼女を誘ったのは亜衣の方だった。
「ねえ、お時間があったら、一緒に呑みにいきませんか?」
 断わられる確率を半々くらいに感じていた亜衣だったが、
「ええ、いいですよ」
 と、それまでに見たこともないような笑顔を見せてくれたことで、亜衣は少しビックリさせられた。しかも、その時亜衣はもう一つビックリさせられていた。
――あれ?
 一瞬、彼女の姿が見えなくなった。急に消えたわけではなく、次第に透明になっていくようで、気が付けば完全に目の前から消えてしまっていたのだが、強く瞬きをすれば、すぐに彼女の姿は元に戻った。
――夢だったの?
 亜衣は、子供の頃に友達から、
「亜衣ちゃんが時々消えたような気がする」
 と言われたのを思い出していた。
 その日は、彼女が男と別れたことを祝うつもりの二人きりでの呑み会だった。彼女の方も、さすがにここに至って相手の男がどれほどひどい男であったのかということを認識していた。
「亜衣ちゃん、ありがとう。私、これで立ち直れる気がするわ」
「いいのよ。私も嬉しいわ。あなたが立ち直れて」
 そういって、二人は時間を忘れて呑むことになった。
 先に潰れたのは、彼女の方だった。
 何とかタクシーに乗せて、彼女の部屋まで運んだが、すぐに彼女は眠り込んでしまった。少しでも意識が残っていれば、自分も一緒に泊まっていこうかと思ったが、完全に眠ってしまっていて、起こすには忍びない。そんな状態で自分が泊まるというのはルール違反だった。
 いくら親友とはいえ、完全に眠り込んでいるのだから、その時に何かが無くなったといわれるのも嫌だったからだ。そういう感覚は酔っていてもしっかりしている。いや、酔っているからこそ、しっかりしなければいけないと思うのか、亜衣は彼女を大丈夫だと思えるところまである程度介抱し、彼女の部屋を出た。
――こんな中途半端なことになるなんてね――
 少し計算が狂ってしまったことは致し方ないことだったが、さすがに深夜に女一人で家路につくのは少し怖い気がした。
 彼女の部屋は大通りから少し入った住宅街のマンションだった。大通りまで出ればタクシーが捕まるかも知れないと思い、五分ほどの道を歩いていた。
 近くに児童公園があった。
――そういえば大学生の頃、初めて付き合った男性と、夜の公園で話しこんだことがあったっけ――
 と、懐かしい思い出を思い出していた。
 あの時は最初ベンチに座って話をしていたが、急に彼が、
「ブランコか。懐かしいな」
 と言って、ブランコに歩み寄り、両腕と足を使って、大きく漕ぎ出した。
 亜衣も子供の頃、公園では一番ブランコが好きだった。顔に当たる風もさることながら、こぎ上げた後、後ろに下がる時の感覚は、ゾッとするほどの興奮があり、後ろまで行ってから戻ってくる時の感覚は、今でも忘れられなかった。
「酔いを醒ますには、ブランコで風を感じるのもいいかも知れないわ」
 懐かしさと、ほろ酔い気分の中で、公園を見つけたことはまるで運命のように感じられた。
 亜衣はブランコに無意識に近づいていき、気が付けばすぐそばまで来ていた。
「懐かしいわ」
 と言ってブランコに腰を下ろし、足で地面を蹴って、思い切り、ぶら下がっている吊り鎖を両手で引っ張った。
「やっほー」
 思わず声が出てしまった。
 シーンと静まりかえった公園で、声は響くのだろうと思いきや、思っていたほど声が出ていないことに気づいた。ただ、風は顔に心地よく、自分が想像していた快感は十分に得ることができたのだ。
 何回か前後に揺られている間、自分が自分ではなくなっていくような錯覚に陥っていた。まっすぐに前を向いて漕いでいると、目の前に広がった公園が次第に小さく感じられてきたのだ。
――目が慣れてきたのかしら?
 目の錯覚だとは思いながらも、まっすぐに見ていると、今度は自分がどんどん高い位置に上がっていくような気がしてきた。
――この感覚が、公園の広さを狭く感じさせているのかも知れないわ――
 と解釈した。
 少し考えなければ理解できないような状況に陥った時、意外と亜衣は冷静だった。
 冷静になればなるほど、自分の頭が冴えてくることを分かっているからだ。
 だからと言って怖がりではないわけではない。怖いものは怖かった。それでも、冷静になることで自分が考えることに自信が持てるようになると、怖さよりも、好奇心の方が強くなることもあり、急に何も怖いとは思わなくなる。
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」
 ということわざがあるが、まさしくその通りであった。
 冷静になって公園を見ていると、
――昔にもここに来たことがあるような気がするわ――
 と感じた。
 そもそも児童公園などどこも似たり寄ったりのものであり、昔の思い出の中にある公園と似ていたとしても、それはまったく不思議ではない。錯覚ではあるが、無理もない錯覚であり、錯覚にもいろいろ種類があるのだろう。
 公園を見渡してみると、目の前には遠くの方に先ほど座ったベンチがあった。その横にあるのは、滑り台だった。滑り台が砂場に向かって下りてきている。女の子がプラスチックのバケツを横に置いて、同じくプラスチックのスコップで一生懸命に穴を掘っている。どうやら、その横に砂を積み重ねて、お城のようなものを作ろうとしているようだ。その横から男の子が、勢いよく滑り台から下りてきて、砂を蹴っ飛ばす。一瞬あっけに取られた女の子は、すぐに情けない表情になり、泣き出してしまう。それを見ながら当事者である男の子は、まったく悪びれた様子もなく、したり顔で泣きじゃくっている女の子を見下ろしていた。
 今までの亜衣なら、その女の子をかわいそうだと思い、相手の男の子に嫌悪を感じていたに違いない。しかし、その日の亜衣は、なぜか二人がいとおしく感じられた。泣きじゃくっている女の子をかわいそうだと思うよりも、男の子を見ているその目は、何かを訴えているようだ。それは、恨みからではなく慕っているかのようで、それを男の子も分かっているから、したり顔なのだと思えた。
「小さい子供にも、子供の世界があって、大人よりも固い絆が存在しているのかも知れないわ」
 と感じた。
 その時目の前にいる女の子が、昔の自分に思えてならなかった。しかし、思い返してみるが、子供の頃の記憶に、これと似た記憶は存在していない。
――どうしてこんな幻を見たのかしら?
 亜衣は、幻と心で感じていたが、実際にはそうは思えないような気がして仕方がなかった。気が付けばブランコを漕ぐのをやめて、何かを考えている自分がいた。
――こんなことに気が付くなんて――
 自分の世界に入り込むと、そう簡単に我に返ることのない亜衣だったので、気が付いたことに自分でビックリしたのだった。
 亜衣は、滑り台の男の子を意識していることに気付くと、今度はその女の子を見つめていた。
 二人は、何事もなかったかのようにすぐに仲直りして、急に亜衣の方を見つめた。
 亜衣はビックリして、二人から目を逸らしたが、すぐに元の位置に目を戻すと、そこには誰もおらず、街灯が砂場の中心部分を照らしているだけだった。
――気のせいだったのかしら?
 そう思うと、今度は砂場とは反対側にある遊戯具が気になった。
 そこにあるのはシーソーだった。
 シーソーは二つの組になっていて、それぞれ上下が逆になっていて、こちらから見ると、「X」のようになっていた。この形が横から見た時の基本形のような気がして、
――意外とシーソーというのも、格好がいいものなのかも知れないわね――
 と感じたのだ。
 すると、手前側のシーソーが急に動き出して、左右が逆になった。「X」が崩れたのである。
「ギーッ」
 という音が聞こえたかのように思えたが、この時も夜の闇に吸い込まれたように、静寂がすぐに襲ってきた。
 すると、シーソーの上になった部分に一人の男が座っているのが見えた。その人は子供ではなく、いい年をした大人だった。その姿は滑稽で思わず吹き出してしまいそうになったが、考えてみれば自分も誰もいない深夜の公園で、ブランコに揺られているのだから、十分に怪しい存在であろう。
 ただ、滑稽に見えたのは、面白いから滑稽に見えたわけではなかった。最初は気付かなかったが、よくよく考えてみると、その光景には大きな矛盾が孕んでいたのだ。
 その男性がシーソーの下にいるのであれば別に不思議はないのだが、下には誰もおらず、その男性だけがそこには存在していて、しかも上にいるのである。
――これも幻なんだわ――
 その男性は、白いオーラに覆われているように見えた。夜のしじまに襲い掛かっているものは恐怖だと思っていた亜衣は、最初に恐怖を感じなければ、夜のしじまであってもそれ以降恐怖は感じないと悟った。
「あなたは一体誰?」
 思わず、亜衣はその男性に語りかけた。しかし、やはり夜のしじまにその声は吸収されてしまったのか、自分の耳に響くことはなかった。
 しかし、その男性はリアクションを示した。
 それまで亜衣がそこにいることに気付いていない様子だったが、亜衣の呼びかけに彼は亜衣の方を向いた。明らかに亜衣に反応したのだ。
 亜衣は、ブランコから降りて、ゆっくりとシーソーの近くに歩み寄った。
 それを彼は分かっているかのように、近づいてくる亜衣に微笑みかけている。
「こんばんは」
 亜衣は彼に話しかけると、
「こんばんは」
 彼も、返事をした。返事をしたということは幻ではない。さっきの砂場で感じた少年と少女とは明らかに違っている。彼はシーソーからゆっくりと下りてきた。
 さっきの少年少女のうちの少女は、亜衣の子供の頃だった。自分の中にある思い出が、似たような場所とシチュエーションで、錯覚を見せたのだ。しかし、シーソーに乗っている男性には見覚えはない。ただ、
――どうしても他人のように思えないのはどうしてなのかしら?
 自分と似ているというわけでもないし、会社に似た人がいるわけでもない。他人という意識よりも、自分にかかわりのあるのは、肉親のような関係の相手だと思ったからだ。
「あなたは一体……」
 亜衣は、相手が誰なのかを聞きたかったのだが、それ以上、声が出なかった。どんなに聞きたいことであっても、一度その機会を逃してしまうと、それ以上聞くことができないというのは、往々にしてあるというものだ。
 まさに今がその時で、それ以上何も言えなくなってしまった亜衣を見て、相手の男性はしたり顔になっていた。
 だが、亜衣はその表情を見て、悔しいというような感情が湧いてくることはなかった。どちらかというと、自分から聞くというよりも、彼の口から率先して聞きたいという感情が強かったのだ。
「僕は、あなたに関係のある人間なんですが、すぐにそのことを言うと、あなたは混乱してしまいそうなので、ゆっくりお話することにしましょう」
「私に関係がある?」
「ええ、ハッキリいえることは、僕が今ここにいるのは、少なくとも、亜衣さんが望んだことだということですね」
「私にはそんな自覚はないわ」
「人間というのは、その行動のほとんどには意味があるということを言っている人がいましたけど、あながち間違いではないんですよ。ただ、自覚がないので、誰も信じようとはしないというのが現実で、人間というのは、そういう意味では、まだまだ捨てたものではないということですね」
「あなたはまるで自分が人間ではないかのような言い方をしますね」
 亜衣は、
「あなたに関係がある」
 と言われた相手が、人間に対して他人事のように話していることに大いなる違和感を感じた。
――人間って、確かに幾種類もの人がいて、一人一人性格も違っているので、同じ動物でも、人間ほど幅広い世界を持っている動物もいないのかも知れない――
 と感じていた。
「とりあえず、そんなことはどうでもいいじゃないですか?」
 彼の方から、関係があると言っておいて、どうでもいいというのはどういうことなのだろう?
 亜衣はその言葉を聞いて、急に不快感を催してきたが、なぜか彼を遠ざける気分にはならなかった。
 まずは、今のこの状況を把握することが先決で、そういう意味では彼に不快感を感じたことで、余計に冷静になれそうで、いわゆる
――怪我の功名――
 と言えるのではないだろうか。
「じゃあ、どうしてあなたは、こんなところでシーソーになんか乗っているんですか?」
 彼の言い方に対し、精一杯の抵抗の意味を込めて、亜衣は投げやりに聞こえるような言い方をわざとした。
「ここが僕の居場所だからですよ。僕の居場所に亜衣さんがやってきただけのことなんですよ」
 と言って苦笑した。
「偶然なんでしょう?」
「偶然とは少し違いますね。僕の意思がそこには働いているからですね。でも、亜衣さんからすれば偶然なんでしょう。そういう意味では偶然ではないとは言い切れないでしょうね」
 男は不可思議な理論を組み立てていた。
 それにしても、初対面だと思われるこの男性に、
「亜衣さん」
 と呼ばれて、違和感はない。どこをどう見ても初体面にしか思えないという感覚も今までにはなかった。自分が覚えていない時でも、相手にそれなりの自信があれば、
――やっぱり私が覚えていないだけなんだわ――
 と次第に自分の意識は薄らいでいく。
 それなのに、この男性に対してここまで頑なに、
――初対面だ――
 と感じるのは、どうしてなのだろう?
 彼の顔を見ていて、無意識な闘争心のようなものが浮かんでくるわけでもなかった。むしろ彼の顔には感情が含まれておらず、こちらがムキになるだけ無駄だということは見ていてすぐに分かった。それなのに、頑なになるのは、やはり彼がいうように、私の過去に彼が関わっているということなのだろうか?
「あなたは、超能力者か何かなんですか?」
「どうしてそう思われるんですか?」
 彼の表情にはやはり感情はなく、無垢といえば無垢なのだが、考えていることが分からないだけに、気持ち悪い。
「だって、さっきシーソーに乗っている時、あなた一人のはずなのに、あなたの方が上だったのを見たからですよ」
「ああ、あれですね。よく気が付きましたね」
「えっ?」
 確かに最初、
――何かおかしい――
 と、違和感を感じたが、その正体をすぐに悟ったわけではなかった。しかし、誰が考えても明らかにおかしい状況に、
「よく気が付きましたね」
 という言い方はないのではないだろうか。
「そりゃ、誰だって気が付きますよ。物理的に考えておかしいですからね」
「なるほど、じゃあ、亜衣さんは物理的に考えておかしいと感じたわけですか?」
「ええ、最初はあまりの状況に、何かがおかしいと思ったんですが、一瞬でそのおかしなことの理由にたどり着くことはできませんでした。ただ、それは目の前に展開されている状況が信じられるものではないという疑念が、目の前の光景を認めることができなかったんだと思います。それは私に限らず、他の人皆そうなんじゃないですか?」
「確かにあなたのいう通りです。でも、その考え方は亜衣さんらしくないじゃないですか」
「どういうことですか?」
「あなたは、自分が他の人とは違う考え方を持っていて、他の人の常識にとらわれたくないと思っているはずです。それなのに、『他の人皆同じじゃないですか?』というのは、私が考えるに、亜衣さんらしくないと思うんですよ。いわゆる『心理の矛盾』なんじゃないですか?」
 確かに彼の言うとおりである。
 しかし、あまりにも的を得ているので、すぐに認めたくないという思いがあったのも事実だ。彼と会ってからのこの短い時間であったが、亜衣は自分の中にある、
「他の人とは自分は違うんだ」
 という思いを忘れていたようだった。
 これは、亜衣にとって不覚ともいえるだろう。確かに忘れてしまっていたことも不覚であるが、それを他人から指摘されて初めて気が付くなど、亜衣のプライドが許さない気がした。
「でも、明らかにおかしな現象を認めるというのは、私の中では許せないことなんです」
「じゃあ、それが他の人と同じでも、それでも構わないと仰るんですか?」
「ええ」
 彼は一体何が言いたいのか、亜衣にはよく分からなかった。そのため、警戒心が強くなり、優先順位はどうしても目の前で起きた現象に対しての事実が先になってしまったのだ。
「僕は、あなたの言う超能力者なのかも知れませんが、それは別に不思議なことではない。それよりも、僕があなたに関係のある人間であるということの方が、あなたには気になっているんじゃありませんか?」
 まさしくその通りだ。手品であれば、どこかに種も仕掛けもあるはずだが、自分に関係のあるその人を、亜衣は見た記憶はないはずなのに、どこか気になってしまうのは、彼の言葉に重みがあるからなのだろうか?
 もし彼が超能力者であるとすれば、彼に暗示を掛けられているとも考えられる。ただ、超能力と呼ばれるものにはいくつもの種類があり、一口に超能力者だと言っている人が、そのすべてを網羅しているなどとは、端から考えているわけではない。
――超能力と言っても、何か一つに特化しているだけなんだわ――
 と思っている。
「どうやら、亜衣さんは分かっているようですね」
「何をですか?」
「超能力と呼ばれる人は、別に特別な人間というわけではないですよ。誰もが特殊能力というのを持っていて、それを使いきれていないだけなんです。そのことはあなたもご存知のことだと思います」
「ええ、人間の脳は、ほんの少ししか活用されていないという研究結果はよく知っています。だから、これだけたくさんの人間がいるんだから、少しくらいは、使われていない部分の脳の機能を使いこなしている人がいても別に不思議ではないですよね」
「その通りです。だから超能力者というのは逆に、特化した部分以外は他の人と同じなんですよ。中にはもっと繊細なのかも知れない。つまりは傷つきやすいとも言えるんですよね。超能力者としてテレビやマスコミに引っ張りだこだった人が今は悲惨な人生を歩んでいる人も少なくはないんです。そういう意味では人間というのは、おろかで残酷な人間だと言えるでしょう。なまじ考えたり感じたりしたことを直接感情として表に出す種族なのだから、それだけ人間という動物は弱いものだと言えるでしょう」
「あなたもそんな一人なんですか?」
「そうかも知れません」
 この話を聞いていると、同情的になってくる自分を感じた。
――この人も悲しい人なんだわ――
 と感じた。
 しかし次の瞬間、
――悲しい人という定義は何なんだろう?
 と感じた。
「あなたは、悲しい思いをされたことがあったんですか?」
 男は少しだけ考えて、
「いえ、悲しいと感じたことはありません」
 インターバルがもう少し長ければ、この言葉も信憑性に掛けたのだろうが、彼が考えているという雰囲気を亜衣が感じるまでには至らなかったことで、
――この人の言葉を信じるしかない――
 と感じた亜衣だった。
「あなたは、どうして今、このタイミングで私の前に現れたんですか?」
「運命というのは、そういうものなんじゃないですか? 出会いというのはそのほとんどはいきなり起こることです。数多い出会いの中で、これこそ私にとって運命の出会いだと感じるのは、後になってからのことでしょう? それは、出会いのインパクトがあるかないかだけの違いで、それ以外は同じなんですよ」
「感情もですか?」
「ええ、僕はそう思っています」
 ということは、彼には感情というものが欠如しているということであろうか?
――そんな風には見えないわ――
 と感じたが、考えてみれば、感情の欠落した人というのは実際に見たことはない。テレビや映画の登場人物で、感情の欠落した人というイメージの人間が出てくることがあるが、それはあくまでもフィクションだと思っている。実際にそんな人物に会ったことがないだけに、想像するための材料が必要なだけで、その材料はテレビや映画に頼るしかない。これも自分の感情の矛盾だと思いながらも想像してしまう。いかに人間というのは、弱いものなのだろうか。
――やっぱり私は暗示に掛かっているのだろうか?
 相手の男性は、自分に関係のある人だと言っている。ひょっとすると、その瞬間から亜衣は彼の術中に嵌ってしまったと言えるのではないだろうか。
――この人と話をしていると、信じられないと思ってきた今までの常識が覆されそうな気がする――
 彼は自分のすべてを知っているかのようだった。何といっても、自分がほかの人とは違うという理念を持っていることを看破したではないか。知り合いや友達に限らず、家族を含めたところで、どれだけの人が亜衣のそんな性格を知っているというのだろう。特に肉親などというものは、最初から信用していない。
――肉親だから――
 この言葉が最初にくれば、たいていのことには驚かされない。
「あなたの考えていることなんかお見通しよ」
 と言われても、信憑性を感じさせる。それだけ血の繋がりというのは何にも増して勝っているものなのだろう。
 しかし、亜衣はそんな血の繋がりに疑問を感じている。単純な疑問と言ってもいい。
――血が繋がっているだけで、どうして何でも分かるというのだ?
 亜衣は親に対して疑問以外の何も感じていない。
「お父さんやお母さんは、あなたのことをちゃんと分かっているわ」
 と言われ続けて育ってきた。
 その言葉が、子供に安心感を与えるものだということは大人になるにつれて理解できるようになったが、それがすべての子供に当て嵌まるとでも思っているのだとすれば、それはとんだお門違いである。
 もし、両親の子育ての考え方の根本に、そのお門違いの重いがあるのだとすれば、亜衣が感じている、
「私は他の人とは違う」
 という思いは、両親の感情からの反発で生まれたものなのかも知れない。
「誰から見ても恥ずかしくないような大人になりなさい」
 そんな言葉を何度聞かされたことか。
「誰の目から見ても」
 という件に、すべての疑問が含まれている。
 両親だって、自分たちが気に入らない人がいれば、
「人それぞれなんだから、相手に対して余計な気を遣ったり、怒ったりしても仕方のないことなのよ」
 と言っていたではないか。
 それを思うと、
「誰の目から見ても」
 という件は、明らかに矛盾していることになる。
 そんな親の言葉に子供の頃の亜衣は一時期惑わされていたが、
――親だって万能なんじゃない――
 と思うと、スーッと気が楽になってくるのを感じた。
 その頃から、自分が一匹オオカミではないかと感じるようになったが、その思いには最初から違和感はなかった。
 親の言葉に矛盾を感じる信憑性よりも、自分が一匹オオカミであることは信憑性があったのだ。
 そんなことを考えていると、亜衣は目の前の男の存在にそれほど疑問を感じなくなっていた。自分にどのような関係があるというのか少し怖い気もしたが、両親に感じた違和感に比べればよほどマシだったのだ。
「でも、やっぱりいきなりというのは、自分を納得させるまでに時間が掛かるんですね。いきなりを感じさせないような出現方法は、僕の中には考えられないものだったからですね」
「それは驚かせようという意図があったんですか?」
「驚かせようというよりも、亜衣さんの気持ちが純真なので、そこに訴えようという思いはありました。思った通り、あなたは僕の存在を頭から否定しようとはしませんでした。本当であれば、なかったことにしたいと思っても不思議のないことですからね」
「じゃあ、あなたには明らかな意図があって、私の前に現れたというわけですね?」
「ええ、あなたの前に現れるということは、僕にとってもリスクのあることなんです。そのことは今話をしても混乱するだけなので、おいおいするようにしましょうね」
 かなりの段階を踏まないと、彼の存在を亜衣が理解することは難しいのかも知れない。彼はそれでも、焦らすような言い方をしていたが、亜衣は必要以上に知りたいとは思っていない。肝心なことだけ分かればいいと思っていて、そのための準備段階を彼がどのように用意してくれるのか、それも楽しみであった。
「亜衣さんは、本当に落ち着いていらっしゃる。やっぱり僕の思った通りだ。おかげで僕も助かります。驚かれないだけでもありがたいと思っていたのに、やっぱり、あなたは素晴らしい」
「どういうことですか?」
「こんな状態でも、僕のことを貪欲に知りたいと思ってくれているでしょう?」
「こんな状態だから知りたいんですよ」
「いや普通であれば、こんな状態を自分に納得させるために僕を知りたいと感じるんでしょうけど、あなたは純粋に僕を知りたいと思ってくれている。それが僕には分かるので、素晴らしいと思ったんですよ」
 彼の話していることはくすぐったいほどのお世辞にしか聞こえないはずなのに、自分を納得させるだけの説得力を感じる。亜衣にとって彼が現れたことで何かが変わるのではないかと思わせるほどの力が彼の言葉にはあったのだ。
「このシーソーなんだけど、普通見ていれば、物理学に反しているので、信じられないと思うのは当然のこと。でも、このシーソーの先には見えていないだけで、確かに何かが存在しているということを亜衣さんは分かっているんじゃないですか?」
「ええ、どう考えても、納得のいく回答を得られないと考えると、それならば一番しっくりくる考えを導き出そうと思うのは当たり前のことだと思うんですよ。この場合は、もう一人誰かがこの場にいると考えた方がしっくりくると思っただけなんですが、おかしいですか?」
「いえ、そんなことはないですよ。では、あなたはそこに誰かが存在しているとお考えなんですね?」
「ええ、透明人間のような人が存在しているんじゃないかって思ったんです」
「その通りです。ただ、今ここでその人が誰なのかを公表してもまったく意味がないので、まずは亜衣さんの考えが間違っていないことをお話するにとどめましょう」
「ところで、あなたは一体誰なんですか? 私に関係があると仰ってましたが、あなたが私の前に現れたのは何かの意味があるんでしょう?」
「ええ、あなたは最初僕のことを超能力者だと思われたんでしょう? シーソーを見れば最初に感じることは僕に超能力があるという発想であってしかるべきですからね。でも、その後あなたは再度冷静になって考えた。そして透明人間という発想に行き着いたわけですね。でも、もうそれ以上の発想は、このシーソーからは浮かんでこない。それでは話を逸らすしかないと考えたあなたは、まず一番の疑問に感じていることを僕にぶつけてみることにした。それが僕の正体だということですね」
「その通りです。あなたは何でもお見通しなんですね?」
「でも、それはあなたにも言えることだと思います。失礼ですが今、あなたには信頼できる人がいない状況だと僕は思っています。人から信頼されていると思っていたことも、実は少し違っていると思うようになっているでしょう? 誰かに相談されたことも、前だったら自分を信頼して相談してくれることをこの上なく喜んでいたはずです。でも今は人から相談されるのも、体よく人に利用されているだけではないかと思っているはずですよね。それでも相談されると相談には乗ってしまう。相手が自分を選んでくれたということは、それだけ自分に自信を持っていいと感じているからであり、それが自分を納得させられることだと思うことで、いまさらながら自分の生きがいは、人から相談されたことに対して的確な回答をすることで得られる相手の信頼だと思っていることでしょう。でも、しょせんは自己満足。自己満足に生きることで、次第に人と話すことが億劫になってくる。自分の本心をそのうちに誰かに看破されてしまうのではないかと思うからではないでしょうか」
「ええ」
「でも、あなたは今僕に対して、最初に感じた不信感を何とか払拭することができたことに喜びを感じている。人を信じるということを思い出したような気がしているからなんでしょうが、それは相手が僕だからだという理由であれば、本当に人を信じるということを思い出したとはいえないのではないでしょうか? だから、あなたは今の一番の関心はこの僕が誰なのか、そして自分にどのような関わりがあるのかということを知りたいと思っていることなんでしょうね」
「……」
 亜衣は、目の前の男性に不信感はすでになくなっていた。しかし、それは彼が最初に、
「あなたに関わりがある」
 と言ったからで、関わりのない男性だと思うと、最初からこの男の存在を夢として解釈し、まずは他人事として相手を見ることに徹し、それができるようになると、その男の存在を打ち消そうとするのではないだろうか。夢として処分してしまえば、なかったことにできるのではないかと感じたのだ。
 ただ、夢として記憶してしまうと、いずれは思い出すこともあるだろう。その時に中途半端なままで終わってしまっていると、彼への思いは募るばかり。
――彼の正体をハッキリさせておかなかったことで、いつまでも気になってしまい、彼の存在が頭の中から消えることはないだろう――
 と感じるに違いない。
 それだけシーソーのシーンはセンセーショナルで、忘れたくても忘れられない事実として頭の中に残るに違いなかった。
――それにしても、どうして彼はこんなセンセーショナルな出会いの場面を演出したんだろう?
 亜衣は考えた。
 普通に現われればいいものを、なぜインパクトの強い現われ方をしたというのだろう?
 考えられることとして一つには、
「何か、判断を誤らせる必要があったのではないか?」
 と考えた。
 普段から冷静な人は、自分の理解を超える現象が起きた時、何とか自分の中の理屈に合わせようとする。それが合わない時は初めて超常現象として認識するように考えるのであろうが、彼の話を冷静に聞いていることで、少しずつ自分の理屈に合ってくるのを感じさせられる。
 それは相手の巧みな誘導なのではないだろうか。
 亜衣はそこまでは考えていたが、彼と話をしている中で、その理屈のすべてに、考えられることが二つ存在していることに気付いていた。
 シーソーのシーンでも、彼が超常現象を作り出したという発想と、もう一つは透明人間がそこに存在しているという考え方だ。
 亜衣の発想は、あくまでもスムーズな解釈ができることが前提で、そこから考えれば透明人間の発想の方が、しっくりと来る。
 亜衣がそのことを感じているのを、相手に看破された。それどころか、その先の発想まで見抜かれてしまっているのを感じると、亜衣は次第に彼の術中に嵌ってしまっているようだった。
 そのことも亜衣には分かっている気がした。それでも、亜衣は冷静に考えた。
――私にどうな関わりがあるというのか、それが彼の出現の本当の理由のはずであろうーー
 と、考えているのではないかと思ったのだ。
 モノの価値というのは、それを見ている人の判断から始まる。判断によって、そのものが自分にいかに関わっているのか、今後どのように関わろうとしているのか、それを見極めようとする。
 つまりは、モノの価値という言葉は、その人それぞれの考え方であって、一律に決めてしまわなければいけないのは、やはりその人それぞれなのだ、
――人の数だけ、モノの価値は存在する――
 と言っても過言ではないだろう。
 今日は、友達と話をして、久しぶりに遅くなったことで、深夜普段は出歩かない自分がここにいるのだ。
 普段であれば、こんな深夜に女性一人で出歩くなどという危険なことをするはずがないのに、いくら友達との話があったとはいえ、もっと他にやりようもあったというものだ。それも彼が知っていて、こんな演出をしたのだとすれば、今の自分は彼の手のひらの上で転がされているような気がしていた。
 それだけに彼の正体を知りたい。
 このままでは自分のプライドがズタズタになってしまうように感じたからだ。
 亜衣は、普段はあまり人に関わりたくないと思っているくせに、たまに今日のように友達の相談に乗ってあげなければいけないという衝動に駆られてみたり、自分が関わりたくなくとも、相手から関わるように仕向けられることがあった。特に他人から関わるように仕向けられた時などは、もちろん、自分の意思に反してのことだった。この日も、相手から関わるように仕向けられる自分を象徴しているような出来事ではないか。
――こんなことがあるから、なるべく人に関わりたくないのに――
 その思いは、一種の、
「負の連鎖」
 だった。
 ただ、それも亜衣は、
――まわりのことを何も見えていない自分が、人に関わりを持つとロクなことはない――
 と感じているからだった。
 しかし、逆に考えると、
――まわりのことがよく見えていないからこそ、人と関わることで、少しでも見えるようになれるのではないか?
 という考えも成り立つ。
 しかし、それは、人に対して自分に協力してもらえるような暗示を掛けなければいけないと思っているからで、信頼感がその暗示に繋がるという考えを持ち合わせていなかった。あくまでも人との関係は、損得勘定を抜きにして語ることができないものだと思っていたのだ。
 ただ、親友になる人だけは違っていて、
――親友に対しては感じたことをそのまま素直に表現すれば分かってくれる――
 と思っていた。
 自分が他の人と同じでは嫌だという考えを持っていることに気付いたのは、高校生になってからのことであり、就職してからしばらくその感情を忘れていた。
 勉強と違って仕事は、他人との協調なくしてできるものではない。そのことは最初から分かっていることで、そういえば、就職してから数ヵ月後、欝状態に陥ってしまったのを思い出していた。
「五月病というには、少し遅いくらいだわね」
 と、相談した女性事務員の先輩からはそう言われた。
「やはり五月病なんでしょうか?」
 と聞くと、
「五月病というのは、人それぞれで、誰もがなるというものでもなく、時期も一定しているわけではないわ。でもあなたの場合は少し遅いのかも知れない。なぜならあなたは仕事の覚えも遅いわけではない。他の人は仕事を覚えかけている最中に五月病を起こすものなのに、あなたの場合のように、ある程度まで仕事を覚えている段階での五月病というのは珍しいかも知れないわね」
「仕事を覚えたことで、少しだけ気が抜けた感じのところはありましたが、そこからどうして欝状態に陥ったのかとが分からないんですよ」
「欝状態にもいろいろあって、あなたの場合はどんな感じなの?」
「私は、何をするにも億劫で、本当は人に相談するのも億劫なはずなのに、先輩だけは違ってました。何となく分かってくれるような気がしたんです。どうしてなんでしょうね?」
「私もあなたと似たような状態だったのかも知れないわね。私の場合は、それまで持っていた自信が一回すべて瓦解したの。何をやるにしても、考えてしまうと、すぐに最初に戻ってしまう。抜け出すことのできない底なし沼に足を突っ込んでしまったような気がするの。その時に考えたのは、なぜか、底なし沼の底って、どうなっているのか? ってことだったの。これは冷静だったからなのか、それとも欝状態だったから、こんなおかしな発想になったのか分からない。でも、欝状態から抜けてみると、この発想は元々私の発想だったの。普段は分かっているつもりだったんだけど、本当は理解していなかった。そのことを思い出させてくれた欝状態というのは、私にとって、なくてはならない時間だったんだって思うようになったの」
「そんなものなんでしょうか?」
 投げやりな言い方になってしまったが、実際にはそうではない。他人事のように言うことで、自分の中にあった欝状態が別の人格を示しているということを暗示させようとしていたのだ。
「ええ、そんなもの。そしてあなたも、すぐにこの状態を抜けることになるわ。抜けたらこの時期を思い出してごらんなさい。決して悪かったとは思わないから」
 と先輩に言われ言葉を思い出していた。
――そうだわ。私の中で、無意味だとか、不可思議で理解できないことであっても、決し得t意味のないということは今までになかったんだわ――
 と思い知らされた。
 つまりは、彼の出現も何か大きな意味を秘めているのだろう。
 これからの自分の人生にどのように関わってくるのか、亜衣は覚悟をしていた。
 先ほど考えた、
「負の連鎖」
 とは、以前に罹った五月病のようなものではないだろうか。
 そう考えると、この負の連鎖も、何かの意味を持っていると考えてもいいだろう。
 負の連鎖を、人との関わりに限定していいものかどうか、亜衣は考えていた。人と関わらないことで得るものは、人と関わることで得られるものよりも大きいという判断から、人と関わることをやめていた。人に相談することは子供の頃からの癖のようになっていた亜衣は、人に相談しないで自分ひとりで考えた発想が、今は自分にいい影響を与えていると思っていたからだ。
 人に相談して得られる答えというのは、しょせん一般論でしかない。そのことを分かっていながら昔から誰かに相談していたのは、何かにぶつかった時、一人でいるのが怖かったからだ。
 人から言われる一般論が、傷ついた心を癒してくれる薬のように思っていた。特に学生時代というのは、勉強が主であり、誰かと協力するわけではなく、一人でこなしていくものだったからだ。
 孤独を辛いと感じていた時期というのは、思春期であり、精神的にも不安定である。どっちに転んでもおかしくない状態で、まるで天秤に載せられたような気分になっていた。思春期は人との関わりが一番大切で、相談したのも無理もないことだ。しかし、最後は一人にならなければいけないことに気付くと、人と関わることを億劫に感じる時期がやってくるのだ。
「俄かには信じてもらえないと思うが、実は僕は別の世界から来たんだ」
 急に男はそう口走った。
「どういうことなんですか? タイムマシンを使ってここまで来たというわけですか?」
――別の世界――
 という言葉を聞いた時、すぐに思いついたのはタイムマシンだった。次元という発想もあったが、なぜかそちらに発想が向かなかったのだ。
「どうなんでしょう」
 それまでハッキリと答えていた彼が少し言葉を濁した。
――何かある――
 と亜衣は感じたが、それよりも、彼に対して親近感を抱き始めてきたからだろうか、彼が正直者だという印象の方が強かった。
――次元を飛び越えるという発想なのかな?
 ただ、次元を飛び越えるということは、亜衣の発想の中ではパラレルワールドが感じられたが、その世界にも自分と同じ人間がいて、それを思うと、
――この世界にも彼と同じ人間が存在しているのではないか?
 とも考えられた。
 そんな発想をしているのに、亜衣はまだタイムマシンにこだわっていた。
「タイムマシンの開発はずっと以前からされていると思っていたんですが、なかなか開発されない。そこにはSFでいうような「タイムパラドックス」のようなものが存在していて、その問題が解決されないと、タイムマシンをもし作っても、実用化されないんじゃないかって思っていました。実際はどうだったんですか?」
「その問題は確かにありました。でも、それはそれまでに開発されそうでなかなか開発されないという物理的な理論を何とかごまかすために言われていたことなんですよ。それはタイムマシンだけに限ったことではありません。ロボット開発においても同じこと。僕のいた世界でも、すでにロボットは実用化されています。もちろん、『ロボット工学三原則』や、フレーム問題のような解決しなければいけない問題を解決した上での実用化なんですけどね」
「じゃあ、タイムパラドックスも解決したと思っていいんですか?」
「解決したというわけではありません。パラドックスを孕んでいることを踏まえた上での運用をしなければいけないという縛りがあります。だから、タイムマシンには行ってはいけない場所を覚えこませて、いけるところだけでいかに問題なく行動できるかということが焦点になっています」
「それでは何ら解決にはなっていないではないですか」
「そうですね。覚えこませている部分にも限界があります。要するにそれだけ理性と知識を持って行動できるかということが大切なんです」
「そんな簡単に実用を許可できる時代だったなんて」
「認可する省庁なんて、今も昔も変わりないんですよ。自分たちの都合でいかようにもできるようにする。歴史が証明しているじゃないですか」
「そうですよね。金や権力がいつの世だって強いんですよね。モラルや理性なんてどこにあるというんでしょう」
「そこに関しては僕も同じです。時代が変わっても人間に変わりはない。いかに時代の流れに乗れるかどうかということですね」
「あなたはタイムマシンを使うのは何度目なんですか?」
「何回か使用したことがあります。でもそれは自分の人生を顧みた時、今の自分の根本がどこから来ているのかという素朴な疑問をまず感じて、一度過去に行った時の自分を見て、さらに過去に遡って疑問を解決したいと思う気持ちが強まりました。タイムマシンを使うほどに、どんどん真剣になっていった気がします」
「この時代に来たのは偶然というわけではないんですね?」
「ええ、僕の先祖は、それぞれの代に、いくつかのターニングポイントを持っています。僕はその人それぞれのターニングポイントを遡るのではなく、過去から未来に見つめていこうと思っているんです」
「私にもいくつかのターニングポイントがあるわけですね」
「ええ、そうです」
「じゃあ、今がその第一回目だということなんでしょうか?」
「いいえ、違います。あなたには過去にもターニングポイントがありました。意識がないため、漠然としているのかも知れませんが、確かにあったんです」
「ひょっとして、小学生の時、友達が行方不明になった時のことでしょうか?」
「ええ、そうです」
 あれは、小学三年生の時のことだった。
 友達数人と鬼ごっこをしていて、一人の少年が見つからず、夜中大人たちが探し回ったことがあったが、翌朝、日の出を過ぎたくらいの時間に、フラリとその子が家に帰ってきたことがあった。その友達は疲れ果てていて、声を出すこともできず、大人たちは、
「落ち着くまで話を聞くのを待ってみよう」
 と言っていたのだが、その子が落ち着いた時には、すでに記憶は消えていた。
 どこで何をしていたのか分からない。そんな彼がじっと見つめる視線の先にはいつも亜衣がいた。
「亜衣ちゃんの顔を見ていると思い出せるかも知れない」
 と言っていたが、結局思い出すことはなく、亜衣もそのうちにそんなことがあったなどということを忘れてしまっていた。
 しかし、なぜか定期的に思い出していた。タイミングはさまざまで、そこに共通点はなかったのである。
「この世であなたたちが知っている世界というのは、まだ四次元の世界は架空のものになっているわけですね?」
「ええ、でもあなたの今のお話を聞いていると、まるで未来からやってきたかのように聞こえるんですが、そうなんですか?」
「今、亜衣さんが未来だと思っている感覚は少し違っていると思います。どちらかというとパラレルワールドに近いんですよ。ただ、未来であることには変わりないと思います。でも、考えておられるイメージとはいまいち違っているんです」
「言っている意味がよく分かりません」
 亜衣が分からないと言っている言葉の意味を知ってか知らずか、男は話を続けた。
「タイムマシンという言葉とは少し違いますね。時間を飛び越えたわけではなく、次元を飛び越えたと言っていいと思います。ただ、タイムマシンという言葉もあながち間違いではないんですよ。僕の存在は今ここにいる時間とは違った時間で違う次元に存在しているんです」
「ということは、あなたは次元と時間を一緒に飛び越えたというわけですか?」
「そういうことになりますが、厳密には違います。次元と時間は一緒には飛び越えられないんです。どちらかを先に行って、どちらかを後に行う。その順番はどちらが最初でも構わないんですが、元いたところに戻ると時には、その逆をしなければいけません」
「あなたは、どうやって来られたんですか?」
「僕は、まず次元を最初に飛び越えてから、時間を超えました。なぜなら、先に過去に来てしまうと、その世界の過去を変えてしまうかも知れないと思ったからです。最初に未来の世界に到達し、すぐに過去に向かえば、その問題はないからですね」
「戻る時は逆になるから、やはり問題になるんじゃないんですか?」
「ええ、でも、先に時間を超えるのは未来に対してなので、過去で起こしたことが影響しているのかどうか分からないでしょう。それであれば問題ないんです」
「それって証明されているんですか?」
「ええ、僕たちの世界では証明されています。近未来であっても、あなたたちのこの世界よりも数百年ほど科学の進歩はあるんです。ただ、それもこちらの時代がすべてベースになっているので、向こうの世界からは、絶えずこちらの時代を見張っている部署があるんです」
「じゃあ、ずっと守られてきた世界だということですか?」
「そうですね。でも、すべてをいい方に導くことは不可能です」
「どうしてですか?」
「だって、あなたたちも個人で各々が生きているわけではないでしょう? 少なくとも誰かに関わって生きているわけですよね。つまりは人が増えれば増えるほど、何かが起こった時、その人たちのすべてを満足させることができる解決方法なんてないわけでしょう?」
「確かにそうですよね。必ずどこかで妥協のようなものがあって、落とし所を探しているわけですよね。そのために話し合ったりするわけですからね」
「それが国家単位になると、政府同士の会談だったり、政府内の決めごとだったり、世界共通の平和のための設立機関だったりするわけですよね。考えてもみてください。新聞が書く記事がなくて休刊になったり、ページ数がいきなり減ったりすることはないでしょう? 必ずと言っていいほど、毎日一面を飾るにふさわしいニュースが起こっている。それだけ人が増えてくるといろいろな紛争やもめごとが多くなるというわけです。しかも、一人が二人になったから単純に倍になるというような単純なものではなく、人数が増えるほど、関係が複雑になってきて、その分、もめ事も増えるはずです。それを一つ一つ解決することは度台無理なことであって、落とし所をどこにするかで決まることが多いんじゃないですか?」
 彼のいうことはもっともだった。
 亜衣も彼の言っていることを理解しているつもりだったが、果たしていつも頭の中にあっただろうか? 急に思い立ったように感じるだけで、その都度感じてすぐに忘れてしまう。
――それが人間なんだ――
 と亜衣は感じていた。
「今までの歴史の中で繰り広げられてきた戦争というのは、仕方がなかったと言っているように聞こえますが?」
「この問題は究極の問題を孕んでいるので、余計なことを軽々しくは言えません。そこは忖度してください」
 正直者の彼も、さすがにここでは口をつぐんでしまった。
「分かりました」
 と亜衣は答えたが、
「でも、向こうの世界、つまり僕のいた世界でも、もちろん歴史の流れはありますが、こっちの世界の影響を受けていることも間違いないんです。ある意味、こちらの世界が反面教師になっているといっても過言ではないんです」
「あれ? おかしくないですか?」
「というと?」
「あなたはさっき、あなたのいた世界が近未来だとおっしゃいましたよね。それなのに、こちらの時代の影響を未来のあなたが受けているんですか?」
「僕が受けている時代は、この世界の未来のことなんです。僕がここに現れたのは、別に今自分が受けている世界を見に来たわけではないんです」
「当然何か目的があってこっちに来られたんですよね? 今までのお話を窺っていると、未来に起こることを何とかしないと、あなたの世界におかしな影響が起こるということになるんですよね?」
「端的にいえば、そういうことですね。でも、これはあくまで僕個人の問題であって、世間レベルではないんです。だから、本当はいけないことになるんでしょうが、僕はそれを敢えて何とかしなければと感じたんです。そのために、まずはいろいろなことを調べてからになると思い、ある程度のことは調べてきました。今ここで話すわけにはいきませんが、あなたの将来のこと、あなたのまわりの将来のこと、そして、この世界の将来のこと、いろいろ調べてきました」
 そう言って嘯いている彼の表情は真剣そのものだった。元々、正直者だという意識が強かったのでそれほどビックリはしなかったが、今まで知っている中で彼のような人間を見たことがないだけに、ビックリさせられても不思議はなかった。
「ところで、あなたを見ていると、私は本当に正直者だという印象が強いんですが、あなたの次元の世界の人って、そういう人が多いんですか?」
 彼はニッコリと笑って、
「そうですね。正直者が多いと思います。昔はそんなことはなかったんですよ。人を欺くことを何とも思わない人だったり、欺かなければ自分が騙されてしまうという発想が蔓延している時代が長く続いたりしていたようなんです」
「それはあなたの世界の理念が変わったということなんですか? あなたの次元の歴史によって変わったと考えていいんでしょうか?」
「時代が変わり、人々の考えが変化していくには、残念ながらその世界のその時代の影響だけでは変えることは難しいんです。だから時代が変わったりする時には、何らかの影響があるんです。特に政権が交代する時など、クーデターが起こったりしていますよね。あれは他の世界の人間が影響を与えているからクーデターが起こるんです」
「でも、失敗もありますよね」
「それはそうです。だって、クーデターを起こされては困るという人も他の次元の人にはいるわけですから、クーデターを起こされた方にも、別の世界から影響があってしかるべきです。つまりクーデターは、別の世界から影響を受けた『代理戦争』のようなものだと言えるのではないでしょうか?」
「そうなんですね」
「僕がこの世界に来て一番ビックリしたのは、一般市民の歴史認識の低さなんです。歴史を学校で教えるというのは、実に画期的なことであるにも関わらず、当の生徒たちは歴史を真面目に勉強しようとは思わない。どうしてなんでしょうね?」
「歴史を暗記の学問だと教えられているからなんじゃないでしょうか? 年号や出来事を覚えて、教える方も、それを試験にする。時系列はただの年表であり、出来事の一つ一つがいかに結びついているかなど関係ない。そこに問題があるんじゃないかって私は思うんですよ」
「なるほど、歴史を押し付けられているという感覚なんですね?」
「ええ、その通りです」
「歴史というのは、過去の人たちが身を持って証明してきたことを、今の人が学んでいるです。その意識をしっかいり持たなければ、歴史を勉強しても、それは絵に書いた餅にしか過ぎません」
「それでも歴史を勉強しないよりはいいのでは?」
「きっと、それは歴史というものの怖さを知らないから言えるんでしょうね。僕の世界の歴史も、この世界の歴史も、そんなに違いがあるわけではないんです。しいていえば、どちらの世界も、光であり影であるんです。どちらかが表に出ている時は影になり、逆に影になってしまうと、相手が表に出てくるわけです」
「その裏表って、どういう定義なんですか?」
「これはたとえ話なので、定義というわけではないんですが、ある意味、反面教師のようなイメージで考えていただければいいのではないかと思います。我々の世界でもクーデターというものが結構起こりました。その時、どちらが正義でどちらが悪なのかというのは、その時には誰も分かりません。分かっているつもりになっていても、それは本当の回答ではなく、クーデターを起こした人たちもそのことは身に沁みていたはずなんです。その時の首謀者の言葉として、『必ず歴史が答えを出してくれる』と言っていたのが印象的でした。彼らはそうやって死んでいったんです」
「歴史は答えを出してくれたんですか?」
 と、亜衣が聞くと、
「あなたはどう思いますか?」
 と、逆に聞き返された。
「どうって……。時代が進んでいる限り、永遠に答えなんて出ないような気がするんですが……」
 というと、彼はニッコリ笑って、
「その通りだと僕も思います。歴史が終わって初めてその時にしか答えは出ないと思います。でも歴史が終わると、その時点で答えを確認する人もいませんよね。これって実に矛盾したことであり、これこそがタイムパラドックスのような気がしませんか?」
「ええ、そうですね」
「そうなんです。歴史というのは、矛盾だらけの学問なんです。だから、永遠に研究され続ける。新しいことが見つかっても、そこからもすでに歴史は動いているんです。未来は現在になり、そして一瞬にして過去になる。現在が一番短くて、本当の一瞬なんですよ。歴史というのは、その現在の積み重ねであり、しかも、人それぞれに違っている。平面は無限に繋がり、時間も無限に繋がっていく。次元というのはそういうものが一つ一つ重なったものなのではないかと思うと、実に面白いです」
「ここまで来ると、歴史も科学の一種のように思えます。そういう意味で考えると、学問というのは、すべてがどこかで繋がっているんじゃないかって思えてきますよね」
 亜衣は、これまでこのような話を誰かとしたことはなかった。
 元々、人と関わりたくないと思っているわけなので、話をすることが億劫だとまで思っていた。しかし、実際にはこのような話をし始めると、止まらなくなる自分の性格を分かっていなかっただけなのだと感じていた。
「僕の世界の人たちは、本当は正直者ではないんです。それはあなたがこの世界の人間だから正直者に見えるだけで、ただ余計なことを考えないようになっているだけなんです。もちろん歴史認識の強さはこちらの時代の人と比べ物にはなりませんが、歴史を勉強すればするほど、頭の中は淡白になってしまっているんです」
「それはどういうことですか?」
「頭の回転や機転が利くという意味では、僕たちの世界の人間の方が優れていますが、こちらの人間のように、感情的にはなりません。それがいいことなのか悪いことなのか僕には分からないんですが、亜衣さんなら少しは分かってくれるのではないかと思っています」
「私に分かりますでしょうか?」
「僕はそう思います」
 ここで少し会話が止まってしまった。
 しかし、数秒もしないうちに彼はまた話し始めたが、亜衣にとってその数秒は、永遠に続く沈黙に思えただけに、彼が声を発した瞬間、心臓が止まりそうになるほど、ビックリしてしまった。
「僕たちの世界は、ついこの間まで、まわりの人を見る目の最優先順位として、自分との優越がありました。それはいつも仲良くしているように見えている友達が相手でも、自分が優れている部分、自分の方が劣っている部分、それぞれを見つけ出そうとしているんです。分かっているはずの部分も、数日会わなかっただけで、もう一度確認してみようとすら思うほど、優越を確かめようとします」
「それは、自分に自信がないからですか?」
「そうかも知れません。何度も何度も確認する感覚は、きっと自分に自信がないからでしょう。しかも、相手も同じことを考えているというのが分かっているだけに、相手よりも少しでも自分が優れているということを確認することが一番自分に満足を与えられることになるんです」
「それって自己満足ですよね?」
「ええ、その通りです。あなた方の世界では、自己満足を悪いことだとして決め付けているようですが、果たしてそうでしょうか? 私たちの世界の人たちは、自己満足を決して悪いことだとは思っていません。『自分で満足もできないことを、どうして相手に満足させることができるのか?』というのが僕たちの世界の考え方です。こちらの世界の人は、そうは思わないんでしょうか?」
「そんなことはないと思います。でも自己満足という言葉を聞くと、聞いただけでその人はきっと顔をしかめて嫌な気分になるんじゃないでしょうか? 事故を殺してでも相手に満足させるのを美徳のように感じているからですね」
「ただ、それも、この世界のすべての人というわけではないですよね。人種や民族性が違えば、考え方も違ってくる。それをすぐに気が付かないのは、それだけこちらの世界の人間が、閉鎖的な考え方を持っているということなんでしょうね」
「それは言えているかも知れません。だからこそ、過去には戦争があったり、民族主義の時代があったりしたんでしょうね」
「あなたは、どうなんですか? 他の民族をどのように見ていますか?」
 改まって聞かれると、それまで自分の中で燻っていた思いが溢れてくるような気がした。その思いがある意味差別的であるのは分かっていたが、本当は口に出さないだけで、誰もが感じている思いではないかと感じていた。
「私たち、日本人はどうしても島国の感情があるからなのか、他の民族とはあまり協調性がないかも知れません。いえ、他の人はどうでもいいんです。私個人の意見で言えば、他の民族を認めたくないほどに感じることがよくあります」
「それは、マナーや考え方の面からですね?」
「ええ、そうです。民族に差別があってはいけないと学校で習いましたが、その教育も今から思えば、何かとってつけたような気がします。その証拠に世界で今までに起こった戦争の多くは、民族間の戦争ではないですか。お互いに相容れない思いがあるから、戦争をしてでも自分たちの主義主張を求めようとする。そこに宗教が絡んでくるから、余計にややこしくなるんじゃないかって私は感じています」
「なるほど、そうですね。僕たちの世界もそうでした。民族間の紛争で、先進国の人たちは、相手を下等民族として見下していたのに対し、下等民族の方も、自分たちが下等民族だという意識を持っているので、結果として衝突は免れないんですよね。歴史が進んで、先進国がそれぞれに下等民族の独立を認めるようになると、それまで植民地化されていた地域の人は紛争が絶えない国になってしまった。中には先進国の仲間入りした国もあるんですが、そんな国は急進的に発展して行ったので、国民の感情がついてこなかったんでしょうね。考え方はまだまだ下等民族なのに、先進国に土足で上がりこむような態度を取ってくるようになる。先進国は自分たちが優れていると思っているから、そんな連中を、『民族性の違い』と言って、大目に見ているんでしょうが、その実は、『この劣等民族民め』と心の底で感じているんでしょう。ついには下等民族は先進国から追い出されるようになり、結局自国に引き篭もる。過去には植民地化されて栄えていた後進国も、先進国の援助が得られずに、次第に滅んでくる。もちろん、それまでの国民感情があるので、そんな後進国を支援しようなどという国は現われるわけはない。言葉では、『後進国を援助』と謳っていても、誰も本気で活動しようなんて思わない。そのうちに後進国同士で戦争を重ね、最後には滅んでしまう。そうなると、待っていたかのように、その残された土地を先進国は無血で占領することができるわけです。これって、悪いことなんだって思いますか?」
 亜衣は少し考えていた。
 自分たちの世界の未来を聞いているようで、実はスッキリした気分で聞いていた。亜衣は、実際に日本に来ている外国の連中を快く思っていなかった。
 観光でやってきている連中が、自分たちの地盤を荒らし続けている現象を、自治体は自分たちの利益になるからなのか分からないが、外国人観光客の多いことをいいことに、自分たちの地域を「国際都市」と言って宣伝している。
 しかし実際には、マナーなど欠片もない連中が多く、実際に住んでいる日本人が肩身の狭い思いをしているのも事実だった。亜衣はそんな連中を、
「民族性の違いだなんて言葉で許されるもんじゃないわ」
 と思っていた。
 しかし、そう感じているのはどうやら自分と少数の人間だけのようで、迷惑をかけられようが外人連中に対してあくまでも、
「民族性の違いなんだから仕方がない」
 と言っている。
 そんな日本人連中の態度を見ている限り、どう見ても他人事のようにしか見えず、
――私が他の人と関わりたくないと感じたことに間違いはないんだわ――
 と感じさせられるばかりだった。
 元々亜衣も、別に外国人が最初から嫌いだったわけではない。過去に自分のプライドを傷つけられるような出来事があったからで、それは子供の頃のことだった。
 子供の頃はむしろ外国人の子供がクラスにいると、自分から友達になるような少女だった。
 あれは、友達になった外国人から誕生日のパーティに招待された時のことだった。その友達の父親は外交官で、民族的には劣等民族に当たる国の外交官だった。
 それでも、外交官という高い地位にある人だけあって紳士的で、お母さんも彼女も、日本人に比べてもしっかりして見えていた。
 しかし、実際にパーティに呼ばれた人を見ていると、日本人の子供のマナーの悪さも目立っていたが、それよりも、同じ国からやってきている子供たちを見ていると、同じ人間かと思うほどの民族性の違いに驚かされた。
 その時にパーティに行った日本人の同級生たちは、大人になるにつれて、しっかりとしたマナーを身に着けていったのに対し、外国人の連中は、まったく変わっていなかった。
 高校生になった頃、亜衣はふとしたことで、その時の外国人連中が、自分のことを、まるで冷徹人間のようにウワサしているという話を人づてに聞かされた。その時、亜衣は自分のプライドを傷つけられた気がしたのと、さらには、人づてに聞かされたことで、自分の中で人と関わりたくないという思いが決定的になったのを感じた。
――やっぱり自分の感じていたことに間違いはなかった――
 と、人と関わりたくないと思っていたことに対して、自分の正当性が証明されたと思ったのだ。
 亜衣は、彼の話を聞きながら、その時のことを思い出していた。
――どこの世界も同じなんだ――
 と感じたが、
――彼が私と関係があると言っていたけど、この性格に関係があるのかしら?
 という思いがふと頭をよぎった。
 亜衣はそのことを聞きただそうかと思ったが、どのように切り出していいのか分からない。とりあえず、彼の話をすべて聞いてからでも遅くないと感じたのだ。
「あなたのいる世界は、私たちのこの世界よりも数段進んだ世界なんですね?」
 と亜衣がいうと、
「確かにそうかも知れません。でも、進んでいることがいいことなのか悪いことなのかはさっきの歴史が答えを出すという意味では終わってみなければ分かりません。ただ、このままいけば、この世界も私たちの世界と同じような運命を辿るのではないかと思うんです。僕にはその確率は限りなく高いと思っています」
「私もそれは感じます。あなたの話には説得力があるので、私が理解するよりも先に、当たり前のように聞こえてきて、ついつい理解しようという思いが疎かになってしまいそうで怖いんです」
「それは分かります。僕があなたの立場だったらそうでしょうね。何といっても、いきなり別の次元から来たと言われて、ビックリしないわけはないですからね。でも、亜衣さんは僕の話を分かっているように思えたんです。だから、こんな話、亜衣さんにしかできないって僕は思っています。そういう意味では、僕は亜衣さんと会えて本当によかったと思っているんですよ」
 その言葉を聞いて、亜衣は不思議に感じた。
「あれ? あなたは私を探して、私の前に現われてくれたんじゃないですか?」
「ええ、そうですよ。でも、会って話をしようと最初から思っていたわけではないんです。まずは亜衣さんがどんな人なのかを確かめて話をしようと思っていたんですが、会って話を聞くのを最初にする方がいいと思うようになったんです。だから、僕は予備知識としての亜衣さんのことはほとんど知りません。僕たちの世界からでも、亜衣さんの予備知識を自分の頭の中に植え込むことは、それほど難しいことではないんですよ。それほど科学は発展しています。何しろタイムマシンも、ロボットも存在している世界ですからね」
 そういって、彼は亜衣に自分が亜衣の何も知らないということを告白した。
「あなたは、最初から私のことをほとんど知らないということを告白しようと思っていたんですか?」
「ええ、それは思っていました。ただ、どのタイミングで話をしようか、自分でも迷っていたんです。やっぱり、言葉の合間に紛れ込ませるのが一番いいとは思っていましたが、それに亜衣さんが気付いてくれるかどうか、それが問題でした」
「まあ、私の方も、知らないでいいことは知りたくはないからですね。特に未来のこととなると、知ってしまってせっかくの自分を殺してしまうことになりますからね。過去のことにしても、下手に知られてしまい、本当の私を見誤らないとも限らないので、そういう意味でも過去のことを知られるのもいやですからね」
「でも、こうやってお話をしてくると、亜衣さんの性格が分かってくるようですね」
「どういう性格ですか?」
「正直、この世界ではどういう性格がいい性格なのかということは僕には分からないです。だから、失礼に当たるかも知れませんが、あくまでも僕の偏見になるかも知れませんが、それでもいいですか?」
「ええ、もちろんです。この世界にいても、私だって、どんな性格がいい性格なのかなんて分かりません。一般的に言われていることはあるとは思いますが、それだって、私には信憑性が感じられないんです」
「やっぱり、亜衣さんは他の人とは違っているんだっていう意識があるんですね。実は僕も似たところがあるので、その気持ちはよく分かるんです。僕の場合は世の中全体に嫌気が差しているというところがあるので、ついつい誰であろうと逆らってみたくなるんです。まるで子供でしょう?」
 と言いながら、彼はニッコリと笑った。その表情はいかにも子供であり、それでもあどけなさの中に新鮮さを感じた。
 自分の知らない世界からやってきたというだけで尊敬の念を抱いている亜衣には、新鮮さと尊敬が結びついている自分の感覚がいつもと少し違っているのを感じた。
――そういえば、最近では人を尊敬するなんて感覚、味わったことがなかったわ――
 子供の頃にはあったような気がする。同じクラスの友達に、尊敬できる人がいたからだ。その友達は、普段から誰とも接することはなく、亜衣が話しかけると素直に話を聞いてくれたり、助言などをしてくれるのだが、その様子には温かみは感じられず、冷静さしかなかった。
――尊敬できる人というのは、温かみよりも、冷静さに感じるものなんだわ――
 と亜衣は感じていた。
 小学生の頃というと、漫画ばかり見ていた。テレビで見るアニメではなく、単行本ばかりだった。
「動く映像は分かりやすいのだけど、何か面白みがないのよ」
 というと、その友達は、
「そうだね。私も単行本ばかり読んでいるけど、アニメはあまり見ないの」
「同じだね」
 と言って微笑むと、彼女は同じように微笑んでくれたが、その表情は、心から微笑んでいるようには思えなかった。
 それを見て、亜衣は自分の思いを話した。
「自分が読んでいた漫画が、テレビアニメ化されるというので、楽しみにしていたんだけど、実際にアニメ化された映像を見ていると、どこか面白くないのよね。どうしてなんでしょうね」
 と聞くと、
「それはきっと、亜衣ちゃんの想像力が、映像の力に及んでいないからなんじゃないかしら?」
「どういうこと? それって逆なんじゃないの?」
 と言うと、
「ほら、亜衣ちゃんはちゃんと自分で分かっているじゃない。そうなのよ。亜衣ちゃんの想像力にアニメの方がついてこれていないのよね。でも、それって、誰もが感じることなのよ。漫画から入った人は皆、映像を見て、どこか物足りないって思うものなの。そしてその時に感じるのは、自分の想像力に、映像がついてこない。つまりは、映像の限界のようなものを感じるんじゃないかしら?」
「ええ、確かにそうだわ」
――彼女は何を言いたいんだろう?
 という思いを感じながら、彼女の言葉を待っていた。
「でもね、亜衣ちゃんは、自分の中で矛盾を感じていることに気付いていないのかも知れないけど、亜衣ちゃんは他の人と同じでは嫌だって思っているのよ。だから、私に『どうしてなんでしょうね?』などという質問をしてきたの。私に認めてもらうことで、同じことを考えていても、他の人よりも先に進んでいると思いたいからなのね。でも、それも結局は他の誰もが感じていることなので、五十歩百歩、そんなに違いのないことなのよ」
 亜衣の期待している答えとは違い、実に冷たくいい放たれたような気がした。しかし、同じ冷徹に見えても、冷静さが救いになることもあるようで、言われて初めて気づくことがあることを教えてくれた。
――本当は私だって分かっているのよ――
 と感じながらも、それを否定する自分がいる。
 そんな自分をも含めて見てくれている彼女は、他の人にはない心に触れる心地よさがある。それが暖かさに勝るとも劣らない感覚に、亜衣は彼女だけを親友として、小学生時代を過ごした。
 まだ思春期にはほど遠い頃だったが、子供とはいえ、そこまで考えていた自分を、亜衣は、
――あれって本当に自分だったんだろうか?
 と感じるほどだ。
 あの時の自分は、思春期を迎えると鳴りを潜めてしまったような気がする。急にいろいろなことが不安になり、まわりの人が皆自分より優秀に見えてきたのだ。それまでの亜衣は、
――他の人よりも自分は優れているんだ――
 と思っていた。
 それは、その時の親友がいたからだ。彼女が自分のそばにいてくれるだけで、自分は他の誰よりも優れていると思っていた。唯一親友とだけは、甲乙つけがたいものであり、それでも彼女よりは劣っているとは思っていなかった。
 それなのに、理由もなく、まわりの皆が優れているように思えてくると、それまでの自分の中にあった基盤のようなものが音を立てて崩れていくのを感じてしまった。
――どうしてなのかしら?
 一旦不安に感じてしまうと、不安が不安を増幅し、
――募ってくる――
 などという言葉では片付けられないほどになっているようだった。
「これが思春期というものなのよ」
 と親友から言われると、
「あなたも、そうなの?」
「ええ」
 その言葉を聞いて、亜衣は急に我に返った。そして、不安の原因などもうどうでもよくなってきた。後は五月病になった時に思い出したような「負の連鎖」に陥ることになるのだが、そのせいもあってか、親友とは距離を置くようになった。
 これが、今、亜衣が思い出した記憶だった……。
 五月病に罹った時に思い出した記憶とは違っているかも知れない。しかし、違っている中でもその時々に思い出す内容の真髄に変わりはないだろう。
 自分だって、過去の記憶に曖昧なところがあるのだ。それをまったく今まで知らなかった相手を調査したからと言って、どこまで分かるというのだろう。予備知識として知っておくことは大切な場合もあるだろうが、下手な先入観に繋がってしまったり、誤解してしまったまま出会ったとすれば、そこから先は、
――交わることのない平行線――
 を描くことになるのかも知れない。
 それを思うと亜衣は、、
「あなたのことを何も知らない」
 と言った彼のその言葉に、暖かさを感じていたのだ。
「あなたとは、前から知り合いだったような気がするわ」
 と、亜衣は彼に対して口にした。
「僕もそんな感じがしていたんだ。でも、この言葉を口にするのは、偶然に出会って、そこに運命を感じた時に使う言葉のような気がして、少し気が引けていたんだ。言葉に出してしまうと、何だか軽く感じられてしまうのは、僕だけなんだろうか?」
 亜衣は、彼のその言葉を聞いて、さっきまでの自信に溢れていた雰囲気が少し変わってきたのを感じた。
――まるで、子供のような素直さ――
 彼には最初から素直さを感じていたが、それはあくまでも、自分から見て、たくましさが感じられる素直さだった。それまでに感じたことのないたくましさの中の素直さ、そちらの方が違和感があるはずなのに、今感じている子供のような素直さは、今までに感じなかった彼に対しての初めての違和感のように思えた。
――どうしたのかしら?
 それはきっと、
「前から知り合いだったような気がする」
 と言った言葉が、自分の意思から出てきたものではなく、無意識によるものだったからに違いない。
「亜衣さんは、自分が透明人間になってみたいって思ったことありますか?」
 と、唐突に言われてビックリしたが、考えてみれば、いきなりではない。彼を最初に見た時に、シーソーに乗った透明人間を想像したではないか。
 ということは、
――自分の中で、出会ってからの時間が果てしなく続いていたような気がしているからなのかしら?
 と感じているのだろう。
 さっき感じた、
――初めて会ったような気がしない――
 という思いは、この果てしない時間の流れの中で、どこか中略のような感覚があり、それが最初の頃の彼が、だいぶ前に会ったという感覚に陥らせたのかも知れないと感じたのだろう。
 そう思うと、彼が言った言葉の意味も分からなくはない。
 確かに偶然出会って、そこに運命を感じるということはあるのだろうが、運命的なものではなく、ただ前にも会ったような感覚に感じるのは、それだけ、時間の感覚がマヒするほど、ずっと一緒にいたと思っているからなのかも知れない。
――やっぱり彼は子供のような素直さがあるのではなく、大人になってからも、素直な気持ちが変わっていないということなのかも知れないわ――
 この感覚は、彼の素直さが、
――子供のような素直さではない――
 ということであろう。
 普通の人であれば、大人になってから素直さを持っていたとしても、それは子供の頃の素直さとは違うものである。なぜなら、その間に思春期が存在し、思春期という現象は、子供の頃の感覚をそのまま大人になるまで残しておくほど、生易しいものではないと思っている。
 確かに亜衣は彼の子供の頃のことを知らないから何とも言えないのだが、彼の今の素直さは、子供の頃に持っていたと思われる素直さと変わりがないように思える。だから、彼には、
――子供のような素直さ――
 というものは存在しないのだ。
――これが彼の存在していた世界の人間性なんだろうか?
 亜衣はいろいろ考えてみたが、そんな亜衣の気持ちを知ってか知らずか、彼は亜衣が頭の中を整理しているのを黙って見ていた。
 さすがに亜衣も、整理がついてはいなかったが、何かを答えなければいけないと思い、
「透明人間になってみたいって思ったのは、子供の頃が最後でした」
 この答えにウソはなかった。
 子供の頃には、自分が透明人間になって、何をしたいかと聞かれて、別に理由はないとしか答えていなかったが、本当は、一つだけしてみたいことがあった。きっとそれは誰もが考えることではないだろう。もちろん、考える人もいたかも知れないが、まず最初に感じることではないだろう。
「透明人間になれるとしたら。何をしたい?」
 と、小学生の時、授業中に担任の先生から言われたことがあり、他のクラスメイトは、
「スカートめくりがしたい」
 などと言ったふとときな答えをする男子もいたが、要するに目の前の欲望を叶えたいというのが一番の意見だった。
 先生も苦笑しながらも、みんなの答えに満足そうだったが、亜衣は少し違ったことを考えていた。
「私は、鏡を見てみたい」
 と答えたのだが、最初は皆、笑っていた。
「鏡を見たって、誰も映ってなんかいないさ」
 とクラスメイトから言われたが、
「本当にそうかしら?」
 と、担任の先生がそういうと、皆黙り込んでしまい、考え込んでいたようだ。
 亜衣もそのまま考え込んでしまい、クラス全体が重い雰囲気に包まれたが、すぐに先生が、
「それも一つの考えよ」
 と、自分のさっきの言葉を和らげるような発言をしたので、場の雰囲気は元に戻った。しかし、その時先生が亜衣の顔を凝視していて、視線を合わせることができなかったのを亜衣は覚えていたのだ。
 透明人間になってみたいとは思っていなかったが、自分の存在を消してしまいたいた思うことはしょっちゅうだった。それは、目の前にいても、誰にも気付かれないような影の薄いと呼ばれるような人間、たとえば、目の前にあっても、誰にも気にされることのない道端に落ちている石だったりする。
 そんな思いは誰にも言えない。もし言ったとすれば、
「何て寂しいことを言うの。そんなネガティブでは何もできないわよ」
 と言われることだろう。
 亜衣は、他の人と同じでは嫌だと思っているくせに、人の言葉には敏感だった。だから人との接触を断ち、自分ひとりの考えに固執していた。数年前までは、人と関わるのが嫌ではあったが、自分ひとりの考えに固執するようなことはなかった。就職してから変わったに違いない。
 自分の性格の変化がいつ起こったのか、自分でハッキリと把握しているわけではない。把握していないだけに、
――いつ元に戻るかも知れない――
 という思いが頭をよぎり、元に戻ることも悪いことではないと思っている。
――元に戻ろうが、今のままであろうが、どちらでもいい――
 と亜衣は思っているが、別に気持ちに余裕があるからではない。先のことは自分では分からないという思いがあるからだ。今で精一杯なので、先のことは分からないという思いが強く、
「将来のことも視野に入れて考えていかなければ成長はないわ」
 と言っている、自称ポジティブな性格の人の言葉に一切の信憑性を感じることができなかった。
 その言葉のどこに根拠があるというのか、亜衣はそういう当たり前のことをドヤ顔で説教するような人が一番嫌いだった。
「透明人間か。透明人間になれば、一切の差別も何もないわね」
 亜衣は、何を思ったか、頭に思い浮かんだことをボソッと呟いた。
 それを聞いていた彼は、
「そうですね。それが亜衣さんの真理なのかも知れませんね。普段から差別的な考えを持っていて、だからこそ、まわりと関わりたくないという思いを抱いている亜衣さんらしい発想ですね」
 と、彼は言った。
 褒められているのか、皮肉を言われているのか分からなかった。
「私はこういう人間だから」
 と、亜衣が言うと、
「自分の心の奥底を覗く勇気のある人は、そんなにいないと思います。僕が思うに、心の奥底に潜む感情は、ほとんどの人は表に出したくないから奥底に隠しているんですよ。でも、それが本心であることに違いはない。だから、余計に人には知られたくない。その思いが当たり前のことをドヤ顔で言う人が多いんですよ。自分の根底にあるものから、なるべく人の目を逸らしたいという感情の裏返しなんでしょうね」
 彼の言葉には、いちいち救われた気がするのは、気のせいであろうか。亜衣にとって人に知られたくないことでも彼になら知られてもいいと思うようになっていた。
 もっとも、彼はすでにそんなことは分かっているのかも知れない。亜衣がその時々で考えていることも、すべて看破されているような気がするくらいだ。
「透明人間になれば、まず何をしたいのかを考えた時、その人の本性が分かると言われていたことがありました。僕たちの世界でも、最初は透明人間になるという研究は、どこもしていなかったんです。何と言っても、犯罪に直接関わってきそうな研究ですからね」
「それは分かります。私たちの世界でも、透明人間の研究をしている人なんて聞いたことがありませんからね」
「でも、ロボットや、タイムマシンの研究は行われていた。そのどちらも透明人間の研究に比べてもそのリスクは半端ではないほどに大きいのに、研究だけは行われていたんですよ。それはきっと、ロボットやタイムマシンの研究が人類に及ぼす効果を考えた時の大きさと、そのリスクがどのようなものかというのを分かっているからではないかと思っています。何が怖いと言って、リスクの面がまったく見えていないことが怖いですよね。例えば薬にしても、副作用という大きな問題があります。不治の病の特効薬はいつの時代でも研究されていますが、なかなか発表されないのは、その副作用の問題があるからではないんでしょうか?」
 という彼の話に、
「それだけではないと思います。薬の場合はもっと大きな問題を孕んでいます。それは矛盾ということだと思うんですが、太古の昔から皆が捜し求めているものとして、不老不死があります。不老不死の薬を開発できれば、本当にそれはすごいことなんでしょうが、でも、そのために、薬や医者はいらなくなり、何よりも人が死ななくなることで、自然界の摂理は壊れてしまいます。それは恐ろしいことで、究極の矛盾になるんですよね。でも、昔から不老不死を求めている話というのは、そのほとんどは人間のエゴであり、自分さえよければいいという発想に基づいているんだと思います」
 と亜衣は答えた。
「ロボットの研究もタイムマシンの研究も、同じことだったんですよ。パラドックスや矛盾をいかに解決するかが一番のカギだからですね」
「じゃあ、あなたのいる世界では、その部分は解消されたんですか?」
 と亜衣が聞くと、
「いいえ、完全には解消されていません。この問題は永遠に続くものであり、人間にはどうすることもできないものだという学説が生まれ、それにより、少々のリスクが残っても仕方がないという発想が生まれました。怖がってばかりでは先に進めないということですね」
「じゃあ、それは時代のターニングポイントだったわけですね」
「そうだと思います。一つの足枷が外れれば、後は研究もトントン拍子に進んで、開発までにはそれほど時間が掛かりませんでした。タイムマシンもロボットの研究も、ほぼ同じ時期に完成しました」
 という話を聞いた亜衣は、
「あなたがいた世界を見てみたいわ」
 というと、彼は少し困った顔をして、
「それは止した方がいいかも知れませんね」
「どういうことですか?」
「あなたの世界と僕の世界とでは考え方がまるで違います。僕だってこっちの世界の予備知識はちゃんと身につけているつもりなんですが、どうしても納得のいかない感情もないわけではない」
「それはどういうところなんですか?」
「うまくは言えませんが、他人を思いやるというところに根本的な違いがあります。僕はどちらかというと亜衣さんの気持ちに近いところがあります。それは僕たちのいた世界の人は当然だと思うようなことなんでしょうね」
「じゃあ、私はあなたの世界では普通の考え方だってことなのかしら?」
「そうですね。少なくとも、こっちの世界の人よりは、受け入れやすいのではないかと思います」
 と言われて、複雑な思いだった。
 確かに人と関わりたくないという思いは、この世界でのことであって、別に世界が存在していて、その世界であれば、
――自分の考え方が受け入れられて、人と関わることも悪くはないと思えるかも知れない――
 と考えたことがあった。
 それがまさか、本当のことだとは思っていなかったので、嬉しい気持ちもあるが、どこか怖い気持ちもある。自分の中に予知能力のような力が備わっているのではないかという思いがあるのも事実で、本当であれば、そんな不要な力が備わっていることに恐怖を感じるはずだった。
 しかし、彼がさっき言ったとおり、特殊能力は誰もが持っていて、それを使いこなせる人がいないだけだという発想からすれば、別に怖いことではない。怖いと思うのは、むしろ、その力自体というよりも、そのことを知られて、まわりに利用される危険性が怖いのだ。
――私にとって、無用の力を利用しようとするのは、悪用される可能性が十分だからではないか――
 と思う自体に恐怖を感じるのだ。
「あなたはどうして、私に透明人間の話をするんですか?」
 彼の登場は、透明人間を暗示させるものだった。シーソーの相手に誰もいないのに、彼の方が宙に浮いている。誰か透明人間が目の前にいて、その人がシーソーの片方に乗っていると考える方が、亜衣にはよほど信憑性があった。
「亜衣さんに、この世界で、透明人間としての力を発揮してもらいたいと思ってですね」
 と、彼は不思議なことを口にした。
「私が透明人間になってどうするというんですか? 誰かに悪戯でもするというんですか?」
 まさかそんな子供じみたことでの話でもあるまい。彼の真剣な表情は、笑って済ませられるものではないと感じた。
「まさか、そんなことは言いませんよ。透明人間になることで、他人の秘密を容易に掴むことができるでしょう?」
「人の秘密を握ってどうするというんですか? 脅迫でもするんですか?」
 いちいち亜衣は挑発的な言い方をした。そうでもしないと、彼の本心が掴めないと思ったからだ。
「すべての人の秘密を握っても、それで何かをしようというわけではないんです。ある人の秘密を握るために、まずは透明人間になって、人の秘密を握る練習が必要なんです」
「じゃあ、ターゲットがいるというわけですか?」
 亜衣は、恐怖もあったが、不思議とそれ以上に好奇心が強くなっていた。相手が誰であろうと、透明人間になることへの好奇心は、今までの自分にはありえないことだった。
 何しろ、
――人と関わりたくない――
 と思っていた自分である。
 だが、考えてみれば、人と関わりたくないというのは、あくまでも自分だけの世界をつくり、そこに入り込んで、他の人に立ち入られたくないという思いからである。
 だが、透明人間になって他人に立ち入るということは、自分への思いと反していることであり、矛盾していることである。
 彼と話をしてきて、矛盾というものに対して、感覚がマヒしてきているのを感じていた。ロボットの話にしても、タイムマシンの話にしても、不老不死の話にしてもそうである。気持ちの中にある矛盾を、彼と話をすることで正当化し、信憑性を与えている。違和感が違和感でなくなってくると、マヒした感覚が新鮮なものになる。元々彼の存在自体が、信じられるものでもないはずだった。
「あなたに関係のある」
 と最初に言われたことで、その時点から、彼の術中に嵌ってしまったように思えたのだ。
 それはそれでいいような気がした。彼が亜衣に透明人間の話をして、人の秘密を握ることを話しているのは、傍から見ればっ強制しているようである。
 強制していないまでも、洗脳することで、相手を操縦しているように感じ、まるで新興宗教のようなマインドコントロールを思い起こさせる。
 だが、亜衣にとって、今まで人と関わってこなかったことで自分の中に出来ている性格は、彼の話を容易に受け止めている。
 それはまるで大きな手のひらで包み込んでいるように見え、手のひらの上で踊らされている孫悟空を見るお釈迦様のような心境になっていた。
 ただ、気になるのはやはり彼の真意であった。何を考えてこの世界で亜衣に透明人間をさせるのだろう。自分にその力があるのだから、自分ですればいいようなものだ。
 そもそも、どうして亜衣なのかというのも分からない。
 要するに分からないことだらけなのだ。
 亜衣が考え込んでいると、
「ターゲットに関しては、その正体が誰なのか、もう少し答えを待ってほしい」
 と彼は言った。
 本当なら、そんな曖昧なことで引き受けることなどできるはずもないと、瞬殺で断わってもいいはずなのに、亜衣にはどうしてもできなかった。断わろうという気持ちの方が大きいのだが、なぜか断わることができない。
――何も分からないまま、簡単に断わることはできない――
 という考えが頭の中にあるからだった。
「亜衣さんは、どうして自分が選ばれたのかということが不思議なんでしょう?」
 と、彼は聞いてきた。
「ええ、そのこともそうなんですが、あまりにも分からないことだらけすぎて、本当は断わろうという意識が強いのに、断わることができない自分がいるんです。何とも気持ち悪い感覚ですね」
 と亜衣が、困惑の表情をすると、彼も少し苦笑いをしながら、
「あなたには悪いと思ってはいますが、あなたのその気持ちがあるので、僕はあなたを選んだのです。正直にいうと、もう少し時代がずれていれば、あなたではなく、他の人に頼むことになるんですが、僕はあなたにこの役をお願いしたいんです。だから、僕はこの世界のこの時代にやってきて、あなたに遭遇したんです」
「時代と仰られましたが、時代という定義は私たちの考える時代とは違っているんですか?」
「ええ、少しでもタイミングが合わなければ、他の世界から見た場合、時代というのは、違っているんですよ。あなたたちの場合は、権力者が変わったり、政治体制が変わらないと、時代が変わったという認識がないですよね。それは、きっとあなた方が僕たちの世界を見ても同じかも知れません。そういう意味では次元が違っていると、同じ人間でも、種類の違う人間に見えるのかも知れませんね」
 時代という単位の小ささが自分にどのような影響を与えるのか、亜衣にはハッキリとは分からなかった。
「瞬間瞬間を時代として捉えるのは究極なのかも知れませんが、何となく分かる気がします。でも。あなたが私を選んだ理由としては、まだ納得のいくものではないんですよ」
「そうでしょうね。でも、次第に分かってくると思います。これに関しては、あなたでなくとも、環境に馴染んでくると、自然と分かってくるものではないかと思っています。そういう意味では安心されてもいいと思います」
 まるで、長いものに巻かれているような気がしていたが、確かにこの際、彼がいうように、自分だけではないというのは、心強く感じられる。他の人と同じでは嫌だという感覚と矛盾しているかも知れないが、相手が得体の知れないものであれば、それも致し方のないものに思えてきた。
 それだけ不安が募ってきているのか、弱気になっているのではないかと思えてきた。そのためにも少しでも彼の話を理解しなければいけないという思いも強く、今、自分が全体の中でどれだけ理解しているのか見えないことが一番の不安だった。
 そのことは彼にも分かっているようだった。
「あまり不安にならなくてもいいですよ。亜衣さんは僕の話にこれほど理解を示してくれていて、キチンと自分の意見を言ってくれているのだから、僕は亜衣さんを選んでよかったと思っています。一つ気になるのは、今僕が目の前にいて話をしているから理解できているのだと思いますが、僕が目の前から消えてしまうと、夢だったのではないかと思うのではないかということです。普通の人であれば、きっと夢だとしてすぐに忘れてしまうのでしょうが、亜衣さんは、気持ちの中に燻るものが残ってしまい、気持ち悪く思うかも知れませんね」
「そうなんです。私もそれが心配なんです」
「僕が今日お話できるのはここまでなんですが、また近いうちにあなたの前に現われることになります。その時に、夢だと思う気持ちがずっと残ってしまっていれば、あなたに悪いと思いますので、僕があなたの前から姿を消して、あなたが普段の意識を取り戻した時に、腕を見てください。普段していないはずの腕時計をしていると思います。その時計は僕からのプレゼントです。でも、その時計は特殊な時計で、僕がいない時はこの世界の時刻を性格に刻んでいますが、僕が現われると、僕の時代の時間を表すようになります。だから、あなたがこの世界でのいつもの意識を取り戻した時、腕を見てください。その時計が僕とあなたの接点になっていますからね」
 そういって、彼は亜衣の左腕を指差した。亜衣の気付かない間に手首には腕時計があり、なぜか嵌っているというような違和感はなかった。重さを感じることもなく、ずっと以前からしていたような感覚になり、不思議だった。
「それじゃあ、また」
 と言って、彼は夕闇に包まれて消えて行った。
 亜衣はその場に取り残されたのだが、亜衣の姿も、しばらくすると、彼と同じようにスーッと闇の中に消えて行ったのだ。


                  一日完結型

 亜衣が目を覚ましたのは、自分の部屋の布団の中だった。
 普段は目覚まし時計で目を覚ますのだが、その日は、部屋に差し込んでくる朝日で目が覚めた。目覚まし時計は、朝日が差し込む前に鳴るようにセットしてあったので、その日は目覚ましをセットし忘れたのだろうか?
「う~ん」
 両手を精一杯に上に上げて、背筋を伸ばしながら、身体を起こしている。いつもの目覚めと変わらない目覚めだった。
「何だか、頭が重たいわ」
 亜衣は、普段に比べて頭が重たいことで、普段と目覚めが違っていることを意識していた。
 昨日のことを思い出そうとしていた。
――確か、友達の家に行って、いろいろ話をしたのは覚えているんだけどな――
 それから、
「泊まっていけばいいのに」
 という気遣いを制して、
「いえ、今日は帰るわ」
 と言って、彼女の部屋を後にしたのも覚えている。
 その時、何となく後ろ髪を引かれる思いがした。
――もっといろいろ聞いてあげればよかったのに――
 という気持ちもあったが、そこにいづらいという気持ちがあったわけでもなく、家に帰ってから何かをしなければいけないという気持ちがあったわけでもない。別に泊まってもよかったはずなのに、どうして帰ろうと思ったのか、そんなに頑なな何かがあったわけでもない。今から思い出しても、そこに何があったのか、よく分からなかった。
 友達の話を聞きながら、その時自分が何を考えていたのかを思い出そうとしたのだが、なぜか思い出せない。ただ、感じることは、
――昨日のことは、本当に昨日だったんだろうか?
 ということである。
 なにやら禅問答のような感覚だが、では昨日のことではないとすればいつのことだというのだろう?
 亜衣は自分に問うてみた。
「昨日のことが昨日ではないとすると、今日は何なの?」
 その答えは出るはずもない。自分の中で疑問に感じた自分には、昨日、今日という概念がなかったのだ。
――どういうことなのかしら?
 と感じた時、自分の中の自分が答えてくれた。
「私は、昨日の私ではないのよ。今日の私なの」
 それを聞いて、いや、感じて、何を言っているのか分からなかった。
「だから、昨日の私ではないと言っているのよ。昨日の私は別人なのよ」
 なるほど、自分の中の自分は、その日だけの自分なのだ。表に出ている自分だけが、日付が変わっても同じ自分なのだが、自分の中の自分は、日付が変われば、違う自分になってしまうのだ。
「じゃあ、昨日の私はどうなったの?」
「消えてなくなったんでしょうね。だから、今の私も今日という日が終われば、消えてなくなっちゃうんじゃないのかしら?」
「私にはよく分からない」
「だって、私たちのような存在があるからこそ、表に出ているあなたに、一日一日という感覚があるのよ。もし、この感覚がなければ、あなたは同じ日を繰り返すことになるんじゃないかしら?」
「えっ、私は自分の中の自分の存在を意識したことはあったけど、まさか一日で入れ替わっているなんて想像したこともないわ」
「それは、ウソ。だって、想像しなければ、私たちがあなたの前に現われるということはないんですよ」
「私たち?」
「一日一日で違う私だって言ったでしょう? 明日もあなたが想像すれば、明日のあなたが現れるということよ」
 亜衣は、目の前に鎮座している人と話をしているわけではない。自分の頭の中で想像した相手と話をしているのだ。つまりここまで来ると、想像したわけではなく、創造したのである。
「確かに創造したことで、目の前に存在しているわけではないあなたと会話しているわけですから、想像しなかったとは言えないでしょうね」
「そうよ。認めたくないという気持ちも分からなくはない。でも、人は誰でも少なくとも一度は、自分の中の自分と会話することができるのよ」
「でも、そんな話は聞いたことがないわ。誰もが夢だと思って口にしないのかしら?」
「そういう人もいるかも知れないけど、でもほとんどの人は、亡くなる寸前に、もう一人の自分と話ができるようになるの。つまりは、段階を追っていかないと、自分と話ができるところまでは行き着かないということではないかしら」
「じゃあ、私ももうすぐ死ぬということなの?」
「そんなことはないわ。もし、そうだとすれば、私は今、段階を追う話をするために、他の人の話をしないはずなの。私たちは表に出る本人に、寿命を知らせてはいけない規則になっているの」
「じゃあ、あなたたちは、私の寿命を知っているということ?」
「ええ、知っているわ」
「何だか、気持ちのいいものではないわね。そもそも、知らせてはいけない規則だって言ったけど、その規則ってどこで誰が決めているの?」
「それは言えないわ。でも、私があなたの前に現われたのは、あなたにとって決して悪いことではないということだけは確かなの。それだけは信じてほしいわ」
「ええ、分かったわ。少なくとも、私にはあなたの言っていることを信じる義務があると思うの。あなたが自分の中の自分だって分かっているからなんだって思っているわ」
「ありがとう。私もそういってもらえて素直に嬉しいわ。私だってここに出てくるのには勇気がいるのよ。あなたが望んだことだとしても、それは私の意志すべてではないんですからね」
「意志というよりも、感情に近いものなのかも知れないわね」
「ええ、私はきっとあなたに比べて感情的なんだって思うの。でも、冷静になれる時は、あなたよりも冷静だって思うわ」
「どうしてなの?」
「それは、あなたよりも自分のことをよく知っているからだって思うの。感情的になるのも、あなたが抑えようとしている感情は、自分をよく知らないところで起こったことには自信がないからなんじゃないかって思うの。だから私は、あなたよりも冷静で、しかも感情的なのよ」
「まるで、あなたの方が表に出た方がふさわしそうだわ」
「それはダメ。私が表に出ると、あなたが私の中の私になるわけでしょう? あなたの感情はやっぱり表に向けられたものであるべきなのよ」
「そうなのかしらね。でも、私は人と同じでは嫌だっていう感覚が強いのよ。なるべく表と接触したくないわ」
「それは違うわ。あなたの感情はあくまでも表と接触しているから感じるものであり、まわりに何もなくなると、張り合いがなくなって、他の人と同じでは嫌だなんて感覚、忘れてしまうに違いないわ。そのためにあなたはまるで抜け殻のようになってしまい、結局、毎日をまったく同じにしか生きられなくなる」
「そうするとどうなるの?」
「あなたは、その一日から抜けられなくなって、永遠にその一日の世界の中で生きていくことになるのよ」
「そんなバカな」
「そう思うでしょう? でもね。だから私たちがいるの。そうなった時に、私たちが表に出て、それぞれの一日を繋いでいくの。その時には、きっと翌日の自分に、自分の意識や記憶は伝授されるんでしょうね。だから自分でも気付かないし、まわりの人も気付かないんじゃないかしら? 私はそうなるんだって思っているわ」
「難しいお話ね」
「あなたのまわりにも、ひょっとするとそういう人がいるかも知れないわね。その人はよく見ると前の日のその人と別人のように感じられるでしょうね。そうなると、さらに他の人を見ても、そんな感じがしてくる。そのうちに誰が同じ人間として次の日を迎えているのか分からなくなるかも知れないわね」
「そんなことを言われれば、これからまわりの人をそんな目で見てしまうことになるじゃない。それって困るわ」
「大丈夫よ。あなたは他の人同じでは嫌なんでしょう? その気持ちがある以上、他の人への意識を必要以上に持つことなんかないのよ」
「私にその思いがあるから、あなたは今日私に話しかけたの?」
「そういうわけではないわ。あなたは覚えていないかも知れないけど、ほら、左腕の手首を見てご覧なさい」
 言われて初めて気付いたが、左腕の手首に違和感があったのは事実だった。
「そういえば、何となく違和感があったのよ」
 手首には、締め付けるほどの圧迫感があったわけではないが、見覚えのない腕時計が嵌っていた。
「そうでしょう? でも何となく意識はあったはずよ」
「ええ、でも、どうして腕時計なんて」
「覚えていないの?」
「ええ、でも、腕時計を一度目にすると、しばらく目が離せなくなりそうなの。初めて見るはずのものなのに……」
「初めて見るはずのものではないのよ。本当に覚えていないの?」
「ええ、もし見たとすれば、かなり昔に見たような気がするの。どうしてなのかしらね?」
「じゃあ、意識の中には、以前にどこかで? というものがあるのね?」
「それが意識の中にあるのかどうなのか分からないのよ。あなたは私の中の私なんだから、それが意識なのかどうなのかって分からないの?」
「私はあくまでも、あなたの中の一部でしかないのよ。あなたが感じている意識があなたの一部なわ、私はそれと同じラインにいるようなものだわ。だから、私には意識という感覚がないのよ」
 亜衣は、まるで自分の意識と話をしているような気分になり、不思議な感覚に陥っていた。
――誰もいない部屋で鏡に向かって話しかけている――
 まるでそんな感覚だった。
 自分の中の自分と話をしていると、急にアラームの音が響き、我に返った。目覚ましに気が付かなかったわけではなく、想像以上に早く起きただけだった。ビックリして我に返ってしまったせいで、さっきまで話をしていたと思っていた自分の中の自分を感じなくなっていた。
――あれは夢だったんだろうか?
 自分の中に、もう一人自分がいるという感覚は日ごろからあった。しかし、実際に話をするなど想像もしていなかったことであり、まさか考えが違っていたり、自分の認識の中にはないことを考えているなど、思いもしなかった。夢だと思うのは無理もないことであり、まだ亜衣は夢心地が抜けていないようだった。
 亜衣は無意識に腕を見た。
「あら?」
 普段していないはずの腕時計が左腕に嵌められていたからだ。
 まず最初に、さっきの自分の中の自分の言葉を思い出した。
――確かに違和感があったわ――
 というのを思い出すと、今度は、昨日(だったと思うけど)公園に現われた男性を思い出した。
 そしてその二つを思い返してみると、昨日のことがまるでさっきのことのようで、自分の中の自分と話をしたのが、かなり前のことのように思えた。
――まだ夢の続きのようだわ――
 時系列が曖昧な記憶を感じたことが今までにもあったが、これほど最近の記憶の時系列が曖昧だったのは今までにはなかったことだ。自分を納得させるのに、夢の続きを持ち出すのは本当はずるいやり方だとは思うのだが、そうでもしなければ、自分を納得させることはできないような気がした。
 しかし、つい最近のことのように思う昨日のことだが、思い出せるのは部分的なことだった。全体的に思い出せないのに、思い出せることは割合にしっかりしている。
――こんな記憶って、あまりないことだわ――
 彼の顔など思い出せない。彼の向こうから後光が指しているようで、眩しくて見ることができないような感覚だ。まるで神様か仏様のようだが、宗教を信じているわけではない亜衣には、ピンと来なかった。
――私は宗教なんて大嫌いなのに――
 しかし、昨日の男性を思い出してみると、彼の話には宗教的なことが入っていたような気がする。それを亜衣も納得して聞いていたような気がしていたが、それがどんな話だったのか思い出せるわけではなかった。
 次第に、昨日の話が頭の中によみがえってきたが、最初に感じた宗教的な話を思い出すことはできなかった。
 本当は、宗教的な話を最初にしていたのだが、それを亜衣は、
――曖昧に覚えている――
 という意識しかなかった。
 本当なら、
――漠然としてしか覚えていない――
 と感じるはずのものを、逆の感覚で覚えているのだった。
 それは、本当は一度話したことを、彼が意図してその意識を亜衣の中から消したからだった。亜衣はそんなことなどまったく知る由もなく、そもそも消してしまうような話を彼がするはずもないと思うからだった。
 だが、実際には、彼が話の導入部分で宗教的な話をする必要があった。そうでなければ亜衣が彼の存在を認めないと思ったからで、その思いに間違いはなかった。もし、最初に宗教的な話をしなければ、亜衣は彼の存在すら否定していただろう。そう思うと、亜衣が彼との話がついさっきのことだったという意識になったのも無理もないことなのだが、あまりにも直近すぎて、思い出せないこともあった。
 一つのことが思い出せないために、すべてが繋がらない。繋がらないので、記憶が曖昧なのだ。意識が覚えていることを認識している。しかし、覚えていることは、繋がっていない。だから、漠然としか覚えていないという減算法ではなく、曖昧に覚えているという加算方式での記憶となっているのだった。
 覚えていることの一つとして、彼が別次元の男性であるということ、そして、時代というものが我々の世界とは違い、その時々のタイミングによって築かれているということ。そのうちにいろいろと思い出していくに違いないが、その一部で覚えていることは、彼に対して感じた違和感からだった。
「あら?」
 いろいろ考え込んでいるうちにも時間というのは過ぎていくもの。そろそろ布団から起き上がって出勤準備をしないと、その日が始まらない。布団から飛び出るのは、それほど苦にならなかった。頭の重たさは布団から飛び出るのと同時に収まった気がした。
――気のせいだったのかしら?
 余計なことを考えている暇はない。とりあえず、いつもと同じ朝を迎えなければ、今日という日が始まらないと思ったのだ。
 いつものように、コーヒーの用意とトーストを焼いた。それぞれ着替えながらでもできることで、むしろ着替えながらの方がいつものペースであり、それが亜衣の性格でもあった。
――私は、身体を動かしている方が性に合っているのよ――
 と考えていた。まさにその通りだった。
 トーストはこんがり目に焼く方が好きである。コーヒーも濃い目で砂糖のみ、これが毎朝のパターンだった。たまに卵料理を作ることもあったが、その日は時間的に難しかったので、前の日にコンビニで買っておいた一人用のサラダをおかずに朝食を並べた。
 一人の朝食は慣れているとはいえ、たまに寂しいと思うことがあった。そんな時は東側に向いた窓から朝日が差し込んでくる時で、その眩しさが心の中にポッカリと空いた穴を照らすのだった。
 年齢的にはまだ二十代前半なので、結婚を意識することもないと思っていた。彼氏が今までにいなかったわけではない。付き合った男性はすべて大学時代のことで、社会人になってからは、なぜか彼氏がほしいと思うことはなかった。
 それなのに、一日のうちに何度か、彼氏のいないことを寂しいと感じるのだが、すぐに忘れてしまう。だから、全体として彼氏がほしいという感覚になることはないのだ。
 テレビをつけると、いつもの報道番組だった。
「ここ数日暖かい日が続くようで、雨が降るという予報もなく、すっかり春めいてきました」
 と、天気予報士の女性レポーターが話していた。
「何日か前も同じようなことを言っていたわね」
 それが何日前のことだったのか覚えていないが、確かにあれから数日、穏やかな天気が続いた。
 しかし、この時期というのは、そんなにいい天気が何日も続くというのは珍しいことで、そろそろ雨が降ったり、風の強い日があったりするはずだということを認識していた亜衣は、
――今年は異常気象なのかしら?
 と感じた。
「それでは次のニュースです。明日から始まる臨時国会で、政府に対する内閣不信任案を野党が全会一致で可決し、提出される見込みになっています」
 というニュースが聞こえてきた。
――あれ? 内閣不信任案はこの間提出されて、国会で否決されたはずでは?
 と感じた。
 おかしいと思いながらニュースに注目していると、今度は、
「心臓病を患って入院していた俳優の山口哲治さんが、病気療養から立ち直り、昨夜退院していたことが、当社の取材で明らかになりました。山口さんは奥様に付き添われ、病院のスタッフから祝福されて笑顔で退院され、今後は自宅療養を重ねながら、通院によるリハビリを続けていくということです。よかったですね」
 と、笑顔で朗報を報じていた。
――この話も確か以前に聞いていたような気がする――
 ビックリして、テレビの下に小さく写っている日付と時間を見たが、ちゃんと自分の認識している日付になっていた。
 ホッとした亜衣は、テレビを見ながら、腰を下ろし、コーヒーを一口口に含んだ。
――でも何かおかしいのよね――
 ふと気になったのが、左手首の違和感だった。
 昨日までなかったはずの腕時計が嵌っている。さっきから違和感を感じてはいたが、昨日の記憶の中に残っている男性のイメージが次第によみがえってくる。
――彼は別の次元から来たと言っていたけど、あの時は、信じたのよね――
 自分がどうして信じることができたのか不思議だったが、信じたことに変わりはない。
 亜衣は、腕時計を見てみた。
「あっ」
 その時計にも日付と時間が表示されていたが、時間はテレビの時計と同じで正確な時間を示していた。しかし、日付は一週間前のもので、その日付を見た時、亜衣の頭の中には、一週間前の記憶が少しずつだがよみがえってきた。
 よみがえってくると、まるで一週間前に戻ったかのように思い、さっき感じた、
――前にも見たことがあるような――
 という思いは次第に薄れていくのだった。
 あれは確かに一週間前だった。あの時も同じように朝食を卵料理抜きで作った。そして、どうして卵料理を作らなかったのかというと、
――何か、気になる夢を見たからだった――
 と感じたからだ。
 その時の夢は確か、夢の中に誰かが出てきて、何かを忠告していったかのように思えた。出てきた誰かというのに、違和感はなかった。会いたいと思っていた人だったのかも知れない。目が覚めてからそれが誰だったのかどうしても思い出せなかったが、その日のどこかのタイミングで、
「ああ、夢に出てきたのは、確か……」
 と、誰だったのか思い出していたのだ。
 亜衣はその時の記憶は今はなくなっていた。なぜなら、今日今から起こることは一週間前と同じことであり、そのことを自分では分かっていないからだった。だから、自分の意識が一週間前に戻っているのに、違和感を感じないのはそれが理由だったのだ。
 しかし、その翌日からの記憶は残っていた。その日の記憶かけが飛んでしまっているので、その日に起こることに何か違和感があるはずである。意識の中に矛盾が生まれてくるというのか、矛盾はずっと残っていた。それでも慣れというのは恐ろしいもの。矛盾であっても、違和感に繋がらないようになるのは、どこかで自分を納得させることができたからであろうか。
 亜衣は、その日一日をあっという間に過ごしていた。
――こんなに早い一日なんて――
 と感じたのは、午後六時の退社時だった。
 このまま家に帰ってもよかったのだが、あまりにもあっという間に過ぎてしまったと思っている一日なので、このまま家に帰ると寂しさしか残らないと思った。その思いが懸念となり、気が付けば、たまに行くバーに足が向いていた。
 その店に行く時は、いつもフラリと出かけていた。
――今日は、あの店に行くぞ――
 と、最初から計画して出かけることはほとんどなかった。
――気が付けば店の扉を開けていた――
 という感覚がほとんどで、店のマスターも、
「いらっしゃい」
 と笑顔で言った後、
「今日もフラリとやってきたのかい?」
 と、茶化すように言い、
「ええ」
 と、苦笑いをする亜衣の顔を満面の笑みで眺めていた。
 どうやらマスターは亜衣の苦笑した顔を見るのが好きなようだ。
 いつもの指定席であるカウンターの一番奥の席に腰を掛けた。ここからなら店が一望できるからである。しかし、そうは思っていても、一望する時に何かを考えているというわけではなく、いつもボンヤリとしている時に見せ全体を見渡していたのだ。
「今日も私だけなのね」
 というと、
「亜衣ちゃんがいる間はきっと一人だけだよ」
 今まで不思議なことに、亜衣が一番客だった時は、亜衣が帰るまで、誰も店に来ることはなかった。亜衣が帰ってから少ししてから他の客が来ることから、
「示し合わせているんじゃないの?」
 と言われたことがあったが、決してそんなことはなかったのだ。
 もちろん、マスターも分かって言っていることなので、やはり苦笑する亜衣を見たいという思いの強さを、亜衣も嫌でも感じさせられた。
 しかし、嫌な気がしているわけではない。むしろ、そんな思いが些細な悩みやストレスを解消させてくれる。そんな思いを知ってか知らずか、マスターはあまり余計なことを口にはしなかった。
 ただ、マスターは相当に博学である。特に雑学に掛けては、亜衣が今まで知っている人の誰よりも詳しく、
――さすが、バーを経営しているだけのことはあるわ――
 と関心させられたものだ。
 亜衣は、
「いつもの」
 と注文すると、マスターは何も言わずに見事な手さばきでカクテルを作ってくれる。
 亜衣は、左腕を気にしながら、ボーっとしていた。
「いい時計だね」
 と、マスターに声を掛けられ、ハッとしたくらいだった。
「僕は、この間骨董品屋さんで面白いものを見つけたんだ。それは天秤の形をしたオルゴールだったんだけどね」
「天秤……、ですか?」
「ええ、オルゴールの蓋の上にローマ神話に出てくるような神が乗っていて、その神が天秤を持っているんだよ」
「それは面白いですね」
「しかも天秤は動くようになっていて、左右に何かを載せて量ることもできるんだ。でも不思議なことに、片方にしか何かを乗せなかった時でも、反対側が下になることがあるんだよ。いつもというわけではないんだけど、まるで手品のようでしょう?」
「見せてほしいです」
「それが、僕だけが見ている時にしかできないことのようなんだ。だから、それから他の人に話すとバカにされそうなんで、誰にも話をしていないんだけどね。でも、亜衣ちゃんのその時計を見ると、なぜかその話をしてみたくなったんだよ。不思議な感覚なんだけどね」
 と言って、今度はマスターが苦笑いをした。
「そうなんですか」
 と、亜衣はあまり驚かなかったのを見て拍子抜けしたはずなのに、マスターは亜衣の顔をずっと凝視している。
 その様子に気付いてはいたが、言葉を掛けるには忍びないと思っていた亜衣だったが、さすがに悪戯に時間だけが過ぎていくのを感じ、
「どうしたんですか?」
 と、根負けしたように、マスターに聞いた。
「いえね。亜衣ちゃんがあまりにもリアクションしてくれないので、亜衣ちゃんも同じような感覚になったことがあったのかと思ってね」
 と言われて、
「天秤ではないんですけど、私はシーソーで似たようなものを見たことがあるような気がするんです」
「それは遠い過去の記憶なの?」
「そうじゃなくて、近い記憶なんですが、ただ、それが過去だったのかと言われると、不思議と違う気がするんです。未来のことを予見しているようで、予知能力なんてあるはずないのにですね」
 と言って、亜衣は下を向いてしまった。
 マスターの顔を凝視できないという意識と、他の人を意識してしまうと、思い出しかけているシーソーの記憶が、また闇の中に消えていってしまいそうで、それを恐れて下を向いてしまったのだ。
「天秤とシーソーは似ているようだけど、まったく違っているような気がするんだ」
「どうしてですか?」
「シーソーは、それぞれ目方の分からないものを片方ずつに乗せて、単純にどちらが重たいのかを見ることができ、重たい方であっても、足で蹴ることで上に行くことができる。天秤の場合は、計測したい相手を片方に乗せ、片方には分銅を載せていくことで、計測したいものの重量を正確に測ることができるものなんだ。でも、そこに力は発生しないところがシーソーとの違いかな?」
 マスターの分析はなかなかなものだった。亜衣も言われて初めて、
――なるほど――
 と感じたが、それ以上に、自分がシーソーを気にしているのがよく分からなかったのだった。
 亜衣も以前は、シーソーと天秤であれば、天秤の方を気にしていた。
 天秤というと、
「自由、平等を掛けて、裁きのシンボルであると言われるのが印象的ですよね」
 と言っていた人の言葉を思い出す。
 だが、シーソーというと、児童公園にある遊戯としてしかイメージがなく、あまり意識したことがなかったはずなのに、なぜここでシーソーを意識するのか、すぐには自分でも理解できなかった。
「シーソーってタイムマシン?」
 自分の中の自分が、語りかけてきた気がした。
「そんなバカな」
 すぐに否定した自分がいたが、一瞬でも違和感があれば、なかなか消えてくれないものだ。
 それよりも、今回は、消えるどころか、不思議と膨らんでいった。きっと昨日の彼ともう一度話をしなければ、消えることはないだろう。
 そう思うと、バーの中にいても、昨日の彼を思い出していた。
――あれ?
 確か、朝起きた時は、彼と会ったという記憶はあっても、いつのことだったのか覚えていなかったにも関わらず、今では昨日のことだったと思い出すことができた。
 今度は、腕時計を見てみた。
「えっ?」
 朝見た時は、確かに一週間前の日付だったにも関わらず、今見ると、今日の日付に戻っているではないか。
――朝の自分と今の自分とでは、別人なんだろうか?
 亜衣は、そんなことを感じていた。
 今日一日があっという間だったこともあって、今日が一週間前だという意識はまったくなく、後から思い返しても、今日のできごとは一週間前ではなかったとハッキリと言えた。――やはり、朝の私は別人だったんだ――
 夢を見ていたのだとは思いたくなかった。もし、あれが夢だとすると、自分の気持ちの中に、
――過去を繰り返す――
 という意識があり、何か潜在意識の中にそう思う根拠のようなものがあるのではないかと感じることだろう。
 ただ、今までの間ではあるが、今日一日を思い起こすと、違って感じるターニングポイントは夕方だった。退社の時間になって、
――今日はあっという間に過ぎた――
 と感じたにも関わらず、それ以降の時間は思っていたよりもゆっくりと過ぎている。
 あれからまだ三時間しか経っていないにも関わらず、それまでの一日と比べても、長かったように思えるのだ。
――そういえば、夕方あっという間だったと思い立った時、身体にだるさを感じたが、今思えば、よくあの状態で、まっすぐ家に帰ろうと思わなかったものだわ――
 と感じていた。
 時計を見ると、そろそろ九時近くになってきた。この時間に我に返ったというのも、何かの暗示なのかも知れない。
 いつもであれば、そろそろ帰ろうかと思う時間だった。しかし、この日は帰りに昨日立ち寄った児童公園に行ってみようと思ったからだ。
――あれは何時頃だったんだっけ?
 確か十一時は過ぎていた。日付が変わってはいなかったので、十二時前であることは間違いない。
――十一時を目指していけばいいかな?
 ここからあの児童公園までは、三十分みておけばいい。ただ、夜の時間帯なので、電車の本数は少ないだろう。一駅なのだが、夜ともなると、かなり遠くに感じられるから不思議だった。
 ここからの時間は想像していたよりも短かった。特に九時半を過ぎてからというもの。あっという間に十時近くになっていた。
「それじゃあ、私は帰ります」
「お気をつけて」
 普段ならもう少し饒舌な亜衣なのだが、緊張すると口数が少なくなる。そのことはマスターは承知しているので、マスターの方から話題を振ってくることはなかった。
 店を出ると、何となく生暖かい空気が流れていた。空気の匂いも塵や埃が舞っているようで、
――雨が降る前触れなのかしら?
 と思い、朝の天気を思い出してみると、
――雨が降るような予報ではなかったわ――
 と、感じた。
 そう思うと、少しだけ臭いと思った空気が、今度は匂わなくなり、錯覚であったことを悟らせた。生暖かい空気が身体を包んだ時、
――雨が降る――
 という感覚に陥ったのは条件反射だったのだろう。身体がだるく、重たく感じた。
――夕方の退社時も、同じようなだるさを感じたわ――
 ということを思い出すと、今日の自分にとってのターニングポイントでは、身体がだるくなるのが一つのキーなのではないかと思えたのだ。
 歩いているうちに、身体のだるさは気にならなくなってきた。身体が慣れてきたのであろうか? 前を見つめていると、自分がどこに向かっているのか意識しているはずなのに、そんなことはもうどうでもいいと思えるほど、何か他のことを考えているようだった。
 しかし、気がついてみると、何を考えていたのか、考えようと思っていたのかハッキリとしない。ただ足が前を向いて歩いているだけで、
――昨日の場所を覚えているのは自分の頭ではなく、足なのだ――
 ということを分かっているのだ。
 だるさを感じなくなったのは慣れてきたからだというよりも、足が覚えているということに気付いたからなのかも知れない。
 さらにさっきまで、
――雨が降る――
 と感じていたことも、まるでウソのように、空気が乾いてきているのを感じた。
「カツッ、カツッ」
 という音が響いている。それは自分の足音だった。自分の履いているヒールに空気を響かせるような音を感じたことがなかったのに、いくらまわりに誰もいないシーンとした空間だとはいえ、ここまで自分が感じるというのもおかしな感じだった。
 むしろ、シーンとした静けさの中では、ツーンという耳鳴りばかりが目立って、それ以外の音は意識しないようにしていたからだ。
 足元の影が細長く伸びている。しかも、炎のように揺れているのを感じた。自分がよろめいているという感覚はない。ただ、その揺れを感じているせいか、足元から目が離せなくなっていた。
 顔を上げようと何度思ったことだろう。たまにであるが、何度か感じた正面から当たる光があった。言葉にすれば、白い閃光とでもいうのであろうか、まるで異次元世界への入り口を感じさせた。
 異次元世界を想像すると、顔を上げたくなる衝動に駆られたのも事実だったが、自分の影が変化したのは、その白い閃光のタイミングと同じだった。
――顔を上げたくても上げることができない状況を作り出しているのは、影の元になっている自分なのかも知れない――
 と、亜衣は感じていた。
 ゆっくり歩く方がいいのか、それとも、急いでその場所を抜け去る方がいいのか、亜衣は思案のしどころだった。しかし、それ以前に自分の身体が動かない。今の速度を変えることは自分にはできなかったのだ。
――見えない力が働いていて、何かに導かれているようだわ――
 そう感じたのは、顔を上げられないのを、その見せない力によるものだと感じたからだった。しかし実際には見えない力が原因ではなく、自分の奥にある潜在意識がそうざせるのだと気付いた時、亜衣は余計に見せない力の存在を意識せざるおえなくなっていた。
 そんなことを考えていると、自分の歩いているスピードが一定していないことに気がついた。ゆっくり歩いている時もあれば、急にスピードが上がっている時もある。気がつくまでに結構時間がかかったはずなのだが、それまでは一定のスピードで歩いていると思い込んでいた。
 つまり、同じ距離を歩くのにかかった時間に差があるということだ。
――自分の感覚とはかけ離れた時間差が存在していた時がある――
 そう思うと、
――ひょっとすると、時間を飛び越えているのかも知れないー―
 などと、今までに考えたこともない思いが頭をよぎる。
 だが、
――本当に考えたことなかったんだろうか?
 実際には考えたことはなかったはずなのに、ごく最近似たようなことを考えたと思えるふしがあった。この思いはなかなか消えないという感覚に陥ったのだが、それが本当に過去のことだったのかという思いを一瞬だけ感じたのだが、すぐに消えてしまった。
 つまりは、未来に起こることを予見したと考えたのだ。
 だが、それはあまりにも突飛すぎる発想だとして、急に怖くなったのか、自分で否定してしまったのだ。あまりにも突飛な発想をするのも自分だし、それを一瞬のうちに打ち消してしまうのも自分である。それを考えただけでも、
――明らかに自分の中には、別の人格が存在していて、それぞれを補う形で表に出たり裏に回ったりしているようだわ――
 と感じていた。
 亜衣は時々自分のことを冷静に考えるが、かなり的を得ていることを感じながら、その一方で、
――そんなことはない――
 と否定している自分がいる。
 やはり、否定する自分が存在していることは間違いないのだ。
 亜衣は最近、あまり疲れを感じない日と、疲れ切ってしまい、身体が動かなくなるほど憔悴することがあった。それぞれの日に、片方は何もしていないからだとか、片方に集中してこなしているからだとかいうわけではない。同じようなことをしているだけにも関わらず、身体に残る疲れがまったく違っているのだ。
 そもそも最近は、何か目立ったことをしようと考えているわけではない。毎日を無難にこなしているだけの毎日なので、そんなに毎日感じるストレスに違いがあるとか、余計な心配事があるなどということもなく、精神的にまばらなことはないはずだ。肉体的にも精神的にもそんなに変化がないのに、身体に残る疲れにこれほどの違いがあるということは、無意識のうちに何かを感じているからではないかと思うようになった。
 特に自然の変化は気にするようにしている。雨が降りそうな時は湿気や匂いを感じるなど、些細なことも気にするようにしていた。しかし、それこそが余計なことを気にすることになるのではないかと思い、なるべく考えないようにしたのだが、そんな時に限って、無意識に考えていることが多かった。
 だからといって、それが疲れに繋がっていくわけではない。疲れというのは無意識に起こるものではないと思っていた。何か予感めいたものがあって、それが意識に繋がって、疲れを感じさせるのだ。あまり疲れを感じない日であっても、まったく疲れているわけではない。そんな日は、
――疲れていないと思うことにしよう――
 というもう一人の自分の考えが、表に出てきているのではないかと考えるようになっていた。
 今日は、さほど疲れを感じない日であった。ただ、会社にいる時間の中で、一時間ほど、無性に眠たい時間があった。その時間を通り越えると、今度は疲れをほとんど感じなくなるというのが今までの経験であったが、その日も昼休み前に感じた眠気のせいで、その時間以降、一向に疲れを感じなかった。昼休みになってから、さすがに睡魔に対して我慢ができなくなり、少し仮眠した。自分では一時間近く眠っていた気分だったが、気が付けば十五分ほどしか眠っていない。
 それでも、目が覚めてしまうと、もう睡魔は襲ってはこなかった。疲れまでも一緒に排除してくれた睡眠に、亜衣は感謝したいほどだった。残りの時間でゆっくりと昼食を摂ることもでき、昼からの時間は、あっという間に過ぎたのだった。
 亜衣は夜の道を歩きながら、いろいろなことを考えていた。発想が次々に浮かんでくる時というのは、時間があっという間に過ぎていき、気が付けば目的地に着いていることが多い。その日もあっという間に昨日の児童公園のあるあたりまでやってきていて、昨日のことが思い出されてきそうだった。
 昨日の記憶を呼び起こしてみたのだが、なぜか、ハッキリとしなかった。
 昨日のことを覚えていないということも、たまにではあるが確かにある亜衣だったが、そんな時は、まるっきり記憶から消えている時だった。その日の亜衣は、思い出せそうで思い出せないという消化不良のような状態だった。あまりそんな感覚に陥ったことがなかったはずの亜衣なのに、頭の中では、
――こんな時ほど、思い出すことができないんだわ――
 と思えてならなかった。
 実際に思い出そうとすればするほど、記憶が遠ざかっていくような気がしている。手を伸ばせば届きそうな距離だったものが、あっという間に遠くに離れている。
――そんな現象で、思い出せるはずなんてないわ――
 と思ってしまうと、その思いは次第に確かなものになっていくのを感じていたのだ。
「確かに、この辺りだったはずなのに」
 おぼろげな記憶ではあったが、どの角を曲がれば公園があったのかということは分かっていた。そこだけは記憶の中でもハッキリしていて、その場所に辿りつくのは難しいことではなかった。
――間違いない角を見つけたんだわ――
 と思うと、曲がった先の公園が、自分の記憶を呼び戻させてくれると感じた。
 しかし、実際にはそんな甘いものではなく、角を曲がると、
――やっぱり、私に思い出させたくないんだわ――
 何かの力が働いているとしか思えない。あくまで亜衣に、昨日の記憶を呼び戻させたくない何かの力が働いているのだろう。
 その力は、どこの誰がもたらしているものなのか分からない。考えられるとすれば、昨日の男性であろうか。
 しかし、彼が昨日亜衣の前に現われたのが必然であるとすれば、何も亜衣の前から姿を消すような暗示をかける必要などないのではないか。
 もし、何かが違っているとすれば、昨日の亜衣と、今日の亜衣とでは別人に感じられると思っているからではないかと、その時、亜衣は感じていた。
 亜衣は、確かに昨日の自分と今日の自分では別人のような気がしていた。
――どちらが、本当の自分なんだろうか?
 問いかけてみるが、その問いを誰が誰に問いかけているのかということが問題だった。問いかけている今日の自分と昨日の自分とでは違っていると思っているのだから、問いかけている相手は当然、昨日の自分なのだろう。
 だが、昨日の自分は何も答えない。今日の自分が本当の自分だと当然のように思っていたが、昨日の自分が何も答えてくれないことで、だんだん不安になってきた。
――そういう意味で、今日の私に彼は会いたいとは思わないのかも知れない――
 と思えた。
 しかし、それだけに、余計に昨日の彼に会いたかった。会って確かめたいと思うことがいくつかあるのだが、もし彼を目の前にして、それをキチンと聞くことができるだろうか?
 角を曲がると、そこには昨日の公園は存在していなかった。彼がいないだけならまだしも、公園自体が消えているということは、やはり昨日の自分は今日の自分とは違っているのではないかと思えた。
――昨日のことなのに――
 目の前にあると思って疑わなかった光景が、まったく違う光景になって現われたのだから、戸惑っても無理もないことだ。
 しかし、考えてみれば、昨日のできごと自体がまるで夢のようではなかったのだろうか?
 亜衣は、昨日の記憶をほとんど覚えていないはずだったが、断片的に思い出すことができた。シーソーに乗った男性が相手は誰もいないのに、自分が上になっているという物理的な矛盾や、自分に関係がある人だということだけは覚えていたのだ。
 そして、彼が何かを話したその時に、亜衣も自分の過去をいろいろと思い起こしていたかのような記憶があったのだ。
 亜衣は今朝のことを思い出していた。
 もう一人の自分と会話をしていたのを覚えている。
 その時に、同じ日を繰り返しているという感覚になった。テレビのニュースで数日前の話をしていたことが気になっていた。しかし、実際には夢を見ていたのか、もう一人の自分と話をしたという感覚の副作用なのか、過去を繰り返すという感情を、「自己暗示」として今は理解していた。
 そうとしか考えられない。もう一人の自分が問いかけてきたという意識も、「自己暗示」だと思えば自分を納得させられる。
――この時の「自分」というのは、果たしてどの自分なんだろうか?
 亜衣は考えた。
 今、こうやって考えている自分ではないことは確かだ。普段から何かを判断しなければいけない時、時々、
「自分を納得させる」
 という言葉で、判断を誘発させるが、その時の自分というのが一体どの自分なのか、今までさほど気にしたことはなかった。
 自分の中にもう一人、性格の違う自分がいるのではないかという思いは、少なからず以前から持っていた。
 自分が二重人格なのかどうなのか、そのことで悩んだことはあまりなかった。
「人間なんて、誰でも裏表を持っているものなんじゃないかしら?」
 以前から、そんな思いをいつもその時々の数少ない友達には話していた。
 亜衣は、あまり人と関わりたくないと考えるのは、自分が普通の人と考え方が違っているからで、それを悪いことだとは思っていないからだった。
「何でもこなせるような平均的な人になってくれればいい」
 母親はそんなことを話していたのだが、亜衣にはその考えが分からなかった。
 確かに平均的な人は無難に何でもこなせるので、人からは好かれるだろうが、一芸に秀でた人の方が、熱烈に好かれるのではないかと考えている亜衣は、
――平均的な人間なんて、面白くも何ともない――
 と心の底で思っていた。
 もちろん、母親に向かって、そのことを口にするつもりはない。自分のためを思って言ってくれていると思うと、余計なことはいえないのだ。
 その頃からだろうか、
――私の中には、もう一人自分がいて、私はその人のようになりたいという矛盾している意識を持つようになった――
 と感じていた。
 亜衣にとって、もう一人の自分を意識するということは、普段から自分に自信が持てない自分を助けてくれているように思えた。
 亜衣は時々、
――まわりの皆は私よりも優れているんだわ――
 と思い、また時々、
――私ほど、他の人にはないものを持っている人はいない――
 と感じていた。
 それは、矛盾しているということではない。人に適わないことはたくさんあるけど、他の人にはないと思うこともたくさんある。それが他の人よりも優れていることだとは恐れ多くて口にはできないけど、心の中ではそう思っていてもいいのではないかと思っているからだった。
――私は、本当にこの世界の住人なんだろうか?
 と、中学生の頃に考えたことがあった。
 自分にしか見えない透明人間がいて、その人と自分の意識の外で交流しているような気がしていた時期があった。
 ただ、当時の亜衣には、その人が透明人間であるという意識はなかった。
 つまりは、他の人にもその人の姿かたちが見えているものだと思っていたのだ。
 亜衣がその人の存在を意識したのは、好きになった男性が現れてからだった。
 亜衣は、その人に告白はおろか、話をするのもおこがましいと思っていた。その頃にはすでに、
――人と関わりたくない――
 という思いが亜衣の中にあり、その感情が、人を好きになることさえも否定しようとしていたのだ。
――これが思春期なんだ――
 と、自分にも他の人と同じように思春期が訪れた。そのことが、亜衣を矛盾という感情の中に押し込んでしまい、一緒に訪れている思春期を惑わせてしまった。そのせいもあってか、自分の中にもう一人の自分がいるという意識を芽生えさせ、自分を納得させることを最優先に考えるようになったのだ。
 思春期というものと、もう一人の自分の発見というものが同じ時期にやってきたのは、自分が、
――人と関わりたくない――
 と考えるようになった要因でもあった。
 そこに存在しているのは「矛盾」であって、矛盾を解決するには、
――自分を納得させること――
 という発想が不可欠だったのだ。
 それが今の亜衣の性格を形成している。矛盾を解決させるために自分を納得させようとするには、うまく行かないこともあっただろう。
 しかし、今までにうまく行かなかったという記憶はない。何度も納得させることがあったはずなのに、一度もうまく行かなかったことがないというのは、それ自体が矛盾のような気もしてきた。
――何かの見えない力が働いているのかも知れない――
 それこそ、
――自分にしか見えない透明人間――
 の正体なのかも知れない。
 それにじても、自分にしか見えない透明人間という発想がいつから生まれたのか分からない。
 最初から透明人間だと分かっていれば、考え方も違っていた。最初は、あくまでも自分の同志のような人であり、考え方を一つにした「普通の人間」のはずだった。
 相手を特別な人間だと思ってしまうと、自分から萎縮してしまったり、
――自分よりも優れていても仕方がない――
 と、違った意味で、自分を納得させようとしてしまうだろう。
 それはネガティブな考え方であり、透明人間というものをある意味肯定してしまう自分を、どのように納得させられるのか、それこどが矛盾であろう。
 人と関わりたくないという思いの奥底に、
――矛盾を感じるなら、一人で感じたい――
 という感覚があり、人と共有できるものではないと思っている。
 人は誰でも矛盾を感じているのだろうが、その矛盾に共通性を感じてしまうと、亜衣は自分を納得させることができなくなると思っていた。
――そんな矛盾を感じているから、昨日、あんな夢を見たのかしら?
 そこにあるはずの公園がない。そんな発想は、まったくなかった亜衣には、今までのことが夢以外であるはずはないと思えた。そしてそんな夢を見る根拠として自分を納得させられるのは、普段から感じている矛盾でしかないと思えたのだ。
 その日、亜衣がどうやって家まで辿りついたのか、ハッキリと覚えていない。気がつけば真夜中になっていて、しっかりパジャマに着替えて眠っていたのだ。
――やっぱり夢だったんだ――
 と亜衣は感じたが、それではどこからどこまでが夢だったのかという大きな疑問が残った。
――どこまでって、今まででしょう――
 と、自分に問うてみたが、答えは返ってこない。同調しているならば、すぐに返答があるはずなのに、返答がないということは、自分が怪しいと思っていることを理解しているのだろう。
――理解されたって、納得できなければどうしようもない――
 と考えた。
 どこかから夢に入り込んでしまって、気がつけばその夢から今目が覚めたと考えるのが一番いいのだろうが、目が覚めたからといって、夢から覚めたといえるだろうか?
 そもそも夢というものは、潜在意識が見せるものだと考えている。自分で納得できないことであれば、いくら夢であっても、実現できるものではない。それは最初から分かっていることだ。
 亜衣は、目が覚めたとはいえ、ハッキリと起きようという意志を持っているわけではない。むしろ、
――もう一度このまま眠ってしまいたい――
 と考えていた。
 時計を見ると、まだ午前二時だった。いわゆる、
――草木も眠る丑三つ時――
 である。
 もう一度夢の世界に入りたいと思っているのか、それとも、今がまだ夢の世界にいて、次に目を覚ます時が本当に夢から覚めた時だと思っているのだろうか。
 どちらにしても、今の目覚めは自分にとっての本意ではない。もう一度目を覚ますという行為をしなければ、夢から抜けられないと思っていた。
 ただ、もう一度夢の世界に入り込むことが怖いとも思えた。
 今まで夢の世界に逃げ込みたいと思っても、夢を見るのが怖いと思ったことはなかった。確かに怖い夢を見たことがないわけではない。子供の頃にはよく怖い夢を見て、魘されたこともあった。そんな怖い夢に限って覚えているもので、忘れられないと言った方がいいのかも知れない。
 覚えていたくないことほど忘れられないもので、忘れたくないことほど、あっという間に忘れてしまうものだ。
 これは矛盾ではない。人間の特性のようなもので、本能のようなものだと言ってもいいだろう。矛盾にばかり目が行ってしまうと本能を忘れてしまうことが往々にしてあるようで、夢の世界に逃げ込みたいという思いや、夢の世界に入りたくないという思いは、矛盾と本能の間でジレンマとなった気持ちが、夢との間に壁を作ろうとしているからなのかも知れない。
――そういえば、怖い夢の代表として、同じ日を繰り返しているという夢を見たことがあったわ――
 亜衣は、怖い夢ほど覚えているもので、夢の世界に逃げ込みたいと思った時には、いつも怖い夢を思い出していた。
 同じ日を繰り返していることが、どれほどの怖さなのか、普段に思い出すのと、矛盾と本能のジレンマを感じている時に思い出すのとでは、その恐ろしさが違っていた。普段に思い出すのは、気持ち悪さが先に来て、午前零時を回ってすぐに感じる息苦しさが、同じ日を繰り返しているという状況を一瞬にして悟らせるものだった。息苦しさは気持ち悪さに変わり、嘔吐することによって、目を覚ますのだ。
 しかし、矛盾と本能のジレンマを感じている時は、午前零時を回っても、同じ日を繰り返しているという意識はない。気持ち悪さを凌駕しているのか、感覚がマヒしている。ただ、何が恐ろしいといって、夢の中にもう一人自分が出てくるのが恐怖を煽る。それまでマヒしていた感覚がもう一人の自分の出現によって、息苦しさを思い出させるのだ。

                透明人間の正体

 午前零時を回ってから、時間がまったく進まない。真っ暗な世界で目を覚ました亜衣は、目が暗闇に慣れてくることもなく、時間の感覚もまったくなくなっていた、すべてのものが暗黒に支配され、光が亜衣に当たることはない。まるでブラックホールを思わせる世界こそが、ジレンマの正体なのだと悟るのだ。
 亜衣はそんな時、
――一日完結型――
 という意識を頭の中に浮かべていた。
 一日が終わると、身体や心がリセットされて、疲れも疲労も忘れる。
 しかし、リセットされてしまうと、翌日への扉を開くことができなくなる。誰もが日付が変われば翌日がやってくると、何の疑いもなく感じている。亜衣ももちろんそうだった。一日一日の積み重ねが年月を刻み、そして自分に年齢を重ねさせるのだ。
 だが、一日一日を積み重ねるのは自分だけではない。むしろ一日一日が積み重なっていくから、誰もが年齢を重ねるのだ。
 一人として違えることはない。違ってしまえば、その人だけ別の次元の人間ということになる。考えてみれば、皆が皆同じ時間を共有しているというのも、不思議なものである。
 未来はそのうちに現在となり、一瞬で現在は過去になる。現在という一瞬を通り越してみると、どれほど薄っぺらいものなのかということを誰も考えたことはないだろう。
 例えば、薄っぺらい紙であっても、束となって重なると、かなりの厚みになる。それは、紙がゼロではなく一以上だからだ。ゼロというものは、どんなに重ねてもゼロ以外ではない。つまり現在という世界にゼロは存在しないという考えだ。
 あまりにも唐突な考えだが、亜衣は自分を納得させることができる。
 矛盾と本能の狭間でのジレンマを感じることができるから、自分を納得させられるのではないかと感じていた。
――皆が皆、リセットされない人生を歩んでいるというのは、偶然が重なっているからだろうか?
 亜衣は、考えた。
 リセットされない人生がずっと続いていくのだとすれば、一日という単位は何のためにあるのかという疑問を感じていた。
 一日一日が重なって、その時々の節目でまた単位が存在する。一週間、一ヶ月、一年……。節目はリセットされない人生にどんな影響を与えるのか。
――人は一人では生きられない――
 というが、それはリセットしない毎日を、同じ空間として生きている人が存在しているからであろう。逆に、リセットされる人間というのを見てみたいものだ。
 亜衣がどうして、こんな発想を持ったのか、自分でも分からない。ずっと以前からこういう発想を持っていたような気もするが、意識してあらためて考えてみようと思ったことはなかった。
 亜衣は頭の中で創造していた。
 そこには、シーソーがあり、乗っている人が一人いるが、その人は上になっている。矛盾した光景だと一瞬にして感じたが、次の瞬間、
――何がおかしいというんだろう?
 と感じた。
 明らかにおかしい光景を目の当たりにしているはずなのに、おかしい理由がすぐには思い浮かばない。
――軽い人が上に来るはずのシーソーなので、相手がいないにも関わらず自分が上にいるということは、自分がマイナスなのか、見えていない空間に重みがあるのかのどちらかでしかないはずなのに、それ以外にも何か考えられることがあり、その思いが自分を納得させられる理屈を持っていることで、おかしいという理由がなくなったのだ。その理由が何なのか分からないが、一ついえることは、
――その光景を見るのが初めてではない――
 ということだった。
 亜衣は、シーソーに乗っている人がマイナスの重さを持っているという理屈よりも、見えていない空間に重みを感じる方が、自然ではないかと思えてきた。
――自分に見えていないだけで、そこには誰かがいるのかも知れない――
 そう思うと、自分のまわりに他にも人がシーソーを見ているのを感じた。
 誰もが無表情で、その光景をおかしなものだと思っていないようだ。少しでもおかしな光景に見えていれば、一人くらいは、違ったリアクションを示してもいいはずだからである。
 そう思うと、シーソーの下には亜衣にだけ見えていない誰かがいて、亜衣にはその人が透明人間ではないかと感じさせたのだ。
――透明人間なんて――
 と、馬鹿げているという発想を持つことは簡単だが、他の人には見えているのに、自分にだけ見えていないということは、本当にそこに誰かがいて、亜衣にだけ見えない細工を施していると思うしかないような気がした。
 そこまで考えてくると、昨日出会った男性のことが思い出されてきた。公園を通りかかった時にその人と話をした。その時、話をしながら、亜衣は自分に何かを納得させようとしているのか、過去に感じた自分の思いを記憶の奥から引っ張り出そうとしていたことも思い出した。
――あの時に感じていたことをある程度思い出したように思えたけど、それ以上の何かを今なら思い出せそうな気がするわ――
 仕事が終わってから、行きつけの店に行き、その帰りに公園に足を運んだ。あるはずの公園がそこにはなく、そのことを最初から分かっていたかのように感じると、いつの間にか疲れが襲ってきて、前後不覚に陥ったようだ。気がつけば家に帰り着いていて、真夜中だった。それが、今の自分の置かれた立場であると考えると、ここ数日、自分は見えない何かに誘導された生活を送っているかのように思えた。
 しかし、普段の毎日だって同じではないか。自分が望んだような人生が歩めているわけではない。そもそも、毎日をどのように生きるかなど、ハッキリと分かっているわけではない。
 亜衣は矛盾を考えていると、毎日が繰り返されずに、つまりはリセットされずに必ず次の日に進めるということこそ、矛盾なのではないかと思えてきた。
――一年に何日かくらい、リセットされた一日があったっていいんじゃないかしら――
 と感じている。
 リセットされずに、毎日を突き進んでいるから、疲れもたまってくるのだし、老いてもくるのだ。リセットされる日が何日かあれば、人間の寿命だって、もう少し延びるかも知れない。
 だが、考えてみれば、自然界の摂理で、人間だけが寿命を延ばしても、それは自然界の循環を崩すことになる。それこそ大きな矛盾であり、自然界に対しての冒涜ではないだろうか。
 そう思うと、リセットされずに毎日を生きることは、自然の摂理という観点から、当然の流れではないかと思わせる。
 それが、亜衣にとって、自分を納得させるに十分な理屈だった。
「そっか、自然の摂理か……」
 そういいながら、ため息をついてしまうであおう自分を想像していた。
――昨日の男性は、本当は自分が創造しただけの人なんじゃないかしら?
 と、昨日のことを、架空の空間として創造してしまっていた。
 それは夢ではない。夢という観点にしてしまうと、あくまでも自分の中だけで完結してしまう存在になってしまう。
――彼は、私が作り出したものではないんだ――
 彼という存在に向き合った時、明らかに他人事ではなかった。自分が作りだしたものだとすれば、そこには少なからず他人事を意識させ、自分とは違う立場の男性だと思わせることで、自分の支配レベルで考えようと思うだろう。
 しかし、他人事ではないと感じると、相手のことをまず知りたいと思う。自分が作り出した創造ではないのだから、当然である。相手を知りたいという感覚は、他人事ではありえないことだ。
 亜衣にとって、創造するということは夢の世界とは違う。同じ「そうぞう」でも、想像に近いものが、夢の世界ではないだろうか。
 亜衣は自分を一日完結型の人間ではないかと考えたことがあった。
 それは子供の頃のことで、さすがに一日完結型などという言葉は思いつくわけではなかったが、
――同じ日を繰り返しているかも知れない――
 と感じたことが何度かあった。
――以前にも感じたことがあったような――
 いわゆる「デジャブ現象」というものだが、それは遠い過去に感じたことを、最近のことのように思うという感覚であった。しかし、亜衣が感じた「以前」という感覚は、「昨日」のことだったのだ。
 それを感じると、
――昨日という日を、もう一度過ごしているんじゃないか?
 と感じたのだ。
 もちろん、
――そんなバカなことはないわ――
 と、一瞬にして否定したが、それは後から思っての一瞬で、その時はかなり長い間考えていたという思いは残っていた。
 ここで感じた時間の矛盾は、
――同じ日を繰り返すなど馬鹿げている――
 と、次第に感じさせるに至ったのである。
 亜衣は、その日、家に帰ってから、午前零時が過ぎるのを固唾を呑むように待っていた。
――こんなに時間が経つのを意識したことなんてあったかしら?
 人を待つことをあまり苦痛に感じない亜衣は、以前好きになった男性と待ち合わせをしたことがあった。今から思えば一人の男性と待ち合わせをするなどということは、その時が最初で最後だった。
 あれは大学一年生の頃だっただろうか。一番気持ちに余裕のあった時期だったのかも知れない。余裕がありすぎて、いろいろなことを考えてしまうことがあったが、まわりから見れば、
「何を考えているのか分からない」
 と言われていた。
「いつもボーっとしていて、どこを見ているのか分からない時があるわ」
 と、同じクラスの女の子から言われたことがあって、
「そうかしら?」
 と、淡々と答えたが、相手も、
――どうせ、そんな返事しかできないんでしょうね――
 とでも思ったのか、お互いにサバサバしていた。
 そんな亜衣が一人の男性を好きになった。
 好きになったというよりも、初めて男性を意識したと言った方がいいだろう。亜衣の場合は、好きになったという言葉よりも、男性を意識したという言葉の方が、ダイレクトに感じる。それは、人を好きになるということがどういうことなのか分からないからで、分からないものを口にしても、それは絵に描いた餅のようで、何ら真実味がないと思えたのだ。
 それよりも、男性を意識したという方が、どのように意識したのかに関わらず、信憑性がある。自分を納得させることができる言葉であり、人を好きになるという漠然としたものではない。
 しかし、彼と待ち合わせをした時の亜衣は、
――その人のことを好きなんだ――
 と、自分に言い聞かせていた。
 その男性には、他に付き合っている女性がいるというウワサを聞いたことがあった。
 しかし、
――彼に限ってそんなことは――
 と、彼が亜衣に対して接する態度は、その時のまわりの誰よりも、しかも、それまでに接してくれた誰とも違う優しさがあったと感じた。
 それまでにも人からの優しさを感じたと思ったこともあったが、そのすべてを否定しても余りあるほどの彼には優しさがあったと思う。
 後から思えばその優しさは「包容力」だった。
 年頃の女性にとって好きだという感情に、プラスアルファが加わった感情である。そのプラスアルファとは暖かさだった。好きだという感情はこちらからの一方通行であり、確認するすべもない。しかし、相手に感じる包容力は暖かさを持つことで、相手の愛を信憑性に変えるものだといえるのではないだろうか。
 彼は亜衣に対して何も言葉にしたわけではなかった。普段は数人の輪の中にいる一人でしかない亜衣だったが、彼はそんな亜衣を見る目が、他の人に対してのものとは違っていることを感じていた。
 その思いは最初の頃から感じていた。
――どうしてそんな目をするんだろう?
 と感じた。
 大学に入ってからの亜衣は、しばらくの間、まわりの流れに任せるところがあった。自分から関わることを嫌っていることもあって、まずは冷静な目でまわりを見ることが大切だと感じたのだ。
 入学して少しすると、クラスの中でいくつかの団体に分かれるようになっていた。誰もがそのどこかに所属するような感じで、
――これが大学生活なんだわ――
 と、亜衣も感じていたが、自分から進んでどこかに所属する気持ちにはなれなかった。
 そんな時、いつも隣の席に座ってくる女の子といつも間にか仲良くなっていた。
 彼女は積極的な性格で、消極的な亜衣とは、まるで凸凹コンビのようであった。
「もっと、自己アピールすればいいのに」
 と彼女は言ったが、亜衣もその言葉に嫌な気はしなかった。
「そうかしら?」
 と苦笑いをしていたが、それを彼女はまんざらでもないと解釈していたのだろう。
 亜衣は、それでよかった。勝手に解釈してくれた方が、亜衣にとって楽だったからである。自分で考える必要もないし、彼女に対して悪い気持ちはまったくなかったことから、彼女に合わせることは、自分としても好都合だと思っていた。
 そんな彼女に進められるまま入ったグループでは、彼女はいつも中心にいた。
 グループの中心にいるのだから、亜衣のような漠然とした女性とは、あまり関わることはないだろうと思っていたが、何かと亜衣のことを気にかけてくれた。亜衣もそれはそれで嬉しかったし、彼女も亜衣に嬉しく思われると自分をもっと高い位置に持っていけるという思いがあったのだろう。
――彼女にとって、私は透明人間であっても構わないのに――
 と感じていた。
 亜衣が、自分を透明人間と感じたのは、その時が初めてだった。
 それまでは、人と関わりたくないという感情は、
――路傍の石――
 だったのだ。
 そばにいても、誰にも気にされることがない。存在を薄くさせるだけで、それだけでいいのだ。
 しかし、実際にやってみると、これほど難しいことはない。
 確かに存在を薄くすることができるが、それでは誰にも気にされることがないわけではない。却って目立ってしまうことがあるくらいで、自分の意図していることとは反対の効果が生まれることが往々にしてあったのだ。
 高校生の頃くらいまでは、そんな状態が続いた。
 高校生の頃には、
――まわりの皆は何を考えているのか分からない――
 という思いがあった。
 それは、亜衣だけに限ったことではなく、誰もがまわりに対して抱いている感情だった。まわりを意識するあまり、自分からまわりに関わらないようにしようとしている空気が、痛いほど分かったのだ。
――受験というものを控えていることで、こんなにも空気が悪くなるものなのかしらね――
 と感じた。
 学校では、差しさわりのない会話をしていても、実際には何を考えているのか分からないという感情が渦巻いている世界は、息苦しさしかなかった。
 ただ、それは高校二年生の途中から急に感じるようになったことで、亜衣はそれ以前から人と関わりたくないという思いを抱いていたので、
――私はあなたたちのような俄かじゃないのよ。一緒にしないで――
 と勝手に思い込んでいた。
 ピンと張り詰めた空気は一触即発のように見えて、なかなか破裂しない。それぞれの気持ちが空気に均衡を与えているのではないかと感じたほどだ。
 亜衣にとってピンと張り詰めた空気は、結構嫌ではなかった。まわりも自分と同じような気持ちでいるくせに、
――私はあなたたちとは違うのよ――
 という思いを、露骨に表に出しているように感じた。
 亜衣にとって、これほど扱いやすいものはない。一触即発ではあったが、均衡が保たれていることは分かっていた。亜衣は自分の気持ちを表に出さないようにしながら、心の中では、
――あなたたちの考えていることなんか、お見通しよ――
 と感じ、上から目線になっている自分を感じていた。
 受験が近づくにつれて、その思いはどんどん強くなる。そして、
――私は、こんな人たちに負けるわけはないんだわ――
 という受験前になって、他の誰にもない自信を、得ることができたのだ。
 大学受験も無難にこなし、大学生になった。
 その時の亜衣は、高校時代の自分が何事もなかったかのように感じた。
 なぜなら、まわりの人たちは、大学に入学すると、それまでの自分たちを棚に上げて、急にまわりに気を遣い始めた。
 高校時代が張り詰めた空気の中で、まわりを意識しながら、自らを息苦しい空気の中に身を置いた。それなのに、大学に入学してしまうと、まわりとはそれまで何もなかったかのように、人に気を遣い始めるのだ。
 そこにぎこちなさはない。誰もが高校時代の自分を忘れたいとでも思っているのだろうか。
 亜衣は、高校時代の自分に何もなかったのだと思っていたが、自分を忘れたいとは思わない。それが、最初から人と関わりたくないと思っていた亜衣の本心だった。
――私にとって、大学入試は忘れられない過去だけど、記憶の奥に封印してしまえばいいんだ――
 と意識的に封印したのだった。
 そんな亜衣と同じような気持ちではないかと思える人が、グループの中にいた。それgが亜衣が気になって男性であり、彼も人と関わりたくないという思いを強く持っているようで、その証拠に、まわりの人に気を遣おうという素振りを示していなかった。
 しかし、そんな彼はなぜか、まわりの女性にモテていた。
 名前を、門脇と言ったが、
「門脇さんには彼女いるのかしら?」
 と誰かが言い始めると、
「いないわよ」
 と、即座に返事をする人がいた。
 どうやら、二人が彼を狙っているのは分かったが、その時の女性の間での雰囲気は、最悪な感じがした。
 高校時代の息苦しさではない。ただ、その場にいると吐き気を催しそうな気持ち悪さだった。
 それは、亜衣自身がその場にいることで、自分が嫌いになりそうになったり、自分を許せないと思えるような空気を感じたりした。その空気はまわりに対してではなく、自分に対して気持ち悪さを感じさせるものだった。
――まるで欝状態への入り口のようだわ――
 と感じた。
 彼はそんな空気の中でも、普段と変わりはなかった。ただ、亜衣に無性に近づいてくるところがあり、亜衣と二人きりになると、安心したような表情になっていた。亜衣は、
――私の表情が彼の癒しになっているのだとすれば、こんなに嬉しいことはないわ――
 と感じた。
 亜衣は、それを自分の錯覚だとは思えなかった。一瞬、
――彼を好きになったんじゃないかしら?
 と感じたが、好きになるには、まだ彼に関わるのが怖い自分を感じていた。ただ、彼のことが気になるだけだった。
 そのうちに彼に気を遣っている自分がいることに気がついた。亜衣は自分が人に気を遣われるとそのことを敏感に感じ、嫌な気分になっていた。人から気を遣われるということは自分がまわりに対して困っている感情を発散させていると思ったからだ。
 人と関わりたくないと思っている自分に、人が気を遣っているなど、考えただけでも嘔吐しそうであった。
――私にとって彼という存在を納得させるには、。どうしたらいいんだろう?
 彼氏になってほしいという感情を持っているわけではない。彼の癒しになれればいいという感情は確かにあったが、それを思うと、自分が高校時代に感じていた上から目線になりたくないという思いが渦巻いているのを感じた。とりあえずは、お互いに意識し合うことから始めることが大切で、まわりとの空気の違いを二人でどのように作っていけばいいのかを模索していた。
――彼に直接話をぶつけてみた方がいいのかしら?
 と思った。
 しかし、その勇気は亜衣にはなかった。それなら、彼に自分に対して話をぶつけられるような環境を作る方が、その時の亜衣にはできそうな気がしていたのだ。
 それには、まずグループの中で自分が「他人事」のようになることが先決であった。
 それは彼に対しても同じことで、自分がまわりに対して「他人事」になることで、それを彼がどのように感じるのかが気になるところだった。
 他人事というのは、自分が輪の中から外れるというだけではなかった。輪の外に出るのではなく、輪の中から、まわりに対して、
――あの人は、他人事のような目で私たちを見ている――
 と、まわり全員に思わせなければいけなかった。
 他の人なら、結構難しいことなのかも知れないが、亜衣にとっては、さほど難しいことではない。子供の頃から、
――人と関わりたくない――
 という思いを持ってきたことで、自分では筋金入りだと思うようになっていた。
 実際に彼は、亜衣のそんな思いを察することができたのか、今から思えばそれは分からない。ただ、その答えを導き出す一つの材料として、亜衣が彼と待ち合わせをした時のことが思い出されるだろう。
 別に付き合っているわけでもなく、彼氏彼女というわけではなかった二人が、待ち合わせをするのに、意識も何もなかった。
 ただ、何か気になることはあった。
 彼と待ち合わせをした時、何かを言いたげであったことは察知できたが、それが何であるかは分かるはずもなかった。
――ひょっとして、私に告白でもするつもりなのかしら?
 と、一瞬だけ頭をよぎったが、
――まさかね――
 と、すぐに否定した。
 今まで自分に言い寄ってくる男性はいなかったし、言い寄られて嬉しいという感情はなかった。確かに彼氏がほしいと思うこともあったが、それはずっと感じていた思いではなく、感情の高ぶりが定期的に襲ってきて、無性に寂しさを感じるからだった。
 寂しさが彼氏をほしがっている自分とシンクロしたとしても、気持ちの高ぶりは少し違っているような気がした。一気に気持ちが高ぶって、身体に震えが襲ってくるのだが、すぐに我に返ると、身体の震えは止まっている。
――何なのかしら? この感情――
 それが寂しさからやってくるものだという思いは、後になって感じることだった。もし、その時に寂しさからやってくる震えだと感じていたら、それが彼氏をほしがっている自分の気持ちから出ていると気付いたかも知れない。
 彼氏をほしがっているというのは感情からではなく、身体がほしがっていると思うことで、寂しさを否定しようと思ったのだ。同じ寂しさでも身体から起こる寂しさは、自分を納得させるだけの力があったのだ。
 彼が亜衣に、
「少し相談があるんだけど」
 と言って切り出した時、その表情には、寂しさが感じられた。
 亜衣は、自分が感じる寂しさは他人に知られたくはないが、他人が自分に見せる寂しさは、放っておくことができない。その気持ちをいとおしいとまで思うほどで、その思いは母性本能に似ていると感じていた。
 亜衣が、まわりを見ていて、
――他人事だわ――
 と感じるようになったのは、小学生の頃、友達のお兄さんが亡くなった時からだった。
 お兄ちゃんを交通事故で亡くした友達は、あまり悲しそうにしていなかった。母親が葬儀の帰りに、他のお母さんたちと話をしているのを偶然聞いてしまった亜衣は、その時の会話を今でも覚えている。
「奥さんの憔悴した様子は見ていられなかったわね」
 と、一人のお母さんが言うと、
「あら? そうかしら? 私が見た時は、涙を流してまわりを憚ることなく、号泣していましたわよ」
 と、他の奥さんが言った。
「じゃあ、涙が枯れるまで泣き明かして、最後には疲れ果てたという感じなのかしらね」
 と、言ったのは、自分の母親だった。
 亜衣もその話を聞いていて、
――お母さんの言うとおりなのかも知れないわ――
 と感じた。
 そして、自分の母親が冷静に状況を判断しているのだと、その時の亜衣は感じた。まだ小学生の低学年で、あまり人の感情や大人の話が分かる年齢ではないはずなのに、その時は自分なりに理解できていた。
――成長していく中で思い出すたびに、感じ方が変わっていったのかも知れないわ――
 とも感じたが、それだけではないとも思えた。
 子供心に、何とか大人の会話を理解しようという気持ちがあったのは間違いないが、自分でもビックリするほど冷静に話を聞いていたように思う。深刻な話だったからなのかも知れないが、それだけに、ゾッとするような感覚が身体を襲ってきそうで、それを拭うには、他人事のように考えなければいけないと悟っていたのかも知れない。
 だが、今から考えても、あの時ほど冷静な自分を感じたことは今までにはなかったように思う。いくら他人事のように見たとしても、どこかに感情が残っていて、あの時ほどの冷静さを持つことはできない。だから余計に、他人事を貫こうという思いを抱いているのだろう。
 大学生になって、高校時代と違い、まわりが明るくなったのを感じると、今まで見えていなかったものが見えてきた気がした。友達も自分が望む望まないに限らず、勝手に増えていった。それは、自分の力ではないと思いながらも、潜在している自分の性格に、まわりが興味を持ったからだと思ったが、それを嬉しいと思いながらも、冷静な自分を取り戻したいという思いもあってか、他人事を貫く姿勢を崩すことはなかったのだ。
 亜衣は、門脇との待ち合わせを快く承諾し、待ち合わせ場所には、いつものように二十分早くやってきていた。
「どうしていつも亜衣はそんなに早く待ち合わせ場所に来るの?」
 と、団体の中の一人に言われたことがあったが、
「人と同じでは嫌なので、誰よりも早く来ることを心がけているのよ」
 と答えた。
「そうなのね。素晴らしい考えだわ」
 と、友達は感心していたが、亜衣は感心されればされるほど、気持ちが冷めてくるのを感じた。
――何が素晴らしいというの? 人と同じでは嫌だって言っているのに――
 皮肉を皮肉と受け取ってもらえないと、自分が浮いてしまっているように感じられ、人と同じでは嫌だという自分の気持ちを真っ向から否定されているように思えて、苛立ちを覚えるのだった。
 その日も、二十分早く待ち合わせ場所に着いたが、亜衣としては、約束の時間に着いたのと同じ感覚であった。
 なぜなら、自分が来てから約束の時間までの二十分があっという間に過ぎてしまうのを感じるからで、約束の時間になれば、自分の頭がリセットされるように思えたからだ。別にリセットされるわけではなく、まわりが自分に追いついただけのこと、その思いは自分だけのもので、亜衣はそれを感じると、勝ち誇ったように心の中でほくそ笑むのだった。
 その日も、約束の時間まであっという間に過ぎた。
 待ち合わせ場所は駅だったので、彼が電車でやってくるのは分かっていた。改札口の前で、彼が現れるのを、今か今かと待ちわびている自分が、いとおしく感じるほどだった。
 亜衣も待ち合わせ場所までは電車でやってきた。
――自分が二十分前に見た光景を、もうすぐ彼も見るのだ――
 と思うと、ゾクゾクした感覚に陥っていた。
 自分は今度は反対側から彼を探すのだが、同じ瞬間に、彼の目になって先ほどの光景を感じることで、目の前の自分を確かめた時の感情がどんなものなのか、想像するに至っていた。
――きっと、子供のようなあどけない表情を新鮮に感じるんでしょうね――
 と彼が自分を見る顔を想像すると、おのずと分かってくるような気がしていた。
 約束の時間まで、電車は三台到着した。
 二台目までは、
――まず乗ってはいないでしょうね――
 と思いながらも、現われればまるでサプライズのような気持ちになっている自分を感じた。だから、彼が自分を認めた時に感じるのが、
――あどけなさと新鮮さ――
 だと感じたのだ。
 やはり乗っていなかったことで、次の電車を待っている時にドキドキし始めた自分を、今度は自分の中でいとおしく感じた。
――今度こそ――
 という思いは、次第に自分に複雑な感情を芽生えさせていた。
 次の電車には乗っているであろう彼を認めた時、自分がどんな顔をすればいいのか、いまさらながら、戸惑っていたのだ。
 電車がやってきて、彼が乗っていなかったのを確認すると、がっかりした反面、ホッとした気分にもなったのは、戸惑いのまま彼の目の前に現れることがなくてよかったという思いからである。
 乗っているはずの電車に乗っていないことで、次からは、
――乗っていて当たり前――
 という思いと、
――乗っているはずの電車に乗っていなかったのだから、次もいないかも知れない――
 という矛盾した思いが、亜衣の中に芽生えた。
 それでいて、自分が彼にどんな顔をすればいいのかという思いも纏まらないまま、のっていなかったことで、またしても、ホッとした気分になった。
 一時間も待たされると、他の人は、
――もう来ないわ――
 と思うだろう。
 もちろん、その前に携帯電話で連絡を取るのは当たり前のこと。
「どうしたの? 一体」
 怒っているわけではないが、自然と口調は荒くなっているのが自分でも分かる。
「ごめん、もう少し仕事が長引くんだ」
 という彼の申し訳なさそうな声を聞いて、
「後、どれくらい?」
「今は何ともいえない」
 という彼の返事に、亜衣は自分が彼よりも立場が上であることを理解し、その思いが怒りを抑えてくれるように思えた。
 その感情が、
――まあいいわ。もう少し彼の言うとおり待ってみるわ――
 と感じさせた。
 そこには、
――この私が待っているんだから――
 という恩着せがましさがあるのも否めないが、それよりも、
――彼を思って待っているしおらしい女――
 を感じていた。
 しかし、このしおらしさは、自分の本心からというよりも、演じているという思いのほうが強く、いろいろな思いが交錯する中で、次第にこの思いが一番強くなってくることを感じた。
――演じているんだから、これこそ自分を他人事のように思えるんじゃないかしら?
 と思えた。
 まわりを他人事のように感じることは日常茶飯事だったが、自分のことを他人事のように思うことができるとは、なかなか感じたことはなかった。そんな感情を抱かせてくれたこの状況をもう少し楽しみたいと思った。そういう意味で、長時間待たされることへの苛立ちよりも、自分を他人事のように思える感情が先に立って、誰にも知られたくないと思う自分の気持ちを、初めて発見したような気がしていたのだ。
 一時間が二時間になり、気がつけば三時間になっていた。
――最初の待ち合わせの時間がまるで昔のことのようだ――
 と感じていたが、なぜか時間が経ったという感覚はなかった。それは、途中途中で時間を意識していたからで、一日をあっという間に過ぎてしまったと毎日考えていても、一ヶ月単位で考えると、一ヶ月前がかなり前だったように感じるという、そんな感覚に似ていた。
 時間の感覚は、その刻み方によって違っていることが往々にしてあるものだ。そのことは今までにも何度も感じたことであり、その都度、自分を納得させる答えを見つけていた。その答えがいつも一緒ではない。違っているから、その時々で覚えているわけではなかった。
 亜衣は、時々自分の中にもう一人の自分を感じているということを気にしているが、時間の感覚の違いが、そのもう一人の自分の存在によるものだということに気付いてはいなかった。
――もう一人の自分の存在は、どちらかが表に出ている時はどちらかが裏にいて、決してそれぞれを認識はできないんだ――
 と感じていた。
 つまり、意識はできても認識ができない、幻のような存在だと考えていた。
――きっと、もう一人の自分も同じことを考えているんだろうな――
 と思うと、もう一人の自分が表に出ている時、まわりは亜衣という人間をどのように見ているのか、気になってきた。
――他人事のように見ていてほしい――
 と感じると、自分がまわりに他人事のように見えてしまう原因は、もう一人の自分の存在を意識しているからではないかと思えた。
 亜衣はその時に、
――一日完結型人間――
 を意識していたのではないだろうか?
――一日完結型の人間というのは、二人の人間が存在し、前に進む人と、後ろに下がる人がいる。いつも同じ人が前に進んでいると思っていると、もう一人の自分を永遠に意識することができない。逆にもう一人の自分を意識することができると、後ろに下がっている自分がいるのを感じ、同じ日を繰り返しているのではないかという錯覚を覚えるのかも知れない――
 同じ日を繰り返しているのが錯覚だと思えるのであれば、もう一人の自分の存在を認めることもできるのではないかと亜衣は思った。その思いを感じさせたのが、彼に待たされることになったその日だったのだ。
――やっぱり私は人と同じでは嫌なんだ――
 と思うことで、自分が一日完結型の人間の存在も認めることができるような気分になったのだ。
 亜衣は自分が一日完結型人間の存在を創造した時、
――私の中にももう一人の自分がいるんだから、一日完結型の人間なのかも知れないわ――
 と感じたことがあった。
 一日完結型などという言葉は発想の中になかったが、前に進む自分と後ろに戻ろうとする自分がいるのを感じたことはあった。
 どこかに重心があって、両端でつりあっているような感覚になった。それを思い出した時、昨日見たと思った男性のシーソーの光景が思い起こされるのだった。
 誰もいないのに、自分の方が上にいるというおかしな光景であったが、彼のいう透明人間がもう一つのシーソーの端に腰掛けているとすれば、辻褄は合っている。
 亜衣は一日完結を創造している時、
――一日を繰り返していることで、身体や心がリセットされて、疲れも疲労も忘れさせてくれる――
 と考えたことがあった。
 一日の終わりがリセットされることで、もう一度同じ日を繰り返す環境ができるという考え方だ。
 亜衣は今日、公園を見つけることができなかったことで、自分が別の世界に入り込んでしまったのではないかと考えた。その世界は、ひょっとすると、昨日の男性が存在している世界なのかも知れない。
 しかし、その考えは究極だった。昨日が夢だったのだと考える方が、よほど信憑性がある。それなのに、あくまでも昨日見た光景を信憑性のあるものだいう前提で考えていること自体、おかしな考えなのだろう。
 亜衣は、公園があったと思っていた場所から、何を思ったか、元来た道を帰り始めた。その方向は自分の家とは正反対であり、もう一度、バーへ戻る道だった。
 そんなことは分かっているはずなのに、亜衣は迷うことなく、来た道を戻っていた。ただ、頭の中では絶えず何かを考えているのだが、他の人が見れば、
「ただ、ボーっとして歩いている」
 と、感じるに違いない。
 確かに、亜衣には元来た道を帰っているという意識はあったが、目の前に広がっている光景を意識しているわけではなかった。同じ道を帰っているはずなのに、歩いてきた道とはどうも違っているようだ。どこがどのように違っているのかというのは、まるで間違い探しでもしているかのように、微妙なところが少しずつ違っているのだ。
 微妙なところがいくつも少しずつ違っているというのは、ある意味、マイナスとマイナスを足すと、マイナスを打ち消しているかのように感じられ、限りなく間違いはゼロに近いように思えてくる。亜衣は歩きながら、
――おや? 何かがおかしい――
 と感じたのだが、感じた時にはすでに、マイナスに打ち消されていて、意識はしても、すぐに否定していた。
 亜衣は歩きながら、昨日の彼との話を思い出そうとしていた。かなり突っ込んだような話をしたように思えたが、突っ込みすぎたのか、記憶の奥に封印されそうになっていた。
 最後に彼に言われた腕に嵌めた時計を感じると、時計を見ることで、彼に会えるのではないかと思えたのだ。
 立ち止まって、じっと時計を見つめていたが、急に目の前に誰かの気配を感じ、思わず顔を上げると、そこには昨日の彼が立っていた。
「ずっと、私のそばにいたの?」
 と聞くと、
「ええ、そのための時計ですからね」
 と彼は答えた。
「透明人間になっていたの?」
「透明人間にはなっていませんよ。あなたが僕を見えなかっただけです。他の人には僕の存在は分かっていたようですからね」
 彼の存在を特別だと思っているのは、亜衣だけであった。他の人に彼が見えていようが見えていなかろうが、誰が彼を気にしようというのだろうか。
「あなたは、透明人間にはなれないんですか?」
「ええ、僕はなれません。でも、人の意識から気配を消すことはできます。つまりは透明人間にならなくとも、気付かれないようにすることはできます。知っている人が目の前にいても、誰にも気付かれないような人って、この世界にでも結構たくさんいるものなんですよ」
 亜衣には、ピンと来なかった。
 彼は続ける。
「それはそうでしょうね。亜衣さんは、自分は他の人とは違うって思っているでしょう? それは裏を返せば、それだけ自己顕示欲が強いということにもなるんですよ。そんな人に対して、気配を消そうとするのは無意味なことで、自分の見えているものに対しての信憑性は限りなく高いものがあるんです。つまり、興味のあるものに対しての関心は半端ではなく、興味のないものに対してはとことん関心がない自己中心的で、自己愛に溢れているように見られますよね」
「そうかも知れません」
 かなりの皮肉を言われて、普段であれば、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしているはずなのに、彼から言われると、それほどでもない。考えてみれば、人から皮肉を言われてかなりの恥ずかしい思いをしてしまうという感情から、
――人と同じでは嫌だ――
 という感覚が強くなっていったと言えるだろう。
 亜衣は、彼が自分の前に現われてくれたことで、安心がよみがえってきた。このまま今日彼に会えなければ、日付が変わると、また同じ日を繰り返してしまうのではないかと考えていたからだ。
 新しい日を迎えるには、彼と会えなければいけない。
 それは、自分がいくら望んでもできることではない。この世にはできることとできないことの二つしかないと考えるなら、
――絶対にできないことだ――
 と、感じるに違いなかった。
 そう思って諦めの境地に達しようとしていた時、彼が現れてくれた。それも、
――現われてほしい――
 と願ったその瞬間だったから、嬉しさも倍増だった。
 しかし、逆にそう思ったから、彼の気配を感じることができたのかも知れない。彼が急に亜衣に対して気配を現したと考えるよりも、亜衣の方が、精神的に余裕ができたからなのか、それとも、究極の思いに近づいたからなのか、彼の存在に気付いたという方がむしろ簡単に理解できることだった。
 だが、どうも彼の表情は昨日とは違っていた。
 まるで苦虫を噛み潰したような表情で、複雑な感じを受けたのだ。
 その表情に感じた最初の感情は、哀れみだった。
「どうして、そんな表情をするの?」
 亜衣は単刀直入に聞いたが、その表情について言及しなかった。
「そんな表情とは?」
 彼が聴き返してきたが、それが彼の本心からなのか、それとも、分かっていて敢えて聞きなおしてきたのか、亜衣には分からなかった。
 亜衣は、彼がわざとしているものだと感じ、どちらかというと皮肉を込めるような感情を込めるように、
「哀れみを浮かべているんですけど」
 と、答えた。
「哀れみ……」
 彼は一人ごちた。
 亜衣に対して聞き返すわけではなく、自分に再度言い聞かせるかのように、亜衣を無視するかのように呟いた。
「ええ、哀れみです。あなたは私に同情しているんですか? 私の将来について何かを知っているように思えてならないんですが……」
 もし、彼が自分の将来について何かを知っているとしても、それを聞くことはタブーである。もし、聞いてしまって未来を知ってしまうのは、パラドックスの観点からも、許されることではないと思えた。
 しかも、自分のことで、明らかによくないことのように感じられることを、今知るのは危険が伴う。知ってしまうと、これからの人生を今までどおりに生きていけるかどうか分からないからだ。
 いくら大丈夫だという自信があったとしても、長い人生の中で、いつまでその思いを持ち続けることができるかどうか、分かったものではない。亜衣はそういう意味でも、未来のことを知るということは一番いやだった。
「未来のことを知ってしまうと面白くない」
 と、タイムマシンをテーマにしたドラマや映画ではよく聞くセリフだが、実際にはそんなセリフは綺麗ごとでしかないように思えた。
――面白くないなんて綺麗ごとで、知ってしまうと、自分が自分ではいられなくなってしまう。もし、それがいいことであったとしても、もし万が一知ってしまったために、将来が変わってしまわないと誰が言えるだろう――
 と考えていた。
 亜衣は
――彼のそんな顔見たくなかった――
 と感じたが、見てしまったものは仕方がない。
 しかも、そのことを相手に暗示させるどころか、単刀直入に聞いてしまったのだ。暗示させる方が、まだ自分を納得させられるのではないかと思ったが、どうしても我慢できない自分がそこにはいたのだ。
「僕は、あなたに哀れみの表情を浮かべたかも知れませんが、この表情は昨日も同じだったはずなんです。僕には、昨日そのことに気付かなかったあなたが、どうして急に今日になって気付いたのかという方が不思議なんです」
 と答えた。
「どうしてって、昨日は初対面だったし、今日とでは私もあなたを見る目が違っているんですよ」
 と、いうと、彼は意外な顔になり、
「そうなんですか? あなたは昨日とあまり精神状態は変わっていないように思うんですけど?」
「そんなことはないですよ。今日、あなたにもう一度会いたいと思って、昨日の公園に来たら、その公園はなくなっていた。そして、私はそのまま帰宅しようと考えたはずなのに、なぜか、元来た道を歩き始めたんです。明らかに昨日とは精神的にも違っているんですよ」
 というと、
「僕にはそうは思えません。あなたが元来た道を戻ったのも、前に進むのが怖かったからではないんですよ。もう一度、あの店の前に戻って、同じ道を歩いてみたいと感じたからではないかって思うんです。きっとその時には、あなたは僕の存在に気付いているんだって感じると思うんですよ」
 最後の一言は、きっと彼の気持ちから出た言葉なのだろう。彼は冷静に話をしているようで、最後には自分の気持ちを表現するようなところがあるようだ。しかし、昨日話をしている時はそんな感情はなかった。
――昨日から今日まで一日しか経っていないのに――
 と亜衣は感じたが、彼は違う次元の人間である。亜衣が一日だと思っている時間も、彼の中では何度も繰り返してやっと出てきた世界なのかも知れない。
――私は一日完結型なのでは?
 と、その時、ふいに感じた亜衣だったが、そう思うと、自分も一日だと思っている時間が、本当に時系列を普通に歩んで感じる一日なのかということを感じた。
「亜衣さんは、透明人間について、どのような感覚をお持ちですか?」
 何と答えればいいのか、亜衣は思案した。
 感じたことをそのまま答えていいものなのか、それとも、彼は別の答えを期待しているのか分からないからだ。
 もし、おかしな返答をすることで、自分の身に危険が及んでしまうとするのであれば、余計なことを口にするのは控えなければならない。
「そうですね。何か普段できないことを、透明になることでできるんじゃないかって考えるんじゃないかって思いますね。例えば、普段入れない誰かの部屋に侵入して、プライバシーを覗くとかですね」
 というと、彼は苦笑して、
「本心から言われていますか? 他の人と同じでは嫌だと考えている亜衣さんの答えだとは思えませんね」
「あなたがどういう答えを望んでいるのか分からなかったので、無難な答えをしたまでですよ」
 と、本音を簡潔に答えた。
「いいんですよ。答えたくなければ答えたくないと言えばですね。僕にはそれが亜衣さんなんだって思えますからね」
 痛烈な皮肉にも聞こえるが、それが亜衣の本性であると亜衣自身が感じていることで、皮肉には聞こえなかった。
「じゃあ、今の言葉は聞かなかったことにしてください」
 というと、
「そうですね」
 と言って、さらに複雑な顔になった。
「でも、透明人間というのは、本当にいるのかって疑ってはいます。気配を消している人とどこが違うのかって思うんですよ」
 これも亜衣にとって本心ではなかった。しかし、今の亜衣にはそれ以上の答えが見当たらなかったというのが、本音でもある。
 少し二人の間に沈黙の時間があったが、先に口を開いたのは彼だった。
「僕は、透明人間になどなりたくないんです」
 彼のセリフのようには思えなかったが、
――ひょっとすると、これが彼の本音なのかも知れないわ――
 と感じた。
 彼から言われてみると、自分も彼のいうように透明人間になんかなりたくないと思っていた。
「どうしてですか?」
「透明人間というのは、自分の存在が消えてなくなるということですよね? 相手に自分の気配を悟られないというのとではまったく考え方が違います。この世界の人は透明人間というと、いい方に想像して楽しんでいるところがありますよね。普段できないことが透明人間にはできるという感覚ですよね。でも、それは人に見られない状態になることができるということであって、透明人間と普通の人間を両方できるという前提で成り立っています。でも、一度透明人間になってしまうと、元には戻れないんですよ。自分が誰にも認識されない。そばにいるのに、誰にも気付かれない。そんな状態を嬉しく思えますか? 僕にはそんなことはできない」
「確かにその通りですね。人は死んだから生き返ることはできませんからね・それと同じなんでしょう。でも、人が死んだらどこに行くのか分からないから、二度と生き返ることはできないと思うんでしょう? 透明人間になっても、ただ姿が見えないだけだということが分かっていると、元に戻れるという発想はそもそもの前提になるんじゃないでしょうか?」
「なるほど、確かにそれも言えますね。でも、実際には一度消えてしまうと、その世界では誰からも認識されないんです。行方不明ということになり、いずれは死亡したということになり、その人の人生は終わりです」
「でも、透明人間というのは、見えないだけで、同じ次元の同じ世界にいるんでしょうか?」
「いるんですよ。でも、そのことを認識しているのは本人だけであって、誰も知らない。いや、もちろん、透明人間になれるように施した人は知っているでしょうが、その人は、透明人間とは何ら関わりのない人なんですよ。ただ仕事でやっているだけという感じですね」
「じゃあ、あなたの世界では透明人間にするための仕事があるんですか?」
「ええ、あります。透明人間というのは、なってしまうと、お腹が減るということもないし、年を取ることもないんです。だから、自分たちの世界に及ぼす影響は何もないんですよ」
「でも、どうしてそんな理不尽なことが行われているんです? まさか公式に行われているわけではないんでしゅお?」
「ええ、もちろん、非公式です。でも、この計画には国家が関わっていて、国家プロジェクトの一環なんですよ」
「どういうことなんですか?」
「あちらの世界では、こちらの世界よりも生活環境は切迫しています。少子高齢化が進み、食糧問題も大きな問題になっています、一番の原因は、自然界の均衡を人類自ら崩してしまって、生物が激減してきました。人間の人口も減ってはいますが、食糧問題を解決できるほどのものではなくなっています。当然、政府はいろいろな対策を考え、科学者とも相談しながら、いろいろ考えてきました。他の次元に人を送り込んだり、他の次元から、食物を持ってきたりですね。この世界でも、これから少しずつおかしなことが起こっていくかも知れません。科学者の中には、食物を巨大化させたり、人間を小さくする計画を立ててみたりする人もいましたが、なかなかうまく行きません。そこで登場したのが、『透明人間計画』だったんです。透明人間を増やせば、食糧問題も解決します。そして、透明人間になりたいという人の希望も叶えられます。彼らはこの世から存在を消したいと思っている人で、中には人と関わることを嫌っている人が多かったんです」
 そこまで聞いた亜衣は、
「それは耳が痛いですね」
 と、苦笑した。
「実は僕も人と関わることを極端に嫌っている性格なので、亜衣さんの気持ちもよく分かります。そんな僕なので、政府は僕にも白羽の矢を立てたんです」
「でも、透明人間になった人はそれで幸福なんですかね?」
「そんなことはありません。一度透明人間になってしまうと、科学者が開発した特殊な機械がなければ、話をすることはできません。実際に透明人間になった人と話をした人は本当に一部の人間だけなんですよ」
「それであなたは、透明人間とお話ができたんですか?」
「ええ、ごく短い時間だけでしたが、できました。その話を聞くと、言葉にできないほど悲惨な気持ちを語っていました」
「そうなんですね……」
「僕は、透明人間になるのが怖くて、こっちの世界に避難してきたんですが、そこで見つけたのが、人と関わりたくないと思っているあなただったんです」
「どうして分かったんですか?」
「向こうの世界には、自分の心を写すことのできる鏡というのがあるんです。その鏡を後ろにも置いてみたんです。すると、鏡は無限に、自分を写しますよね。その中で、次元の違う自分と同じような感情を持ったあなたが映し出すことができたんです」
「あなたは、私に何をしようとしたんですか?」
「透明人間にならないようにするには、自分と同じ条件の人を代役に据える必要があった。そこで白羽の矢を立てたのがあなただったんです」
 亜衣は、自分の立場を思い知らされたが、なぜか聞いていて他人事のようにしか聞こえなかった。
――それはすでに終わってしまったこと――
 亜衣の中にいるもう一人の自分がそう言った。
「亜衣さんには、自分の中にもう一人いて、『一日完結型』の人間だと思っています。僕にとってそんな亜衣さんは好都合な人で、どちらかが僕の代わりになってくれれば、僕も助かると思ったんです」
「じゃあ、どうして、今ここでそのことを告白したんですか?」
「もう、その問題は解決したからです」
「ちなみに、私はどうすれば透明人間になったんですか?」
「それは……。昨日公園で、僕の姿を見た時にシーソーを見たでしょう? その先には誰も乗っていなかったのに、僕の方が上だった。実はあれは、もう一方にもう一人のあなたが乗っていたんですよ。裏にいるあなたですね。あなたを透明人間にするには、表に出ているあなたを、あのシーソーに乗せればそれで終わりだったんです。だから、今日、本当はあの公園にあなたを招き入れて。シーソーに乗せようと計画していたんですよ」
「じゃあ、どうして、問題は解決したんですか?」
「あなたが、今日一日を明日繰り返すことになるからです」
「えっ? 私は昨日を繰り返していると思っていたんですよ」
「それは僕がそう仕向けたんです。いあなたが、少しでも同じ日を繰り返すような素振りを見せれば『一日完結型』の力がどのようなものなのか分かると思ってですね」
「それで?」
「あなたが同じ日を繰り返す時、僕に対して強力な力が及ぶことが分かりました。それで、僕が自分の次元で透明人間にさせられる危機は脱したんです」
「そうだったんですね」
「ええ、でも根本的な解決にはなっていないので、僕は科学者として、もっといろいろ研究をする必要があります。そういう意味では僕が透明人間になるということは、向こうの世界ではマイナスになるはずだったんですよ」
 亜衣は、彼が、
「僕は透明人間になるのが怖い」
 と言ったのは本音だろうと思っている。
 しかし、それ以上に彼の裏の顔を見た気がした。
 彼には誰にも負けない自己主張があり、上から目線に見えるが、その中でも、正義感に溢れている。そんな人間はこの世界でもあまり好まれるわけではないが、亜衣は好きだった。
――この人も、ひょっとすると「一日完結型」の人間なのかも知れないわ――
 と亜衣は感じた。
 彼は、亜衣の表情を見ながら、
――この人は、僕のことをハッキリと理解している――
 と感じていた。
 亜衣は心の中で、
――彼が見たという両方に置いた自分が無限に見えるという鏡、それを私も見てみないーー
 と、感じるのだった……。

                  (  完  )

   

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